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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(大正時代)
大正
時代
大正
時代に入ると思わぬ発見があり、それを中心に調査研究が行われている。,
大正
六年(一九一七)九月、南津軽郡浪岡町北中野(きたなかの)の天狗平(てんぐたい)山で大型土器が発見され,
大正
十年(一九二一)北津軽郡相内(あいうち)村(現市浦(しうら)村)オセドウで道路工事中に貝塚がみつかり,翌
大正
十二年(一九二三)には、伸展の葬法で埋葬された一体の人骨が現れたのである(37)。,長谷部と山内は、翌
大正
十五年(一九二六)四月に八戸の是川一王寺(いちおうじ)遺跡を発掘し、多量の円筒土器 /
大正
時代
通史編4(近・現代1)
(大正新風俗)
大正
新風俗
大正
期の風俗の特徴は、洋服の普及であった。,男性の洋服が急速に普及し、とりわけ
大正
八年の好況時には、農村の若旦那たちの洋服新調が目立って多く、市内,なお、県立弘前高等女学校では、
大正
十一年四月、和服の制服を廃止し、セーラー服へ切り替え、女生徒洋装化の,また、婦人洋傘が流行し、
大正
十年ごろにはゴム長靴も売り出された。 ,写真204 睦家食堂
大正
十二年に、慈善館向かいにカフェー「ライオン」が開店した。 /
大正
新風俗
通史編4(近・現代1)
(大正期の弘中)
大正
期の弘中
大正
二年に東奥義塾が廃校したのと前後して、
大正
三年には弘前中学校木造分校が廃校となった,
大正
二年(一九一三)、県立弘前中学校は創立三十周年を迎えた。,
大正
四年には、校舎の大改築と校地の拡張を行い、慈雲院と西隣の報恩寺の一部が加えられることになった。,写真184 校舎改築後の県立弘前中学校 (
大正
4年)
大正
七年(一九一八)十一月になって、第一次世界大戦,写真185 弘前中学校講演部 (
大正
15年)
大正
後期はまた、文部省督学官、視学委員、県視学 /
大正
期の弘中
通史編4(近・現代1)
(大正新教育の勃興)
大正
新教育の勃興
大正
期の教育は、制度上からみると明治後期の継続で、その拡充整備を図ることが基本になっていたが,、その動向を左右したのは
大正
三年(一九一四)七月二十七日の第一次世界大戦の勃発であった。,戦時中の経済上における利得と、戦後に押し寄せた恐慌、それらを通じて湧き上がった世界的なデモクラシーないし
大正
,すなわち児童中心主義を標榜した「
大正
新教育」の勃興である。,
大正
新教育は、在来の開発主義教育が詰め込み教育に堕したとしてこれを否定し、学習過程の中心に子どもを据( /
大正
新教育の勃興
通史編4(近・現代1)
(大正期のりんご流通)
大正
期のりんご流通
大正
三年(一九一四)八月に勃発した第一次世界大戦は、日本経済に好況をもたらし、その,津軽地域において、大きな打撃を受けた
大正
二年(一九一三)の大凶作も、比較的早く回復できたのはりんごの価格上昇,しかし、大戦景気は
大正
九年(一九二〇)の不況をもって終息した。,そのため
大正
十一年(一九二二)から十二年にかけて、法制に準拠せず公認を得ない出荷組合の結成が相次いだほか,また、
大正
元年(一九一二)には、県から販路拡張費補助規定に基づいて二〇〇円の交付を受けている。 /
大正
期のりんご流通
通史編4(近・現代1)
(大正期観桜会あれこれ)
大正
期観桜会あれこれ
大正
期の観桜会といえば、市内の会社、官公署、近所の人々がこぞって来るのが主流で,園内の狂騒につられて話題を提供したのが、
大正
十年に開校したばかりの官立弘前高校の学生たちであった。,官立弘前高校の学生たち 弘前公園内招魂社(現護国神社)の招魂祭は毎年四月三十日に開かれていたが、
