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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

近世大名と大名課役 近世大名にとって軍役(ぐんやく)負担とは、領地の宛行(あてがい)や安堵という将軍家,また平和が続くようになると、軍役以外の課役を軍役と同一の原理に基づいて大名が負担するようになる(善積美恵子,これらの役には、幕府役職への就任や、上洛・日光社参時の将軍への供奉(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番,大名領主権は、幕府が課した「奉公」としての役奉仕を通じて形成されていったのである。,したがって、大名にとって軍役やそれに準じる役の負担は非常に重要なものだったといえよう。   / 近世大名と大名課役
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

伏見築城と奥羽大名 豊臣秀吉は、文禄二年(一五九三)九月二十三日、奥羽の大名らが朝鮮半島に渡海することなく,この築城では明らかに西国の大名らは除外され、東国の大名らを上洛させたうえで普請を行おうとしていたことが,伏見城の普請は、関東や奥羽大名に対し、伏見城下への参勤と、伏見城普請への動員という二つの条件を大名に突,これは、西国大名が朝鮮への出兵を命じられたことに代わる奥羽の諸大名に課せられた軍役(ぐんやく)の一種であり,、諸大名間の負担の均等化を図ったものであった。 / 伏見築城と奥羽大名
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

大名の改易と幕領検地 元禄時代は、大名の浮沈が激しかったこと、家格制度が完成した形になっていないこと,、そして大名の勤役・課役の選定基準ができるのは大名の家格が固定してからのことであるという視点から、将軍,と大名、および大名相互の関係は、近世後半よりはまだ動きのあった時代、家格に基づく秩序の形成途上にあった,将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の大名に対する立場は、将軍の権威とその厳しさを大名に対して示そうとしたものであり,その対象大名数は四〇余人に及んだという(松尾前掲論文)。   / 大名の改易と幕領検地
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,は、本家弘前津軽家の強力な運動によって、一万石に高直しされ、大名に昇格した。,本家に入る貢米のうち、六〇〇〇石を足し与えて、表高(おもてだか)を一万石の大名に上昇させれば、蝦夷地と,大名の分限である一万石にするために、本家の蔵米を充当しようとしたのは、幕府の加増を受けて大名に昇格することが,五月、大名として初の黒石入りをし、蝦夷館(陣屋構内)に茶屋を取り建てた。 / 黒石津軽家の大名昇格
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

奥羽大名の名護屋参陣 天正十五年(一五八七)五月、九州平定を終えた秀吉は、対馬の領主宗義調(そうよししげ,文禄二年三月十日、秀吉は朱印状によって名護屋参陣の諸大名に新たに朝鮮出兵の軍編成を公表した。,朱印状によれば、原則として各大名はすべて一隊を形成しているが、例外として東北の大名だけが、「一、百人加賀宰相,(かがさいしょう)一手 南部大膳大夫」などのように、秀吉の奉行や有力大名の配下に属している。,秀吉は、文禄元年三月十三日の朱印状によって浅野長吉らの奉行や大名に「関東・出羽・奥州・日の本迄」の大名衆 / 奥羽大名の名護屋参陣
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

北奥羽の大名の動向 まず、南部氏についてみてゆくことにしよう。,そして、八月には、信直が豊臣大名の一員として認められたことが、利家から伝えられている(同前No.一〇七八,しかし、少なくとも、北奥羽の大名と豊臣政権とのかかわりを考えたとき、右の二つの事実は動かしがたいものであるといえよう,(ほんどうみちちか)も、豊臣勢の出羽出動に期待し、その情報を南部氏に問い合わせていたといい、北奥羽の大名,ここでみたように、南部・安東(秋田)氏のような北奥羽の大名は、中央の状況に対して敏感に反応していることがうかがわれる / 北奥羽の大名の動向
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

江戸時代初期の大名課役 江戸時代初期における大名に対する軍役動員の事例として、大坂の陣・島原の乱が挙,慶長十九年(一六一四)十月四日、幕府は東北・関東の諸大名に大坂へ参陣するよう陣触を発した(資料近世1No,通常、大名に江戸幕府が行う各種の普請を分担させることを、大名に「御手伝」させるという意味から、「手伝普請,銚子築港は、他に上杉景勝・佐竹義宣・相馬利胤らの東北諸大名が動員された。,・佐竹といった隣藩の大名とも好対照をなしている。   / 江戸時代初期の大名課役
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

