機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 52件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
通史編1(古代・中世)
(為信の離反)
為信
の離反 元亀年間のころ、南部家中は晴政支持派と信直支持派とに分かれ、内紛を引き起こしていた。,そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、
大浦
為信
(写真197)は反旗を翻(ひるがえ,写真197 津軽
為信
木像
為信
の離反とその後の津軽の情勢については、南慶儀より八戸政栄に報告されているが,このときは「大光寺之勢以ての外強く、
大浦
殿漸帰り候」というが、翌年正月には再度大光寺城を攻め、城代瀧本重行,そして、こうした浪人・武士を自らの家臣団に編成しえたところに、新興勢力
大浦
氏の特徴があったという。 /
為信
の離反
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
藩政前期
為信
津軽地方の統一は、津軽氏の初代
為信
が天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され,この功により
為信
は念西坊に寺領二四石を与え、慶長九年(一六〇四)には一三石余を加増するなど、その地域の,文禄三年(一五九四)居城を
大浦
(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,寺社の縁起によると、津軽氏の先祖
大浦
氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は,
大浦
城下賀田(よした)から、安盛寺(あんせいじ)は深浦から移転させた。 / 藩政前期
為信
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
二
大浦
城の歴史 すでに述べたように、
大浦
の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば,後は娘婿の政信が、次いで政信の子為則が継承し、四代為則の跡は、永禄十年(一五六七)婿養子として入った
為信
,しかし、
大浦
為信
は戦国末期の動乱の中で、独立を目指して行動を開始。,この過程において、
大浦
城は
為信
の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の,しかし文禄三年(一五九四)、津軽
為信
は堀越城を修築して移り、
大浦
の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記 / 二
大浦
城の歴史
通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
大浦
城と
大浦
城下町
大浦
為信
が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡
大浦
を中心とした地域であり,
大浦
城である。 ,「
大浦
城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部氏安信(やすのぶ)が、種里城の光信に
大浦
城を築かせ、鼻和郡の本拠地,そして
大浦
盛信の子である
為信
が
大浦
城を拠点として領土拡張の戦に突入していくことになる。 ,図63
大浦
城と
大浦
城下町と街道 写真204
大浦
城跡航空写真 まず、
大浦
城は本丸・ /
大浦
城と
大浦
城下町
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
大浦
氏の城下町建設の流れ
大浦
氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,に備えて、
大浦
為信
(ためのぶ)の祖父に当たる久慈南部氏の信濃守光信(みつのぶ)を明応元年(一四九二)に,光信は
大浦
城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、
大浦
氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのままとどまったことになっている,そして
大浦
盛信の子である
為信
が
大浦
城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。 ,
為信
は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として
大浦
城 /
大浦
氏の城下町建設の流れ
通史編2(近世1)
(三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)
)郡は、「
大浦
屋形(おおうらやかた)」と称された
大浦
城主
大浦
盛信の勢力基盤となっていく。,が継承し、為則の跡を永禄十年(一五六七)婿養子として入った
為信
が五代目として継ぐことになる。 ,この
大浦
為信
の時期、三戸南部家では当主晴政に実子晴継(はるつぐ)が誕生し、家督継承をめぐって養子信直を,こうした三戸南部家が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、
為信
は三戸南部氏に反旗を翻し、石川城を,これ以後、
為信