大正
,屋形船は、師団司令部が軍紀の乱れることを恐れ、また、主催者側も風紀が乱れると判断したため、
大正
末期には /
大正
期観桜会あれこれ
通史編4(近・現代1)
(大正天皇の来迎と弘前市民)
大正
天皇の来迎と弘前市民
大正
四年は
大正
天皇の即位式を行う予定があった。,もともと病弱だった
大正
天皇が、東京から遠方で気候的にも寒さの厳しい東北地方の大演習に臨席することには、,それでも
大正
天皇の大演習参加を危険視する声は鎮まらなかった。,
大正
天皇に対して、国民の間に病弱な天皇という意識が強かったことがうかがえよう。,青森市の場合でも、
大正
天皇が皇太子時代に結婚した際、青森市公会堂を造ったり、皇太子が青森市に行啓した記念 /
大正
天皇の来迎と弘前市民
通史編5(近・現代2)
(二 近代文学の成立(大正の文学))
二 近代文学の成立(
大正
の文学)
大正
期の本県の文壇は、いわゆる
大正
デモクラシーの影響を受けつつ、地方性回復,っていた理想主義(人道主義)は、四十三年の大逆事件以来の厳しい弾圧で潰(つい)えたかのようにみえたが、
大正
二年,
大正
八年創刊の総合雑誌「黎明(れいめい)」は文字どおり青森県の文学の夜明けを目指した。,また、淡谷が同誌に「郷土芸術論」(
大正
九年~十年)を連載し、真の郷土芸術の意識と地方に生きる文学者の使命,
大正
期は新理想主義、社会主義思潮が定着していく時期でもある、九年(一九二〇)創刊の「胎盤」は秋田雨雀( / 二 近代文学の成立(
大正
の文学)
通史編4(近・現代1)
(大正二年大凶作と小学校)
大正
二年大凶作と小学校
大正
二年の大凶作は天明の飢饉に次ぐものといわれ、青森県下産米の実収は平年作の,この凶作の影響は弘前にも及んで、『朝陽小学校沿革誌』
大正
三年一月に「昨年気候不順にて凶作不況、窮乏児童 /
大正
二年大凶作と小学校
通史編4(近・現代1)
([付図])
2年〉 38 大凶作の惨状〈
大正
2年〉 39 佐々木五三郎慈善館開館〈
大正
3年〉,40 陸軍特別大演習〈
大正
4年〉 41 弘前観桜会始まる〈
大正
7年〉 42, 陸奥鉄道五所川原線開業〈
大正
7年〉 43
大正
期の弘前ねぷた〈
大正
8年〉 44 ,〈
大正
12年〉 48 福士幸次郎『東奥日報』紙上で地方主義提唱〈
大正
13年〉 49, りんごの神様・外崎嘉七没〈
大正
13年〉 50 葛西善蔵『椎の若葉』『子をつれて』刊行〈
大正
通史編4(近・現代1)
(弘前無尽株式会社の設立)
弘前無尽株式会社の設立 県内における無尽会社は
大正
十三年(一九二四)の段階で表58のように五社が営業,していたが、弘前無尽株式会社は黒石出身の唐牛敏世により、最もおくれた
大正
十三年に設立された。,表58 県内の無尽会社 (
大正
13年現在) 株式会社名 設立 資本金(円) 所在地 盛融無尽会社
大正
,
大正
12年 500,000 八戸市 津軽無尽会社
大正
12年 100,000 板柳町 弘前無尽会社,
大正
13年 100,000 弘前市 『弘前相互銀行五十年志』弘前相互銀行、昭和49年より作成
大正
十二年三月
通史編5(近・現代2)
(文展と帝展)
文展と帝展 明治四十年から開催された文展は第一二回まで開催され、
大正
八年(一九一九)には文部省の直轄制度,文展に、本県から最初の入選者が出たのは、
大正
二年(一九一三)になってからで、同年の第七回文展に西洋画で,に彫刻の前田照雲(まえだしょううん)(明治一二-
大正
一三 一八七九-一九二四)、
大正
四年に日本画の蔦谷龍岬,龍岬は
大正
十五年(一九二六)に東京に「鐸鈴社」を開き、六〇人に及ぶ塾生を指導した。,