対し、幕府が通常の参勤時期を遅らせて、大名への負担を軽減していた(千葉一大「参勤交代制と大名課役―盛岡南部家,江戸に参府した大名に対して、幕府は家格・石高に合わせて務めを課した。,登城や役職以外の勤めには大名本人が出ないで済むものも多く、病気等を理由として名代を出す大名もあった(東京都江戸東京博物館,勅使や公家衆の饗応役(きょうおうやく)も大名の役の一つである。,の大名がその任に当たったという(「柳営秘鑑」五『古事類苑 官位部三』)。 / 綱吉政権下における大名課役
通史編2(近世1) (一 九戸一揆と動員大名)

一 九戸一揆と動員大名 天正十八年(一五九〇)七月からの奥羽日の本仕置(おううひのもとしおき)が終了 / 一 九戸一揆と動員大名
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

正徳から天明にかけての大名課役 この時期の津軽家の大名課役は、皇族や公家衆の饗応役、普請役、江戸における,火消・門番に限定され、その意味で綱吉政権下での大名課役と同一路線にある。  ,すなわち、この普請は、大名が工事費用を負担するが、実際の工事は幕府が実施し、藩からは実地検分のための役人,、大名小路や大手前より外側の諸門に外様大名、外郭の諸門に寄合旗本が配置されていた。,大名の場合、参勤交代で江戸にいる間門番を命じられるので、変更は原則的に四月・六月・八月の時期に集中する / 正徳から天明にかけての大名課役
通史編2(近世1) (二 浅利騒動への加担)

二 浅利騒動への加担 浅利騒動(あさりそうどう)とは、大名秋田実季と、その領主権力から独立を果たそうとする,このような騒動は、近世大名が家臣団統制を図り領主権力を強化しようとしていた近世初期には、日本のどの地域,しかし、この浅利騒動は、単に一地方の大名領内の問題に終わらず、豊臣政権を構成する奉行や有力大名のほか、,周辺の大名津軽為信や南部信直をも巻き込む大きな騒動へと発展したところにその特徴があった。
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

すなわち、津軽・北出羽地方の大名を除いて、豊臣政権下で存続するほとんどの大名が、この段階までに臣従関係,この時、伊達・最上氏のように、すでに大名権が確立している大名は、惣無事令以前に領国がそのまま安堵され(,これらの大名は、大名権の確立が未成熟であったため、豊臣政権によるてこ入れが必要とされ、領知朱印状の発給,会津での仕置令の内容は、一つには小田原不参の大名の所領没収と新大名の配置、そして、二つ目には所領没収に,つまり、大名権が確立された大名については、検地は実施されなかったのである。
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

津軽氏は、名護屋における諸大名との円滑な関係作りに困難をきたしていた。  ,南部信直は、この名護屋で常に「上衆(かみしゅう)」(西国大名)とつきあってみたが、西国大名は遠国の大名,、近世大名化への早期の改革を迫られることになった。  ,信直は、すでに述べたように「上衆」(西国大名)らが遠国大名らをとかく「なふり心」であると察知していたが,それは、天下人秀吉の圧倒的な権力を知る場であり、戦国期から敵対していた隣国の大名との和睦の場であり、西国大名
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

三 鷹献上と鷹保護 戦国期以来、鷹献上は、各戦国大名間のみならず各大名が中央の政権とコンタクトをとるための,、重要な媒介行為であったことはすでに明らかにされてきたところである(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年,近世に入ってからも、鷹献上の行為は、大名から将軍へ、また大名同士でも盛んに行われ、全幕藩領主を巻き込む,形での鷹にかかわる儀礼の確立に伴って、大名領主による鷹の需要は飛躍的に増した。  ,なかでも松前は、奥羽地方が後に各大名領での鷹の自給に汲々としていたのに対し、後背地の蝦夷地に広大な鷹の
通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

天正十四年(一五八六)五月二十五日、秀吉は白河(しらかわ)氏(本拠は陸奥白河であるが、佐竹氏など北関東の大名,と関係が深かった)・下野塩谷(しもつけしおのや)氏・常陸佐竹(ひたちさたけ)氏など、北関東の諸大名に対,さらに、秀吉は、奥羽(直接には南奥羽を対象とした)の大名間の紛争にも介入するようになる。,さらに、これにあわせて、家康成敗後の大名間の領土確定方針を佐竹氏に伝えている。  ,現在、このときに奥羽の諸大名に発給された秀吉の「御書」は確認されてはいないが、北関東の諸大名に朱印状を
通史編2(近世1) (宝暦―天明期の借財)

