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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(大火と上水道設備の向上)
大火
と上水道設備の向上 昭和の弘前は
大火
から始まった。,富田の
大火
は、全焼六一〇戸、半焼一九戸、死者一人、負傷者四二二人を出す文字どおりの
大火
となった。 ,市内の大半を焼失させた
大火
は、市民に大きな影響を与えた。,水道設備が貧弱であり、消火対策が不十分だったことも、
大火
を引き起こした遠因であった。,
大火
が水道設備を向上させる一つの歴史的契機となったわけである。 /
大火
と上水道設備の向上
通史編5(近・現代2)
(大火の遺産と廃娼運動)
大火
の遺産と廃娼運動 二度の
大火
で弘前市の街並みは一変した。,しかしながら
大火
は別の歴史的意義をもたらしている。,そこへ富田の
大火
が起きた。,
大火
で話題となった遊郭移転問題や貸座敷制度への反対運動は、単に町の浄化問題から叫ばれていたのではない。 /
大火
の遺産と廃娼運動
通史編5(近・現代2)
(富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)
富田
大火
と第一・第二大成小学校の焼失 昭和三年(一九二八)四月十八日午前十一時四十分、市内富田師団通,りの民家物置から出火した火事は、折からの南東の強風にあおられて、前年の「和徳の
大火
」に引き続いて、二年続,きの
大火
となった。,これを「富田の
大火
」と呼び、焼失区域は富田大通りの一部、偕行社通りの一部、住吉町、品川町、松森町一部、,この
大火
によって第一大成小学校、第二大成小学校の二校が同時に焼失した。 / 富田
大火
と第一・第二大成小学校の焼失
通史編4(近・現代1)
(第二大成小学校の焼失)
第二大成小学校の焼失 大正六年五月十八日、清水村富田(現弘前市富田一丁目)の民家から出火、
大火
となり,
大火
は富田本村から品川町、新品川町、土手町、松森町、楮町、新楮町、豊田村外崎に延焼、全焼家屋は五三三戸,写真181 大正6年富田
大火
火元附近の焼け跡
通史編3(近世2)
(人家の火災)
特に集落内で火災が発生すると、消防力が弱いため、風がある時にはすぐ付近に延焼し
大火
となる場合が多かった,二〇軒以上焼失した
大火
は幕末まで多数みえるが、農村では一月~四月、すなわち冬から春にかけて圧倒的に多く,触書類は火災の頻発と
大火
の発生に対して、火災を未然に防ごうとする法令であった。,表34.享保20年以降の津軽領内における
大火
国日記 内 容 備 考 元文2年3月17日条 火の
通史編5(近・現代2)
(相次ぐ火災)
昭和戦前期には昭和二年の北横町と、昭和三年の富田町の
大火
しかない。弘前市は空襲による罹災もなかった。,けれども戦前期の二つの
大火
は前者が全焼三〇〇戸以上、後者が六〇〇戸以上という莫大な被害を出している。,写真238 市立津軽病院火災 戦前の
大火
がそうであったように、戦後の度重なる
大火
・小火が街並みを
通史編3(近世2)
(屋根の材料)
幕末の天保期に入ると、天保元年(一八三〇)六月六日に油川(あぶらかわ)村(現青森市)の
大火
で六〇軒が全焼,江戸時代を通じて、消防力が弱体であったため
大火
になることが多く、二桁~三桁の類焼軒数はめずらしくなかった
通史編3(近世2)
(山林の火災)
④失火を例年の野火だと軽く考えると、消火が遅れて
大火
となる場合がある。,それは、集落内の
大火
よりも消火が困難で、繁茂している立木の焼失による損害が大きかったからであろう。
通史編4(近・現代1)
(行在所の奉迎ぶり)
絵画や著書などを献上して旅情を慰め、また、中津軽郡長笹森儀助と弘前町民総代は行在所に伺候して、前年の
大火
,この経路に当たった本町五丁目、一番町、下土手町の界隈(かいわい)一帯は、前年の
大火
災で焼け野原と化したにかかわらず
通史編1(自然・原始)
(三 津軽地方災害年表凡例)
記載中の空気乾燥害としての火災の場合、
大火
の焼失戸数のいちおうの基準を、第一部ではおおむね三〇戸、第二部
通史編5(近・現代2)
(弘前幼稚園類焼)
弘前幼稚園類焼 昭和三年(一九二八)四月十八日、弘前幼稚園はいわゆる「富田の
大火
」で第一大成小学校とともに
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
信政は、明暦三年(一六五七)の江戸
大火
の時、和徳稲荷と名のる老人の道案内で柳原中屋敷へ避難したところから
通史編5(近・現代2)
(富田小学校の弘前移管と焼失)
四月十八日の「富田の
大火
」で第一・第二大成の二校を焼き、今度は富田小学校と一年間に三校を焼失したのでは
通史編4(近・現代1)
(時敏小学校の創設)
)に校舎を新築、六日に竣工の式を挙げた(注、盈進小学〈校〉は十年六月百石町に創立され、十三年五月弘前
大火
通史編4(近・現代1)
(柾木座焼失と弘前座)
この日は奇しくも明治十三年に同座から起こった火事が付近一帯へ延焼した
大火
の記念日に当たり、しかも市役所
