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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
大浦
城と
大浦
城下町
大浦
為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡
大浦
を中心とした地域であり,
大浦
城である。 ,「
大浦
城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部
氏
安信(やすのぶ)が、種里城の光信に
大浦
城を築かせ、鼻和郡の本拠地,光信は
大浦
城に長子の盛信を置いて
大浦
氏
を名乗らせ、光信自身は種里城にそのまま居住していたようである。,図63
大浦
城と
大浦
城下町と街道 写真204
大浦
城跡航空写真 まず、
大浦
城は本丸・ /
大浦
城と
大浦
城下町
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
大浦
氏
の城下町建設の流れ
大浦
氏
が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東
氏
,に備えて、
大浦
為信(ためのぶ)の祖父に当たる久慈南部
氏
の信濃守光信(みつのぶ)を明応元年(一四九二)に,光信は
大浦
城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、
大浦
氏
を名乗らせ、光信自身は種里城にそのままとどまったことになっている,
大浦
氏
が近世大名に成長していく段階で、どのような考え方でそれぞれの城と城下町建設を進めていったのか。,これらのことを念頭に入れながら各時期の
大浦
氏
の城と城下町をみていくことにする。 /
大浦
氏
の城下町建設の流れ
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
こうした中、安東政季死去より三年後の延徳三年(一四九一)、南部
氏
の一族・光信が九戸郡下久慈より「
大浦
・,後に「津軽
氏
」を名乗る
大浦
氏
の歴史はここに始まる。,その後、大永六年(一五二六)、
大浦
氏
の初代光信は種里城に没し、光信の嫡子盛信が
大浦
城にあって跡を継ぐ。,この間、
大浦
氏
は「
大浦
屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その,この過程において、
大浦
城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽
氏
の / 二
大浦
城の歴史
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
大浦
城の構造
大浦
城を含む中世の当地城は鼻和郡
大浦
郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから,「西根(にしね)」とも称され、
大浦
城は「西根城」とも称された。 ,
大浦
城跡は、弘前城の西方約四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代(ごだい)字早稲田(旧門前村)にあり、,図23.
大浦
城縄張り推定復元図
大浦
城の城下町は、
大浦
城の東側(現在の賀田地区)が旧城下町であり,図24.
大浦
城・城下町跡の航空写真
大浦
の地は、津軽
氏
が戦国期以来南部
氏
との抗争の過程で、その /
大浦
城の構造
通史編1(古代・中世)
(大浦氏関係の中世城館跡)
大浦
氏
関係の中世城館跡 鯵ヶ沢町種里城跡や岩木町
大浦
城跡などは開発に伴う発掘調査が行われている。,また
大浦
城跡(写真219)も、二ノ丸曲輪で掘立柱建物跡と思われる柱穴や、竪穴建物跡と思われる遺構などが,写真219
大浦
城跡 このように近年の発掘調査により、文献史料からだけではうかがい知ることのできなかった /
大浦
氏
関係の中世城館跡
通史編2(近世1)
(三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)
三戸南部
氏
の津軽進出と
大浦
築城 戦国時代の初期、三戸南部
氏
は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,「文亀二年壬戌、花輪郡賀田郷ニ城築、是ヲ
大浦
ノ城ト云、嫡男盛信ヲシテ居住セシム」(資料古代・中世No.,八七七)とあり、文亀二年(一五〇二)、種里城主南部光信は嫡男盛信(もりのぶ)を新たに築いた
大浦
城に置いた,、戦国期、賀田(よした)・
大浦
を含む鼻和(はなわ)郡は、「
大浦
屋形(おおうらやかた)」と称された
大浦
城主
大浦
盛信,大永六年(一五二六)、
大浦
氏
の初代光信が種里城で没した。 / 三戸南部
氏
の津軽進出と
大浦
築城
資料編1(古代・中世編)
(一 大浦城の立地と現状)
一
大浦
城の立地と現状
大浦
城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田,
大浦