大正
ロマン風の清々しい美人画を描き、その活躍を期待されたが、四十四歳で早世する。
通史編5(近・現代2)
(美術団体の発足と展開)
美術団体の発足と展開
大正
期は、青森県出身、関係者の芸術家たちによる独自の美術団体が発足し、活発な展開,また、
大正
六年七月八日に上野の精養軒で第一回作品展覧会を、翌年の
大正
七年四月二十一日に、旧藩主家の津軽英麿,しかし、北溟会は懇親会的な集まりにとどまり、
大正
十一年にその活動を終える。,白曜会は、
大正
十年一月、弘前市長安倶楽部で第一回展覧会を開催した後、翌年の
大正
十一年からは弘前と青森の,に第一回の展覧会を開催、翌年の
大正
九年に「七星社」と名前を変え、第二回の展覧会を開催、
大正
十年にはさらに
通史編4(近・現代1)
(弘前高等学校の開校)
弘前高等学校の開校
大正
九年(一九二〇)十一月二十六日勅令第五五一号により、鳥取高等農業学校・名古屋高等商業学校,
大正
十年に入学させるべき生徒の定数は、文科甲類八十、文科乙類四十、理科甲類四十、理科乙類四十の計二百名,初代弘前高等学校校長秋田実 志願者は文科甲類三四五人、文科乙類六八人、理科甲類一一五人、理科乙類一五七人あり、
大正
十年三月十八日,開校式は
大正
十年四月十六日に仮校舎である弘前市公会堂で行われた。,写真190
大正
10年8月校舎落成当時の弘前高等学校
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
表55 弘前市会社一覧(
大正
14年) 名 称 公称資本 払込済資本 業 種 創立年月 所在地 東北織物株式会社,200,000 100,000 綿布製造
大正
9年3月 茂森町 株式会社角弘銅鉄店 150,000,9年12月 亀甲町 株式会社丸萬商店 100,000 50,000 製麺及製麦
大正
11年9月 富田町,木通蔓細工販売 明治28年11月 代官町 弘前製氷株式会社 50,000 12,000 製氷販売
大正
,30,000 酒類製造 明治38年4月 弘前市 福井合資会社 30,000 30,000 菓子製造
大正
通史編4(近・現代1)
(会社企業の増加)
会社企業の増加
大正
期には、会社の設立が増加した。,
大正
十四年版『弘前市商工案内』によれば、銀行を除いた会社数は三八社である。,このうち、明治期の設立になる会社は九社であり、他の二九社(七六・三%)は
大正
期の設立である。,これに対して銀行は、
大正
十四年時点で一二行あり、このうちの八行が明治期の設立で、四行が
大正
期の設立である
通史編4(近・現代1)
(実業補習学校)
実業補習学校
大正
三年(一九一四)一月、弘前市において重大な改革があった。,弘前では明治の終わりごろから
大正
にかけて、市の財政難から小学生からも授業料を徴収していたが、このころ、,写真189 弘前高等小学校に併設された商業補習学校(
大正
11年) 弘前商業補習学校(
大正
十四年,また、
大正
十四、十五年の弘前剣道大会では、弘中、義塾を破って堂々連続優勝の快挙を達成している。 ,
大正
七年八月、男子に先駆けて女子の実業補習学校が誕生したが、弘前女子実業補習学校がそれである。
通史編5(近・現代2)
(新民謡)
新民謡 明治中期から、
大正
期までに民謡は全国的なブームになった。,それを背景として、
大正
から昭和初期にかけて「新民謡(創作民謡)」といわれる様式の音楽が起こる。,これは地方主義・伝統主義とナショナリズムの融合による文化潮流であり、弘前においても、
大正
十二年に帰郷した,福士幸次郎(ふくしこうじろう)(本章第一節第二項「近代文学の成立(
大正
の文学)」参照)に感化を受けた芸術家
