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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

大浦城と大浦城下町 大浦為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡大浦を中心とした地域であり,大浦城である。  ,「大浦城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部氏安信(やすのぶ)が、種里城の光信に大浦城を築かせ、鼻和郡の本拠地,そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として領土拡張の戦に突入していくことになる。  ,図63 大浦城と大浦城下町と街道 写真204 大浦城跡航空写真  まず、大浦城は本丸・ / 大浦城と大浦城下町
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城の構造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから,「西根(にしね)」とも称され、大浦城は「西根城」とも称された。  ,大浦城跡は、弘前城の西方約四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代(ごだい)字早稲田(旧門前村)にあり、,図23.大浦城縄張り推定復元図  大浦城の城下町は、大浦城の東側(現在の賀田地区)が旧城下町であり,図24.大浦城・城下町跡の航空写真  大浦の地は、津軽氏が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その / 大浦城の構造
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

二 大浦城の歴史 すでに述べたように、大浦の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば,さらに文亀二年(一五〇二)、南部大浦光信は「花輪郡賀田郷」の地に築城、「大浦ノ城」と名付け、嫡子盛信を,これが記録に見える大浦城の最初である。  ,その後、大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信は種里城に没し、光信の嫡子盛信が大浦城にあって跡を継ぐ。,この間、大浦氏は「大浦屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その / 二 大浦城の歴史
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

一 大浦城の立地と現状 大浦城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田,この城の名を「大浦城」、別名「西根の城」(『奥羽永慶軍記』)というのはそのためである。,大浦城はまた、地名を取って「大浦賀田城」(『新撰陸奥国誌』)「八幡城」(慶安二年「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳,大浦城の周辺(旧城下町地区) 百沢街道と大浦城の大手 大浦城の城下,賀田地区 図,17 大浦城跡位置図 大浦城跡の航空写真(昭和40年代撮影) / 一 大浦城の立地と現状
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,同年、種里城の光信には大浦城を築城させ鼻和郡の本拠地とさせた。,光信は大浦城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのままとどまったことになっている,そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。  ,これらのことを念頭に入れながら各時期の大浦氏の城と城下町をみていくことにする。 / 大浦氏の城下町建設の流れ
資料編1(古代・中世編) (三 大浦城「縄張り」の復元)

三 大浦城「縄張り」の復元 先に述べたように、現在の大浦城跡は破壊が進んでおり、そのままでは旧状復元,分限図(明治期のもの)   ア、岩木村大字五代字早稲田(明治二十六年十二月十一日調製)   イ、大浦村大字賀田字大浦,(明治十八年二月調製) 図19 大浦城跡の分限図  (2)縄張り図及び古絵図   ア、中村良之進,津軽封内城趾考』所収)   イ、沼舘愛三作成の見取図(『津軽諸城の研究』昭和五十二年刊) 図18 大浦城跡,資料(1)イは、大浦城の東、賀田地区にあったという「城下町」を復元する手がかりとなる。 / 三 大浦城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

五 大浦城と「城下」の構造 大浦城は戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四,賀田の集落は、大浦城の廃城以後、新たな都市的発展はなかったと思われるから、この地割が造られたのが大浦「,大浦城跡周辺でこうしたみごとな短冊型地割は、ほかに見当たらない。,以上から判断される大浦城下町の特徴は、第一に、大浦城下を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたこと,大浦城跡と旧城下の賀田地区(平成元年撮影) / 五 大浦城と「城下」の構造
通史編1(古代・中世) (大浦氏関係の中世城館跡)

大浦氏関係の中世城館跡 鯵ヶ沢町種里城跡や岩木町大浦城跡などは開発に伴う発掘調査が行われている。,また大浦城跡(写真219)も、二ノ丸曲輪で掘立柱建物跡と思われる柱穴や、竪穴建物跡と思われる遺構などが,写真219 大浦城跡  このように近年の発掘調査により、文献史料からだけではうかがい知ることのできなかった / 大浦氏関係の中世城館跡
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

三戸南部氏の津軽進出と大浦築城 戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,「文亀二年壬戌、花輪郡賀田郷ニ城築、是ヲ大浦ノ城ト云、嫡男盛信ヲシテ居住セシム」(資料古代・中世No.,八七七)とあり、文亀二年(一五〇二)、種里城主南部光信は嫡男盛信(もりのぶ)を新たに築いた大浦城に置いた,)郡は、「大浦屋形(おおうらやかた)」と称された大浦城主大浦盛信の勢力基盤となっていく。,大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信が種里城で没した。 / 三戸南部氏の津軽進出と大浦築城
通史編1(古代・中世) (大浦城築城以前の城館跡)

