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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,光信は大浦城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのままとどまったことになっている,このように、大浦氏は中世の戦国時代から近世初頭にかけて城の普請と城下町の建設を実に四回も行っていることになる,大浦氏が近世大名に成長していく段階で、どのような考え方でそれぞれの城と城下町建設を進めていったのか。,これらのことを念頭に入れながら各時期の大浦氏の城と城下町をみていくことにする。 / 大浦氏の城下町建設の流れ
通史編1(古代・中世) (大浦氏関係の中世城館跡)

大浦氏関係の中世城館跡 鯵ヶ沢町種里城跡や岩木町大浦城跡などは開発に伴う発掘調査が行われている。 / 大浦氏関係の中世城館跡
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

湊であり、このころまでには夷島への通路としても機能していたと思われ(資料古代・中世No.一〇二五)、大浦氏,天正期に、喜良市(きらいち)(現金木町)にも八重・左助という二人の「狄之酋長(しゅうちょう)」がおり、大浦氏,大浦氏は、南部氏との間での飯詰(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄,大浦氏は、南部氏との間で土地の「取り合」と「伐取」を繰り広げ、そこで「伐取」した地域には、町立を行うといった
通史編2(近世1) (外浜の掌握と開発)

さらに、大浦氏は、「高野・荒川両村ニ而知行高五十石被下置」(「相馬安左衛門由緒書抜」国史津)とあるように,外浜筋法令如形ノ御沙汰アリ」(資料古代・中世No.一〇五九)というように、油川とともに城番が設置されており、大浦氏,すなわち、大浦氏にとって外浜東部は、開発と対南部氏という軍事的な備えとが同居する地域であった。
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

後に「津軽氏」を名乗る大浦氏の歴史はここに始まる。,その後、大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信は種里城に没し、光信の嫡子盛信が大浦城にあって跡を継ぐ。,子為則が継承し、四代為則の跡は、永禄十年(一五六七)婿養子として入った為信(後の津軽藩初代)が継いで大浦氏五代目,この間、大浦氏は「大浦屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

当市域においては石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、
通史編2(近世1) (まえがき)

十六世紀末、大浦氏の豊臣政権との接触から明治四年(一八七一)の廃藩置県に至る約三〇〇年間の、弘前市を中心,時期的には、前述のように十六世紀末における大浦氏の豊臣政権との接触から、幕末期安政年間(一八五四~五九
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

為信の出自については定かでなく、南部側の資料では、久慈信義の異母弟弥四郎が兄と不和になって津軽に逃れ、大浦氏,になったとしているが(「南部久慈氏系図」)、戦国時代において堀越の地に城館があり、その主が「堀越氏」を名乗り、大浦氏
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,このように当市域の南側に位置する石川地区は南部氏にとっても、また大浦氏にとっても非常に重要な場所であった,なお、大浦氏は堀越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団,そして、国吉館といった大浦氏の重臣居館であっても、さらにその居館を中心としたネットワークが存在していたであろうことも
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、大浦氏が本拠とした大浦城との関係であり、さらに、この地が津軽平野,そして、彼らは国吉館の館主関氏を盟主にしつつ、大浦氏の「側近」としてその直属の軍事力を構成したのであった
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

当市域の中世都市の発生をみると、やはり領主(大浦氏)の政策的な考えの中で意図的に城下町(都市)が作られていったということができる
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そして、こうした浪人・武士を自らの家臣団に編成しえたところに、新興勢力大浦氏の特徴があったという。
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

そしてこの福村城は、大浦氏が元亀二年(一五七一)に大浦城を築いた時に、その支城のひとつとして造られたと
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

つまり藤崎城は「街道」というものを意識し、さらに宗教施設を一定の空間を設けて建設している点で大浦氏の発想,このことは藤崎城を管轄していた権力者が、種里や大浦・堀越といった大浦氏の城下町建設の発想とは異なった、
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

また、大浦氏と南部氏との対立抗争の要因は、津軽の統一や下剋上などといったものではなく、土地の取り合いと,天正九年(一五八一)前後に西浜(にしはま)地域で起こった「西浜蜂起」によるアイヌ民族との抗争の結果、大浦氏
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、主君為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信が種里城で没した。
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

城館に多数搬入されていることが知られることから、「津軽一統志」の文禄三年居城移転を裏付けるとともに、大浦氏
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の大浦氏(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行,しかし、南部盛信が「大浦ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も大浦氏や浪岡御所北畠氏などとともに
通史編1(古代・中世) (大浦城築城以前の城館跡)

これらの上新岡館・下新岡館跡の周辺の城館跡は、大浦氏が入ってきたことにより消滅したのか、あるいは一部の
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

光信は大浦城に長子の盛信を置いて大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのまま居住していたようである。
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

五 大浦城と「城下」の構造 大浦城は戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

②の大浦城は、大浦為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした大浦氏四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

、下国安東愛季の娘を正室として姻戚関係を結び、安東氏との関係強化を図ったが、最終的には新たに台頭した大浦氏
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

既述の安藤氏の津軽山王坊や修験的先達をはじめ、北畠氏の京徳寺、武田氏の宗徳寺、津軽氏の藤先寺、大浦氏の
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

……………………  6   第一章 統一政権と北奥の動向 …………………………………  1 第一節 大浦氏
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天文十三年(一五四四)、弘前親方町竹内氏、この年より先祖嘉右衛門が十三湊にて大浦氏の廻船御用を務めると
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●天正十八年(一五九〇)、この頃、大浦氏に扶養されていた浅利頼平、秋田氏の比内回復後、同地へ復帰する。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

寛永諸家系図伝 288 ●天文十三年(一五四四)、弘前親方町竹内氏、この年より先祖嘉右衛門が十三湊にて大浦氏
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