蔵元とは蔵屋敷の管理に当たり、大名から廻米を中心とする「蔵物」の売却・出納をつかさどった商人のことで、,鴻池は代表的な蔵元商人で、金沢・広島・徳島・岡山・柳川など大大名の掛屋を務め、さらに尾張・紀伊両藩の御用達,鴻池は他の諸大名からも扶持を受けていたので、その総額は一万石にも達したという。  ,大名貸しは将来回送される蔵物を担保に行うものであるが、実際は凶作などにより年貢米の回送はしばしば滞り、,さらに米価の低迷などで大名貸しは不利になり、不良債権も増大した。
通史編2(近世1) (三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)

大名の居城にはその権力の特徴が顕著に現れており、この居城移転の過程と居城の構造は、津軽氏が戦国大名から,近世大名へといかに脱皮していったのかということを知る重要な手掛かりになる。
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

伏見滞在と派閥抗争 奥羽の大名は、天正十八年以来、検地、刀狩り、城破(しろわ)り、太閤蔵入地・「御鷹場,そのため奥羽の諸大名は豊臣秀吉に臣従するといっても、実際にはこれら集権派か分権派の大名や奉行らを取次としていくことを,奥羽の大名を含む日本全国の大名らは、これにより伏見城下に屋敷を構え妻子を居住させるとともに、自身も上洛,しかし、伏見での「日本之つき合」の時点では、すでに朝鮮侵略が西国大名、伏見城普請が関東・奥羽の大名というように,秀吉の要求する軍役の遂行が、大名の「家」の維持にとって最重要条件であるとするならば、奥羽の大名衆もその
通史編2(近世1) (人質徴収)

このとき、あわせて足弱衆(あしよわしゅう)(大名の妻子)の上洛も求めている。,最上氏も、八月に最上義光が妻子を伴って上洛を果たしているが(「伊達家文書」五六六号)、これは、大名自身,豊臣政権の意図は、単に人質徴収のみを目的としたものではなく、夷島(えぞがしま)・日の本(ひのもと)に至る大名,大名とその妻子である足弱衆の上洛は、各大名に個別に命じられてはいるが、七月晦日付の秀吉の朱印状では、出羽,一方、陸奥の大名の場合、ほとんどの大名が九月ごろまでに足弱衆の上洛を行ったと考えられる。
通史編3(近世2) ((一)参勤交代)

参勤交代とは、諸大名が一定の時期、江戸に伺候し、または本国に就封(しゅうほう)することで、前者を参勤、,同年制定の「武家諸法度」の中で、外様(とざま)大名(関ヶ原の戦後徳川氏に服属した大名)は毎年四月交代で
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

らの武将に代表される「武功派」の家臣間対立、中央集権的性格を重んじる奉行たちと独立的な領土支配を目指す大名,奥羽の大名たちもこれに無関係でいることはできなかった。  ,五大老の一人であった家康は、慶長五年六月六日に諸大名を大坂城西丸に集めて、諸大名の会津攻めを命じた。,そして伊達政宗・佐竹義宣・最上義光・南部利直ら東北・関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記,に対して書状を発し、南部利直・秋田実季、さらに出羽仙北の中小大名である小野寺義道(おのでらよしみち)・
通史編2(近世1) (知行安堵)

南部・戸沢の両氏の領知は、奥羽地域の中間域にあり、これにより自動的に隣接諸大名の領域も定まることになり,、諸大名の領域の確定化を促進したという意味を持っているといえよう(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九八九年,、検地の後に起きた葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆の影響で、上洛は果たせなかったようであり、奥羽両国の大名,表1 北奥羽大名の領知高(万石以上) 史   料   名 南部氏 津軽氏 秋田氏 小野寺氏 戸沢氏,表2 伏見作事板の割り当て(慶長元~同4年) 大名(朱印高) 慶長元年分 慶長2年分 慶長3年分 慶長
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