は一挙に津軽一円の領有化へと向かうことになり、天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉によって公式 / 三戸南部氏の津軽進出と
大浦
築城
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
三
大浦
から堀越への移転~西根から東根へ 津軽
為信
は、戦国期以来、津軽(
大浦
)氏の居城であった
大浦
( / 三
大浦
から堀越への移転~西根から東根へ
資料編1(古代・中世編)
((2) 戦国時代の堀越城)
(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、
大浦
為信
による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,「津軽氏系譜(歴譜)」は、
大浦
為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって,堀越紀伊守守信と名乗り、その子
為信
が為則の養子となって
大浦
城主を継いだと記す。,
大浦
氏を頼って、のち為則の養子になったとしているが(「南部久慈氏系図」)、戦国時代において堀越の地に城館,があり、その主が「堀越氏」を名乗り、
大浦
氏の与党であったことは、確かであろう。
通史編1(古代・中世)
(合戦の方法)
ることができるものとしては、天正七年(一五七九)七月に下国安東愛季が津軽に侵攻し、乳井(にゅうい)・六羽川で
大浦
為信
勢,もし、この六羽川の合戦で
大浦
為信
が討ち死にしていたとしたならば、津軽の歴史もまた違ったものとなっていたことであろう,南部安信が藤崎城主安東教季を城中で討ち取った合戦(史料八九九・九〇〇)、元亀二年(一五七一)五月五日夜に、
大浦
為信
,さらに天正四年(一五七六)正月元旦に、
大浦
為信
は大光寺城を攻撃し、城代の瀧本重行(たきもとしげゆき)は,このように戦国期の津軽領内での合戦方法、とくに
大浦
為信
の合戦方法のほとんどは攻城戦型の合戦方法が用いられているという
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、
大浦
城から堀越城へ居城を移転した。,れる平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがしね)」地方と、鼻和・
大浦
,
大浦
の地は戦略的要地ではあるが津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに,この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された
大浦
城を中心とする地域の支配強化を実現,堀越城は、文禄三年(一五九四)の
大浦
城からの移転後、慶長十六年(一六一一)に二代信枚(のぶひら)が高岡城
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天正三年(一五七五)八月、
大浦
為信
、大光寺城を攻めるという。,
大浦
為信
と愛季・茂季の通交が記される。,●天正十三年(一五八五)五月、
大浦
為信
、田舎館城を攻略するという。,●天正十四年(一五八六)正月、
大浦
為信
、猿賀神宮寺を祈願所となすという。,●天正十五年(一五八七)正月、
大浦
為信
、堀越城を修築するという。
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、
為信
,この記事は『封内事実秘苑』にもあり、この時点ですでに、
為信
が新たな拠点として堀越城に注目し、その強化に,その七年後の文禄三年(一五九四)、
為信
は改めて堀越城を修築、その上で
大浦
からこの地に本拠を移し、津軽藩,』)、あるいは「寺院並町々共
大浦
より堀越へ移る」(『封内事実秘苑』)と伝えられている。,
為信
は、早くも慶長八年(一六〇三)、高岡(弘前)の地に「町屋派立を仰付けられ」て地割を行い、同十一年にも
通史編3(近世2)
(長勝寺)
長勝寺 長勝寺(ちょうしょうじ)は、大永六年(一五二六)、
大浦
光信が種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で死去,
為信
の時に種里から堀越城下・
大浦
城下と移転し、寺領二〇〇石の寄進を受けた。,このため、
為信
を中興の開基とする。,この時、庫裡(くり)は
大浦
城の建築物を移して使用した。 ,
為信
の正室・信枚・信枚の正室・信義・信著・信興の廟所が築かれたが、現在信興の廟はない。
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
(一)藩主家の菩提寺
大浦
光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,この時から曹洞宗長勝寺は
大浦
(津軽)氏の菩提寺となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。,に
大浦
城下賀田(よした)(現中津軽郡岩木町)に移した。,には
為信
の木像を納めた。,寛永五年(一六二八)、
為信
の正室仙桃院が死去すると、長勝寺に廟所を造営した。
通史編2(近世1)
([口絵])
[口絵] 口絵1 津軽
為信
坐像と御影堂障壁画 口絵1 津軽
為信
坐像と御影堂障壁画,口絵2
大浦
光信倚像 口絵3 伝津軽
為信