城はまた、地名を取って「
大浦
賀田城」(『新撰陸奥国誌』)「八幡城」(慶安二年「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳,
大浦
城は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、津軽
氏
のルーツをなす城の,
大浦
城の周辺(旧城下町地区) 百沢街道と
大浦
城の大手
大浦
城の城下,賀田地区 図,17
大浦
城跡位置図
大浦
城跡の航空写真(昭和40年代撮影) / 一
大浦
城の立地と現状
資料編1(古代・中世編)
(五 大浦城と「城下」の構造)
五
大浦
城と「城下」の構造
大浦
城は戦国大名
大浦
氏
の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四,賀田の集落は、
大浦
城の廃城以後、新たな都市的発展はなかったと思われるから、この地割が造られたのが
大浦
「,以上から判断される
大浦
城下町の特徴は、第一に、
大浦
城下を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたこと,こうした意味で、
大浦
「城下町」は、まさしく中世都市の段階にとどまっており、津軽
氏
が近世大名に飛躍しようとすれば,
大浦
城跡と旧城下の賀田地区(平成元年撮影) / 五
大浦
城と「城下」の構造
通史編1(古代・中世)
(大浦城築城以前の城館跡)
大浦
城築城以前の城館跡
大浦
城が築城される以前の
大浦
城周辺では、新岡(にいおか)地域を中心とした城館,なお、新岡地区は、
大浦
城が作られている場所よりも北側に位置し、水田地帯が広がる平野部に近いところに位置,図68
大浦
城築城以前の城館ネットワーク(新岡地域を中心として) 遺構の状況などからみると、下新岡館跡,一五世紀の下国義季(しものくによしすえ)陣城とも伝えられ、さらに可能性としては一六世紀に起こった津軽
氏
と,これらの上新岡館・下新岡館跡の周辺の城館跡は、
大浦
氏
が入ってきたことにより消滅したのか、あるいは一部の /
大浦
城築城以前の城館跡
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
三
大浦
から堀越への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(
大浦
)
氏
の居城であった
大浦
(,大名の居城にはその権力の特徴が顕著に現れており、この居城移転の過程と居城の構造は、津軽
氏
が戦国大名から / 三
大浦
から堀越への移転~西根から東根へ
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
大浦
の地は戦略的要地ではあるが、津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠としては不十分だったからである,その七年後の文禄三年(一五九四)、為信は改めて堀越城を修築、その上で
大浦
からこの地に本拠を移し、津軽藩,このとき「在々住居之諸人並
大浦
御城下面々、堀越え御引越被仰付、其外寺社之分も引越被仰付候」(『永禄日記,』)、あるいは「寺院並町々共
大浦
より堀越へ移る」(『封内事実秘苑』)と伝えられている。,つまり、堀越城下に集められたのは、
大浦
にあった寺院と町、それに津軽
氏
の家臣団であった。 / (3) 津軽
氏
の政庁としての堀越城
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
中世の比内浅利
氏
比内浅利
氏
は、甲斐源
氏
(かいげんじ)の一族であり、浅利与市義遠(よいちよしとお)を,この後、奥羽の地は
大浦
為信・安東愛季・南部信直らとの間で一時的な均衡状態が保たれるが、天正九年(一五八一,この時、
大浦
為信は、浅利勝頼の子頼平を援助し、浅利
氏
遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて,また、かつての湊城主茂季(しげすえ)の子湊九郎通季(みちすえ)(高季)もこの機に南部
氏
・戸沢
氏
らの支援,実季は檜山城に逃れ、由利地方の小名や夷島の蠣崎(かきざき)
氏
、津軽の
大浦
為信の支援を得て、檜山城に籠城 / 中世の比内浅利
氏
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
また文亀(ぶんき)二年(一五〇二)には光信が
大浦
(おおうら)(中津軽郡岩木町)に築城し、嫡男盛信(もりのぶ,光信・盛信親子が戦国時代末期に津軽地方を席巻し、近世大名へと発展する
大浦
-津軽
氏
の祖とされているのはいうまでもない,写真189 南部(
大浦
)光信倚像 津軽
氏
の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部
氏
,そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の
大浦
氏
(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行,しかし、南部盛信が「
