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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(西廻海運による大坂廻米)
西廻海運による
大坂
廻米 西廻海運が実現すると、上方廻米に利用される廻船の多くが
大坂
での雇船となった。,そして、さきにもみたように、これらの雇船は、西廻海運の成立によって拡大された、
大坂
市場と結ぶ瀬戸内海沿岸,すなわち、
大坂
廻着の雇船は、多くが蔵元によって雇われ、廻米の販売が行われたのであった。,国元と
大坂
間の蔵米の廻漕を蔵元が担うことにより、藩が主導していた敦賀廻着の段階と異なり、隔地間の価格差,たとえば、京都の井川善五郎は、
大坂
廻米が行われる寛文十二年(一六七二)以前から弘前藩とのつきあいがあり / 西廻海運による
大坂
廻米
通史編2(近世1)
(上方廻米)
上方廻米 上方廻米は、貞享四年(一六八七)にすべての上方廻米を
大坂
着とする政策が出される以前は、敦賀,と
大坂
の両方に廻着していた。,なお、同年以後も敦賀・大津への廻米は断続的に実施され、
大坂
廻米の補足的な役割を果たしていたという(印牧信明,「津軽藩における成立期の
大坂
廻米について」『交通史研究』四四)。,
大坂
への廻米は、寛文十二年(一六七二)に初めて実施され、その後量的に増加し、貞享四年には全量を
大坂
着を
通史編3(近世2)
((四)瓦)
瓦 「国日記」によると、弘前城内並びに一部城外建造物に使用された屋根瓦は、国元で焼成された国瓦と、
大坂
,これら遺物の中には〝
大坂
瓦細工人〟や〝大塚理右衛門(おおつかりえもん)〟
大坂
瓦師)の印銘のある瓦片もみられ,、
大坂
からの移入を推測させる。,図151.瓦印銘(
大坂
瓦細工人・大塚理右衛門)
通史編3(近世2)
(鳥羽・伏見の戦い)
図44.鳥羽・伏見戦争周辺地図
大坂
城にいる徳川慶喜を中心とした旧幕府軍は行動を開始した。,この時、以前から駐留していた幕府勢力を合わせるとその数は約一万人に上り、さらに
大坂
守衛の兵も合わせると,六日夜、徳川慶喜は密かに
大坂
城を脱出して海路で江戸を目指し、旧幕府軍は瓦解していった。
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
たとえば、寛政三年(一七九一)には江戸・
大坂
の銀主に借金返済の繰り延べを依頼する事態となり、年限が来た,同五年に家老津軽多膳(たぜん)らが
大坂
に赴き、年三万石の廻米確保を約束させられている。,23,000両の代米 35,075 石 13.80% 江戸・
大坂
常用不足にて借財 ㉗ 京・
大坂
常用,費目として京・
大坂
の常用金二一〇〇両の財源となる廻米四四二三石(買下品の代金含む)と、「京・
大坂
御用米,これは累積した江戸・
大坂
常用金不足で借用したものであった。
通史編4(近・現代1)
(菜種・水油の商況)
七月卅一日報)同人 当市輸出ノ菜種ハ専ラ南、中津軽二郡ノ産ニシテ、其仕向先ノ重ナル地方ハ東京市、
大坂
市,取引猶予ノ景況ナリ 水油(当市産)ハ、従来管内外各地ヘノ輸出不尠、而シテ其重ナル仕向地方、東京、
大坂
,ノ取引アリ、即本年一月ヨリ三月迄輸出シタル数量金額ヲ挙クレハ、東京市数量四十八石、価格千三百二拾円、
大坂
市数量十二石
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
②
大坂
・京・近江の地名を冠するの屋号が圧倒的に多く、なかでも、
大坂
・京が多い。,越後屋 越前屋 若狭屋 輪島屋 富山屋 6 5 5 3 1 1 近 畿 京屋
大坂
屋,そして、これらの地名は、越前・若狭・加賀などの各湊津に物資を揚げ、琵琶湖を経由して京・
大坂
へと通じる輸送路,また、
大坂
・京・近江・加賀など、西廻り海運に関係する地名の屋号が、東北地方を地名を冠する屋号よりも圧倒的
