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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

三戸南部氏の津軽進出と大浦築城 戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,(ぐんだい)」とするとともに、延徳三年(一四九一)に南部久慈(くじ)氏の一族南部光信(みつのぶ)を津軽西浜種里,三戸南部氏が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである,天文十五年(一五四六)に浪岡御所北畠(なみおかごしょきたばたけ)氏が作成したといわれる「津軽郡中名字(,大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信が種里城で没した。 / 三戸南部氏の津軽進出と大浦築城
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

二 大浦城の歴史 すでに述べたように、大浦の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば,後に「津軽氏」を名乗る大浦氏の歴史はここに始まる。,この間、大浦氏は「大浦屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の,したがって、大浦城はこの時期に近世大名津軽氏の本拠として大幅な改造を施されたと思われ、現在見る遺構は基本的 / 二 大浦城の歴史
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,その後、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城,そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。  ,為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城,をはじめ商・工業者の集住に対する取り組み、さらには宗教施設や寺院などの配置を明らかにしていくことにより、津軽氏 / 大浦氏の城下町建設の流れ
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城の構造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから,大浦城跡は、弘前城の西方約四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代(ごだい)字早稲田(旧門前村)にあり、,図24.大浦城・城下町跡の航空写真  大浦の地は、津軽氏が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その,津軽家の一門・重臣である兼平・一町田両氏などの発祥の地とされる地名や村名が存在し、在地領主を糾合して南部氏,太閤蔵入地が岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川の分岐点を中心とする津軽平野中心部一帯に設定されたと推定 / 大浦城の構造
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

大浦城と大浦城下町 大浦為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡大浦を中心とした地域であり,「大浦城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部氏安信(やすのぶ)が、種里城の光信に大浦城を築かせ、鼻和郡の本拠地,光信は大浦城に長子の盛信を置いて大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのまま居住していたようである。,この折れ曲がる街道正面には、慶長十七年(一六一二)まで津軽弘前藩の惣鎮守八幡宮があった。,その規模は総延長およそ九〇〇メートルと津軽地域を掌握する拠点的な性格を有する城下町としては、規模が小さかったということがいえる / 大浦城と大浦城下町
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

一 大浦城の立地と現状 大浦城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田,中世の当地域は、津軽鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから「西根」とも称された。,ちなみに「大浦」の名は、「東根」(津軽平野東部)の平賀郡を「上浦」というのに対して付けられたという。,大浦城はまた、地名を取って「大浦賀田城」(『新撰陸奥国誌』)「八幡城」(慶安二年「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳,大浦城は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、津軽氏のルーツをなす城の / 一 大浦城の立地と現状
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

(3) 津軽氏の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,大浦の地は戦略的要地ではあるが、津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠としては不十分だったからである,その七年後の文禄三年(一五九四)、為信は改めて堀越城を修築、その上で大浦からこの地に本拠を移し、津軽藩,つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった寺院と町、それに津軽氏の家臣団であった。,正しければ、堀越城では家臣団の集住が進められただけで、領内の寺社・商工業者の城下集住は未達成であり、津軽氏 / (3) 津軽氏の政庁としての堀越城
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

湊であり、このころまでには夷島への通路としても機能していたと思われ(資料古代・中世No.一〇二五)、大浦氏,天正期に、喜良市(きらいち)(現金木町)にも八重・左助という二人の「狄之酋長(しゅうちょう)」がおり、大浦氏,大浦氏は、南部氏との間での飯詰(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄,大浦氏は、南部氏との間で土地の「取り合」と「伐取」を繰り広げ、そこで「伐取」した地域には、町立を行うといった,そして、アイヌとの戦いは、これを通じて西浜の地帯を確保したことに端的に表れているように、大浦(津軽)氏 / 津軽地域の確保と蝦夷荒
通史編2(近世1) (三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)

三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(,大名の居城にはその権力の特徴が顕著に現れており、この居城移転の過程と居城の構造は、津軽氏が戦国大名から / 三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