大浦
ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も
大浦
氏
や浪岡御所北畠
氏
などとともに / 三戸南部
氏
による領国支配の強化
資料編1(古代・中世編)
((2) 戦国時代の堀越城)
(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、
大浦
為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,「津軽
氏
系譜(歴譜)」は、
大浦
為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって,堀越紀伊守守信と名乗り、その子為信が為則の養子となって
大浦
城主を継いだと記す。,為信の出自については定かでなく、南部側の資料では、久慈信義の異母弟弥四郎が兄と不和になって津軽に逃れ、
大浦
氏
,、その主が「堀越
氏
」を名乗り、
大浦
氏
の与党であったことは、確かであろう。
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天文十三年(一五四四)、弘前親方町竹内
氏
、この年より先祖嘉右衛門が十三湊にて
大浦
氏
の廻船御用を務めると,庄内の大宝寺義
氏
、
大浦
為信の浅瀬石ほか十余ヶ城攻略と大光寺城攻めを賀し、その後の情勢を尋ねる。,●天正十年(一五八二)七月五日、大宝寺義
氏
、由利郡の領主戸蒔中務少輔にあてて、津軽勢(
大浦
為信)と呼応,南部
氏
側では
大浦
為信の謀略による毒殺と伝える。 ●天正十六~十八年(一五八八~九〇)ころ? ,秋田勢の比内攻撃は天正十八年、相手は浅利
氏
でなく南部
氏
で、従来誤り伝えられていたもの) ●
大浦
為信、
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の没落)
安藤
氏
の没落 その後の両者の衝突は永享四年(一四三二)にみられ、安藤
氏
と南部
氏
との戦いの結果、安藤
氏
,その後、康季の子義季は享徳二年(一四五三)に津軽鼻和郡
大浦
郷根倉(ねくら)館に立て籠ったが、南部
氏
に攻,しかも、下国惣領家の没落後に、外が浜潮潟(うしおがた)の道貞(みちさた)に始まる潮潟安藤
氏
の系統が南部
氏
,いわば、南部
氏
の傀儡(かいらい)的な存在であったのだが、南部
氏
にとっては、北方海域に割拠していた安藤
氏
,南部
氏
は自らの支援で安藤
氏
の擁立をしてまでも、安藤
氏
権力を吸収したかったのである。 / 安藤
氏
の没落
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
湊であり、このころまでには夷島への通路としても機能していたと思われ(資料古代・中世No.一〇二五)、
大浦
氏
,天正期に、喜良市(きらいち)(現金木町)にも八重・左助という二人の「狄之酋長(しゅうちょう)」がおり、
大浦
氏
,
大浦
氏
は、南部
氏
との間での飯詰(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄,
大浦
氏
は、南部
氏
との間で土地の「取り合」と「伐取」を繰り広げ、そこで「伐取」した地域には、町立を行うといった,そして、アイヌとの戦いは、これを通じて西浜の地帯を確保したことに端的に表れているように、
大浦
(津軽)
氏
通史編1(古代・中世)
(文献史料から見た戦国動乱の激化)
文献史料から見た戦国動乱の激化 当市域の中世末から近世初頭にかけての幕開けとなった中心的人物は
大浦
為信,
大浦
為信が、一次史料の文書に登場するのは天正四・五年(一五七六・七七)ころである。 ,また、
大浦
氏
と南部
氏
との対立抗争の要因は、津軽の統一や下剋上などといったものではなく、土地の取り合いと,そしてその後種里城から
大浦
城に拠点地を変え、もともとは同族であった南部
氏
が支配していた岩木川東岸地帯と,天正九年(一五八一)前後に西浜(にしはま)地域で起こった「西浜蜂起」によるアイヌ民族との抗争の結果、
大浦
氏
通史編2(近世1)
(外浜の掌握と開発)
天正十三年(一五八五)、
大浦
為信は油川城(あぶらかわじょう)(現青森市)を攻撃し、外浜地域の掌握に着手,さらに、
大浦
氏
は、「高野・荒川両村ニ而知行高五十石被下置」(「相馬安左衛門由緒書抜」国史津)とあるように,外浜筋法令如形ノ御沙汰アリ」(資料古代・中世No.一〇五九)というように、油川とともに城番が設置されており、
大浦
氏
,すなわち、
大浦
氏
にとって外浜東部は、開発と対南部
氏
という軍事的な備えとが同居する地域であった。
通史編1(古代・中世)
(為信の離反)
晴政らは、信直支持派の剣吉城主北信愛、浅水城主南慶儀(盛義)を攻め、さらに、七戸
氏
や八戸南部
氏
らにも支持,そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、
大浦
為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ,そして、為信は安藤愛季(ちかすえ)や庄内の大宝寺義