通史編4(近・現代1)
(金細工物の商況)
(七月廿日報) 同人 金細工物ノ輸出入 本市内ヘ輸入スル金細工物ノ重ナル仕入先ハ、東京、
大坂
、新潟,本年一月ヨリ六月マテ輸入シタル数量金額ハ、東京市一万五千五百貫目、其価格七千七百弐拾参円九拾五銭、○
大坂
市九百三十二
通史編3(近世2)
(陽光院)
二世輝陽が
大坂
より観音像を持参したところ、村民の立願が成就するために鎮守として祀ったのが、清水の観音(
通史編2(近世1)
(江戸市場への傾斜)
この転換の要因は寛政改革による幕府の江戸への米穀流入政策と、文化初年以降、とりわけ
大坂
における廻米量を,これを裏付けるように、藩は、文化二年(一八〇五)に
大坂
廻米三万五五五石余を江戸廻しにして、計六万九九一八石
通史編3(近世2)
(旧弘前藩の債務処理)
『津軽承昭公伝』では朝廷よりの貸付金の内、残高六万四〇〇〇両、
大坂
負債額二一万三四七八両一歩二朱と永(,3 東京の部 71 20,185両1分2朱 360匁1分9毛 164貫66文 4
大坂
借入の部 222,16,546両 2朱 19,473貫558匁1分 585文 5
大坂
古借の部 206
通史編2(近世1)
(貞享検地)
これは、寛文期に完成した西廻り航路により、
大坂
市場との結びつきが強くなったことと関係がある。,つまり、全国市場である
大坂
との結びつきは、それまで自領内・その地域経済圏に出ていた年貢米が、
大坂
へ廻米,したがって、藩経済を維持するうえでより多くの年貢米を
大坂
へ廻米せざるをえなかったのである。
通史編3(近世2)
(山崎蘭洲)
彼と親交のあった者には
大坂
懐徳堂(かいとくどう)の儒者五井蘭洲(ごいらんしゅう)、同じく
大坂
の文人木村蒹葭堂
通史編2(近世1)
(西廻海運と領内の整備)
西廻海運と領内の整備 西廻海運の発達は、
大坂
市場の発達とともに盛んとなり、流通機構の再編成を促した。,津軽氏の上方廻米は、為信が京都・
大坂
・敦賀に屋敷を構えた文禄二年(一五九三)ころに開始されたと推測される
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
初代為信の動向 関ヶ原の戦い後、家康の覇権が成立するが、政治の中心地は依然伏見や
大坂
であった。,その理由は、
大坂
の豊臣氏との緊張関係、朝廷対策つまり征夷大将軍宣下、西国の有力外様大名対策、そして江戸城,第三は、信建は慶長七年八月八日に国元へ帰国するまでは上方におり、居住地は
大坂
であった。,・16 京 正・22 参内 慶長 7・正・19 正・26
大坂
, 3・10 京 伏見 4・16 (奈良)
大坂
通史編2(近世1)
(宝暦―天明期の借財)
大坂
からの借入先としてもっとも大きいのが茨木屋(いばらぎや)で、実に八万八三八九両に及ぶ。,である口銭(こうせん)を与えられるなど利益も多く、大商人は競って蔵元・掛屋になりたがり、十八世紀中期の
大坂
通史編2(近世1)
(茨木屋の苦悩)
さらにその翌年寛延二年は飢饉の年で、津軽から西館織部らが借金のため
大坂
まで出向き交渉を行い、断り切れなくなった,「
大坂
で他に借り入れ先がない」と、藩に泣きつかれた茨木屋は再び蔵元を引き受け、「御郡内御扶助米」として,要請したが、茨木屋は天明二年に自家の経済的困窮と藩の不誠実を理由に正式に断っている(「(茨木屋安右衛門
大坂
蔵元再勤被仰付候
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
江戸時代初期の大名課役 江戸時代初期における大名に対する軍役動員の事例として、
大坂
の陣・島原の乱が挙,慶長十九年(一六一四)十月四日、幕府は東北・関東の諸大名に
大坂
へ参陣するよう陣触を発した(資料近世1No,
大坂
冬の陣の始まりである。,信枚は十一月二十五日
大坂
