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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (大行院)

大行院 大行院(だいぎょういん)は、真言宗醍醐寺三宝院(現京都市)の末寺で、領内修験司頭として大峰派,「堂社縁起修験道由緒」(資料近世2No.四一二)によると、近江国飯道寺岩本院の袈裟筋にあたる大行院永尊,図223.大行院跡にある天満宮 / 大行院
通史編3(近世2) (修験)

修験 修験の大行院(だいぎょういん)は修験司頭として、真言宗醍醐(だいご)派(当山派)の大峰派に属する,同前No.三九九)には、大峰派六六人、羽黒派六人を数え、心応院は熊野宮(現熊野奥照神社)境内にあって大行院支配,宝暦六年(一七五六)に大行院から寺社奉行に対し、神職が霞内で修験の祈祷を排除する動きに抗議が出された。
通史編3(近世2) (心応院)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、大行院支配となっているが、弘化二年(一八四五
通史編3(近世2) (祈祷の地としての南溜池)

次いで、翌日には大行院に「請雨御祈祷」が命じられ、白狐寺境内の南溜池に張り出した出崎に壇場を設定して、
通史編3(近世2) (神職の扱い)

このため、宝暦年間(一七五一~六三)においても、火防・地祭の神事で神職と大行院配下の修験者との抗争が続
通史編2(近世1) (僧侶・神官対象の司法制度)

そうろくじょ)(例―浄土真宗では弘前城下の真教寺(しんきょうじ))・修験司頭(しゅげんしとう)(例―弘前城下の大行院
通史編4(近・現代1) (まえがき)

 今年の桜が頂点を極めた一日(いちにち)、これまで筆硯(ひっけん)を庇護していただいたお礼に大行院
通史編3(近世2) ((二)富籤興行)

興行主は黒石上ノ坂(かみのさか)宮・大円寺・大行院・茶臼館(大行院配下の修験)・本行寺・東照宮神主山辺丹後
通史編2(近世1) (天保飢饉と一揆・騒動)

村々で時疫(じえき)が流行しているので、大圓寺で疫病退散の祈祷をして薬を配ったり、また翌九年三月に、大行院
通史編3(近世2) (神仏分離政策の転換)

明治三年末には一六人しか復飾する者がいなかった修験者は、明治四年に入って二九名に増加し、修験者の頭であった大行院
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

川端町・森町・新楮町(現御幸町付近)、富田町と桝形(ますがた)、宇和野下屋敷などや、春日祠・慈雲院・大行院
通史編4(近・現代1) (大区小区制の成立)

新屋敷は上白銀町、大行院門前・長勝寺山内・同門前・耕春院門前は西茂森町、裏門前は茂森新町、貞昌寺門前・
通史編3(近世2) (社家・修験隊の組織)

手薄な所へ応援を命ずるとして、社家隊諸事取締役を斎藤長門・小野若狭・長利(おさり)薩摩へ、修験取締役を大行院
通史編3(近世2) (藩政後期)

これは最勝院配下の神職に限られているが、大行院支配下でも実施されたことが伝来する書上の控から判明する。
通史編3(近世2) (居開帳)

宝永七年(一七一〇)に堂社が焼失したため、再建のための開帳が青森・鰺ヶ沢町で認められ、修験触頭大行院・
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