北奥羽の領知確定 天正十八年(一五九〇)七月の奥羽仕置は、奥羽の諸大名の領土を確定することが第一の目的,約三万石の領知を認められ、ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の管理を任された(長谷川成一『近世国家と東北大名,表4 北奥羽の大名・小名の領知高 領 主 場 所 石 高 年 代 南部大膳大夫 南部内七郡 天正18,旧大崎・葛西領の大名であった木村吉清・清久は改易され、同地には伊達政宗が国替えされた。,取次は、政権の政策を大名に浸透させ、また大名から政権への取次を果たしつつ、最終的には政権に大名を従属させることを
通史編2(近世1) (自分仕置)

自分仕置 幕府の刑罰権ないしその行使を「公儀仕置(こうぎしおき)」というのに対し、大名のそれを「自分,については、その犯罪の及ぶ範囲が一領・一家中であって、他領・他家に影響のない場合は、幕府に伺う必要がなく、大名,一家中とは大名と主従関係で結ばれた家臣団とその家族を指し、一領とは領分の人別帳(にんべつちょう)(人口調査,幕府が各大名に対し、「自分仕置」を許すものとして逆罪と付火を挙げたのは、これら二つに限定したのではなく,要するに、「自分仕置令」は、大名に家臣団とその家族および領内の庶民に対しての刑罰権を認めたものである。
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動 軍役を中心とする将軍に対する諸大名の「奉公」が、「御恩」給付、,「御恩」給付の実際的な形として、将軍から諸大名に対して、領知宛行(りょうちあてがい)・安堵の「保証書」,され、一〇万石以下の大名に対しては将軍の朱印が捺された朱印状が発給される。,近世大名の領知高は、各大名に賦課された大名課役、特に普請役高を根幹として、統一政権との間で政治的に決定,秀吉当時の大名の領知高を記した各史料と、豊臣政権下で北奥羽の大名に課された役である秋田杉板の作事板搬出割
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

伏見指月城・木幡山城の築城に必要な伏見作事板の廻漕費用調達に必要なため設定された(長谷川成一『近世国家と東北大名,慶長元年以降の伏見作事板の切り出しと廻漕は、秋田氏を中心としながらも北羽の大名・小名を動員して行われ、,津軽氏のほか秋田・仙北・由利郡の大名・小名は「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として編成され、その新たに,「隣郡之衆」として編成された大名衆をもって杉板を運上している。,、秋田実季らの大名を個人的に秀吉政権に直結させて杉板の運上を実現するのではなく、あくまでも「隣郡之衆」
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

動員体制にも、慶長六年の上杉景勝国替に際しての動員にも津軽氏は組み入れられておらず、当時の北奥羽の諸大名,関ヶ原の合戦当時卍印の幟(のぼり)・旗差物を用いた大名は、堀・蜂須賀両氏のほかに津軽氏のみであり(堀氏,もし、上杉国替時の家康人数書立が、「太閣様御置目」のごとくと称する朝鮮出兵時の軍役に依拠して大名たちに,この牧使城の攻囲に加わるはずだった奥羽大名と、慶長五・六年の上杉包囲網に動員された諸大名は当主の交代などの,慶長五・六年の奥羽地方における大名動員の基本方針が、朝鮮出兵時の軍役を踏襲するものであったとするならば
通史編2(近世1) (新施策の実施と知行制度の転換)

一般的にみて、十七世紀後半、元禄期(一六九一~一七〇四)までに大部分の大名家(大名家数で八五パーセント,それ以外の大名家でも、知行権は限定され、実質的に藩庫支給の俸禄と大差のないものとなっていた(笠谷和比古,『主君「押込」の構造―近世大名と家臣団―』一九八八年 平凡社刊)。  
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

氏郷は、奥羽地方の大名たちに関東・奥惣無事令の執行者として臨んでいたことを想起すれば、太閤鷹の保護と献上,そもそも豊臣政権は御鷹と私鷹を区別しており、御鷹は秀吉の鷹であって私鷹は各大名領主が使用するものであった,したがって津軽の「御鷹」は、同領内で手厚く保護され、その上で献上道中を組んで日本海沿岸の大名領を経由して,なお江戸幕府は、豊臣政権が各大名領主に巣鷹保護を命じたのとは相違して、寛永三年(一六二六)に巣鷹の制を
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の戦国時代)