住吉に到着して徳川家康に拝謁したが、その場で江戸勤番を命じられ、実際の戦闘に参加,鞍皆具を差し出すとともに、目付以下、書院番・馬役、勘定人等総勢一四六人を派遣しており、このうち馬五疋は
大坂
通史編2(近世1)
(御用金の賦課)
このように江戸・
大坂
の借財の増加に対応する時期に、国元からも御用金・御用米の徴収がみられた。 ,しかし、支払うと江戸・
大坂
の廻米が滞る危険性があり、そうなると信用問題になり、今後の融資にも影響するとして
通史編4(近・現代1)
(青森県における衆議院議員選挙)
工藤行幹・関春茂・菊池九郎、補欠市田兵七)、第一〇回(四十一年五月)憲政本党四人、政友会二人(〔政友〕
大坂
金助,中正会一人、中立一人(〔政友〕野村治三郎・高杉金作・加藤宇兵衛、〔同志〕菊池良一、〔中正〕菊池武徳、〔中立〕
大坂
金助
通史編5(近・現代2)
(二つの源流)
頼山陽は羯南の師古川他山が学僕をしていた
大坂
の儒者篠崎小竹の親友である。
通史編3(近世2)
(歌舞伎)
元禄年間(一六八八~一七〇三)には、京・
大坂
の坂田藤十郎を代表とする上方(かみがた)歌舞伎と、市川団十郎
通史編3(近世2)
(戦争の波紋)
戦争の波紋 当時の様子について、青森商人滝屋善五郎は二月四日の日記に、
大坂
で徳川慶喜が朝敵になり、蒸気船
通史編5(近・現代2)
(みちのく銀行の誕生)
ただし、頭取は唐牛敏世、副頭取は
大坂
嘉市、その他の役員人事は双方協議して決定する。,写真172 合併契約書に正式調印する左から
大坂
嘉市頭取(青和銀行)と唐牛敏世社長(弘前相互銀行)
通史編2(近世1)
(幕末期の蝦夷地交易)
この計画自体は津軽弘前藩側が米の安定供給に自信を持てなかったため実現しなかったが、江戸・
大坂
廻米を最優先
通史編2(近世1)
(福島正則の改易)
慶長十九年(一六一四)の
大坂
冬の陣では、江戸の留守居を務めたが、これは家康が正則を警戒したためといわれている
通史編3(近世2)
(本町の繁栄)
本町の繁栄 享保四年(一七一九)ころの「町屋数圓」(弘図八)によれば、本町一~四丁目までは
大坂
屋(おおさかや
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
五大老の一人であった家康は、慶長五年六月六日に諸大名を
大坂
城西丸に集めて、諸大名の会津攻めを命じた。,南部利直ら東北・関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記」、「貞山公治家記録」)、六月十六日、
大坂
城,家康が東下した後、上方の情勢は大きく転換し、石田三成が毛利輝元(もうりてるもと)を盟主として
大坂
城に招
通史編3(近世2)
((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)
幕府の命により各大名もキリスト教徒を禁圧し、棄教しない京都・
大坂
の信者七一人を蝦夷地とともに中世から流刑,これらは、京都・
大坂
からの流人でなく、改宗した地元の領民や、他の罪による流人とみられる。
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
町年寄手 近江 近江 本城 為信代 為信代 万治3年 100石 100石 30石 為信代 (
大坂
浪人
通史編2(近世1)
(俸禄の支給方法)
安永九年(一七八〇)、江戸・
大坂
での借財の増大に伴い、再び三ヵ年にわたって三分の一借り上げとなり、一〇〇
通史編4(近・現代1)
(弘城政社の衰退)
政治分野では、六人の代議士のうち、国民党は石郷岡文吉、小山内鉄弥、市田兵七、竹内清明の四人、政友会は
大坂
金助
通史編2(近世1)
(箱館開港をめぐる全国的動向)
、箱館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港(箱館・神奈川・長崎は安政六年から)と、江戸・
大坂
