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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (大正二年大凶作と小学校)

大正二年大凶作と小学校 大正二年の大凶作は天明の飢饉に次ぐものといわれ、青森県下産米の実収は平年作の,中津軽郡和徳村(現和徳小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態,とその反省を小冊子にまとめているが、それによると大凶作は典型的な冷害によるものであることがわかる。,この大凶作で、本県内では児童の退学や不就学が続出し、せっかく隆盛の一途をたどりつつあった本県小学校教育 / 大正二年大凶作と小学校
通史編4(近・現代1) (大凶作下の農村)

大凶作下の農村 大正二年(一九一三)の凶作は、春先から低温多雨が続き、明治以降のものとしては史上希にみる / 大凶作下の農村
通史編5(近・現代2) (米市場開放と平成の大凶作)

米市場開放と平成の大凶作 昭和六十年代半ば以降、「経済構造調整」政策が進められた。,こうして「平成の大凶作」は、米不足と米輸入の誘因となった。 / 米市場開放と平成の大凶作
通史編5(近・現代2) (岩木川改修運動)

岩木川改修運動 「昭和六年大凶作」と「昭和九年大凶作」は、青森県だけでなく東北地方全体に激甚な被害を,だがその「昭和九年大凶作」でも弘前市周辺の米の収穫量は七分作以上あった。,「昭和六年大凶作」以来、連続災害で疲弊していた青森県民にとって、「昭和十年大水害」は致命的・壊滅的な打撃
通史編3(近世2) (武士に不相応な行為と食料奪取)

侍の仕方これ無きにつき」というのは、具体的な犯罪内容は不明であるが、元禄九年(一六九六)の夏は前年の大凶作,同二年は土用に入っても雨が降り続いて寒く、翌三年も八月中旬まで快晴の時がほとんどなく、霜が降りる状態で大凶作,っていないので、いかなる刑罰が科せられたのか不明であるが、日常は助け合って平和に暮らしている農村が、右のような大凶作
通史編3(近世2) (生活の困窮)

生活の困窮 元禄期(一六八八~一七〇四)には幕府の財政窮乏が始まり、津軽弘前藩でも元禄八年の大凶作以後,推定されるが、両者間に問題が多く生じてくるのは天明期(一七八一~八九)以後であり、それは天明・天保の大凶作,これによって、天明三年の大凶作の影響で質屋への借金返済に苦しむ藩士の救済方法の一端が知られる。  ,「国日記」天保五年(一八三四)六月五日条によれば、質保管の期限はこれまで一三ヵ月であったが、昨年の大凶作,これは前年の大凶作による彼らの生活を救済しようとする藩の対応であった。  
通史編4(近・現代1) (大戦景気と弘前市)

大戦景気と弘前市 「大正二年大凶作」で青森県は甚大な被害を受けた。,それでも「大正二年大凶作」の被害は深刻だった。
通史編5(近・現代2) (連続する災害と東北振興政策)

「昭和六年大凶作」である。,弘前市も含め青森県は、二十世紀最大の凶作といわれた「大正二年大凶作」で深刻な被害を被った。,その最大の根拠は「大正二年大凶作」が単発的に終わったのに対し、昭和の農村恐慌が「昭和六年大凶作」以降、,そして「昭和九年大凶作」は青森県に致命的な大打撃を与え、多数の身売り女性と欠食児童を生み出した。
通史編2(近世1) (経済政策の前提)

この措置は、同五年の大凶作を経て、翌六年からの知行蔵入り(蔵米知行制)へと展開している。,その違いをもたらした要因はやはり宝暦五年(一七五五)の大凶作であった。,そして機構的には大凶作への対応を背景として乳井貢が「元司職(もとししょく)」に任命され、改革推進のための
通史編2(近世1) (宝暦五年の米切手と標符(通帳))

しかし、この政策は、同五年の大凶作によって当初の目的を達成することなく、多くは調方・御用達の手元に残ることになった,そして、大凶作に直面した藩は、より強力な経済統制・金融統制を実施することとし、標符の発行に踏み切ったのである,つまり、宝暦四年時における米切手発行策の策定と準備→同五年三月・四月の米切手発行→同年の大凶作による米切手発行策,の再利用策実施、という展開が示すとおり、この宝暦五年の米切手と標符は別物ではあったものの、宝暦五年の大凶作
通史編1(自然・原始) (夏季の平均気温の変化)