氏
(だいほうじよしうじ)と好みを通じることで南部
氏
を,このときは「大光寺之勢以ての外強く、
大浦
殿漸帰り候」というが、翌年正月には再度大光寺城を攻め、城代瀧本重行,そして、こうした浪人・武士を自らの家臣団に編成しえたところに、新興勢力
大浦
氏
の特徴があったという。
通史編1(古代・中世)
((五)発掘調査から見た遺跡)
当市域においては石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また
大浦
氏
に関係した城館跡としては、,鯵ヶ沢町種里城跡の主曲輪や岩木町
大浦
城跡二ノ丸部分の発掘調査も行われている。
資料編1(古代・中世編)
(一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)
十二人屋形城衆とは近世の「関家文書」などに見えるもので、十五世紀半ばの文明年中(一四六九~八七)、南部
氏
の,さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、
大浦
為信の津軽統一作戦において,第三節
大浦
城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地,そして戦国時代末期、
大浦
為信が南部
氏
からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、,主君為信直属の軍事力を構成し、
大浦
氏
直属軍団の有力メンバーとして活躍したことがうかがえる。
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
東目屋地域に見られる城館跡
大浦
城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野,戦国時代末期に
大浦
為信が南部
氏
からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、,為信直属の軍事力を構成し、
大浦
氏
直属軍団の有力構成員として活躍したことがうかがえる。 ,この東目屋地区の中心となる城館は、関
氏
の居館とされる国吉館といえるであろう。,そして、国吉館といった
大浦
氏
の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
資料編1(古代・中世編)
(五 東目屋地区の中世城館の特徴)
だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、
大浦
氏
が本拠とした
大浦
城との関係であり、さらに、この地が津軽平野,しかも、
大浦
城から目屋に向かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(城館というより、,この国吉館は、この地を本拠とする領主関
氏
の日常的な居館であり、戦闘の際に逃げ込むための施設を背後の山に,そして、彼らは国吉館の館主関
氏
を盟主にしつつ、
大浦
氏
の「側近」としてその直属の軍事力を構成したのであった,図43 坂本館跡の現状写真と模式図(新館地区) 図44
大浦
城周辺及び東目屋地区の城館分布
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、
大浦
城,れる平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがしね)」地方と、鼻和・
大浦
,
大浦
の地は戦略的要地ではあるが津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに,この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された
大浦
城を中心とする地域の支配強化を実現,堀越城は、文禄三年(一五九四)の
大浦
城からの移転後、慶長十六年(一六一一)に二代信枚(のぶひら)が高岡城
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四 城館の構造
大浦
城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫,は、二の丸・西の丸の南に二つの曲輪があることを報告し、沼舘愛三は、これを西ノ郭(西館)・南郭と呼んで
大浦
城,図20
大浦
城縄張り推定復元図
大浦
城の大手虎口は、百沢街道が東から西へと直進し、城に突き当たった,以上のように、最終段階の
大浦
城は六つの曲輪から構成されていた。,図21
大浦
城跡の現状写真と模式図 図22
大浦
城跡の現状写真と模式図
資料編1(古代・中世編)
(二 本章で取り上げる中世城館跡)
市域外であっても、岩木町の
大浦
城跡、平賀町の大光寺城跡、藤崎町の藤崎城跡など、この地方の歴史に大きな意味,① 石川城跡(弘前市石川) ②
大浦
城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい)) ,また元亀二年(一五七一)、
大浦