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
「藤田権左衛門家記」によれば、天明二年には江戸・
大坂
へ各二〇万俵余、加賀へ三万俵余、これに小納戸米(こなんどまい,翌天明三年春には藩士に支給する米や農民に小売りする米までを買い上げたうえで、同二年と同様江戸・
大坂
へ各二
通史編5(近・現代2)
(伊東梅軒)
彼は天保十四年(一八四三)江戸に遊学、佐藤一斎に師事、弘化元年(一八四四)
大坂
に行き、篠崎小竹の門に入,広瀬淡窓、佐賀の草場佩川(はいせん)に会い、さらに長崎、熊本へと足を運んで各地の人物と交遊し、中国路を経て
大坂
通史編3(近世2)
(稽古館の儒学者たち)
に稽古館助教になったが、弘化二年助教を辞し、嘉永元年江戸に上り、朝川善庵に師事して経史を学び、次いで
大坂
,その後弘化元年(一八四四)
大坂
に赴き、篠崎小竹の門を叩き、ここで海防僧と呼ばれた月性(げっしょう)と交
通史編4(近・現代1)
(『弘前新聞』の論評)
大正四年三月二十五日の第一二回総選挙に青森市から出馬した工藤十三雄は、当選した
大坂
金助三三七票に対し、
通史編2(近世1)
(幕末期の藩財政)
米方の支出のうち、家中への知行切米・扶持の合計は五万三〇三四石(歩引渡をしている)、江戸廻米は五万石、
大坂
廻米
通史編2(近世1)
(大問屋制の導入)
天保八年九月二十三日、藩は駒越町紙屋忠兵衛・桶屋町三国屋八三郎・東長町
大坂
屋福次郎・和徳町猿賀屋小市郎
通史編3(近世2)
(織物会所の施策)
理由から物資の流通も少なく、町方商家では商品にも事欠く状況に置かれていたため、家中の中には京・江戸・
大坂
通史編2(近世1)
(伏見指月城の普請)
半年後の慶長二年(一五九七)五月五日には「伏見御城殿守ノ丸」へ入っているが、この伏見木幡山城は京都と
大坂
通史編3(近世2)
(京都詰藩士による視察報告)
一月六日、旧幕府軍は淀から木津川を越え、
大坂
寄りの八幡と橋本に退いて薩長軍と対峙(たいじ)した。
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
商家では地名・国名を屋号とするものが多く、江戸屋・京屋・
大坂
屋・兵庫屋・堺屋・尾張屋・丹波(たんば)屋,湯屋と記さずに風呂屋と記したり、
大坂
屋が多いことからわかるように、上方との交流が深いことが判明する。
通史編3(近世2)
((一)東北諸藩と弘前藩)
三月に入って九条総督は、薩摩・長州・福岡の藩兵およそ五〇〇人を率いて京都を発し、
大坂
から海路奥州に向かい
通史編3(近世2)
((一)概要)
(一)概要 上方(かみがた)(京都・
大坂
地方)と江戸の文化が、文人らの手によって全国津々浦々へ伝えられていったことはいうまでもない
通史編2(近世1)
(信政晩年の藩政)
さらに取り立てたもののうち、「御普請料米」の一部が
大坂
の蔵元への借銀返済に流用されるなど、出頭人グループ,
大坂
廻米 40,000. 江戸扶持米 10,000.,. 8 御普請料
大坂
廻米 40,000. 10月から現在まで 町米沖出の積もり
通史編2(近世1)
(預手形とは)
家中の扶持米および領民の食料として購入せざるをえない米穀や雑穀が増え、多くの金銭が他領に流出し、江戸・
大坂
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
『浅利軍記』では、浅利・秋田両氏が
大坂
に上り何度も政権からの詮索があった後、やがて浅利方有利に傾いた時
通史編3(近世2)
(政府軍の乙部上陸)
四月六日、軍艦春日・甲鉄・丁卯・陽春と輸送船飛龍・
大坂
・ヤンシー(米国より雇入の商船)・豊安に各藩兵が
通史編4(近・現代1)
(菊池武徳と中央政治)
四十一年の総選挙で、菊池は政友会の
大坂
金助に敗れた。
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