平年差二℃以下では異常低温に対応し、冷害を受け大凶作になっている。,これらの年は、夏季平均気温一八・三℃以下で、昭和二十九年が凶作であった以外は大凶作となっている。
通史編4(近・現代1) (義民藤田民次郎建碑運動)

大正二年の大凶作は、この年から数えてちょうど一〇〇年目に当たっていた。,大凶作の原因が「民次郎」の供養にあったか否かは別にして、地域住民の建碑に込めた願いが伝わってくる。
通史編2(近世1) ((一)宝暦の飢饉)

資料近世2No.六)に「今年の凶作は全国的な飢饉となり、特に国元では寛延二年の凶作を上まわり、元禄以来の大凶作
通史編3(近世2) (先祖供養)

寛政二年(一七九〇)、江戸町(現市内新町)講中の建立になるものは、天明三年(一七八三)・四年の大凶作の,大凶作から五七年後になっても、その時の悲惨さを忘れることなく冥福を祈っている。
通史編5(近・現代2) (昭和恐慌と相次ぐ災害)

それに輪をかけるように、六年の大凶作は農家に決定的な打撃を与えた。
通史編3(近世2) ((一)凶作・飢饉とその対策)

(一)凶作・飢饉とその対策 津軽領の四大凶作といわれるのは、元禄・宝暦・天明・天保年間の冷害による凶作
通史編3(近世2) ((一)農作業と農事暦)

弘前市立図書館蔵) 天保4年 4月22日 (同上) 8月7日 「日記」天保5年7月20日条 104日 大凶作,天保四年(一八三三)は一〇四日、同六年は九一日で稲刈りが開始されているのは、例年より冷涼で実りが遅く大凶作,文化元年(一七七三~一八〇四)まで約三〇年間の空白があるが(「国日記」に記載がないため)、その間に天明の大凶作
通史編3(近世2) (人家の火災)

天保4年は大凶作。 天保7年4月12日条 火の用心の徹底 天保6年は半作又は3分3厘作。,天保9年は大凶作。
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

天保四年の大凶作では、藩が困窮者救済のために領内の農村へ施行小屋を一一ヵ所設置した(「国日記」天保四年十月十九日条,津軽領において、このような大凶作の後の大飢饉では、農村の下層民(水呑百姓など)はなんとか生き延びるために
通史編3(近世2) (会合・来客の場合)

同年十月十九日条(同前No.二〇五)、寛延三年(一七五〇)八月四日条にみえるだけであるが、元禄八年は元禄の大凶作
通史編3(近世2) (質屋の利用)

推定されるが、両者間に問題が多く生じてくるのは天明期(一七八一~八九)以後であり、それは天明・天保の大凶作
通史編3(近世2) (飢餓の状況)

飢餓の状況 天明三年の大凶作による飢饉の様子を概観すると、城下では毎日七、八人ないし一〇人の餓死者がたちまち
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

八月中には二度の霜害を受けて、成育がよくみえた田畑も立ち枯れて、ついに大凶作に至った。
通史編5(近・現代2) (農民運動の変質)

土地取り上げの争議が目立って増え、八年からはりんごの暴落によりりんご園の争議が著しく増え、さらに九年の大凶作
通史編4(近・現代1) (民次郎を継ぐ心)

の西側一帯を指す)の村々の指導者たちが、ここまで深く民次郎一揆に心を寄せたのは、きっかけは大正二年の大凶作
通史編3(近世2) (非常時の服装)

おそらく元禄八年(一六九五)・宝暦五年(一七五五)・天明二~四年(一七八二~八四)の大凶作の時も同様の
通史編3(近世2) (楮町取り立て)

楮町取り立て 元禄八年の大凶作のため農民は楮仕立てどころでなく、楮畑は荒廃し御用紙を漉くのにも差し支
通史編5(近・現代2) (二 近代文学の成立(大正の文学))

人道主義)は、四十三年の大逆事件以来の厳しい弾圧で潰(つい)えたかのようにみえたが、大正二年に本県を襲った大凶作
通史編5(近・現代2) (移民問題の背景)

「昭和六年大凶作」で多大な被害を受けた北海道・東北地方、殊に北海道と青森県は決定的な打撃を受けていた。
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