「津軽一統志」以降の修史事業 「一統志」編纂の後に、津軽弘前藩では、藩士木立守貞の編纂による「津軽徧覧日記,図117.津軽徧覧日記と封内事実秘苑 (津軽徧覧日記) 目録を見る 精細画像で見る (封内事実秘苑,大浦盛信の姉が側室となり、後の大浦政信となる男児をもうけ、津軽家は近衛家の血脈に変わったという主張がなされる,しかし、津軽家が奥州藤原氏に連なることを主張すれば、奥州藤原氏と安倍氏との血縁関係が存在する以上、安日,に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原氏を遠祖とする系図を幕府に提出することはなかった / 「津軽一統志」以降の修史事業
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

五 大浦城と「城下」の構造 大浦城は戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四,)の五年間は、近世大名津軽氏の領国支配の本拠でもあった。,賀田の集落は、大浦城の廃城以後、新たな都市的発展はなかったと思われるから、この地割が造られたのが大浦「,八幡は賀田の親村であり、津軽弘前藩の惣鎮守八幡宮は慶長十七年(一六一二)までこの地にあった。,こうした意味で、大浦「城下町」は、まさしく中世都市の段階にとどまっており、津軽氏が近世大名に飛躍しようとすれば / 五 大浦城と「城下」の構造
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏 津軽平野の地名や集落の歴史を探るときに、必ずといっていいほど引用される,〇〇町は「大浦ノ屋形」と呼ばれる南部盛信、平賀郡二八〇〇町は大光寺に居を構える南部政行、田舎郡二八〇〇,の西側、中津軽郡、西津軽郡、北津軽郡の一部を南部盛信、現南津軽郡の南側と、弘前市域の東・南側部分、中津軽郡相馬村,の一部を南部政行、南津軽郡の北側、北津軽郡、東津軽郡を北畠具永がそれぞれ支配していたということになる。,関係強化を図ったが、最終的には新たに台頭した大浦氏の前に敗北して、天正六年(一五七八)に滅亡することとなる / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏
通史編2(近世1) (津軽家の自己認識確立への試み)

津軽家の自己認識確立への試み 津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに,津軽家は、南部氏の庶流であるにもかかわらず、近衛家と縁戚関係にあると称した。,しかし、十七世紀では、藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(,これに対して近衛家の当主で前関白近衛信尋は、津軽家の系図が近衛前久の筆によること、そして津軽家の祖大浦政信,津軽家では為信の代から「津軽」姓を称したもので、それ以前は代々金沢・大浦を称したこと、そして政信が近衛尚通 / 津軽家の自己認識確立への試み
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

津軽奪還を目指して 安藤盛季(もりすえ)の甥にあたる潮潟重季(うしおがたしげすえ)の嫡子政季(師季),が替わった可能性も指摘されている)氏を擁立して、その存在に依拠する形で津軽・下北・夷島(蝦夷島)各所の,、引根城で死去し(史料七九一~七九三)、その子義季(よしすえ)は享徳(きょうとく)二年(一四五三)大浦郷,さらに文明二年(一四七〇)には、安東政季(師季)が津軽に侵攻し、かつて安藤氏の根拠地の一つであった藤崎館,を攻撃したが(史料八四七)、これが津軽への下国安東氏の最後の侵攻であった。 / 津軽奪還を目指して
通史編1(古代・中世) (大浦城築城以前の城館跡)

大浦城築城以前の城館跡 大浦城が築城される以前の大浦城周辺では、新岡(にいおか)地域を中心とした城館,なお、新岡地区は、大浦城が作られている場所よりも北側に位置し、水田地帯が広がる平野部に近いところに位置,図68 大浦城築城以前の城館ネットワーク(新岡地域を中心として)  遺構の状況などからみると、下新岡館跡,などによると一五世紀の下国義季(しものくによしすえ)陣城とも伝えられ、さらに可能性としては一六世紀に起こった津軽氏,これらの上新岡館・下新岡館跡の周辺の城館跡は、大浦氏が入ってきたことにより消滅したのか、あるいは一部の / 大浦城築城以前の城館跡
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

四 中世津軽の宗教世界の特色 中世津軽の宗教界の特色の第一は、冒頭で触れたように、寺社群が一ヶ所に集中,するのではなく、古代の宗教世界を継承する形で、「大鰐(おおわに)・宿川原(しゅくがわら)」の宗教ゾーンと「津軽山王坊,における古代律令国家や鎌倉幕府の国家権力の行使と表裏一体の形で推し進められた寺社の建立が、まずもって中世津軽,既述の安藤氏の津軽山王坊や修験的先達をはじめ、北畠氏の京徳寺、武田氏の宗徳寺、津軽氏の藤先寺、大浦氏の,このように、中世津軽の宗教世界は、建立主体を基準にすれば、「国家権力」「在地領主」「中央教団」の三類型 / 四 中世津軽の宗教世界の特色
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

