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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正三年(一五七五)八月、大浦為信、大光寺城を攻めるという。,大浦為信と愛季・茂季の通交が記される。,●天正十三年(一五八五)五月、大浦為信、田舎館城を攻略するという。,●天正十四年(一五八六)正月、大浦為信、猿賀神宮寺を祈願所となすという。,●天正十五年(一五八七)正月、大浦為信、堀越城を修築するという。
通史編1(古代・中世) (合戦の方法)

ることができるものとしては、天正七年(一五七九)七月に下国安東愛季が津軽に侵攻し、乳井(にゅうい)・六羽川で大浦為信勢,もし、この六羽川の合戦で大浦為信が討ち死にしていたとしたならば、津軽の歴史もまた違ったものとなっていたことであろう,南部安信が藤崎城主安東教季を城中で討ち取った合戦(史料八九九・九〇〇)、元亀二年(一五七一)五月五日夜に、大浦為信,さらに天正四年(一五七六)正月元旦に、大浦為信は大光寺城を攻撃し、城代の瀧本重行(たきもとしげゆき)は,このように戦国期の津軽領内での合戦方法、とくに大浦為信の合戦方法のほとんどは攻城戦型の合戦方法が用いられているという
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

この後、奥羽の地は大浦為信・安東愛季・南部信直らとの間で一時的な均衡状態が保たれるが、天正九年(一五八一,この時、大浦為信は、浅利勝頼の子頼平を援助し、浅利氏遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて,実季は檜山城に逃れ、由利地方の小名や夷島の蠣崎(かきざき)氏、津軽の大浦為信の支援を得て、檜山城に籠城
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、大浦為信の津軽統一作戦において,そして戦国時代末期、大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから、子の乳井大隅建清は大浦為信,天正六年(一五七八)七月、大浦為信は波岡城を攻略し、当主北畠顕村を自害させて名門波岡御所を滅亡させた。
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

文献史料から見た戦国動乱の激化 当市域の中世末から近世初頭にかけての幕開けとなった中心的人物は大浦為信,大浦為信が、一次史料の文書に登場するのは天正四・五年(一五七六・七七)ころである。  ,戦国時代の津軽地方では、大浦為信を中心として領土拡大や勢力拡大の野望による侵攻が激しく行われていた。
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏に備えて、大浦為信
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

また元亀二年(一五七一)、大浦為信がこの城を急襲、陥落させて、独立の第一歩をしるしたことでも知られる。,②の大浦城は、大浦為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした大浦氏四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。,天正七年(一五七九)、娘婿の波岡御所北畠顕村を滅ぼされた脇本・檜山城主下国安東愛季の軍勢が、津軽に侵攻して大浦為信
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す
通史編2(近世1) (外浜の掌握と開発)

天正十三年(一五八五)、大浦為信は油川城(あぶらかわじょう)(現青森市)を攻撃し、外浜地域の掌握に着手
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

戦国時代末期に大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

この大浦為信の時期、三戸南部家では当主晴政に実子晴継(はるつぐ)が誕生し、家督継承をめぐって養子信直を
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

しかし、大浦為信は戦国末期の動乱の中で、独立を目指して行動を開始。
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

本庄繁長(ほんじょうしげなが)勢の支援を得た赤宇曾治部少輔(あこうづじぶのしょう)らの由利勢のほか、津軽の大浦為信
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

大浦城と大浦城下町 大浦為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡大浦を中心とした地域であり
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

しかし、元亀二年(一五七一)五月、大浦城主大浦為信は謀略をもって石川城を急襲。
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

浅利頼平の比内帰還 翌天正十八年(一五九〇)、津軽での独立化を図る大浦為信は、安東実季・九戸政実と結
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

庄内の大宝寺義氏、大浦為信の浅瀬石ほか十余ヶ城攻略と大光寺城攻めを賀し、その後の情勢を尋ねる。,大浦為信と愛季・茂季の通交が記される。,大光寺勢とするのは誤り)、津軽に侵攻し、乳井・六羽川にて大浦為信勢と戦うという。,浅水城主南慶儀、八戸政栄と書を交し、津軽の大浦為信対策と南部家中統一の手だてについて策す。,南部氏側では大浦為信の謀略による毒殺と伝える。
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

大浦為信も天正十八年十二月に前田利家とともに上洛しており(資料近世1No.二七)、これらの北出羽大小名
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

現に、その初め、大光寺(だいこうじ)(平賀(ひらか)町)に岌禎を開山として建立された貞昌寺は、大浦為信
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

………  434    二 南部氏の津軽平定と石川高信 ……………………………  443    三 大浦為信
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●天正十七年(一五八九)八月二十日、加賀金沢城主前田利家、南部信直へ書状を遣わし、大浦為信に叛逆の動きあること,●天正十八年(一五九〇)三月、大浦為信、秋田の湊安東実季と盟約を結び、波岡城を攻略し、津軽一円を領有するという,●天正十八年(一五九〇)、この年、大浦為信、碇ヶ関道を開鑿するという。
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