下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立氏, (折紙)7月22日付 文書は,左大臣近衛信尹が津軽
為信
に宛てた書状である。,内容は,
為信
から白鳥・鯨・蕨を贈られたことに対して謝意をあらわし,来年秋の
為信
上京を心待ちにしている旨,年代は不明だが,津軽建広(「左馬殿」)が医書を保管していることや,
為信
の来年秋上京予定などの文言を勘案
通史編3(近世2)
(海蔵寺)
堀越村(現市内)・
大浦
坪貝(現中津軽郡岩木町)へ移転し、慶長年間(一五九六~一六一四)、長勝寺構の中に,山号
大浦
院は、盛信の戒名「
大浦
院殿鎮山源流大居士」により、寺領三〇石は
為信
の寄進によった。
通史編1(古代・中世)
(文献史料から見た戦国動乱の激化)
文献史料から見た戦国動乱の激化 当市域の中世末から近世初頭にかけての幕開けとなった中心的人物は
大浦
為信
,
大浦
為信
が、一次史料の文書に登場するのは天正四・五年(一五七六・七七)ころである。 ,戦国時代の津軽地方では、
大浦
為信
を中心として領土拡大や勢力拡大の野望による侵攻が激しく行われていた。,その攻防は
大浦
(
為信
)、波岡北畠、三戸南部(晴政(はるまさ)・信直(のぶなお))、下国安東(愛季)、蠣崎,
為信
によって攻撃された時の油川城の城主は奥瀬膳九郎(おくせぜんくろう)と伝えられている。
資料編1(古代・中世編)
(一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)
さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、
大浦
為信
の津軽統一作戦において,第三節
大浦
城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地,そして戦国時代末期、
大浦
為信
が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、,主君
為信
直属の軍事力を構成し、
大浦
氏直属軍団の有力メンバーとして活躍したことがうかがえる。
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
寺号は
為信
の生母の法号・桂屋貞昌大禅尼にちなむ。,長勝寺 曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六)
大浦
盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森
大浦
盛信,浄土宗 岩城専称寺 慶長元(一五九六)
為信
岌禎 大光寺 (平賀町) 新町
為信
が貞昌寺を建立したとき,
大浦
城の鬼門守護神として再興。,の時に
大浦
に移し、のち弘前に移転。
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
るまで世襲していた松山・松井家の由緒をみてみると、ともに、近江国坂本の出身であり、文禄二年(一五九三)に
大浦
,職 出身 召し抱え時点 高 扶 持 拝 領 時 町年寄 町年寄 町年寄手 近江 近江 本城
為信
代,
為信
代 万治3年 100石 100石 30石
為信
代 (大坂浪人)
為信
代 (浪人) 知行取之分,越前 山城 近江 津軽 津軽 津軽 津軽 津軽 津軽 近江 万治2年
為信
代,
為信
代
為信
代 信枚代
為信
代
為信
代ヵ 信義代
為信
代 30石 30石
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
本庄繁長(ほんじょうしげなが)勢の支援を得た赤宇曾治部少輔(あこうづじぶのしょう)らの由利勢のほか、津軽の
大浦
為信
,この「津軽」は
為信
を指していることは間違いなく、
為信
も無事令違反に問われていたのである。,つまり、
為信
が逆臣として征伐されることを意味していた。 ,り方を大きく規定することになった(長谷川成一「津軽
為信
論―津軽
為信
と全国政権―」同編『弘前の文化財―津軽藩初期文書集成,図2.津軽(
大浦
)
為信
画像
通史編3(近世2)
(天津院)
寺号は
為信
の祖父でこの寺の開基となった
大浦
政信の戒名「天津先公大禅定門」によった。
通史編2(近世1)
(外浜の掌握と開発)
天正十三年(一五八五)、
大浦
為信
は油川城(あぶらかわじょう)(現青森市)を攻撃し、外浜地域の掌握に着手,さらに、
大浦
氏は、「高野・荒川両村ニ而知行高五十石被下置」(「相馬安左衛門由緒書抜」国史津)とあるように,位置し、横内(よこうち)・新城(しんじょう)(ともに現青森市)に向かう脇道の分岐点であり、特に、横内は
為信
,外浜筋法令如形ノ御沙汰アリ」(資料古代・中世No.一〇五九)というように、油川とともに城番が設置されており、
大浦
氏,すなわち、
大浦
氏にとって外浜東部は、開発と対南部氏という軍事的な備えとが同居する地域であった。
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
この後、奥羽の地は
大浦
為信
・安東愛季・南部信直らとの間で一時的な均衡状態が保たれるが、天正九年(一五八一,この時、
大浦
為信
は、浅利勝頼の子頼平を援助し、浅利氏遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて,実季は檜山城に逃れ、由利地方の小名や夷島の蠣崎(かきざき)氏、津軽の