また文亀(ぶんき)二年(一五〇二)には光信が大浦(おおうら)(中津軽郡岩木町)に築城し、嫡男盛信(もりのぶ,光信・盛信親子が戦国時代末期に津軽地方を席巻し、近世大名へと発展する大浦-津軽氏の祖とされているのはいうまでもない,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の大浦氏(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行,しかし、南部盛信が「大浦ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も大浦氏や浪岡御所北畠氏などとともに / 三戸南部氏による領国支配の強化
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,「津軽氏系譜(歴譜)」は、大浦為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって,大浦氏を頼って、のち為則の養子になったとしているが(「南部久慈氏系図」)、戦国時代において堀越の地に城館,があり、その主が「堀越氏」を名乗り、大浦氏の与党であったことは、確かであろう。  ,その後も堀越城は、南部勢の津軽侵攻に対する防戦や、天正三年(一五七五)の大光寺城攻めなど、為信の津軽東部
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

南部氏の津軽への本格的進出は、十五世紀に始まる。,)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部させ、さらに文亀二年(一五〇二)には大浦城を築いて、南部光信の子盛信,こうして南部氏の勢力は大きく津軽に及ぶようになったが、光信の子、盛信が「大浦屋形」と呼ばれ、「大名」として,しかし、元亀二年(一五七一)五月、大浦城主大浦為信は謀略をもって石川城を急襲。,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自大浦大わに(大鰐)被攻候而、
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

(一五七二)三月二十四日、浅水城主南慶儀、大浦為信の叛旗とその後の津軽情勢を八戸政栄に告げ、対応を策す,大光寺勢とするのは誤り)、津軽に侵攻し、乳井・六羽川にて大浦為信勢と戦うという。,●天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義氏、由利郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(大浦為信)と呼応,浅水城主南慶儀、八戸政栄と書を交し、津軽の大浦為信対策と南部家中統一の手だてについて策す。,●天正十八年(一五九〇)三月、大浦為信、秋田の湊安東実季と同盟の上、波岡城を占領、津軽一円を領有するという
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城から堀越城へ居城を移転した。,平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがしね)」地方と、鼻和・大浦,大浦の地は戦略的要地ではあるが津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに,この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された大浦城を中心とする地域の支配強化を実現,それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自ら近世大名へと成長してゆくステップでもあった。
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

大浦為信が、一次史料の文書に登場するのは天正四・五年(一五七六・七七)ころである。  ,戦国時代の津軽地方では、大浦為信を中心として領土拡大や勢力拡大の野望による侵攻が激しく行われていた。,また、大浦氏と南部氏との対立抗争の要因は、津軽の統一や下剋上などといったものではなく、土地の取り合いと,そしてその後種里城から大浦城に拠点地を変え、もともとは同族であった南部氏が支配していた岩木川東岸地帯と,天正九年(一五八一)前後に西浜(にしはま)地域で起こった「西浜蜂起」によるアイヌ民族との抗争の結果、大浦氏
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

を平定した後、津軽地方を支配する拠点として南部高信によって築城されたもので、大仏ヶ鼻(だいぶつがはな),ちなみに南部安信・高信による津軽平定と石川城への拠城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたものである,また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。,その他、当市域外ではあるが津軽氏に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙,これらの城館跡を拠点として津軽領国の統一が行われていくことになるのである。
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和・大浦,堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年,それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自らを近世大名へと成長させてゆくステップでもあった。,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,堀越城は、藩政時代には種里城・大浦城とともに「当家の御居城」(『津軽一統志』)として重視され、遺構もよく
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