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
24日 火災 岩崎村(赤石組) 59軒焼失 元文2(1737) 3月19日 火災 青森
大火
,75軒・2ヵ寺焼失 1月 流行病 領内 狂犬病流行 2月20日 火災 青森
大火
,#160;4月14日 火災 油川 30軒焼失 延享元(1744) 5月11日 火災 弘前城下
大火
,10人,家屋倒壊・流失,家屋浸水,田畑冠水 延享4(1747) 3月21日 火災 青森
大火
通史編5(近・現代2)
([口絵])
4 真冬の土手町十文字 口絵5 竹内醤油店(土手町) 影 口絵6 昭和二年和徳
大火
,(久一呉服店土蔵の前) 口絵7 昭和三年富田
大火
(第一大成小学校焼跡にて) 口絵8
通史編3(近世2)
(災害と生活)
○江戸の
大火
――「江戸日記」享保六年(一七二一)三月四日・八日条、五月四日条。 ,この
大火
により、津梁院(しんりょういん)(藩主家の菩提寺)へ近火見舞のため物頭格(ものがしらかく)の藤岡三左衛門
通史編4(近・現代1)
(新鍛冶町の方円館)
しかし、わずか二年足らずの昭和二年に、北横町の遊郭から出火した
大火
で焼失している。
資料編3(近世編2)
(1 神田の上屋敷)
かなり長く用いられていたが、承応三年(一六五四)に焼失しており、さらに明暦三年(一六五七)に「明暦の
大火
資料編3(近世編2)
(3 柳原の中屋敷)
3 柳原の中屋敷 史料に「中屋敷」の名が見えるのは『津軽史』の明暦
大火
の記事である。
通史編5(近・現代2)
(市がもっとも力を注いだ水道行政)
大火
やトラホーム・伝染病など、災害や衛生問題が水道行政の歴史を大いに向上させる背景になっていた。
通史編3(近世2)
(本町の繁栄)
延享元年(一七四四)五月の
大火
によって、本町一丁目~五丁目のほかに覚勝院町(かくしょういんちょう)(後
通史編5(近・現代2)
(バス事業の復興・伸展)
しかし、終戦を挟んで起きた二度の五所川原
大火
によって、本社社屋をはじめ会社の諸施設の大半が焼失する被害
通史編3(近世2)
(南溜池の成立)
図36.正保2年「津軽弘前城之絵図」南溜池部分 慶安二年(一六四九)五月の寺町
大火
によって、現在
通史編5(近・現代2)
([付図])
)〈昭和2年〉 3 清水村富田地区~弘前市への合併記念写真〈昭和3年〉 4 富田
大火
通史編5(近・現代2)
(市域の整備と町村合併)
市域の整備と町村合併 相次ぐ
大火
で、遊郭移転問題など、市街地の整備が焦点となった。
通史編3(近世2)
(火災)
特に城下の三大
大火
と称されるのは、慶安・延宝・延享の火災である。
通史編4(近・現代1)
(蝦夷の月)
明治四十年九月、函館
大火
の見舞いに本多は北海道に赴いたが、旭川まで足を延ばした。
通史編4(近・現代1)
([口絵])
口絵48 創立当時の官立弘前高等学校 †弘前大正事象† 口絵49 大正6年富田の
大火
通史編3(近世2)
(信政)
明暦三年(一六五七)の江戸
大火
の時、信政は神田上屋敷から柳原中屋敷へ避難する際、和徳稲荷と名のる老人に
通史編3(近世2)
((三)住居)
(三)住居 江戸でははじめ板葺の屋根が多く、瓦の屋根は贅沢であると禁じられていたが、度重なる
大火
のため
資料編2(近世編1)
([口絵])
大火
に遭う前の元寺町の寺院街が描かれている。
通史編2(近世1)
(騒動の背景)
さらに凶作の影響による商業不振と、七月十日の青森
大火
は、一層状況を悪化させ、打ちこわしを誘発する引き金
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
慶安二年の「弘前古御絵図」 慶安二年(一六四九)五月の寺町
大火
直後の弘前城下を描写したものであるという
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」の編纂まで)
ところが、明暦三年(一六五七)、いわゆる「明暦
大火
」によって津軽家の神田小川町上屋敷も罹災(りさい)し
通史編5(近・現代2)
(市の衛生対策と生活改善運動)
市の衛生対策と生活改善運動
大火
は水道設備の必要性を高めたが、同時に市民に衛生問題の重要性をも植え付
通史編5(近・現代2)
(昭和弘前市民の一側面)
昭和弘前市民の一側面
大火
に始まった昭和の弘前市は、たしかに一面で金融恐慌による不景気が広がり、「昭和六年大凶作
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
すなわち慶長七年(一六〇二)、為信とともに黒石の城にいた時、顔や髪に
大火
傷を負った。
通史編5(近・現代2)
(新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)
戦前・戦中の弘前 1 第一節 軍都弘前の展開 ……………………………………………… 2 一
大火
,783 一 岩木川の氾濫と大水害 ……………………………………… 783 二 相次ぐ台風と
大火
災
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