通史編4(近・現代1)
(県立弘前高等女学校)
県立弘前高等女学校
大正
時代、県立弘前高等女学校の校長は三人いるが、第二代の永井直好は明治三十六年(,一九〇三)から
大正
十四年(一九二五)三月まで、実に二一年余にわたって校長を務めた。 ,
大正
七年(一九一八)八月、夏休みを利用して四年生有志が北海道へ修学旅行を実施した。,
大正
に入ると、
大正
デモクラシーの影響下、新しいものや自由解放の思想が流行しはじめ、和服に代わって行動的,スキーでは、
大正
十一年に工藤浅吉が着任したときから始まる。
通史編4(近・現代1)
(米作振興と米騒動)
米作振興と米騒動
大正
期にりんごが米に匹敵する生産額を上げるようになるが、農産物の中心はやはり米であった,明治・
大正
期、青森県産米(津軽米)の販売先の大半は北海道であり、特に
大正
期には県移出量の九八%以上の量,北海道での米の自給率が五〇%を超えるのは
大正
期後半以後のことであるから、北海道にいちばん近い米作地帯の,特に、
大正
七年(一九一八)七月から九月にかけて起きた米騒動が、社会全体に与えた影響は大きなものがあった,
大正
十五年(一九二六)から市場販売直前の製品を対象とする生産検査となり、品質向上に寄与した。
通史編5(近・現代2)
(「建築家」の誕生)
やがて
大正
時代に入ると工業学校の教師が設計活動を実践するようになる。,工業学校二代目校長・安美賀(やすみが)は、
大正
四年(一九一五)に黒石銀行を、
大正
十一年(一九二二)には,同じく工業学校教諭阿保喜久五郎(あぼきくごろう)は、堀江幸治とともに
大正
十二年(一九二三)に弘高職員宿舎,を、
大正
十五年(一九二六)には弘前で二番目のコンクリート造の弘前無尽ビル(現三上ビル)を設計する。
通史編4(近・現代1)
(りんごの病虫害とその対策)
りんごの病虫害とその対策 りんご栽培は
大正
期になると栽培面積が拡大し、米と並んで津軽の基幹的産業として,明治期に木洗い、袋かけ等の普及で小康状態にあった病虫害は、再び
大正
期に激発した。,しかし、
大正
期に、多くの病害が頻発し、アカダニのような捕殺不可能な害虫が繁殖したことから、根本的な解決策,そこで、
大正
三年(一九一四)、当時、「りんごの神様」と尊称されていた外崎嘉七(とのさきかしち)の協力を,写真171
大正
5年当時の県農事試験場メンバー (前列右から3人目が三浦道哉、5人目が島善鄰)
通史編5(近・現代2)
(無産政党の結成)
無産政党の結成
大正
十二年十一月、第二次山本内閣の普選実施方針に応じて総同盟は議会活動参加を声明、島中雄三,さらに、翌
大正
十三年(一九二四)四月、安部磯雄・石川三四郎・秋田雨雀らは日本フェビアン協会を結成、機関誌,さらに、日本農民組合は、より包括的な立場から無産政党の樹立に動き、
大正
十四年十二月一日、わが国最初の無産政党,そこで、日本農民組合と官業労働総同盟は反共路線を打ち出し、
大正
十五年三月五日、大阪で労働農民党を結成した,一方、安部磯雄らは穏健な無産政党を作ろうとし、
大正
十五年十二月五日社会民衆党を成立させた。
通史編4(近・現代1)
([口絵])
† 口絵49
大正
6年富田の大火 (品川町胸肩神社付近の焼け跡) 口絵50
大正
初期,の自動車 (東長町の果実問屋前にて) 口絵51
大正
4年蓬莱橋開橋 口絵52
大正
,7年陸奥鉄道開通 口絵53 青森県初のデパートメントストア「角は宮川」 †
大正
4年陸軍大演習,† 口絵54 大本営が設置された師団司令部 口絵55 御来弘の
大正
天皇 口絵,口絵68 小学生の遊戯 口絵69 和徳小学校の岩木川での水泳 口絵70
大正
通史編4(近・現代1)
(弘前電灯会社)
弘前電灯会社
大正