大浦城築城以前の城館跡 大浦城が築城される以前の大浦城周辺では、新岡(にいおか)地域を中心とした城館,なお、新岡地区は、大浦城が作られている場所よりも北側に位置し、水田地帯が広がる平野部に近いところに位置,図68 大浦城築城以前の城館ネットワーク(新岡地域を中心として)  遺構の状況などからみると、下新岡館跡,これらの上新岡館・下新岡館跡の周辺の城館跡は、大浦氏が入ってきたことにより消滅したのか、あるいは一部の / 大浦城築城以前の城館跡
通史編2(近世1) (三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)

三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦( / 三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ
通史編3(近世2) (海蔵寺)

堀越村(現市内)・大浦坪貝(現中津軽郡岩木町)へ移転し、慶長年間(一五九六~一六一四)、長勝寺構の中に,山号大浦院は、盛信の戒名「大浦院殿鎮山源流大居士」により、寺領三〇石は為信の寄進によった。
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,「津軽氏系譜(歴譜)」は、大浦為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって,堀越紀伊守守信と名乗り、その子為信が為則の養子となって大浦城主を継いだと記す。,、しばらく堀越にいて町(町居)飛鳥(守信の母方の従兄弟)に扶助され、のち、為則の養子となって堀越から大浦,為信の出自については定かでなく、南部側の資料では、久慈信義の異母弟弥四郎が兄と不和になって津軽に逃れ、大浦氏
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 大浦城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫,は、二の丸・西の丸の南に二つの曲輪があることを報告し、沼舘愛三は、これを西ノ郭(西館)・南郭と呼んで大浦城,図20 大浦城縄張り推定復元図  大浦城の大手虎口は、百沢街道が東から西へと直進し、城に突き当たった,以上のように、最終段階の大浦城は六つの曲輪から構成されていた。,図21 大浦城跡の現状写真と模式図 図22 大浦城跡の現状写真と模式図
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●文亀二年(一五〇二)、南部光信、大浦城を築いて嫡男盛信をおくという。,●大永六年(一五二六)十月、南部(大浦)光信、死去すると伝える。,●天文十年(一五四一)五月九日、南部(大浦)政信、死去すると伝える。,●天正三年(一五七五)八月、大浦為信、大光寺城を攻めるという。,大浦為信と愛季・茂季の通交が記される。
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

大浦の地は戦略的要地ではあるが、津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠としては不十分だったからである,その七年後の文禄三年(一五九四)、為信は改めて堀越城を修築、その上で大浦からこの地に本拠を移し、津軽藩,このとき「在々住居之諸人並大浦御城下面々、堀越え御引越被仰付、其外寺社之分も引越被仰付候」(『永禄日記,』)、あるいは「寺院並町々共大浦より堀越へ移る」(『封内事実秘苑』)と伝えられている。,つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった寺院と町、それに津軽氏の家臣団であった。
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

当市域においては石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、,鯵ヶ沢町種里城跡の主曲輪や岩木町大浦城跡二ノ丸部分の発掘調査も行われている。
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

湊であり、このころまでには夷島への通路としても機能していたと思われ(資料古代・中世No.一〇二五)、大浦氏,天正期に、喜良市(きらいち)(現金木町)にも八重・左助という二人の「狄之酋長(しゅうちょう)」がおり、大浦氏,大浦氏は、南部氏との間での飯詰(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄,大浦氏は、南部氏との間で土地の「取り合」と「伐取」を繰り広げ、そこで「伐取」した地域には、町立を行うといった,そして、アイヌとの戦いは、これを通じて西浜の地帯を確保したことに端的に表れているように、大浦(津軽)氏
通史編2(近世1) (外浜の掌握と開発)

天正十三年(一五八五)、大浦為信は油川城(あぶらかわじょう)(現青森市)を攻撃し、外浜地域の掌握に着手,さらに、大浦氏は、「高野・荒川両村ニ而知行高五十石被下置」(「相馬安左衛門由緒書抜」国史津)とあるように,外浜筋法令如形ノ御沙汰アリ」(資料古代・中世No.一〇五九)というように、油川とともに城番が設置されており、大浦氏,すなわち、大浦氏にとって外浜東部は、開発と対南部氏という軍事的な備えとが同居する地域であった。
通史編1(古代・中世) (合戦の方法)

ることができるものとしては、天正七年(一五七九)七月に下国安東愛季が津軽に侵攻し、乳井(にゅうい)・六羽川で大浦為信勢,もし、この六羽川の合戦で大浦為信が討ち死にしていたとしたならば、津軽の歴史もまた違ったものとなっていたことであろう,南部安信が藤崎城主安東教季を城中で討ち取った合戦(史料八九九・九〇〇)、元亀二年(一五七一)五月五日夜に、大浦為信,さらに天正四年(一五七六)正月元旦に、大浦為信は大光寺城を攻撃し、城代の瀧本重行(たきもとしげゆき)は,このように戦国期の津軽領内での合戦方法、とくに大浦為信の合戦方法のほとんどは攻城戦型の合戦方法が用いられているという
通史編3(近世2) (長勝寺)

