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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
白銀小学学区は、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西
大工
町、駒越町、馬屋町、茂森町、片堀町(旧古堀町)、,茂森派立、新寺町、在府町、相良町、本町、元
大工
町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町
通史編1(古代・中世)
(住の道具)
住の道具 居住にかかわる道具類のなかでは
大工
・番匠(ばんじょう)の道具が出土する。,このような道具の出土は当然
大工
が存在した証拠でもあり、
大工
道具が出土すること自体稀(まれ)な事例であることを,考えると、境関館には日常的に
大工
の仕事をする職人が居住していた可能性も高い。
通史編2(近世1)
(諸役と運上)
諸役と運上 慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」によると、城下の家業は、鍛冶九一、銅屋二一、
大工
三九,
大工
木挽は、上々が八匁、上が七匁五分、中が六匁五分、下が五匁、下々が四匁であった。,寛政八年(一七九六)には、御役職人が二八種あり、軒数では
大工
が最も多く、一一五軒あった。
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
本町 在府町 相良町 宮崎文蔵 元
大工
町 森町 覚仙町, 若党町 小人町 春日町 馬喰町 亀甲町 生駒慶宮 鷹匠町 馬屋町 西
大工
町
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
築城は大いに急がれた様子で、
大工
職などは領内の
大工
たちでは間に合わずに、江戸や関西・北陸などから数百人
通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
三一人、魚売が本役・半役・直新役・新役・三ヶ一(いずれも営業税である役銭を納める者)を合わせて三二七人、
大工
,御用研屋3軒 鞘師 9 内 御用鞘師2軒 塗師 14 内 御用塗師4軒 経師 5 内 御用経師1軒
大工
,115 木履
大工
6 木挽 58 鍛冶 45 屋根葺 26 畳刺 8 左官 14 石切,御前穀物請負・同搗屋 1 御買上品取扱 1 御座頭 2 米金仲買頭 1 座頭頭 2 御
大工
,67 木挽 62 木履
大工
2 屋祢葺 17 内 小頭1軒 唐箕
大工
3 石切 11 内 小頭
通史編3(近世2)
(江戸時代前期の建築)
また当初の棟札によると、この時の技術者は、奉行 伊州(いしゅう)住――、同 勢州(せしゅう)住――、
大工
奉行, 羽州(うしゅう)住――、同 江州(こうしゅう)住――、
大工
泉州(せんしゅう)住――、小工 勢州住――,と記されており、伊賀・伊勢・出羽(でわ)・近江(おうみ)・和泉(いずみ)・山城などの出身者で奉行から
大工
,「――精舎一宇(しょうしゃいちう)岩木山大堂――寛永十七庚辰(かのえたつ)年」と記されており、さらに
大工
棟梁
通史編3(近世2)
(四 寺社建築)
当時の宮
大工
たちは、寺院建築も神社建築も一緒にこなしていた。
通史編4(近・現代1)
(日本聖公会弘前昇天教会(山道町))
設計者はアメリカ人ジェームズ・ガーディナー、請負
大工
は林緑、れんが造りの平家建て、ゴシック様式にまとめられ
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
トス 学聯区名 学区名 校数 学区内町村名 学校名 等科 本町学区 一 ○本町、在府町、相良町、元
大工
町,若党町、小人町、春日町、馬喰町、○亀甲町 亀甲 中初 盈進 中初 下町学区 一 鷹匠町、馬屋町、西
大工
町
通史編3(近世2)
(黒塗、朱塗、蒔絵に加わった変わり塗)
木地は
大工
職の仁兵衛が作り、これに源兵衛が唐もどき塗・落葉塗・紋虫喰塗・かん入塗・錦塗・唐塗などの技法,塗師は、漆工品作りのほか、
大工
職、鳶職らと寺社の建築塗装にもかかわりを持っていた。 ,を要求し(「国日記」宝暦三年七月十五日条)、三ヵ月後、塗師小頭青海源兵衛、池田長次郎、丸山九八郎は、
大工
福岡久右衛門
通史編3(近世2)
((三)住居)
しげもりまち)・鞘師町(さやしまち)(後に上白銀町)・銀町(しろがねちょう)(後に下(しも)白銀町)・
大工
町,(だいくまち)(後に元(もと)
大工