十四年時点での弘前電灯会社の資本金は三〇〇万円で、払込資本金は二五〇万円である。,同社の経営は好調で、
大正
十三年には一割三分の配当を行った。,なお、
大正
十年の発電量は三二〇キロワットであった。
通史編4(近・現代1)
(主要銀行の景況)
主要銀行の景況 第五十九銀行は、
大正
十四年(一九二五)時点で資本金一〇〇万円を持つ東北諸県で最大の銀行,表54 第五十九銀行貸付金担保種類別 (
大正
13年12月31日現在) 種 類 評価額(円) 貸出高(円,その後
大正
十年(一九二一)に、弘前貯蓄銀行が弘前銀行と名称変更した。,この弘前銀行は
大正
十四年に関銀行を合併した。,
大正
期には以上のほかに、弘前商業銀行、津軽銀行、弘前宮川銀行があり、それぞれ、有力商人中心の銀行、周辺地域
通史編4(近・現代1)
(『弘前新聞』の論評)
『弘前新聞』の論評 事実、
大正
三年一月十三日の『弘前新聞』は「菊池代議士の責任」と題し、菊池武徳代議士,この問答は
大正
二年の飢餓救済の方法論においてなされた。 ,ここには、
大正
デモクラシーの旗手として活躍する、津軽には稀有な政治家を育てようとする気持ちは見えない。,
大正
四年三月二十五日の第一二回総選挙に青森市から出馬した工藤十三雄は、当選した大坂金助三三七票に対し、,工藤十三雄は以後地元新聞社を経営して地盤をつくり、
大正
十三年政友本党から弘前で出馬、初当選、以後六回、
通史編4(近・現代1)
(木製玩具製品の販売)
木製玩具製品の販売 弘前市役所は
大正
六年(一九一七)に副業の調査を行った。 ,これは、
大正
五年に青森大林区署長の講話を聞いて、青森県工業学校が試作したものを改良し、着色して容器に入,
大正
六年の産出は五〇〇〇組(三万個)で、販売額は一〇〇〇円であり、秋田、山形、岩手、北海道、東京に販売
通史編4(近・現代1)
(凶作の影響)
凶作の影響
大正
二年(一九一三)は、青森県において気候が不順であり、稲作が打撃を受け、収穫は平年の二分作,青森県が作成した報告書である『青森県凶作状況一班』は、
大正
二年時点での金融の逼迫(ひっぱく)と商況の不振,料理屋 青森、弘前、八戸、五所川原、黒石の合計で、
大正
二年の年末における料理屋数は七二四であり、前年と,旅人宿 弘前、青森、八戸の旅人宿の宿泊客数は、
大正
二年十月から十二月までの三ヵ月で六万一〇〇〇人余りで,
大正
二年の年末には出稼ぎ賃金が入り、米の売れ行きが好調となった。
通史編4(近・現代1)
(弘前和洋裁縫女学校)
柴田やすが弘前で私塾を開いたのは、
大正
三年(一九一四)のことである。,「柴田式」裁縫塾は、生徒の技術の上達が早いことが評判になり、またたく間に生徒数が増え、
大正
六年には北川端町,
大正
十二年二月には、かねて申請中の各種学校令による女子実業教育の学校として正式に設立の認可を得ている。,柴田やすの卓越した経営手腕と女子教育にかけた情熱は、日増しにその発展の度を速め、
大正
十五年には在校生二五,写真187 和洋バザー(
大正
14年)
通史編5(近・現代2)
(進取の建築)
大正
三年(一九一四)、県下初の活動写真館・慈善館が新築される。,翌年の弘前商業会議所になると、シンプルなデザインで装飾を廃し、
大正
十二年(一九二三)の弘前市公会堂とともに,写真298 弘前商業会議所(
大正
4年)
大正
十年(一九二一)新築の藤田謙一(ふじたけんいち)別邸,するものとしては富名酒造株式会社倉庫(明治四十年〔一九〇七〕、現弘前銘醸株式会社)と吉井酒造株式会社倉庫(
大正
十四年,フラットな軒の造りや、随所に大谷石を用いて、アメリカの建築家フランク・L・ライトの設計した帝国ホテル(
大正
七年
通史編4(近・現代1)
(農民組合の結成)