家人十二将が津軽鼻和郡に派遣され、要所に配置されたといわれる。,さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、大浦為信の津軽統一作戦において,第三節大浦城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地,そして戦国時代末期、大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、,主君為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力メンバーとして活躍したことがうかがえる。
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ,写真197 津軽為信木像  為信の離反とその後の津軽の情勢については、南慶儀より八戸政栄に報告されているが,このときは「大光寺之勢以ての外強く、大浦殿漸帰り候」というが、翌年正月には再度大光寺城を攻め、城代瀧本重行,さらに同じころに、浅瀬石城ほか十余ヵ城を攻略したとも伝えられ(史料一〇〇八)、南津軽一帯を手中に収めた,そして、こうした浪人・武士を自らの家臣団に編成しえたところに、新興勢力大浦氏の特徴があったという。
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

藩政前期為信 津軽地方の統一は、津軽氏の初代為信が天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され,文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は,大浦城下賀田(よした)から、安盛寺(あんせいじ)は深浦から移転させた。,為信は慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の戦いに出陣したが、このころは南部氏との抗争も影をひそめ、津軽地方を
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

しかし、『津軽一統志』や『封内事実秘苑』によると、戦国時代にこの地を領していたのは、乳井福王寺の別当で,、子の乳井大隅建清は大浦為信の麾下に属し、以後、大浦勢の有力メンバーとして行動する(『津軽一統志』『封内事実秘苑,天正六年(一五七八)七月、大浦為信は波岡城を攻略し、当主北畠顕村を自害させて名門波岡御所を滅亡させた。,同年、これを怒った顕村の岳父・出羽脇本・檜山城主の下国安東愛季は津軽に侵攻。,翌七年(一五七九)には、麾下の蝦夷島松前館主・蠣崎季広に渡海・出陣を命じるとともに、自らも再び津軽に出兵
通史編1(古代・中世) (合戦の方法)

に侵攻し、乳井(にゅうい)・六羽川で大浦為信勢と戦った(史料一〇二七)とされるものが唯一である。,この戦法により津軽為信は絶体絶命の危機に追い込まれることとなったが、家臣の田中太郎五郎が身代わりとなり,もし、この六羽川の合戦で大浦為信が討ち死にしていたとしたならば、津軽の歴史もまた違ったものとなっていたことであろう,文献史料によると、津軽地方における戦国時代の合戦はこの攻城戦が圧倒的に多かった。,このように戦国期の津軽領内での合戦方法、とくに大浦為信の合戦方法のほとんどは攻城戦型の合戦方法が用いられているという
通史編2(近世1) ([口絵])

[口絵] 口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画 口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画,口絵2 大浦光信倚像 口絵3 伝津軽為信下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立氏, 近衛信尹(のぶただ)書状 津軽為信宛 (折紙)7月22日付 文書は,左大臣近衛信尹が津軽為信,近衛家と津軽家の,近世初頭からの関係の深さを示すものといえよう。  ,年代は不明だが,津軽建広(「左馬殿」)が医書を保管していることや,為信の来年秋上京予定などの文言を勘案
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

① 石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ,が建武政府に対する反乱を起こした時の拠点となり、戦国時代には南部高信が入部して、南部氏の津軽支配の本拠,②の大浦城は、大浦為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした大浦氏四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。,そして、③の堀越城は、為信の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった,これらはいずれも、南部氏・大浦(津軽)氏が領国支配の拠点としたものであり、居住・軍事機能を合わせ持った
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、大浦氏が本拠とした大浦城との関係であり、さらに、この地が津軽平野,そして、彼らは国吉館の館主関氏を盟主にしつつ、大浦氏の「側近」としてその直属の軍事力を構成したのであった,館主は誰だったのか等々、現時点では具体的にしがたいが、『封内事実秘苑』の文禄四年(一五九五)の条は、津軽為信,中世後期、東目屋盆地の入口一帯が「目屋ノ澤」と呼ばれていたらしいことから(「津軽郡中名字」)、この「目屋澤館,」こそ問題の坂本館であった可能性があり、そこから、為信の津軽統一戦の過程での重臣兼平中書(本貫は岩木町兼平
通史編1(古代・中世) (安藤氏の没落)

安藤氏の没落 その後の両者の衝突は永享四年(一四三二)にみられ、安藤氏と南部氏との戦いの結果、安藤氏,攻められ松前に逃れ、盛季の子康季(やすすえ)が文安二年(一四四五)に夷島より津軽へ戻るが引根(ひきね),その後、康季の子義季は享徳二年(一四五三)に津軽鼻和郡大浦郷根倉(ねくら)館に立て籠ったが、南部氏に攻,いわば、南部氏の傀儡(かいらい)的な存在であったのだが、南部氏にとっては、北方海域に割拠していた安藤氏,南部氏は自らの支援で安藤氏の擁立をしてまでも、安藤氏権力を吸収したかったのである。 / 安藤氏の没落
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