長勝寺 長勝寺(ちょうしょうじ)は、大永六年(一五二六)、大浦光信が種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で死去,為信の時に種里から堀越城下・大浦城下と移転し、寺領二〇〇石の寄進を受けた。,この時、庫裡(くり)は大浦城の建築物を移して使用した。  
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、大浦為信の津軽統一作戦において,第三節大浦城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地,そして戦国時代末期、大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、,主君為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力メンバーとして活躍したことがうかがえる。
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ,このときは「大光寺之勢以ての外強く、大浦殿漸帰り候」というが、翌年正月には再度大光寺城を攻め、城代瀧本重行,そして、こうした浪人・武士を自らの家臣団に編成しえたところに、新興勢力大浦氏の特徴があったという。
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、大浦氏が本拠とした大浦城との関係であり、さらに、この地が津軽平野,しかも、大浦城から目屋に向かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(城館というより、,そして、彼らは国吉館の館主関氏を盟主にしつつ、大浦氏の「側近」としてその直属の軍事力を構成したのであった,図43 坂本館跡の現状写真と模式図(新館地区) 図44 大浦城周辺及び東目屋地区の城館分布
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城,れる平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがしね)」地方と、鼻和・大浦,大浦の地は戦略的要地ではあるが津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに,この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された大浦城を中心とする地域の支配強化を実現,堀越城は、文禄三年(一五九四)の大浦城からの移転後、慶長十六年(一六一一)に二代信枚(のぶひら)が高岡城
通史編4(近・現代1) (農会の設立と農事改良)

和徳二四三、豊田一一九、堀越一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一、西目屋一五八、岩木一五〇、大浦二六二,受賞者のうち、一等賞は、米-成田七太郎(大浦村)・小堀章六(堀越村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎,林檎苗木-楠美冬次郎(清水村)、畳表-舘山三次郎(堀越村)、木通(あけび)蔓細工-熊嶋蔓細工購買販売組合(大浦村,)・古川喜太郎(同)・齊藤三之助(同)、藁細工-長谷川蔵吉(大浦村)・工藤東吉(和徳村)である(「第二回中津軽郡物産品評会授賞人名,清水一七六、和徳一二八、豊田一二二、堀越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八、西目屋一四七、岩木一一六、大浦二三六
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

文献史料から見た戦国動乱の激化 当市域の中世末から近世初頭にかけての幕開けとなった中心的人物は大浦為信,大浦為信が、一次史料の文書に登場するのは天正四・五年(一五七六・七七)ころである。  ,戦国時代の津軽地方では、大浦為信を中心として領土拡大や勢力拡大の野望による侵攻が激しく行われていた。,その攻防は大浦(為信)、波岡北畠、三戸南部(晴政(はるまさ)・信直(のぶなお))、下国安東(愛季)、蠣崎,また、大浦氏と南部氏との対立抗争の要因は、津軽の統一や下剋上などといったものではなく、土地の取り合いと
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

東目屋地域に見られる城館跡 大浦城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野,戦国時代末期に大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、,為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力構成員として活躍したことがうかがえる。  ,そして、国吉館といった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

市域外であっても、岩木町の大浦城跡、平賀町の大光寺城跡、藤崎町の藤崎城跡など、この地方の歴史に大きな意味,① 石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ,また元亀二年(一五七一)、大浦為信がこの城を急襲、陥落させて、独立の第一歩をしるしたことでも知られる。,②の大浦城は、大浦為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした大浦氏四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。,これらはいずれも、南部氏・大浦(津軽)氏が領国支配の拠点としたものであり、居住・軍事機能を合わせ持った
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

真教寺 浄土真宗 東本願寺 天文十九 (一五五〇) 浄理 坪見 (岩木町) 新寺町 大浦坪見→堀越,長勝寺 曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六) 大浦盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森 大浦盛信,同右 堀越→大浦坪見を経て、慶長年間、現在地に移る。,大浦城の鬼門守護神として再興。,のち、門外村→大浦を経て弘前に移る。明治の神仏分離で高伯寺の旧地の大鰐町に移転。  
通史編3(近世2) (天津院)

寺号は為信の祖父でこの寺の開基となった大浦政信の戒名「天津先公大禅定門」によった。
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。,その他、当市域外ではあるが津軽氏に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