農民組合の結成
大正
年間は、中津軽・南津軽の二郡は稲作の先進地で、その上りんご兼業地帯として農業近代化,県下の米価は、
大正
八年石当たり四四円が、十年には二八円と下がって、農家に大打撃を与えた。,五五%が最低と言われるエンゲル係数が、普通農家でも
大正
十三年には六〇%だった。,
大正
五年、岐阜・愛知・愛媛の三県で小作争議が起き、翌六年は一七府県八五件、七年には二四府県二五六件に及,
大正
十一年(一九二二)四月には、日本農民組合が賀川豊彦・杉山元治郎らを中心として組織された。
通史編4(近・現代1)
(弘中のスポーツ)
弘中のスポーツ
大正
後期は、スポーツの普及発展の時期でもあった。,なお、種目によって回数が違うのは部によって対戦しない年もあったからであるが、
大正
十三年、剣道の試合で審判,弘中の運動部が、
大正
時代に最も輝かしい成績を残したのは柔道部である。,
大正
六年七月の県下中等学校武道大会で優勝、さらに十三年の二高(現東北大学)主催の東北大会で準決勝、弘高主催,これに比べて、スキー・陸上競技部は
大正
十三年に独立した新興のスポーツであったが、二年後の大鰐町で開かれた
通史編4(近・現代1)
(弘前女学校)
弘前女学校 私立弘前女学校は、
大正
四年(一九一五)九月、設立者兼校長であったミス・アレキサンダーに代,十一月十日、
大正
天皇の即位式を期して、校旗を制定した。,
大正
六年三月には「高等女学校卒業者と同等以上の学力を有するものと指定」された。,なお、
大正
八年七月には、学校の名称から「私立」を除いて「弘前女学校」と呼ぶことに改められている。 ,
大正
十五年(一九二六)六月には、創立四十年記念祝賀式と高谷記念館開館式が講堂で行われたが、この記念館は
通史編4(近・現代1)
(軍縮と歩兵第五二連隊の廃止)
軍縮と歩兵第五二連隊の廃止
大正
七年(一九一八)十一月、アメリカ大統領ウィルソンの提案した一四ヵ条の,軍縮路線は
大正
八年(一九一九)六月二十八日、講和会議であるヴェルサイユ条約の締結に始まった。,
大正
十年(一九二一)十一月十二日には、具体的な軍艦保有量の縮小を決定したワシントン会議が開催された。,
大正
十一年八月、加藤友三郎内閣の山梨半造陸軍大臣は、約五個師団分に相当する施設と人員・軍馬の縮小を行った,だが
大正
十二年九月一日、関東大震災が帝都を襲い、首都の機能が麻痺し、復興のために日本の財政は危機に陥った
通史編4(近・現代1)
(護憲を巡る動き)
護憲を巡る動き
大正
政変(
大正
二年、第一次護憲運動をめぐる第三次桂内閣の倒壊)を伴った憲政擁護運動は,
大正
元年十二月十四日、交詢社の有志が発起人となって東京築地の精養軒に時局対策懇談会が開かれた。,弘前には、
大正
二年二月二十六日、憲政擁護会の竹越與三郎、望月圭介、菊池武徳が特派され、柾木座で演説会を,石郷岡文吉、佐藤要一、石岡粕太郎が憲政擁護の演説を行い、「立憲の大義に基づき閥族官僚の打破、憲政の擁護を以て
大正
維新,この
大正
二年秋は天保以来と言われる大凶作の年であった。だが、弘前市政は党争の渦の中にあった。
通史編5(近・現代2)
(唄会)
大正
二年十月に弘前公園で馬市があったとき、津軽演芸が筵(むしろ)小屋を張り、大入り、津軽民謡の市街地での,
大正
四年五月の花見にも筵小屋をかけ、「唄会アー十銭十銭 外サ立ってネで 入ってケヘジャ」と客引きをしていた,田舎者でない市人(しじん)は馬鹿にして入らなかった(前掲「津軽民謡史
大正
篇」)。
通史編5(近・現代2)
(洋風建築から近代建築へ)
洋風建築から近代建築へ
大正
期の建築の特徴は、前代の手法を踏襲しつつ、装飾に関しては省略化の道をとったことである,また、官立弘前高等学校校舎(
大正