東目屋地域に見られる城館跡 大浦城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野,戦国時代末期に大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、,為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力構成員として活躍したことがうかがえる。  ,家人十二将が津軽鼻和郡に派遣され、要所に配属されたというものである。,そして、国吉館といった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

(一)藩主家の菩提寺 大浦光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,この時から曹洞宗長勝寺は大浦(津軽)氏の菩提寺となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。,は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後に大浦城下賀田,(よした)(現中津軽郡岩木町)に移した。,図205.長勝寺津軽家霊屋
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

当市域においては石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、,鯵ヶ沢町種里城跡の主曲輪や岩木町大浦城跡二ノ丸部分の発掘調査も行われている。,さらに津軽領内での合戦の舞台として登場してくる平賀町大光寺新城跡、藤崎町藤崎城跡なども開発に伴う緊急発掘調査
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

るまで世襲していた松山・松井家の由緒をみてみると、ともに、近江国坂本の出身であり、文禄二年(一五九三)に大浦,松山氏は町支配頭に任命され、一方、松井氏は堀越城下支配頭に任命され、その後、弘前町方取扱となり、町方支配,これらの開発に従事した松井家は、津軽氏の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・十三湊、ひいては、,津軽 越前 山城 近江 津軽 津軽 津軽 津軽 津軽 津軽 近江   万治2,津軽 津軽 津軽 津軽 津軽 為信代 30石 30石 30石 30石 30石     
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

当市域の中世都市の発生をみると、やはり領主(大浦氏)の政策的な考えの中で意図的に城下町(都市)が作られていったということができる,大浦(津軽)氏が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と城下町ということについてみていくことにする
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

中世の比内浅利氏 比内浅利氏は、甲斐源氏(かいげんじ)の一族であり、浅利与市義遠(よいちよしとお)を,この後、奥羽の地は大浦為信・安東愛季・南部信直らとの間で一時的な均衡状態が保たれるが、天正九年(一五八一,この時、大浦為信は、浅利勝頼の子頼平を援助し、浅利氏遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて,また、かつての湊城主茂季(しげすえ)の子湊九郎通季(みちすえ)(高季)もこの機に南部氏・戸沢氏らの支援,実季は檜山城に逃れ、由利地方の小名や夷島の蠣崎(かきざき)氏、津軽の大浦為信の支援を得て、檜山城に籠城 / 中世の比内浅利氏
通史編2(近世1) (まえがき)

十六世紀末、大浦氏の豊臣政権との接触から明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る約三〇〇年間の、弘前市を中心,とした近世津軽地方の歴史を叙述の対象としている。  ,時期的には、前述のように十六世紀末における大浦氏の豊臣政権との接触から、幕末期安政年間(一八五四~五九,すなわち幕藩体制の成立から動揺・崩壊期に至る期間を対象としており、津軽領における政治・経済・社会の包括的,我々は、すでに『新編弘前市史』資料編2・3(近世編1・2)を刊行して、資料に基づいた近世津軽領の歴史的
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

の大浦為信(おおうらためのぶ)らが実季についていた。,このとき、南部氏の内紛についても「津軽」が謀略に及んでいることを指摘している。,この「津軽」は為信を指していることは間違いなく、為信も無事令違反に問われていたのである。,り方を大きく規定することになった(長谷川成一「津軽為信論―津軽為信と全国政権―」同編『弘前の文化財―津軽藩初期文書集成,図2.津軽(大浦)為信画像
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 大浦城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫,曲輪Ⅱ(二の丸)跡には、津軽中学校の校舎やグランドが建設され、遺構の破壊が著しい。,そのほか「折り」の多用、水堀の規模の大きさ、土塁の規模、石垣の使用(ただし本丸虎口のみ)など、近世大名津軽氏,の津軽支配の政庁として、それなりにふさわしい威厳と内容を持った城館である。,図21 大浦城跡の現状写真と模式図 図22 大浦城跡の現状写真と模式図
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,さらに近世大名津軽氏の権力の形成と津軽地方における中世末から近世初頭への移行期の様相を明らかにするうえで,しかしその規模は小さく、津軽領内の寺院や商工業者を集住させるには不充分なものであったことから、津軽氏は,大浦城と大浦城下町建設の発想からはまだまだ抜け出すことができなかったということがわかる。  ,津軽氏が近世大名として津軽領内を掌握する政庁的性格をもたせようと作った堀越城下町ではあったが、十分に対応
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