大浦
為信
の支援を得て、檜山城に籠城
資料編1(古代・中世編)
(二 乳井茶臼館の歴史)
であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから、子の乳井大隅建清は
大浦
為信
,の麾下に属し、以後、
大浦
勢の有力メンバーとして行動する(『津軽一統志』『封内事実秘苑』『永禄日記』)。,天正六年(一五七八)七月、
大浦
為信
は波岡城を攻略し、当主北畠顕村を自害させて名門波岡御所を滅亡させた。,その結果、乳井・沖館・大光寺一帯では激戦が繰り返され、六羽川で行われた合戦では、
為信
は一時窮地に追い込
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
しかし、元亀二年(一五七一)五月、
大浦
城主
大浦
為信
は謀略をもって石川城を急襲。,内容で、南部側の記録では、高信は天正九年(一五八一)に死去したことになっているが、その後の津軽の動乱、
為信
,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自
大浦
大わに(大鰐)被攻候而、,このように石川落城後も、津軽平野の関門に当たる石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、
為信
は、戦略的要地,近世を迎えるが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いに際して、兵部は尾崎喜蔵・三ツ目内玄蕃とともに主君
為信
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
1 弘前城の歴史 津軽
為信
が、その居城を
大浦
城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,慶長十二年(一六〇七)十二月に
為信
が死去したため、築城は二代信枚に引き継がれ、慶長十四年(一六〇九)に,また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、
大浦
城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという
資料編1(古代・中世編)
(二 本章で取り上げる中世城館跡)
① 石川城跡(弘前市石川) ②
大浦
城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい)) ,また元亀二年(一五七一)、
大浦
為信
がこの城を急襲、陥落させて、独立の第一歩をしるしたことでも知られる。,②の
大浦
城は、
大浦
為信
が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした
大浦
氏四代(盛信・政信・為則・
為信
)の居城。,そして、③の堀越城は、
為信
の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった,天正七年(一五七九)、娘婿の波岡御所北畠顕村を滅ぼされた脇本・檜山城主下国安東愛季の軍勢が、津軽に侵攻して
大浦
為信
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
東目屋地域に見られる城館跡
大浦
城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野,戦国時代末期に
大浦
為信
が南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、,
為信
直属の軍事力を構成し、
大浦
氏直属軍団の有力構成員として活躍したことがうかがえる。 ,そして、国吉館といった
大浦
氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
資料編1(古代・中世編)
(五 東目屋地区の中世城館の特徴)
だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、
大浦
氏が本拠とした
大浦
城との関係であり、さらに、この地が津軽平野,しかも、
大浦
城から目屋に向かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(城館というより、,そして、彼らは国吉館の館主関氏を盟主にしつつ、
大浦
氏の「側近」としてその直属の軍事力を構成したのであった,は誰だったのか等々、現時点では具体的にしがたいが、『封内事実秘苑』の文禄四年(一五九五)の条は、津軽
為信
,ばれていたらしいことから(「津軽郡中名字」)、この「目屋澤館」こそ問題の坂本館であった可能性があり、そこから、
為信
通史編3(近世2)
(草創期三代)
草創期三代 藩祖津軽
為信
は十代のころ、近衛尚通(ひさみち)(関白、名は前久(さきひさ)、龍山と号す),が
大浦
の城に長く逗留していた折に、朝夕随従して和漢の書の講釈を拝聴し、歌道を学んだという(『記類』上),また画にも秀で、
為信
の肖像を描き神殿に納めて祭事に用いた。,彼は黒石、
大浦
村高屋(現中津軽郡岩木町)、弘前に住み二二年間を津軽で過ごした。
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」以降の修史事業)
いずれも本編は
為信