当市域の中世都市の発生をみると、やはり領主(大浦氏)の政策的な考えの中で意図的に城下町(都市)が作られていったということができる,大浦(津軽)氏が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と城下町ということについてみていくことにする
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

西浜種里城に、明応七年(一四九八)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部させ、さらに文亀二年(一五〇二)には大浦城,こうして南部氏の勢力は大きく津軽に及ぶようになったが、光信の子、盛信が「大浦屋形」と呼ばれ、「大名」として,しかし、元亀二年(一五七一)五月、大浦城主大浦為信は謀略をもって石川城を急襲。,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自大浦大わに(大鰐)被攻候而、
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

(一)藩主家の菩提寺 大浦光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,この時から曹洞宗長勝寺は大浦(津軽)氏の菩提寺となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。,は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後に大浦城下賀田
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和・大浦,堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年,堀越城は、藩政時代には種里城・大浦城とともに「当家の御居城」(『津軽一統志』)として重視され、遺構もよく
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから、子の乳井大隅建清は大浦為信,の麾下に属し、以後、大浦勢の有力メンバーとして行動する(『津軽一統志』『封内事実秘苑』『永禄日記』)。,天正六年(一五七八)七月、大浦為信は波岡城を攻略し、当主北畠顕村を自害させて名門波岡御所を滅亡させた。
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

この後、奥羽の地は大浦為信・安東愛季・南部信直らとの間で一時的な均衡状態が保たれるが、天正九年(一五八一,この時、大浦為信は、浅利勝頼の子頼平を援助し、浅利氏遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて,実季は檜山城に逃れ、由利地方の小名や夷島の蠣崎(かきざき)氏、津軽の大浦為信の支援を得て、檜山城に籠城
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は,大浦城下賀田(よした)から、安盛寺(あんせいじ)は深浦から移転させた。
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

そしてこの福村城は、大浦氏が元亀二年(一五七一)に大浦城を築いた時に、その支城のひとつとして造られたと
通史編3(近世2) (塵芥捨場の設置)

御徒町川端川欠けの所、馬屋町の布川文治家の後、五十石町の奥瀬登家の向かい、春日町の外れの長谷河左太郎上明き屋敷、大浦町,町外れの大川添、鷹匠町(たかじょうまち)の川添、荒町(あらまち)の後の古川添、五十石町東側の御馬寄場、大浦町御用地大湯彦五郎家
通史編1(古代・中世) (支城の城館跡)

関惣右衛門は「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされていることから、国吉館跡が大浦城周辺の中世城館跡の中,国吉館跡は大浦城の典型的な支城と考えられるものである。  
通史編3(近世2) (天徳寺)

「浄土宗諸寺院縁起」は、弘前城下形成により、大浦城下から元寺町へ移ったとする。
通史編2(近世1) (まえがき)

十六世紀末、大浦氏の豊臣政権との接触から明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る約三〇〇年間の、弘前市を中心,時期的には、前述のように十六世紀末における大浦氏の豊臣政権との接触から、幕末期安政年間(一八五四~五九
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

また文亀(ぶんき)二年(一五〇二)には光信が大浦(おおうら)(中津軽郡岩木町)に築城し、嫡男盛信(もりのぶ,光信・盛信親子が戦国時代末期に津軽地方を席巻し、近世大名へと発展する大浦-津軽氏の祖とされているのはいうまでもない,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の大浦氏(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行,しかし、南部盛信が「大浦ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も大浦氏や浪岡御所北畠氏などとともに
通史編3(近世2) (草創期三代)

草創期三代 藩祖津軽為信は十代のころ、近衛尚通(ひさみち)(関白、名は前久(さきひさ)、龍山と号す)が大浦,彼は黒石、大浦村高屋(現中津軽郡岩木町)、弘前に住み二二年間を津軽で過ごした。
通史編5(近・現代2) (経済更生運動と計画)

経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村、大浦村、高杉村,藤代村 927 734 565,578 771 新和村 804 596 714,389 1,199 大浦村,作成  経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村、大浦村
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,このように当市域の南側に位置する石川地区は南部氏にとっても、また大浦氏にとっても非常に重要な場所であった,なお、大浦氏は堀越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

大浦盛信が亡父光信の菩提寺として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺や海蔵寺をはじめとする,)村(現藤崎(ふじさき)町)の藤先寺、乳井(にゅうい)村(現弘前市)に乳井氏が造営した盛雲院、そして大浦政信,現に、その初め、大光寺(だいこうじ)(平賀(ひらか)町)に岌禎を開山として建立された貞昌寺は、大浦為信,前の円明寺と法願寺のよる油川が当時の港湾都市であったと同様に、専徳寺と真教寺のたたずむ大浦(おおうら),この政都大浦には、浄土真宗以外にも、教団の拡張が伸びていた。
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