• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 48件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

大浦城と大浦城下町 大浦為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡大浦を中心とした地域であり,大浦城である。  ,「大浦城」は文亀二年(一五〇二)三戸南部氏安信(やすのぶ)が、種里城の光信に大浦城を築かせ、鼻和郡の本拠地,図63 大浦城と大浦城下町と街道 写真204 大浦城跡航空写真  まず、大浦城は本丸・,写真205 旧門前地区(岩木町五代)  以上のように、大浦城下町は大浦城を東西に走る百沢街道に沿 / 大浦城と大浦城下町
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城の構造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから,「西根(にしね)」とも称され、大浦城は「西根城」とも称された。  ,大浦城跡は、弘前城の西方約四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代(ごだい)字早稲田(旧門前村)にあり、,大浦城は、段階を経て整備・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西の郭・南郭の六つの,図23.大浦城縄張り推定復元図  大浦城の城下町は、大浦城の東側(現在の賀田地区)が旧城下町であり / 大浦城の構造
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

二 大浦城の歴史 すでに述べたように、大浦の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば,これが記録に見える大浦城の最初である。  ,その後、大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信は種里城に没し、光信の嫡子盛信が大浦城にあって跡を継ぐ。,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の,また、弘前市内の誓願寺にある応安四年(一三七一)の板碑は、大浦城跡の本丸石垣より出土したものと伝えられ / 二 大浦城の歴史
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

一 大浦城の立地と現状 大浦城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田,この城の名を「大浦城」、別名「西根の城」(『奥羽永慶軍記』)というのはそのためである。,大浦城は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、津軽氏のルーツをなす城の,大浦城の周辺(旧城下町地区) 百沢街道と大浦城の大手 大浦城の城下,賀田地区 図,17 大浦城跡位置図 大浦城跡の航空写真(昭和40年代撮影) / 一 大浦城の立地と現状
資料編1(古代・中世編) (三 大浦城「縄張り」の復元)

三 大浦城「縄張り」の復元 先に述べたように、現在の大浦城跡は破壊が進んでおり、そのままでは旧状復元,明治二十六年十二月十一日調製)   イ、大浦村大字賀田字大浦(明治十八年二月調製) 図19 大浦城跡,津軽封内城趾考』所収)   イ、沼舘愛三作成の見取図(『津軽諸城の研究』昭和五十二年刊) 図18 大浦城跡,資料(1)イは、大浦城の東、賀田地区にあったという「城下町」を復元する手がかりとなる。 / 三 大浦城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

五 大浦城と「城下」の構造 大浦城は戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四,それならば、大浦城の旧城下町とされる賀田地区において、かつての町の姿を復元することは可能であろうか。,大浦城跡周辺でこうしたみごとな短冊型地割は、ほかに見当たらない。,以上から判断される大浦城下町の特徴は、第一に、大浦城下を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたこと,大浦城跡と旧城下の賀田地区(平成元年撮影) / 五 大浦城と「城下」の構造
通史編1(古代・中世) (大浦城築城以前の城館跡)

大浦城築城以前の城館跡 大浦城が築城される以前の大浦城周辺では、新岡(にいおか)地域を中心とした城館,なお、新岡地区は、大浦城が作られている場所よりも北側に位置し、水田地帯が広がる平野部に近いところに位置,図68 大浦城築城以前の城館ネットワーク(新岡地域を中心として)  遺構の状況などからみると、下新岡館跡 / 大浦城築城以前の城館跡
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 大浦城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫,は、二の丸・西の丸の南に二つの曲輪があることを報告し、沼舘愛三は、これを西ノ郭(西館)・南郭と呼んで大浦城,図20 大浦城縄張り推定復元図  大浦城の大手虎口は、百沢街道が東から西へと直進し、城に突き当たった,以上のように、最終段階の大浦城は六つの曲輪から構成されていた。,図21 大浦城跡の現状写真と模式図 図22 大浦城跡の現状写真と模式図
通史編1(古代・中世) (大浦氏関係の中世城館跡)

大浦氏関係の中世城館跡 鯵ヶ沢町種里城跡や岩木町大浦城跡などは開発に伴う発掘調査が行われている。,また大浦城跡(写真219)も、二ノ丸曲輪で掘立柱建物跡と思われる柱穴や、竪穴建物跡と思われる遺構などが,写真219 大浦城跡  このように近年の発掘調査により、文献史料からだけではうかがい知ることのできなかった
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

同年、種里城の光信には大浦城を築城させ鼻和郡の本拠地とさせた。,光信は大浦城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのままとどまったことになっている,そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。  ,為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

中世No.八七七)とあり、文亀二年(一五〇二)、種里城主南部光信は嫡男盛信(もりのぶ)を新たに築いた大浦城,とあり、戦国期、賀田(よした)・大浦を含む鼻和(はなわ)郡は、「大浦屋形(おおうらやかた)」と称された大浦城主大浦盛信,三戸南部当主安信(やすのぶ)の弟高信(たかのぶ)を、大光寺(だいこうじ)城には南部政行(まさゆき)を配置し、大浦城,光信の跡は、嫡男盛信が大浦城にあって継ぎ、以後、三代は盛信の娘婿政信が、四代は政信の子為則(ためのり)
通史編3(近世2) (長勝寺)

為信の時に種里から堀越城下・大浦城下と移転し、寺領二〇〇石の寄進を受けた。,この時、庫裡(くり)は大浦城の建築物を移して使用した。  
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという
通史編1(古代・中世) (支城の城館跡)