九年〔一九二〇〕)は、文部省の設計であるが、装飾の簡素化からさらに一歩進,同様の傾向は、その後の弘前市公会堂、「角は」デパートの設計に引き継がれ、
大正
十年代からが弘前地方における
通史編4(近・現代1)
(運送業の活躍)
運送業の活躍
大正
期には株式会社の新設が著しく、運送業においても
大正
十年に既存の澁谷運送店を母体に丸叶弘前運輸株式会社,
大正
四年刊行の『弘前市商工案内』の運送の項には、「停車場前 丸叶 澁谷広吉」のほか、「丸ホ 關利三郎、,自動車に関しては、明治の末に個人所有の自動車が運転されていたというが、乗合自動車の開始は
大正
十年(一九二一,
大正
四年に青森県から刊行された『青森県治要覧』には「而シテ青森・弘前間ニ於ケル、国道ヲ通行スル荷馬車ノ
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の振興)
個々の農家で副業的養蚕が奨励される一方、本格的な製糸業を目指す動きも出ており、
大正
八年(一九一九)、陸奥製糸株式会社,この会社の筆頭株主(社長)は福島藤助(ふくしまとうすけ)(明治四-
大正
一四 一八七一-一九二五)である,福島は、
大正
十一年(一九二二)に福島醸造株式会社を創設した弘前の実業家で、醸造のほかにも多数の異業種を,
大正
五年(一九一六)には大日本蚕糸会青森支会が設立され、県内の養蚕業の振興に努めた。,しかし、
大正
九年(一九二〇)の養蚕戸数は、青森県全体で四七二五戸、うち弘前市一一七戸、中津軽郡一八五戸
通史編4(近・現代1)
(県内青年の政治的自覚)
大正
十一年、黒石町に革新青年団が生まれた。,ロシア革命以後の時代風潮もあって、
大正
八、九年ごろから黒森山浄仙寺で南郡下の青年団中堅幹部の講習会が開,
大正
十二年、黒石革新青年団は郡青年団から脱退した。,
大正
十四年になると、「未来は青年のもの」というキャッチフレーズで、無産青年運動が全国的に起こるようになった
通史編4(近・現代1)
(外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)
外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人 外崎嘉七(安政六-
大正
一三 一八五九-一九二四)は、安政六年、,嘉七は、明治四十一年(一九〇八)と
大正
四年(一九一五)の二度、
大正
天皇の行啓を仰いだほか、青森県のりんご,
大正
十一年(一九二二)、りんご研究のために渡米した島は、『リンゴ生産事業に関する調査』(
大正
十二年十二月,農薬撒布、剪定法等、
大正
期に理論と実験の完成した栽培技術は、昭和に入って急速に普及した。,しかし、
大正
期の栽培改善運動は、防除技術をますます高め、よって集約化の要請もより強くなっていった。
通史編4(近・現代1)
((四)津軽における社会主義勢力の伸長)
(四)津軽における社会主義勢力の伸長 大逆事件のあと
大正
初期にかけては、社会主義運動の暗黒時代・冬の,しかし、
大正
九年(一九二〇)十二月九日、日本社会主義同盟が結成された。,三本木町の和田巖も建設者同盟を代表して発起人になっており、青森県人と
大正
社会主義との接触として注目される,
大正
十二年十二月、無産政党結成の足がかりとして政治問題研究会が成立した。,会は急速に発展し、
大正
十四年四月第二回大会を開いたころは、一道三府九県に五三支部を組織していた。
通史編4(近・現代1)
(青森県における普通運動)
青森県における普通運動 青森県においても、納税額によって選挙権を決めることの錯誤は、すでに
大正
三年の,しかし、それが普選運動として展開するのは、普選運動の後期といわれる
大正