の事績から始め、「徧覧日記」では信明まで、「秘苑」は文政二年に稿が一応なった後も増加補綴,ところで、「徧覧日記」に附された「本藩濫觴実記(ほんぱんらんしょうじっき)」(以下「実記」と略記)は、
為信
以前,秀栄の後裔は、南部家からの養子が入ったが、しかし母方には血脈が続いていて、近衛尚通が津軽に下向した折に
大浦
盛信,の姉が側室となり、後の
大浦
政信となる男児をもうけ、津軽家は近衛家の血脈に変わったという主張がなされる。,図118.本藩濫觴実記中の
為信
に至る系図 この多少無理な主張は、藩内にも精神的に動揺をもたらしたと
通史編2(近世1)
(津軽家の自己認識確立への試み)
自己認識確立への試み 津軽家がどのように興り、またどのようにして津軽を統一していったのか、さらに津軽
為信
,天正十七年(一五八九)十二月二十四日付の豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.三)の宛先では
為信
を「南部右京亮,藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、南部家からの津軽伐(き)り取りと自立の歴史を
為信
,これに対して近衛家の当主で前関白近衛信尋は、津軽家の系図が近衛前久の筆によること、そして津軽家の祖
大浦
政信,津軽家では
為信
の代から「津軽」姓を称したもので、それ以前は代々金沢・
大浦
を称したこと、そして政信が近衛尚通
通史編3(近世2)
(真教寺)
天文十九年(一五五〇)に加賀国(現石川県)出身の浄理が坪貝(つぼかい)村(現中津軽郡岩木町)に創建し、
大浦
城,
為信
の時に浄土真宗の僧録所を命じられ、一町田村(同町)のうちの高屋(たかや)村に寺領を与えられた。,信義は乗玄のもとを数回にわたって訪れ、鐘のないのを知って、大光寺の
為信
の娘の供養塔にあった釣鐘を寄附した
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
また、これより先の天正十八年三月、
大浦
(津軽)
為信
が南部家からの独立を図り、浪岡(なみおか)城を囲み城代楢山帯刀,(ならやまたてわき)を三戸に敗走させた際に、政実は
為信
討伐の先手を命じる信直の指令に対して病気と称して,
為信
の独立と津軽・外浜の領有はここに達成されたのであるが、この背景には政実と
為信
の連合があったからだといわれている,
為信
自身、その出自について九戸政実方についた七戸系久慈氏出身だという説が有力であり(長谷川成一他『青森県,の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)、
為信
と政実が連合する基盤はできていたのである。
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和・
大浦
,堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽
為信
が
大浦
城からこの地に本拠を移し、慶長十六年,堀越城は、藩政時代には種里城・
大浦
城とともに「当家の御居城」(『津軽一統志』)として重視され、遺構もよく
通史編1(古代・中世)
(種里城を中心とした城館群)
そして
為信
が誕生したとされる赤石城跡をはじめとして、日照田(ひでりた)館跡・館前(たてまえ)館跡・川崎,種里八幡宮第十四代神官奈良出雲(ならいずも)(明和から天明年間にかけて在任)が『累代家記』に記した「光信公御治世記」には、「
大浦
信濃守光信公海岸,そしてこの館跡は
為信
や信枚が生まれたという伝承もあることから「嫡子(ちゃくし)館」とも呼ばれており、重要
通史編2(近世1)
(鷹献上システムの成立)
ふすへ沢、舟こし、湊、ゆりの内 あかうつ 仁かふ分領、ふるき、このうら、 景勝分領 ふくら、さか田、
大浦
,大正寺、 越前内 北庄、付中、今城、疋田、 江州内 かい津、大みそ、坂本、 右の朱印状は、津軽
為信
,同文書の包紙は、津軽右京亮宛になっているので、直接には
為信
へ宛てたものであろう。
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
浅利頼平の比内帰還 翌天正十八年(一五九〇)、津軽での独立化を図る
大浦
為信
は、安東実季・九戸政実と結,は、信直が九戸政実の謀反に注意をそがれているすきに、比内から南部勢を駆逐することに成功したが、これは
為信
,
為信
は、この戦功を口実に実季を説得し、比内から没落して
為信
のもとに十数年身を寄せていた頼平(よりひら)
資料編3(近世編2)
(●長勝寺 西茂森一丁目)
図1 長勝寺本堂平面図・断面図 (二)庫裡--重要文化財
大浦
城の台所として建てられたものをここに,(『重要文化財長勝寺三門修理工事報告書』より転載) (四)御影堂--重要文化財 津軽初代
為信
,寛永六年(一六二九)の
為信
の二三回忌法要に合わせて二代信枚が建造したものと考えられ、文化二年(一八〇五,図4 長勝寺総門平面図 (六)津軽家霊屋--重要文化財 ①環月台
為信
室霊屋 寛永五年(一六二八,凌雲台 信著霊屋 宝暦三年(一七五三) 長勝寺境内に、津軽藩歴代の藩主やその奥方たちの霊屋が、初代
為信
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十七年(一五八九)八月二十日、加賀金沢城主前田利家、南部信直へ書状を遣わし、
大浦
為信
に叛逆の動きあること,●天正十八年(一五九〇)三月、
大浦
為信