為信がこの城を急襲、陥落させて、独立の第一歩をしるしたことでも知られる。,②の
大浦
城は、
大浦
為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした
大浦
氏
四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。,これらはいずれも、南部
氏
・
大浦
(津軽)
氏
が領国支配の拠点としたものであり、居住・軍事機能を合わせ持った
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
永享四年(一四三二)、三戸の南部
氏
は十三湊の下国安藤
氏
を攻めて、蝦夷島(北海道)へ敗走させ、その後の数度,)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部させ、さらに文亀二年(一五〇二)には
大浦
城を築いて、南部光信の子盛信,こうして南部
氏
の勢力は大きく津軽に及ぶようになったが、光信の子、盛信が「
大浦
屋形」と呼ばれ、「大名」として,しかし、元亀二年(一五七一)五月、
大浦
城主
大浦
為信は謀略をもって石川城を急襲。,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自
大浦
大わに(大鰐)被攻候而、
通史編1(古代・中世)
(本城(根城)の城館跡)
ちなみに南部安信・高信による津軽平定と石川城への拠城は、南部
氏
の領国支配強化政策の中で行われたものである,また、堀越城跡は
大浦
氏
が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。,その他、当市域外ではあるが津軽
氏
に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の
大浦
城跡なども挙
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
真教寺 浄土真宗 東本願寺 天文十九 (一五五〇) 浄理 坪見 (岩木町) 新寺町
大浦
坪見→堀越,長勝寺 曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六)
大浦
盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森
大浦
盛信,同右 堀越→
大浦
坪見を経て、慶長年間、現在地に移る。,
大浦
城の鬼門守護神として再興。,のち、門外村→
大浦
を経て弘前に移る。明治の神仏分離で高伯寺の旧地の大鰐町に移転。
通史編1(古代・中世)
(合戦の方法)
ることができるものとしては、天正七年(一五七九)七月に下国安東愛季が津軽に侵攻し、乳井(にゅうい)・六羽川で
大浦
為信勢,もし、この六羽川の合戦で
大浦
為信が討ち死にしていたとしたならば、津軽の歴史もまた違ったものとなっていたことであろう,南部安信が藤崎城主安東教季を城中で討ち取った合戦(史料八九九・九〇〇)、元亀二年(一五七一)五月五日夜に、
大浦
為信,さらに天正四年(一五七六)正月元旦に、
大浦
為信は大光寺城を攻撃し、城代の瀧本重行(たきもとしげゆき)は,このように戦国期の津軽領内での合戦方法、とくに
大浦
為信の合戦方法のほとんどは攻城戦型の合戦方法が用いられているという
通史編1(古代・中世)
(戦国時代の都市(城下町)発生)
当市域の中世都市の発生をみると、やはり領主(
大浦
氏
)の政策的な考えの中で意図的に城下町(都市)が作られていったということができる,
大浦
(津軽)
氏
が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と城下町ということについてみていくことにする
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和・
大浦
,堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が
大浦
城からこの地に本拠を移し、慶長十六年,それはまた、豊臣大名として認知された津軽
氏
が、自らを近世大名へと成長させてゆくステップでもあった。,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽
氏
の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,堀越城は、藩政時代には種里城・
大浦
城とともに「当家の御居城」(『津軽一統志』)として重視され、遺構もよく
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
藩政前期為信 津軽地方の統一は、津軽
氏
の初代為信が天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され,文禄三年(一五九四)居城を
大浦
(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,寺社の縁起によると、津軽
氏
の先祖
大浦
氏