七年以降である。,
大正
八年十二月、憲政会は支部総会の決議において、普通選挙の実行を期することと目標を明確にした。,
大正
十一年二月二十二日、青森市公会堂において青森記者団は普選大会を開いた。,
大正
十二年八月、上北郡江渡由郎らは南部立憲青年党を結成、河野盤州を招いて結党式を挙げた。
通史編4(近・現代1)
(弘前観桜会の幕開け)
大正
六年春の観桜会開催を目指したが、市会議員の選挙を控えていたために見送った。,
大正
七年(一九一八)、弘前商工会主催の第一回観桜会が五月三日から一週間の会期で催されることとなり、運営方法,
大正
七年五月三日午前七時、打ち上げ花火がとどろき、観桜会の初日が幕を開けた。,
大正
十年になると、天守閣にイルミネーションを施した。,弘前公園の桜が評判になるにつれて、県外にも観桜会が宣伝されるようになったのは、
大正
十一年からである。
通史編4(近・現代1)
(市税の構造)
これを明治三十二年及び
大正
八年について見たのが表23、表24である。,3年
大正
8年
大正
13年 財産収入 3.0 4,458.0 2,784.4 6,053.0 使用料及,
大正
期に入ると市債も発行されるが、その額は少ない。,の四%の交付になっている(「
大正
八年度弘前市歳入出予算」『
大正
六~八年弘前市参事会決議書綴』所収)。,3年
大正
8年
大正
13年 地租付加税 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 887.0 3,222.6
通史編5(近・現代2)
(荻原井泉水来弘す)
荻原井泉水来弘す
大正
四年(一九一五)に旧渋茶会のメンバーが名を連ね、竹内抱甕子(たけのうちほうようし,その前の
大正
元年に「層雲」の総帥荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)が弘前の成田夜雨(なりたやう)宅に投宿
通史編4(近・現代1)
(授業料の廃止)
授業料の廃止
大正
三年三月末をもって弘前市各尋常小学校の授業料徴収は廃止された。,年度でいうと授業料は
大正
二年度まで徴収されたのである。 ,
大正
三年に至って弘前市が授業料を廃止したのは、遅きに失したとはいえ、市民にとって喜ぶべきことであった。
通史編4(近・現代1)
(普選運動の胎動)
普選運動の胎動 普選運動は、
大正
七年(一九一八)夏の米騒動と原内閣の成立を境に二つの時期に分かれる。,四十四年は衆議院を通過したが貴族院は一蹴、時の第二次桂内閣は普選案を社会主義運動に準ずるものとして圧迫、
大正
九年,中央公論』『太陽』などを舞台に吉野作造・大山郁夫ら民本主義者が普選論を唱え、全国的労働組合の友愛会も
大正
四年以来普選,普選運動の後期は、
大正
七年の米騒動と翌年早々のパリ平和会議の影響で始まる。,
大正
八年、東京では学生団体のデモに続き、普通選挙期成同盟会の一万人デモが行われ、東京以外でも一五都市で
通史編4(近・現代1)
(農業団体の発展)
大正
期の農会は、政府の支援が強められたこともあり、半官半民的性格を有し、地主の主導のもとに全農業者の利益,
大正
期に、中津軽郡では、各村ごとに農作物品評会を開催するようになり、同三年(一九一四)には独自に清水・,清水村の農会は
大正
三年、村費補助も一七五円と大きく、専任の書記を置いていた。,そして、
大正
天皇の即位記念の果樹植栽に五〇円、郡外農事視察に三〇円、害虫駆除・堆肥舎建設・塩水選等に各三,
大正
十三年(一九二四)、満州に渡り、りんご栽培を指導し、昭和九年(一九三四)に中国大連で逝去した。
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