、秋田の湊安東実季と盟約を結び、波岡城を攻略し、津軽一円を領有するという,●天正十八年(一五九〇)、この頃、
大浦
氏に扶養されていた浅利頼平、秋田氏の比内回復後、同地へ復帰する。,●天正十八年(一五九〇)、この年、
大浦
為信
、碇ヶ関道を開鑿するという。,●文禄三年(一五九四)、津軽
為信
、堀越城を修復し、
大浦
より堀越へ、家臣団、神社・仏閣等を移転させる。
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
この大堂は、天正十七年(一五九〇)正月の岩木山噴火による火災で百沢寺全山が焼失した後に、
為信
が建立した,ともに曹洞宗(そうとうしゅう)寺院であり、津軽家の菩提寺や
為信
の菩提寺であったりと、津軽家との関係も深,「庫裏」についても同様で、
大浦
城の台所を移したものであると伝えられているが、柱の太さや風食の度合い、痕跡,革秀寺境内にある津軽
為信
霊屋(たまや)は、慶長十三~十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが,、これは「慶長・寛永期とみるよりは江戸時代前期とする」という見解(『重要文化財 津軽
為信
霊屋修理工事報告書
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
また文亀(ぶんき)二年(一五〇二)には光信が
大浦
(おおうら)(中津軽郡岩木町)に築城し、嫡男盛信(もりのぶ,写真189 南部(
大浦
)光信倚像 津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,のちに豊臣秀吉をはじめ、豊臣秀次、織田信雄(おだのぶかつ)といった豊臣政権の有力者が、「南部右京亮」
為信
,
為信
が南部姓を名乗ったのは南部家の被官だったためとされている。,しかし、南部盛信が「
大浦
ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も
大浦
氏や浪岡御所北畠氏などとともに
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
大浦
盛信が亡父光信の菩提寺として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺や海蔵寺をはじめとする,なみおか)町)に建立した京徳寺、武田守信が堀越(ほりこし)村(現弘前(ひろさき)市)に営んだ宗徳寺、津軽
為信
,)村(現藤崎(ふじさき)町)の藤先寺、乳井(にゅうい)村(現弘前市)に乳井氏が造営した盛雲院、そして
大浦
政信,現に、その初め、大光寺(だいこうじ)(平賀(ひらか)町)に岌禎を開山として建立された貞昌寺は、
大浦
為信
,この政都
大浦
には、浄土真宗以外にも、教団の拡張が伸びていた。
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
文禄三年(一五九四)、津軽
為信
は、それまでの本拠・
大浦
城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,さらに、
為信
の意志を継いだ二代信枚は、慶長十五年(一六一〇)、高岡の地に新城築城の事業を起こし、翌年、
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に
大浦
為信
が
大浦
城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,しかしその規模は小さく、津軽領内の寺院や商工業者を集住させるには不充分なものであったことから、津軽氏は
大浦
城,と
大浦
城下町建設の発想からはまだまだ抜け出すことができなかったということがわかる。
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
いずれにしても、ここには津軽郡が含まれず、
為信
が津軽郡を安堵されていたからということにはなるが、津軽領,
大浦
為信
も天正十八年十二月に前田利家とともに上洛しており(資料近世1No.二七)、これらの北出羽大小名
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
庄内の大宝寺義氏、
大浦
為信
の浅瀬石ほか十余ヶ城攻略と大光寺城攻めを賀し、その後の情勢を尋ねる。,
大浦
為信
と愛季・茂季の通交が記される。,大光寺勢とするのは誤り)、津軽に侵攻し、乳井・六羽川にて
大浦
為信
勢と戦うという。,浅水城主南慶儀、八戸政栄と書を交し、津軽の
大浦
為信
対策と南部家中統一の手だてについて策す。,南部氏側では
大浦
為信
の謀略による毒殺と伝える。
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
しかし津軽
為信
はその治世(~慶長十二年十二月五日死去)において、家臣に対する知行安堵状(ちぎょうあんどじょう,津軽
為信
が、千徳(せんとく)氏を慶長二年(一五九七)に滅亡させ(資料近世1No.六六)、津軽建広(たてひろ,津軽氏が居城を
大浦
城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に高岡城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
種子に「バン」を刻む(『陸奥古碑集』所載) 浅瀬石城の存在は、
大浦
(津軽)
為信
の統一の時点に焦点
/ 2ページ