より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は,
大浦
城下賀田(よした)から、安盛寺(あんせいじ)は深浦から移転させた。,為信は慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の戦いに出陣したが、このころは南部
氏
との抗争も影をひそめ、津軽地方を
資料編1(古代・中世編)
(二 乳井茶臼館の歴史)
福王寺門前集落(寺内)のすぐ南にそびえる茶臼館の立地から考えて、館の築造者はこの福王寺別当乳井
氏
以外には,乳井
氏
は、もともと独立の領主であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから,、子の乳井大隅建清は
大浦
為信の麾下に属し、以後、
大浦
勢の有力メンバーとして行動する(『津軽一統志』『封内事実秘苑,天正六年(一五七八)七月、
大浦
為信は波岡城を攻略し、当主北畠顕村を自害させて名門波岡御所を滅亡させた。
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
(一)藩主家の菩提寺
大浦
光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里城(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,この時から曹洞宗長勝寺は
大浦
(津軽)
氏
の菩提寺となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。,は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後に
大浦
城下賀田
通史編2(近世1)
(まえがき)
十六世紀末、
大浦
氏
の豊臣政権との接触から明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る約三〇〇年間の、弘前市を中心,時期的には、前述のように十六世紀末における
大浦
氏
の豊臣政権との接触から、幕末期安政年間(一八五四~五九
通史編1(古代・中世)
(堀越城・石川城を中心とした城館群)
堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部
氏
が,
大浦
氏
はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,このように当市域の南側に位置する石川地区は南部
氏
にとっても、また
大浦
氏
にとっても非常に重要な場所であった,なお、
大浦
氏
は堀越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後
大浦
氏
が改修して利用していたことが
通史編1(古代・中世)
(福村城跡)
そしてこの福村城は、
大浦
氏
が元亀二年(一五七一)に
大浦
城を築いた時に、その支城のひとつとして造られたと
通史編1(古代・中世)
(「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)
津軽六郡絵図(第一号) この史料には、天文年間の津軽地方の支配状況について、鼻和郡三八〇〇町は「
大浦
,浪岡北畠
氏
は、戦国期に入っても近隣の諸
氏
から「浪(波)岡御所」と呼ばれ、強い権威を有していた(史料九四八,浪岡北畠
氏
が一定の勢力を保つことができたのは、檜山へ移動した下国安東
氏
と南部
氏
両者の緩衝勢力として、幕府,これらの官位は比較的高いものであり、任官コースは、「三国司家」と呼ばれた浪岡北畠
氏
と同族とされる伊勢国司北畠
氏
,関係強化を図ったが、最終的には新たに台頭した
大浦
氏
の前に敗北して、天正六年(一五七八)に滅亡することとなる / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠
氏
通史編1(古代・中世)
(藤崎城と中世都市)
いずれにしても十三湊安藤
氏
が没落しても、その後も津軽の地には安藤(安東)
氏
の庶子系が生き残って、南部
氏
,そのようなことから推察すると、一六世紀前半に藤崎安藤
氏
が滅亡した後も、藤崎城は「番城(ばんじろ)」として,、南部
氏
の直轄下で使われていた可能性も考えることができる。 ,つまり藤崎城は「街道」というものを意識し、さらに宗教施設を一定の空間を設けて建設している点で
大浦
氏
の発想,このことは藤崎城を管轄していた権力者が、種里や
大浦
・堀越といった
大浦
氏
の城下町建設の発想とは異なった、
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
大浦
盛信が亡父光信の菩提寺として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺や海蔵寺をはじめとする,造営した盛雲院、そして
大浦
政信が和徳(わとく)村(現弘前市)に建立した天津院以下、都合二八ヶ寺もの曹洞寺院,現に、その初め、大光寺(だいこうじ)(平賀(ひらか)町)に岌禎を開山として建立された貞昌寺は、
大浦