して軍事行動を起こすとともに、養子として実子を送り込んだり、婚姻によって姻戚関係を結ぶなどして南奥羽の大名,しかし、天文十一年(一五四二)、稙宗が嫡子晴宗(はるむね)と対立、幽閉されたことを契機に、南奥羽一帯の大名,このあとの伊達氏は、晴宗の孫の政宗の代に南奥羽を統合して、奥羽随一の戦国大名へと発展していく。  ,しかし、一族の八戸南部氏・九戸氏などは三戸南部氏に準じた勢力を保持しており、戦国大名としての支配は不安定
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』は、元禄時代初期の大名の「紳士録であり、評判記であり、また功課簿でもある,五代将軍徳川綱吉は諸大名に「仁政(じんせい)」を求め、大名領分への監察もその視点からなされることになった,また幕府から課せられた寛文蝦夷蜂起への出兵などの軍役(ぐんやく)・大名課役(かやく)の遂行も、藩政の基盤固,信政も含めて、こういった人々に共通する点は、藩政機構の整備・確立、新田開発などによる農業生産の伸張、大名課役,の遂行などにかかわる幕府との関係など、この当時大名領主が負わされた課題に取り組み、以後の藩政の流れを主導
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

しい攻防が繰り広げられていた(以下、資料古代・中世第四節「堀越城」、および長谷川成一『近世国家と東北大名,堀越城の拠点化は、同地帯の経営を容易にし、領内全域への近世的支配を及ぼす契機をなし、津軽氏が近世大名へと,それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自ら近世大名へと成長してゆくステップでもあった。
通史編3(近世2) ((一)衣服)

)や将軍宣下(せんげ)(朝廷から将軍に任じられること)など朝廷関係の重い儀礼の場合には、将軍以下一般大名以上,しかし幕府や大名家における重い礼装は、直垂(ひたたれ)・大紋(だいもん)・素襖(すおう)であった。,直垂は将軍以下諸大名の四位以上の人々が着用し、大紋は五位の諸大夫(しょだいふ)(一般大名)、素襖は無位
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

七月の下旬になり、戦いは実季側の勝利に終わり、実季はここから近世大名への道を歩んでゆくことになるが、戦,鷹の献上は、統一政権に対しての大名が負担すべき役として認められるものであり、とくに、秀吉の場合は、諸大名,をその権力体系の中に組み込むことを意図して、鷹の献上を自らが求めたという(長谷川成一「鷹・鷹献上と奥羽大名小論
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

であったものが、翌慶長元年の伏見木幡山(こはたやま)城の築城からは、津軽右京亮(うきょうのすけ)のほか、仙北の大名,、天正十九年(一五九一)の九戸一揆と、それに続く文禄元年(一五九二)からの名護屋参陣において、奥羽の大名,編成することを実現していたが、この慶長元年からの伏見作事板の運上も軍役の一種であることから、彼ら奥羽の大名,奥羽の大名・小名衆にとって、豊臣政権の庇護がなければ領国支配を実現できない状況下では、たとえそれが大きな
通史編3(近世2) (出発)

参勤の行列人数は、享保六年(一七二一)幕府が発した諸大名参勤道中の供人数制限令をみると、二〇万石以上は,これが基準となり、一万石級の大名は一五〇~三〇〇人までが普通となった。  ,しかし、実際には一万石級の大名で一五〇~三〇〇人であったから、弘前の右の七四一人(九代藩主津軽寧親の参勤,図108.御発駕御規式 目録を見る 精細画像で見る  津軽家の大名行列については、天保十三年(,図111.大名行列  「国日記」文化八年(一八一一)十二月二十三日条に(資料近世2No.二五五)
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自らを近世大名へと成長させてゆくステップでもあった。,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

これは文禄元年(一五九二)の朝鮮侵略に際して、本州北端から九州の肥前名護屋へ、当該地域の大名が出陣するのを,同様に夷島の蠣崎(かきざき)氏も鷹献上を下命され、文禄二年(一五九三)正月、豊臣政権から日本海沿岸の各大名,徳川政権にあっても引き継がれ、慶長九年(一六〇四)八月、徳川家康は松前から京都に至る鷹献上に、沿道の各大名
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

また、この一揆鎮圧のために津軽氏を含む東国の大名衆を軍事動員できたことにより、秀吉は奥羽・「日の本」までに,仕置を現実化することができ、これを土台としてこの直後の朝鮮出兵のための名護屋(なごや)参陣を奥羽の諸大名,信直は、秀吉が出した惣無事令によってその近世大名としての権力をようやく存続できていたのであり、その惣無事令
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

