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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

(3) 津軽氏の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,大浦の地は戦略的要地ではあるが、津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠としては不十分だったからである,』)、あるいは「寺院並町々共大浦より堀越へ移る」(『封内事実秘苑』)と伝えられている。,つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった寺院と町、それに津軽氏の家臣団であった。,正しければ、堀越城では家臣団の集住が進められただけで、領内の寺社・商工業者の城下集住は未達成であり、津軽氏 / (3) 津軽氏の政庁としての堀越城
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

二 大浦城の歴史 すでに述べたように、大浦の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば,後に「津軽氏」を名乗る大浦氏の歴史はここに始まる。,さらに文亀二年(一五〇二)、南部大浦光信は「花輪郡賀田郷」の地に築城、「大浦ノ城」と名付け、嫡子盛信を,この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の,したがって、大浦城はこの時期に近世大名津軽氏の本拠として大幅な改造を施されたと思われ、現在見る遺構は基本的 / 二 大浦城の歴史
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,光信は大浦城に長子の盛信(もりのぶ)を置いて(史料八七七)、大浦氏を名乗らせ、光信自身は種里城にそのままとどまったことになっている,そして大浦盛信の子である為信が大浦城を拠点として津軽地域の領土拡張に向けて動き出していく。  ,為信は天正十八年(一五九〇)から文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城,をはじめ商・工業者の集住に対する取り組み、さらには宗教施設や寺院などの配置を明らかにしていくことにより、津軽氏 / 大浦氏の城下町建設の流れ
通史編2(近世1) (三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)

三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(,大名の居城にはその権力の特徴が顕著に現れており、この居城移転の過程と居城の構造は、津軽氏が戦国大名から / 三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城の構造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから,「西根(にしね)」とも称され、大浦城は「西根城」とも称された。  ,大浦城跡は、弘前城の西方約四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代(ごだい)字早稲田(旧門前村)にあり、,図23.大浦城縄張り推定復元図  大浦城の城下町は、大浦城の東側(現在の賀田地区)が旧城下町であり,図24.大浦城・城下町跡の航空写真  大浦の地は、津軽氏が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その / 大浦城の構造
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

一 大浦城の立地と現状 大浦城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田,大浦城はまた、地名を取って「大浦賀田城」(『新撰陸奥国誌』)「八幡城」(慶安二年「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳,大浦城は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、津軽氏のルーツをなす城の,大浦城の周辺(旧城下町地区) 百沢街道と大浦城の大手 大浦城の城下,賀田地区 図,17 大浦城跡位置図 大浦城跡の航空写真(昭和40年代撮影) / 一 大浦城の立地と現状
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

五 大浦城と「城下」の構造 大浦城は戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四,)の五年間は、近世大名津軽氏の領国支配の本拠でもあった。,賀田の集落は、大浦城の廃城以後、新たな都市的発展はなかったと思われるから、この地割が造られたのが大浦「,以上から判断される大浦城下町の特徴は、第一に、大浦城下を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたこと,こうした意味で、大浦「城下町」は、まさしく中世都市の段階にとどまっており、津軽氏が近世大名に飛躍しようとすれば / 五 大浦城と「城下」の構造
通史編1(古代・中世) (大浦城築城以前の城館跡)

大浦城築城以前の城館跡 大浦城が築城される以前の大浦城周辺では、新岡(にいおか)地域を中心とした城館,なお、新岡地区は、大浦城が作られている場所よりも北側に位置し、水田地帯が広がる平野部に近いところに位置,図68 大浦城築城以前の城館ネットワーク(新岡地域を中心として)  遺構の状況などからみると、下新岡館跡,などによると一五世紀の下国義季(しものくによしすえ)陣城とも伝えられ、さらに可能性としては一六世紀に起こった津軽氏,これらの上新岡館・下新岡館跡の周辺の城館跡は、大浦氏が入ってきたことにより消滅したのか、あるいは一部の / 大浦城築城以前の城館跡
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和・大浦,堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年,それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自らを近世大名へと成長させてゆくステップでもあった。,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,って国道七号石川バイパスが建設されたが、昭和六十年(一九八五)、先に指定されていた弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城,れる平川のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがしね)」地方と、鼻和・大浦,大浦の地は戦略的要地ではあるが津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに,堀越城の拠点化は、同地帯の経営を容易にし、領内全域への近世的支配を及ぼす契機をなし、津軽氏が近世大名へと,それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自ら近世大名へと成長してゆくステップでもあった。
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。,その他、当市域外ではあるが津軽氏に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

藩政前期為信 津軽地方の統一は、津軽氏の初代為信が天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され,文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,寺社の縁起によると、津軽氏の先祖大浦氏より菩提寺としていた長勝寺(ちょうしょうじ)を種里から、法立寺は,大浦城下賀田(よした)から、安盛寺(あんせいじ)は深浦から移転させた。
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,「津軽氏系譜(歴譜)」は、大浦為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって,堀越紀伊守守信と名乗り、その子為信が為則の養子となって大浦城主を継いだと記す。,、しばらく堀越にいて町(町居)飛鳥(守信の母方の従兄弟)に扶助され、のち、為則の養子となって堀越から大浦,為信の出自については定かでなく、南部側の資料では、久慈信義の異母弟弥四郎が兄と不和になって津軽に逃れ、大浦氏
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