福村城跡は後世に書かれた『本藩通観録』や『津軽歴代記類』などの史料によると、築城年代は天正二年(一五七四,)と記されており、『津軽一統志』には天正三年(一五七五)と記されている。,そしてこの福村城は、大浦氏が元亀二年(一五七一)に大浦城を築いた時に、その支城のひとつとして造られたと
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

現に、その初め、大光寺(だいこうじ)(平賀(ひらか)町)に岌禎を開山として建立された貞昌寺は、大浦為信,も、糠部南部氏の津軽支配の拠点の政治都市であった。  ,この政都大浦には、浄土真宗以外にも、教団の拡張が伸びていた。,『今昔物語集』にみる安倍頼時の渡道は、津軽海峡を挟む津軽と夷島との交通を文献的に証明する一大事象である,このような、夷島と津軽との交流を、十三湊を拠点とする「蝦夷管領」安藤氏は、幕府の現地執行者として、また
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

二 北奥宗教界を彩る中世的寺社 前項一においては、『津軽一統志』によりながら、弘前を含めた北奥津軽の,「弘前近隣における古代・中世の寺社」は、前項一でみた『津軽一統志』のなかの、主要寺社から、弘前と深いかかわりを,長勝寺 曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六) 大浦盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森 大浦盛信,一五九三) 中山正種 新屋村 (平賀町) 同右 同右 藤先寺 同右 天正年間 (一五七三~九二) 津軽為信,次に、この鎌倉幕府と護国寺との史的かかわりを中心にして、北奥津軽と鎌倉幕府の間に展開して宗教史的な様相
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

御鷹儀、津軽右京亮被仰付差上候条、泊々宿並鷹之餌入念自其所々可申付候也、   十月晦日  (朱印),ふすへ沢、舟こし、湊、ゆりの内 あかうつ 仁かふ分領、ふるき、このうら、 景勝分領 ふくら、さか田、大浦,同文書の包紙は、津軽右京亮宛になっているので、直接には為信へ宛てたものであろう。,この文書を携帯して津軽からの鷹献上使が、日本海沿岸を上方を目指して南下したと推測される。,統一政権によって、夷島と津軽からの鷹献上のために、街道筋が整備されたのである。
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

藤崎城と中世都市 戦国期の城下町ということでみるならば、藤崎町の城下町も津軽地域における特異な手法によって,さらに、近世の津軽藩時代には藤崎城が廃城となっていることから、こうしたカギ型街路が作られることは、近世,いずれにしても十三湊安藤氏が没落しても、その後も津軽の地には安藤(安東)氏の庶子系が生き残って、南部氏,つまり藤崎城は「街道」というものを意識し、さらに宗教施設を一定の空間を設けて建設している点で大浦氏の発想,このことは藤崎城を管轄していた権力者が、種里や大浦・堀越といった大浦氏の城下町建設の発想とは異なった、
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

その中には、堀越城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」)、公有地化も進められて,文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,十三世紀、鎌倉の北条氏は、弘前に隣接する藤崎に壮大な禅寺「護国寺」を営み、津軽得宗領支配の拠点としたし,(『津軽一統志』)、同じころ、十三湊に本拠を置く安藤氏は、岩木川河川交通の要地・尻引郷(市内三世寺(さんぜじ,』『青森県中津軽郡藤代村郷土史』『青森県中津軽郡船沢村郷土史』など、沼舘愛三『津軽諸城の研究』)。
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

浅利頼平の比内帰還 翌天正十八年(一五九〇)、津軽での独立化を図る大浦為信は、安東実季・九戸政実と結,この浅利氏没落の時、頼平は津軽へ逃れ、以後十数年ばかり津軽氏が抱え置いた。,その間、浅利氏の知行は安東氏で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平,図33.戦国末期の北羽の大名・小名  安東氏と津軽氏は、湊合戦により秀吉の惣無事令違反は明白であったが,奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵
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