関惣右衛門は「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされていることから、国吉館跡が大浦城周辺の中世城館跡の中,国吉館跡は大浦城の典型的な支城と考えられるものである。  
通史編3(近世2) (天徳寺)

「浄土宗諸寺院縁起」は、弘前城下形成により、大浦城下から元寺町へ移ったとする。
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、鯵ヶ沢町種里城跡の主曲輪や岩木町大浦城跡二
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、大浦氏が本拠とした大浦城との関係であり、さらに、この地が津軽平野,しかも、大浦城から目屋に向かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(城館というより、,図43 坂本館跡の現状写真と模式図(新館地区) 図44 大浦城周辺及び東目屋地区の城館分布
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城,この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された大浦城を中心とする地域の支配強化を実現,堀越城は、文禄三年(一五九四)の大浦城からの移転後、慶長十六年(一六一一)に二代信枚(のぶひら)が高岡城
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年,堀越城は、藩政時代には種里城・大浦城とともに「当家の御居城」(『津軽一統志』)として重視され、遺構もよく
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

………  四四六   五 縄張りからの問題点……………………………………………  四六四  第三節 大浦城跡,………………………………………………………  四六六   一 大浦城の立地と現状……………………………,………………  四六六   二 大浦城の歴史……………………………………………………  四七〇   三, 大浦城「縄張り」の復元………………………………………  四七一   四 城館の構造………………………,………………………………  四七四   五 大浦城と「城下」の構造………………………………………  四七九
資料編1(古代・中世編) ((1)立地と遺構の現状)

関家文書」は、館主を関惣右衛門としているが、彼が「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされることから、国吉館が大浦城周辺
資料編1(古代・中世編) (五 種子と名号)

このうち、弘前市新町の誓願寺に保存されている板碑は、岩木町の大浦城域から発見されたものであり、特徴ある
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

市域外であっても、岩木町の大浦城跡、平賀町の大光寺城跡、藤崎町の藤崎城跡など、この地方の歴史に大きな意味,① 石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ,②の大浦城は、大浦為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした大浦氏四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。,方法によって、重要な城跡ながらこれまで研究の少なかった石川城跡や、遺構自体が消滅の危機にさらされている大浦城跡
資料編1(古代・中世編) ([付図])

[付図] 石川城縄張り推定復元図   乳井茶臼館縄張り推定復元図   大浦城縄張り推定復元図,  大浦城及び城下推定復元図   国吉館縄張り推定復元図   坂本館縄張り推定復元図,50 狼倉館 116 古屋敷館 51 葛原館 117 鶉長根館 52 八幡館 118 森山館 53 大浦城
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

その他、当市域外ではあるが津軽氏に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙
通史編3(近世2) (真教寺)

天文十九年(一五五〇)に加賀国(現石川県)出身の浄理が坪貝(つぼかい)村(現中津軽郡岩木町)に創建し、大浦城
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,しかしその規模は小さく、津軽領内の寺院や商工業者を集住させるには不充分なものであったことから、津軽氏は大浦城,と大浦城下町建設の発想からはまだまだ抜け出すことができなかったということがわかる。  
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

そしてこの福村城は、大浦氏が元亀二年(一五七一)に大浦城を築いた時に、その支城のひとつとして造られたと
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

西浜種里城に、明応七年(一四九八)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部させ、さらに文亀二年(一五〇二)には大浦城,しかし、元亀二年(一五七一)五月、大浦城主大浦為信は謀略をもって石川城を急襲。
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって堀越紀伊守守信と名乗り、その子為信が為則の養子となって大浦城主
通史編2(近世1) (信枚の築城)

大光寺城や大浦城の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀田(よした)門、現存しない)になった
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

第三節大浦城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後に大浦城下賀田
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

東目屋地域に見られる城館跡 大浦城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野
通史編1(古代・中世) (舶載と国産)

一六世紀になると津軽地域に搬入される陶磁器の量は、地域の拠点的城館である浪岡城・大光寺城・石川城・堀越城・大浦城
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は大浦城下賀田
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

また、町曲輪は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町
通史編3(近世2) (神道)

神道 神道にあっては、弘前城下の形成に当たり、八幡宮(現弘前八幡宮)を大浦城下から移転させて、弘前総鎮守
通史編1(古代・中世) (城館タイプの分類)

領主居住型城館跡」ともいえる拠点的性格を持つ城館は、浪岡町浪岡城跡や弘前市石川城跡、鯵ヶ沢町種里城跡、岩木町大浦城跡
資料編3(近世編2) (●長勝寺 西茂森一丁目)

図1 長勝寺本堂平面図・断面図 (二)庫裡--重要文化財  大浦城の台所として建てられたものをここに
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

そしてその後種里城から大浦城に拠点地を変え、もともとは同族であった南部氏が支配していた岩木川東岸地帯と
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

「庫裏」についても同様で、大浦城の台所を移したものであると伝えられているが、柱の太さや風食の度合い、痕跡
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

津軽氏が居城を大浦城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に高岡城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

大浦城の鬼門守護神として再興。
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

表24 寛永7年の漆木植え付け場所と本数 漆木植え付け場所(現地名) 本数(本) 大浦城跡(岩木町賀田
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●文亀二年(一五〇二)、南部光信、大浦城を築いて嫡男盛信をおくという。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

… 安倍社司由緒書・館越日記・津軽史 278 ●文亀二年(一五〇二)、南部光信、大浦城を築いて嫡男盛信
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました