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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(東北地方の古墳文化)
あの巨大な古墳が、大和を中心に統一的な企画性をもって各地に造営された時代であり、この前方後円墳こそ、
大和政権
,この前方後円墳の分布する地域が、すなわち
大和政権
の勢力範囲を意味する。 ,をめぐる学界の議論が盛んにマスコミをにぎわせたが、この会津大塚山古墳から出土したものは四世紀中ごろに
大和政権
,こうした事実は、すでに四世紀には、会津地方が西日本と同じく
大和政権
の支配下に入っていたことを意味している,の豪族が、一時的、例外的にこのあたりまで進出していたことを示すと考えられるが、この地域が継続的に
大和政権
通史編1(古代・中世)
(津軽、「日本史」の舞台へ)
日本書紀』に登場するのは、斉明天皇元年(六五五)七月己卯条で、そこには、大化改新によって設置された、時の
大和政権
,このように阿倍比羅夫が津軽地方に来る以前に、当地の蝦夷たちは、すでに
大和政権
と関係を結んでいたのである,このように津軽蝦夷たちが、他に先駆けて
大和政権
に服属したのはなぜか。,このことを理解するためには、服属した蝦夷の、
大和政権
に対する義務と、またその見返りが何であったのかを知,すなわち
大和政権
と津軽蝦夷との間には、いわゆる朝貢関係が結ばれていたのである。
通史編1(古代・中世)
(国造の分布)
国造の分布
大和政権
の地方支配体制として知られているのが国造(くにのみやつこ)制である。,その地域の有力豪族が、特産物を貢納したり労役を提供するなどして
大和政権
に服属を誓うと、国造に任ぜられてその,これらの地域には古墳は築造されたものの、
大和政権
とはまだゆるやかな支配関係を結ぶにとどまっていたのであろう,なお国造の置かれた地域には、同じく
大和政権
の、さらに古い形の支配組織である部民(べみん)制も及んでいた,これらは
大和政権
の東北経営とかかわった豪族たちであった。
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇四年の「北征」)
先に触れたように、すでに
大和政権
と友好関係を結んでいた津軽蝦夷をも動員し、彼らには背後から秋田地方の蝦夷,動きを見て、米代川河口付近に拠点を持つ渟代(ぬしろ)蝦夷たちは早くに降伏したらしく、津軽蝦夷と同じく
大和政権
,恩荷は先に述べたように、弓矢をもつ理由が
大和政権
に反抗するためではなく、肉食のためであることを説明して,、ついに
大和政権
への忠誠を誓ったのである(写真31)。,対北方政策上、津軽がそれだけ重要な地域と
大和政権
に目されていたことなどによるものであろう。
通史編1(古代・中世)
(エミシとは)
エミシとは
大和政権
下の中央の人々は、東北地方を辺境と見なして、そこに住む辺民を「エミシ」と呼びならわしていた
通史編1(古代・中世)
(田道伝説)
もっとも田道伝説は、先にも触れたように上毛野氏が
大和政権
による東北経営にかかわったという史実に由来するもので
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇五年の「北征」)
比羅夫は、これまでそういった対立を利用して平定を進めてきたわけであるが、
大和政権
に帰順した蝦夷相互での
通史編1(古代・中世)
(後方羊蹄の所在地)
こうして津軽半島北部の蝦夷までが
大和政権
と朝貢関係を結ぶにいたって、「北征」に一応の目途(めど)をつけた
通史編1(古代・中世)
(混血の進展)
混血の進展 古墳時代に、その先進的な文化を摂取するために
大和政権
が積極的に帰化人(渡来人)を受け入れたことはよく
通史編1(古代・中世)
(阿倍比羅夫の登場)
北征」などというと、戦闘のイメージが強くなり、一説によれば、やがて朝鮮半島で百済救援のため戦火をあげる
大和政権
軍,の水軍の予行訓練であったとか、朝鮮半島の利権を失った
大和政権
が失地回復のために北方の軍事征服に向かったのだともされている
通史編1(古代・中世)
(有間浜の所在)
、かねて交流のある津軽蝦夷の仲介で、渡嶋蝦夷との接触に初めて成功し、そこで大いにもてなして帰順させ、
大和政権
通史編1(古代・中世)
(東北地方の古墳時代)
大和政権
による政治的色彩が濃く反映されていった古墳が各地の共同体の支配者層によって築造されていたころ、
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇六年の「北征」)
比羅夫の「北征」はこの斉明天皇六年(六六〇)までで、翌年からは、その水軍は
大和政権
による百済救援のための
通史編1(古代・中世)
(青森県の古墳文化)
北部の地域では関東地方の土師器製作技法をもった人々が活動していたことも確認されていることから、そこには
大和政権
通史編1(古代・中世)
(比羅夫は何回遠征したか)
そもそも『日本書紀』では、
大和政権
による東北経営として、日本海側を中心とした阿倍比羅夫の、「三度」にわたる,実は当時の
大和政権
による東北経営が、阿倍比羅夫による、日本海側からの征討だけではなかったことは、同じころ
通史編1(古代・中世)
(藤崎系図)
された理由は、大毘古命(おおひこのみこと)や建沼河別命(たけぬなかわかけのみこと)といった、記紀に見える
大和政権
時代
通史編1(古代・中世)
(古墳文化及ばぬ北の世界)
古墳文化及ばぬ北の世界 一方、
大和政権
の影響度の指標である前方後円墳が及ばなかった地域である青森県をはじめ
通史編1(古代・中世)
(三十八年戦争の時代)
それまでの律令国家の直接の支配領域は、すでに古墳文化の時代に、程度の差こそあれ、何らかの形で
大和政権
とかかわりのあった
通史編1(古代・中世)
(毛人)
(四七八)に、日本から南朝・宋の順帝に差し出された、著名な倭王武(わおうぶ)(雄略天皇)の上表文に、
大和政権
通史編1(古代・中世)
(蝦蛦)
蝦蛦 ところが七世紀中ごろから、
大和政権
による東北経営が進むにつれて、東北地方の人々についての具体的
通史編1(古代・中世)
(新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)
…………… 20 二 蝦夷はアイヌか …………………………………………… 33 三
大和政権
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