町)・鍛冶町(かじまち)(後に本町(ほんちょう)・覚仙町(かくせんちょう
通史編3(近世2)
(近世漆工芸の発展)
弘前城築城のために、
大工
などの職人を江戸その他から数百人も呼び寄せ、周辺の村にも日割りの人夫を課している
通史編5(近・現代2)
(洋風建築の黎明)
これら建築の建設は、外国人施主の下で日本人の棟梁や
大工
・石工・左官の職人が当たったが、いち早く異国の先進構造技術
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
また、町方と思われる町に武士の居住がみられ、たとえば、土器(かわらけ)町に八四軒、西
大工
町に六軒、
大工
町
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
第三大区初代区長 大道寺繁禎 津軽郡第三大区 一小区 弘前町(八九ヵ町) 本町 上白銀丁 下白銀丁 元
大工
町,代官丁 和徳町 茶畑丁 茶畑新割丁 北横丁 紺屋丁 浜ノ町 五十石町 袋町 鷹匠町 馬屋町 新町 西
大工
町
通史編3(近世2)
(勧進能)
勧進能 元禄十四年(一七〇一)四月十八日から七日間、
大工
町で勧進能が行われる予定であったが、十八日は
通史編4(近・現代1)
(県内青年の政治的自覚)
会長は淡谷恒蔵で、堀江彦蔵や弘前女学校の小使、店員、
大工
などが会員で、機関誌『青年同盟』をガリ版刷りで
通史編3(近世2)
(消防制度)
元禄九年には杖突(つえつき)役人(補佐の役人)以下、鳶(とび)の者・人足・諸役人・
大工
からなる火消行列,おけやまち)・銅屋町(どうやまち)・建詰町(けんづめちょう)・土場町(どばまち))、親方町(親方町・
大工
町
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
一方、職人集団として鍛冶(かじ)九一・銅屋(どうや)二一・
大工
三九・馬屋および馬喰(ばくろう)一八・鞘師一一,第二は新派町(現平岡町)と派町(現西
大工
町)ができたこと。,駒越町や西
大工
町・平岡町などの城西地区の町割りが拡大した。
通史編4(近・現代1)
(教育とキリスト教の問題)
元
大工
町が手狭になったので、坂本町に新築移転したのは明治三十四年(一九〇一)二月である。
通史編3(近世2)
(諸役と仲間)
木綿屋・小間物屋・鍛冶・桶屋・煙草屋・煙草作り・居鯖(いさば)(魚を売買する者)・銀(しろがね)屋・
大工
,このうち、数が多いのは、紺屋一二九・鍛冶九一・煙草屋五四・居鯖五一・
大工
三九・鷹師二九・煙草作り二三・,三一軒で役銀は本役は三〇匁、新室は一五匁、豆腐屋は四〇軒で一五匁、魚売は本役が三〇匁、半役は一五匁、
大工
,役銭六匁五分、研師(とぎし)の役銭三文目、鍛冶の役銭五文目、𨫤張(きせるはり)の役銭三匁、上
大工
,の役銭七匁五分、中
大工
の役銭六匁五分、金具師の役銭三匁、上石切(いしきり)の役銭三匁、中石切の役銭二匁六分
通史編3(近世2)
(本町の繁栄)
大火によって、本町一丁目~五丁目のほかに覚勝院町(かくしょういんちょう)(後に覚仙(かくせん)町)・
大工
町
通史編5(近・現代2)
(失業の増加と消費組合)
賃金は、人夫一日九〇銭、荷馬車夫一円六〇銭、
大工
一円七〇銭、運転手一円八〇銭だった。
通史編1(古代・中世)
(第三節 南北交易と「境界地域」津軽)
津軽を中心とする北奥や夷島へ「京」から入った物としては前述した陶磁器のほか、鉄製品(鍋・釜・
大工
道具など
通史編3(近世2)
(他領から技術を導入)
職人についてみると、
大工
六三、鞘師一二、紺屋一四〇、たばこつくり三二など、約三〇種、四六〇軒ほどの居住者
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
築城のため、
大工
などの職人も多数江戸やその他の地域から呼び寄せ、城は一年足らずの内にほとんど完成した。
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
この時の
大工
職や鍛冶職には、越前や丹波(たんば)の者の名前がみえている。,また、これら二つの熊野神社における棟札が、よく似た字体で書かれており、
大工
棟梁や鍛冶職なども同じ系統の
通史編2(近世1)
(土着策と弘前城下)
新寺町・平岡町・西
大工
町・紺屋(こんや)町の内織屋掛・新(あら)(荒)町・富田町が潰(つぶ)れ地とされ,したがって、城下の職人は使えないから、それらが済むまで他の一般の普請は差し止めとし、在宅の者は「在
大工
,とは東蝦夷地仮上知の動向とかかわるものであり、幕府から蝦夷地警備にかかわる長屋切組を命じられ、さらに諸
大工
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
山辺稲荷并白狐寺門前 大矢場 貞昌寺元門前 在府町相良丁 本町 覚仙丁 森丁 塩分町 中白銀丁 古学校
大工
町, 岩川茂右衛門 同小六区 新町 同川端丁 馬屋丁 鷹匠町 同細小路 下山道丁 駒越町 平岡町 西
大工
町
通史編5(近・現代2)
(棟梁・堀江佐吉)
佐吉の家は祖父の代から藩お抱えのお城
大工
を勤め、佐吉自身も宮
大工
系の勉強をしていた。
通史編4(近・現代1)
(弘前女学校の創設)
明治二十二年(一八八九)五月、弘前女学校が弘前市元
大工
町一番地に開校した。
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直し、人夫多く出、
大工
小屋多
通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
鞘師町(三丁目・四丁目),黒石町坂下,五十石町後袋町 山伏覚勝院罷在候町(当時角仙町),川原町 西
大工
町,・本
大工
町・東
大工
町,東桶屋町・西桶屋町,鍛冶町 土手鍛冶町より猫右衛門町(元禄16年2月11日に猫右衛門町
通史編3(近世2)
(火災)
さらに
大工
町(だいくまち)片側全部、覚勝院町(かくしょういんちょう)(覚仙町)四五軒を焼失。
通史編4(近・現代1)
(伊東重と養生哲学)
ジョン・イングから西洋のいろいろな学問の手ほどきを受けたばかりでなく、伊東の住まいは元長町で、元
大工
町
資料編1(考古編)
(第4節 中世・近世の生活用具)
火鉢・行火(あんか)(以上土製品)/温石(おんじゃく)(石製品)/行火(木製品)/火箸(鉄製品)
大工
道具
通史編4(近・現代1)
(工業学校の創設と東奥義塾の廃校)
明治四十年(一九〇七)、県は、弘前市元
大工
町の津軽産業倶楽部(現東北電力弘前営業所敷地)を借り受け、県立工業講習所
通史編3(近世2)
((一)年中行事と生活)
十六日、
大工
の神様。 二十日、煤払い。歳暮廻し。 二十六日、餅つき。詰市。
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
このほか、亀甲町角に御蔵、足軽町和徳町口に桝形、南袋川岸町(現西
大工
町)、古堀町、茶畑町、川端町などが
通史編3(近世2)
(信政の文治)
蒔絵(まきえ)師、養蚕織物師、金具(かなぐ)師、鋳物(いもの)師、塗師(ぬし)、鏡研(かがみとぎ)、
大工
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
資料古代・中世No.一〇七六)は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直し、人夫多く出、
大工
小屋多
通史編4(近・現代1)
(出生の真実と仏苗学園)
千崎如幻は、北津軽郡鶴田町生まれの工藤平次郎という、
大工
と仏師を兼ねた細工師の子である。
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
また、同年九月十四日には
大工
の彦左衛門に黒石村(現黒石市黒石)と広内村(現平内町)で五〇石の知行宛行状,が出されており(同前No.二七二)、御用
大工
にも知行が与えられていた。,同日には革秀寺へ高一〇〇石(資料近世1No.五五一)、町田村かち右衛門へ高一五石(同前No.五五二)、
大工
彦右衛門
通史編3(近世2)
(町方の軍事負担)
22歳 髪結 8 〃 太助 25歳 蕎麦屋藤助倅 9 駒越町 定吉 21歳
大工
通史編2(近世1)
(野本道玄の招聘)
山野井四郎右衛門 塗師 大野山六郎左衛門,金兵衛 養蚕 高森太郎兵衛,欲賀庄三郎ほか 造船 美濃屋宇右衛門
大工
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
次に、職人集団であるが、職人町として、紺屋(こんや)町・鞘師(さやし)町・鍛冶町・
大工
町・銅屋(どうや
通史編4(近・現代1)
(開化思潮の影響)
これを見た魯仙ら三人は一概に洋風を斥けたことを恥じ、再び申し合わせて猿賀神社に赴き、さきの掲額に
大工
にかんなをかけさせた
通史編4(近・現代1)
(組織的活動-化育社)
この間、明治二十一年(一八八八)、弘前市西
大工
町に集会場「弘前倶楽部」を建設し、同三十三年(一九〇〇)
通史編5(近・現代2)
(見直したい弘前市の記録)
土手町、鍛冶町をはじめ、代官町、桶屋町、百石町、親方町、紙漉町、紺屋町、若党町、五十石町、元
大工
町、元寺町
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