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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
大浦
城と
大浦
城下町
大浦
為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡
大浦
を中心とした地域であり,
大浦
城である。 ,「
大浦
城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部氏安信(やすのぶ)が、種里城の
光信
に
大浦
城を築かせ、鼻和郡の本拠地,
光信
は
大浦
城に長子の盛信を置いて
大浦
氏を名乗らせ、
光信
自身は種里城にそのまま居住していたようである。,図63
大浦
城と
大浦
城下町と街道 写真204
大浦
城跡航空写真 まず、
大浦
城は本丸・ /
大浦
城と
大浦
城下町
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
二
大浦
城の歴史 すでに述べたように、
大浦
の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば,こうした中、安東政季死去より三年後の延徳三年(一四九一)、南部氏の一族・
光信
が九戸郡下久慈より「
大浦
・,さらに文亀二年(一五〇二)、南部
大浦
光信
は「花輪郡賀田郷」の地に築城、「
大浦
ノ城」と名付け、嫡子盛信を,その後、大永六年(一五二六)、
大浦
氏の初代
光信
は種里城に没し、
光信
の嫡子盛信が
大浦
城にあって跡を継ぐ。,この間、
大浦
氏は「
大浦
屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その / 二
大浦
城の歴史
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
大浦
氏の城下町建設の流れ
大浦
氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,に備えて、
大浦
為信(ためのぶ)の祖父に当たる久慈南部氏の信濃守
光信
(みつのぶ)を明応元年(一四九二)に,同年、種里城の
光信
には
大浦
城を築城させ鼻和郡の本拠地とさせた。,
光信
は
大浦
城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、
大浦
氏を名乗らせ、
光信
自身は種里城にそのままとどまったことになっている,そして
大浦
盛信の子である為信が
大浦
城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。 /
大浦
氏の城下町建設の流れ
通史編2(近世1)
(三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)
)に配置し「津軽郡代(ぐんだい)」とするとともに、延徳三年(一四九一)に南部久慈(くじ)氏の一族南部
光信
,八七七)とあり、文亀二年(一五〇二)、種里城主南部
光信
は嫡男盛信(もりのぶ)を新たに築いた
大浦
城に置いた,)郡は、「
大浦
屋形(おおうらやかた)」と称された
大浦
城主
大浦
盛信の勢力基盤となっていく。,大永六年(一五二六)、
大浦
氏の初代
光信
が種里城で没した。,
光信
の跡は、嫡男盛信が
大浦
城にあって継ぎ、以後、三代は盛信の娘婿政信が、四代は政信の子為則(ためのり) / 三戸南部氏の津軽進出と
大浦
築城
通史編1(古代・中世)
(大浦氏関係の中世城館跡)
大浦
氏関係の中世城館跡 鯵ヶ沢町種里城跡や岩木町
大浦
城跡などは開発に伴う発掘調査が行われている。,種里城跡においては主曲輪から束になった銭(備蓄銭か)や、
光信
が居住したと考えられる主殿跡、区画溝によって,また
大浦
城跡(写真219)も、二ノ丸曲輪で掘立柱建物跡と思われる柱穴や、竪穴建物跡と思われる遺構などが,写真219
大浦
城跡 このように近年の発掘調査により、文献史料からだけではうかがい知ることのできなかった /
大浦
氏関係の中世城館跡
通史編3(近世2)
(長勝寺)
長勝寺 長勝寺(ちょうしょうじ)は、大永六年(一五二六)、
大浦
光信
が種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で死去,菊仙が招かれて開山となり、寺号は
光信
の戒名「長勝降栄大居士」によった(資料近世2No.四〇五・四一四),為信の時に種里から堀越城下・
大浦
城下と移転し、寺領二〇〇石の寄進を受けた。,この時、庫裡(くり)は
大浦
城の建築物を移して使用した。
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
また文亀(ぶんき)二年(一五〇二)には
光信
が
大浦
(おおうら)(中津軽郡岩木町)に築城し、嫡男盛信(もりのぶ,
光信
・盛信親子が戦国時代末期に津軽地方を席巻し、近世大名へと発展する
大浦
-津軽氏の祖とされているのはいうまでもない,写真189 南部(
大浦
)
光信
倚像 津軽氏の系譜である『前代歴譜』に
光信
が九戸郡下久慈から南部氏,そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の
大浦
氏(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行,しかし、南部盛信が「
大浦
ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も
大浦
氏や浪岡御所北畠氏などとともに
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
(一)藩主家の菩提寺
大浦
光信
は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,この時から曹洞宗長勝寺は
大浦
(津軽)氏の菩提寺となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。,は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後に
大浦
城下賀田,ところが、六代藩主信著は、延享元年(一七四四)報恩寺だけが重く扱われ、長勝寺は
光信
以来の先祖が崇敬してきているのに
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