その翌日には大ヤマセが吹き荒れ、稲の花も皆落ちてしまい、この結果大凶作が決定的になったという。  ,皆無作(かいむさく)、ほかの組の田方はほぼ一〇分の一、よくても三分の一(大光寺組・猿賀組)の出来という大凶作
通史編4(近・現代1) (初めての常設館・慈善館)

この福祉という概念も公的助成金もなかった時代の明治三十五年、本町で薬種業を営んでいた佐々木は、大凶作により
通史編2(近世1) (樋口善兵衛の報告書)

本締役〈出納総括責任者〉兼大目付)が弘前を立ち、田畑の作毛を見分し、十二日に弘前へ帰り、翌十三日に「大凶作
通史編3(近世2) (織物会所の施策)

織物会所の施策 津軽領では元禄八年(一六九五、この年大凶作)以来経済が低迷し家中および在・町とも困窮状態
通史編2(近世1) (騒動のその後)

津軽領での騒動は、大凶作の兆候がみられる天明三年七月末に集中し、被害が明らかになった八月以降には発生していない
通史編5(近・現代2) (竹舘林檎組合のシャンパン製造事業)

しかし、前年の大凶作に加え、昭和恐慌のあおりを受けたことで思うように出資金が集まらず、事業開始早々、資金難
通史編5(近・現代2) (当局による移民の促進)

東北の大凶作で身売りせざるを得なかった女性のなかには、大陸花嫁、満州花嫁として移民となった者も多かった
通史編2(近世1) (信義の襲封)

寛永十七年(一六四〇)から十九年まで続いた大凶作により、領内は飢饉(ききん)となり、十九年には越後(現新潟県,〇・六一一)、慶安元年(一六四八)の三世寺(さんぜじ)から下通りの洪水(同前No.六九九)が起こり、大凶作
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

として、江戸や上方の有力商人からの借財によってこれをしのいでいくことになるが、特に寛延二年(一七四九)の大凶作
通史編4(近・現代1) (護憲を巡る動き)

この大正二年秋は天保以来と言われる大凶作の年であった。だが、弘前市政は党争の渦の中にあった。
通史編5(近・現代2) (東北振興)

しかし、九年に東北地方を襲った凶作は、六年の大凶作の疲弊が癒えないうちに起こったため、婦女子の身売りと
通史編4(近・現代1) (大正期のりんご流通)

津軽地域において、大きな打撃を受けた大正二年(一九一三)の大凶作も、比較的早く回復できたのはりんごの価格上昇
通史編1(自然・原始) (冷害の歴史)

35,616人 慶応2 1866 凶 作 低温・長雨早冷  8月下旬霜降 田畑皆無作 明治2年(1869)大凶作
通史編5(近・現代2) (昭和初期の恐慌と冷害凶作)

なお、年間を通せば県外に身売りされた娘は県全体で二〇〇〇名を超えると推測されている(『新聞資料 東北大凶作
通史編3(近世2) (城下の隠売女)

それは天明三・四年の大凶作により、生活困窮に陥って、貧農や下層町人の娘が城下の各地で隠売女となり、風紀
資料編2(近世編1) (【解説】)

りに、江戸や上方の有力商人からの借財によってこれを凌いでいくことになるが、特に寛延二年(一七四九)の大凶作,年代順としたのは、その政策が多岐にわたることと、宝暦五年の大凶作によって、同六年から改革路線に変更がみられるとともに,したがって、大きく、改革の中心機関である調方役所が設置され、実質的に改革が始まった宝暦三年八月から大凶作
通史編2(近世1) (天明期の借り上げと寛政期までの状況)

第四章第二節で触れたとおり、大凶作により諸年貢の免除を行うという緊急事態のもとで、藩は初めて藩士の俸禄
通史編4(近・現代1) ([付図])

44年〉 37 憲政擁護運動~菊池武徳の柾木座における演説会〈大正2年〉 38 大凶作
通史編2(近世1) (銀遣いへの変更と商人の活用)

そして、宝暦五年の大凶作に直面するに及んで、この通貨統制・商人統制はさらに、領内の金銭・物資およびその
通史編5(近・現代2) (金融危機の勃発)

昭和五年の政府による金解禁実現のためのデフレ政策は、農村の不況を深刻化させ、さらに翌六年の大凶作は東北地方
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

前年の大凶作の救荒土木工事でもあったろうが、村の経済力が充実してきたともいえる。
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