しもむら)氏らはわずか一ヵ村のみを知行する小名であるが、豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆・秋田氏、そして津軽氏,津軽氏や南部氏については、現在のところ石高表記の朱印状が確認されていないが、天正十九年の十月までには両氏,に朱印状が発給されたとされており、津軽氏の場合、約三万石の領知を認められ、ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地,津軽氏が居城を大浦城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に高岡城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、,、豪商の経済力によって領国支配を強化するとともに、京都への交通を握る敦賀・小浜の豪商を通じて南部氏や津軽氏
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

浅利頼平の比内帰還 翌天正十八年(一五九〇)、津軽での独立化を図る大浦為信は、安東実季・九戸政実と結,この浅利氏没落の時、頼平は津軽へ逃れ、以後十数年ばかり津軽氏が抱え置いた。,その間、浅利氏の知行は安東氏で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平,図33.戦国末期の北羽の大名・小名  安東氏と津軽氏は、湊合戦により秀吉の惣無事令違反は明白であったが,奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,さらに近世大名津軽氏の権力の形成と津軽地方における中世末から近世初頭への移行期の様相を明らかにするうえで,しかしその規模は小さく、津軽領内の寺院や商工業者を集住させるには不充分なものであったことから、津軽氏は,大浦城と大浦城下町建設の発想からはまだまだ抜け出すことができなかったということがわかる。  ,津軽氏が近世大名として津軽領内を掌握する政庁的性格をもたせようと作った堀越城下町ではあったが、十分に対応
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

るまで世襲していた松山・松井家の由緒をみてみると、ともに、近江国坂本の出身であり、文禄二年(一五九三)に大浦,これらの開発に従事した松井家は、津軽氏の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・十三湊、ひいては、
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 大浦城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫,図20 大浦城縄張り推定復元図  大浦城の大手虎口は、百沢街道が東から西へと直進し、城に突き当たった,以上のように、最終段階の大浦城は六つの曲輪から構成されていた。,そのほか「折り」の多用、水堀の規模の大きさ、土塁の規模、石垣の使用(ただし本丸虎口のみ)など、近世大名津軽氏,図21 大浦城跡の現状写真と模式図 図22 大浦城跡の現状写真と模式図
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

また文亀(ぶんき)二年(一五〇二)には光信が大浦(おおうら)(中津軽郡岩木町)に築城し、嫡男盛信(もりのぶ,光信・盛信親子が戦国時代末期に津軽地方を席巻し、近世大名へと発展する大浦-津軽氏の祖とされているのはいうまでもない,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の大浦氏(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行,しかし、南部盛信が「大浦ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も大浦氏や浪岡御所北畠氏などとともに
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

この過程で南部氏は、延徳三年(一四九一)、一族の南部光信(津軽氏の祖先)を西浜種里城に、明応七年(一四九八,)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部させ、さらに文亀二年(一五〇二)には大浦城を築いて、南部光信の子盛信,こうして南部氏の勢力は大きく津軽に及ぶようになったが、光信の子、盛信が「大浦屋形」と呼ばれ、「大名」として,しかし、元亀二年(一五七一)五月、大浦城主大浦為信は謀略をもって石川城を急襲。,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自大浦大わに(大鰐)被攻候而、
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

市域外であっても、岩木町の大浦城跡、平賀町の大光寺城跡、藤崎町の藤崎城跡など、この地方の歴史に大きな意味,① 石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ,また元亀二年(一五七一)、大浦為信がこの城を急襲、陥落させて、独立の第一歩をしるしたことでも知られる。,②の大浦城は、大浦為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした大浦氏四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。,そして、③の堀越城は、為信の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

……………………  6   第一章 統一政権と北奥の動向 …………………………………  1 第一節 大浦氏,………………  41   二 肥前名護屋での「日本之つき合」 …………………………  54   三 大浦, 104   第二章 幕藩体制の成立 …………………………………………  117 第一節 徳川政権と津軽氏,の動向 ……………………………………  118   一 慶長五・六年の動乱と津軽氏 ………………………
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

その中には、堀越城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」)、公有地化も進められて,文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

………………………………………………………  四六六   一 大浦城の立地と現状……………………………,………………  四六六   二 大浦城の歴史……………………………………………………  四七〇   三, 大浦城「縄張り」の復元………………………………………  四七一   四 城館の構造………………………,………………………………  四七四   五 大浦城と「城下」の構造………………………………………  四七九, 四八八    (2) 戦国時代の堀越城…………………………………………  四八九    (3) 津軽氏
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

既述の安藤氏の津軽山王坊や修験的先達をはじめ、北畠氏の京徳寺、武田氏の宗徳寺、津軽氏の藤先寺、大浦氏の
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●天正十八年(一五九〇)、この年、大浦為信、碇ヶ関道を開鑿するという。,●文禄二年(一五九三)、この頃津軽氏、京都・大坂・敦賀・駿府に屋敷を構えるという。,●慶長三年(一五九八)八月二十六日、津軽信建、秋田実季へ書状を遣し、浅利頼平の身上につき、津軽氏の無関係,●慶長七年(一六〇二)三月二十六日、参議西洞院時慶、津軽氏のため、太刀・装束を作内某へ依頼する。,●慶長十四年(一六〇九)四月二十六日、幕府年寄衆、津軽氏へ奉書を下し、下総海上(うなかみ)の船入普請を
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