この過程で南部氏は、延徳三年(一四九一)、一族の南部
光信
(津軽氏の祖先)を西浜種里城に、明応七年(一四九八,)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部させ、さらに文亀二年(一五〇二)には
大浦
城を築いて、南部
光信
の子盛信,こうして南部氏の勢力は大きく津軽に及ぶようになったが、
光信
の子、盛信が「
大浦
屋形」と呼ばれ、「大名」として,しかし、元亀二年(一五七一)五月、
大浦
城主
大浦
為信は謀略をもって石川城を急襲。,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自
大浦
大わに(大鰐)被攻候而、
通史編1(古代・中世)
(種里城を中心とした城館群)
種里八幡宮第十四代神官奈良出雲(ならいずも)(明和から天明年間にかけて在任)が『累代家記』に記した「
光信
公御治世記,」には、「
大浦
信濃守
光信
公海岸ヘ御通行ノ節 館前ノ城主対馬某折々
光信
公ヲ狙撃ス故ニ
光信
公□々軍勢ヲ遣シ,要約するならば、
光信
が海岸に抜けようとしたところ館前主に狙撃されるので攻撃したが、堀が深くて攻めきれない
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●文亀二年(一五〇二)、南部
光信
、
大浦
城を築いて嫡男盛信をおくという。,●明応六年(一四九七)~永正九年(一五一二)の間、古河公方足利政氏、久慈右京亮(南部
光信
か)に御内書を,●大永三年(一五二三)五月、南部(
大浦
)
光信
、種里八幡宮を建立するという。,●大永六年(一五二六)十月、南部(
大浦
)
光信
、死去すると伝える。,
大浦
為信と愛季・茂季の通交が記される。
通史編2(近世1)
([口絵])
口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画 口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画 口絵2
大浦
光信
倚像
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
長勝寺 曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六)
大浦
盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森
大浦
盛信,が亡父
光信
の菩提寺として創建。,同右 堀越→
大浦
坪見を経て、慶長年間、現在地に移る。,岩木山神社 坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六) 顕国玉神・多都比姫命・坂上刈田麻呂命 弘前八幡宮
大浦
光信
,
大浦
城の鬼門守護神として再興。
通史編1(古代・中世)
(文献史料から見た戦国動乱の激化)
文献史料から見た戦国動乱の激化 当市域の中世末から近世初頭にかけての幕開けとなった中心的人物は
大浦
為信,
大浦
為信が、一次史料の文書に登場するのは天正四・五年(一五七六・七七)ころである。 ,戦国時代の津軽地方では、
大浦
為信を中心として領土拡大や勢力拡大の野望による侵攻が激しく行われていた。,その攻防は
大浦
(為信)、波岡北畠、三戸南部(晴政(はるまさ)・信直(のぶなお))、下国安東(愛季)、蠣崎,南部氏は延徳三年(一四九一)、南部久慈(くじ)氏の一族
光信
(みつのぶ)を津軽西浜種里(たねさと)に入部
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
大浦
盛信が亡父
光信
の菩提寺として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺や海蔵寺をはじめとする,)村(現藤崎(ふじさき)町)の藤先寺、乳井(にゅうい)村(現弘前市)に乳井氏が造営した盛雲院、そして
大浦
政信,現に、その初め、大光寺(だいこうじ)(平賀(ひらか)町)に岌禎を開山として建立された貞昌寺は、
大浦
為信,前の円明寺と法願寺のよる油川が当時の港湾都市であったと同様に、専徳寺と真教寺のたたずむ
大浦
(おおうら),この政都
大浦
には、浄土真宗以外にも、教団の拡張が伸びていた。
通史編2(近世1)
(津軽家の自己認識確立への試み)
それによれば、家光―家信―
光信
(みつのぶ)―盛信は源氏、政信―為則(ためのり)―守信―為信は藤原氏とされている,これに対して近衛家の当主で前関白近衛信尋は、津軽家の系図が近衛前久の筆によること、そして津軽家の祖
大浦
政信,津軽家では為信の代から「津軽」姓を称したもので、それ以前は代々金沢・
大浦
を称したこと、そして政信が近衛尚通
通史編3(近世2)
(信寿・信著・信寧時代)
これが
大浦
光信
から四代藩主信政までの約二五〇年間の事歴を書き記した官撰の史書「津軽一統志」一〇巻である
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●享徳二年(一四五三)、下国安藤義季、南部勢に攻められ、津軽鼻和郡
大浦
郷にて自殺。,●延徳三年(一四九一)、この年、南部
光信
、
大浦
・種里に入部し種里城に拠るという。,●明応六年(一四九七)、南部
光信
の女阿久、近衛尚通に近侍するという。
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
種子に「バン」を刻む(『陸奥古碑集』所載) 浅瀬石城の存在は、
大浦
(津軽)為信の統一の時点に焦点,また、現在種里城跡「
光信
公の館」の前にある二基の板碑は、もと〝ホケチョの坂〟(法華経の坂)にあったものを
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
………………………… 八戸湊文書 274 ●延徳三年(一四九一)、この年、南部
光信
、
大浦
・種里に入部し,………………………… 新羅之記録 275 ●明応六年(一四九七)、南部
光信
の女阿久、近衛尚通に近侍するという,… 安倍社司由緒書・館越日記・津軽史 278 ●文亀二年(一五〇二)、南部
光信
、
大浦
城を築いて嫡男盛信,……………………… 京徳寺過去帳 283 ●大永三年(一五二三)五月、南部(
大浦
)
光信
、種里八幡宮を建立,………………………… 八戸湊文書 284 ●大永六年(一五二六)十月、南部(
大浦
)
光信
、死去すると伝える
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