為信,前の円明寺と法願寺のよる油川が当時の港湾都市であったと同様に、専徳寺と真教寺のたたずむ
大浦
(おおうら),この政都
大浦
には、浄土真宗以外にも、教団の拡張が伸びていた。
資料編1(古代・中世編)
([付図])
[付図] 石川城縄張り推定復元図 乳井茶臼館縄張り推定復元図
大浦
城縄張り推定復元図,
大浦
城及び城下推定復元図 国吉館縄張り推定復元図 坂本館縄張り推定復元図,30 弘前市境関字富岳 境関館跡(県埋蔵文化財調査センター保管) 31・32 弘前市外崎3丁目 外崎誠
氏
地所,22 大鰐町八幡舘字水入 阿部守喜
氏
地所内 23~25 大鰐町八幡舘字八幡舘 観音堂 平賀 1~5,50 狼倉館 116 古屋敷館 51 葛原館 117 鶉長根館 52 八幡館 118 森山館 53
大浦
城
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」以降の修史事業)
秀栄の後裔は、南部家からの養子が入ったが、しかし母方には血脈が続いていて、近衛尚通が津軽に下向した折に
大浦
盛信,の姉が側室となり、後の
大浦
政信となる男児をもうけ、津軽家は近衛家の血脈に変わったという主張がなされる。,しかし、津軽家が奥州藤原
氏
に連なることを主張すれば、奥州藤原
氏
と安倍
氏
との血縁関係が存在する以上、安日,に行き着くことは当然で、結局津軽家は、最後まで平泉藤原
氏
を遠祖とする系図を幕府に提出することはなかった
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に
大浦
為信が
大浦
城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,さらに近世大名津軽
氏
の権力の形成と津軽地方における中世末から近世初頭への移行期の様相を明らかにするうえで,しかしその規模は小さく、津軽領内の寺院や商工業者を集住させるには不充分なものであったことから、津軽
氏
は,
大浦
城と
大浦
城下町建設の発想からはまだまだ抜け出すことができなかったということがわかる。 ,津軽
氏
が近世大名として津軽領内を掌握する政庁的性格をもたせようと作った堀越城下町ではあったが、十分に対応
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
本庄繁長(ほんじょうしげなが)勢の支援を得た赤宇曾治部少輔(あこうづじぶのしょう)らの由利勢のほか、津軽の
大浦
為信,さらに、このとき、当面の措置として、秋田を豊臣直轄領としたうえで、南部・上杉
氏
にゆだねることを決めたとも,を担当していた湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢(すえかた))らを上洛させ(遠藤巌「安藤・秋田
氏
」,このとき、南部
氏
の内紛についても「津軽」が謀略に及んでいることを指摘している。,図2.津軽(
大浦
)為信画像
通史編2(近世1)
([口絵])
口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画 口絵1 津軽為信坐像と御影堂障壁画 口絵2
大浦
光信倚像,口絵3 伝津軽為信下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立
氏
の墓
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
また、町曲輪は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、
大浦
城は「城―町曲輪―町,城館に多数搬入されていることが知られることから、「津軽一統志」の文禄三年居城移転を裏付けるとともに、
大浦
氏
資料編1(古代・中世編)
(新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)
……… 四四六 五 縄張りからの問題点…………………………………………… 四六四 第三節
大浦
城跡,……………………………………………………… 四六六 一
大浦
城の立地と現状……………………………,……………… 四六六 二
大浦
城の歴史…………………………………………………… 四七〇 三,
大浦
城「縄張り」の復元……………………………………… 四七一 四 城館の構造………………………,……………………………… 四七四 五
大浦
城と「城下」の構造……………………………………… 四七九
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
るまで世襲していた松山・松井家の由緒をみてみると、ともに、近江国坂本の出身であり、文禄二年(一五九三)に
大浦
,松山
氏
は町支配頭に任命され、一方、松井
氏
は堀越城下支配頭に任命され、その後、弘前町方取扱となり、町方支配,これらの開発に従事した松井家は、津軽
氏
の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・十三湊、ひいては、
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