その意味で、関東惣無事令は、北条氏のみならず、北関東の諸大名をも対象とするものであった。,図1.豊臣秀吉画像  関東惣無事令は、北条氏を中心とした北関東の諸大名間の紛争をその対象としていた,このころ、北条氏の北進と対峙(たいじ)していた北関東の諸大名は、豊臣政権による介入を望んでいたという政治的,しかし、伊達氏と南奥羽の諸大名との間には、すでに七月に和睦が成立しており、しかも、これは、間接的には豊臣政権,次に、このころの北奥羽大名の様子についてみてゆくことにしよう。
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

津軽藩と若狭海運」福井県立図書館他編『日本海海運史の研究』一九六七年、および、長谷川前掲『近世国家と東北大名,また太閤蔵入地の石高は、出羽国を例にすると、蔵入地の代官を命じた大名の領知高の半分であるといわれる。,そして、津軽氏が蔵入地の代官となったということは、豊臣政権の一翼を担う大名としての位置を確認することであり,約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の目的は、太閤鷹の保護と秀吉への上納の際の費用として、さらに、北羽地域の大名,また、これらの地域の領主は、大名権の確立が未成熟な大名が多く、豊臣政権による統一的な課役の負担は、彼らの
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

南部右京亮」から「津軽右京亮」に切り替えられていることは、秀吉が為信を南部氏の家臣から正式に津軽の独立大名,中世のような自己の判断に基づく軍事行動を一切否定されることになったのである(長谷川成一『近世国家と東北大名,南部信直の家臣東朝政(ひがしともまさ)に宛てた四月十四日の書状によれば、「津軽・仙北口よりハ北国」の大名衆,しかし、政宗のほか上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏など北国・北関東の大名衆、そして秋田氏・小野寺氏・最上氏・由利衆,など奥羽の大名らも総動員されている。
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

大名の社会でも、領地の石高、将軍家との親疎などの要素から家格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任,そういった家格を高めるために、大名たちはさまざまな運動を展開していく。  
通史編1(古代・中世) (複雑化する城館)

また、戦国大名や有力国人領主の領国内で支城制と呼ばれる築城が、組織立てて行われていく。,たとえば日本でも屈指の戦国大名といわれる、関東の小田原北条氏を例に挙げてみると、本城(根城)が直轄支城
通史編2(近世1) (福島正則の改易)

慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いでは、秀吉恩顧の大名であるにもかかわらず、家康に属し石田三成攻撃を主張,正則の改易は豊臣恩顧の大名取り潰し政策の始まりであるが、内容をみると明らかに武家諸法度違反に問われたものである
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城,大浦氏が近世大名に成長していく段階で、どのような考え方でそれぞれの城と城下町建設を進めていったのか。
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

異国船打払令の発令と津軽弘前藩 水野忠成を中心とする文政期の幕閣は、海防をゆるめ、その任に当たっていた大名,打払令の目的は、異国船を威嚇して日本沿岸に近づけないことにあり、異船を遠ざけることは、ひいては大名負担,打ち払いによって、異国船拒否の意志が諸外国に徹底すれば、大名の海防に要する負担の必要すらなくなるはずと
通史編2(近世1) (二 近衛家雑事日記(このえけざつじにっき))

同家の公的な用向き、幕府、各大名、各公家との贈答・往信、近衛家内部の動静など、多岐にわたる記事が記録されている
通史編3(近世2) (信義)

先祖崇拝の信仰に支えられて高野山に供養塔を立てることは、全国の大名家でも慣習化していた。
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

この時期の堀越城は、政治を司る中心としての機能を有し、豊臣政権の中での近世大名として成長していく段階でも,さらに近世大名津軽氏の権力の形成と津軽地方における中世末から近世初頭への移行期の様相を明らかにするうえで,津軽氏が近世大名として津軽領内を掌握する政庁的性格をもたせようと作った堀越城下町ではあったが、十分に対応,つまり近世大名としての役割を維持していくためには、家臣団編成や商・工業者などの集住政策は急務の課題として,要因の一つとして考えられるが、それよりも弘前城下町の建設が行われた背景には、堀越城と堀越城下町では近世大名
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