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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) (大鰐1~25)

大鰐1~25 大鰐1 南大鰐町蔵館字村岡-大円寺墓地- 大鰐2 南大鰐町蔵館字村岡-大円寺墓地-,大鰐3 南大鰐町宿川原字川崎-山田美佐雄氏地所- 大鰐4 南大鰐町宿川原字川崎-山田美佐雄氏地所-,大鰐5 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐6 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐7, 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐8 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐9 南大鰐町三,ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐10 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐11 南大鰐町三ッ / 大鰐1~25
資料編1(考古編) (14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ))

14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ) 村岡・長谷(1990)の命名による。,模式地は、大鰐町大鰐スキー場付近。,大鰐町唐牛(かろうじ)西方、大鰐スキー場付近、弘前市石川南方の3地域に分布する。,大鰐スキー場付近では、下部の約50mが巨礫~大磯の亜角礫を多量に含む礫層から成る。 / 14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ)
通史編5(近・現代2) (本県スキーの父・油川貞策)

翌四十五年一月五日から三週間の講習会に参加し、レルヒ少佐からスキー技術を学んだ第八師団の四人の将校の中に、大鰐町出身,したがって、大鰐町のスキーの歴史はわが国のスキーの歴史とその軌を一にしているといえよう。  ,油川中尉の全面的な指導を得ながら、大鰐町は〈競技スキーのメッカ〉として全国にその名を轟(とどろ)かすことになる,大正十四年(一九二五)一月十四日に開催された、大鰐での初めての全国大会「第三回全日本スキー大会」に油川,当時、第三一連隊の中隊長だった油川は、「本日の演習は大鰐町あじゃら山方面」と号令をかけ、毎日のように演習
通史編5(近・現代2) (石川町、弘前へ合併)

ところが、弘前・石川合併に対して、反対していた「分市大鰐町合併派」の八幡舘、森山、鯖石、小金崎の四部落民,は、三十四年二月十四日、石川中学校に押しかけ、四部落から通学している同校生徒五六人を、全員大鰐中学校に,これは、法務局弘前支局が違法として、大鰐町に勧告して収まったが、同年四月八日、分市派の乳井部落では小学生,その後も分市派の運動は断続して行われたが、昭和三十八年九月三十日、弘前市議会は森山・八幡舘両部落の大鰐町,への分市を可決、十月一日、大鰐町議会は受け入れを可決して、弘前市と石川町の合併問題はようやく終止符を打
通史編5(近・現代2) (石川町の存在)

県は大鰐・蔵館両町の合併に石川町と碇ヶ関村を取り上げていたし、弘前市も弘前電鉄の開通から石川町との合併,しかし碇ヶ関村が自立に固執し、石川町が弘前市との合併交渉に取り込まれている間に、大鰐・蔵館両町は単独合併,昭和二十九年(一九五四)七月一日、大鰐町の誕生である。
通史編1(自然・原始) (白神山地)

白神山地 岩木火山および弘前盆地の背後には白神山地と、隣接する大鰐山地が東西方向に連なり、青森・秋田県境,出羽山地の延長にあたる白神山地および大鰐山地には白神(しらかみ)岳・向白神(むかいしらがみ)岳・尾太(
資料編1(古代・中世編) ([付図])

白山神社御神体 131・132 弘前市小友字宇田野 小友小学校校門横 133 弘前市十腰内字猿沢 寺庵跡付近 大鰐,1・2 大鰐町蔵館字村岡 大円寺墓地 3・4 大鰐町宿川原字川崎 山田美佐雄氏地所 5~18 大鰐町三,ツ目内字富岡 阿弥陀堂跡 19 大鰐町森山字古館 森山共同墓地 20・21 大鰐町八幡舘字水入 土岐大佶郎氏園地,22 大鰐町八幡舘字水入 阿部守喜氏地所内 23~25 大鰐町八幡舘字八幡舘 観音堂 平賀 1~5
通史編5(近・現代2) (本県初の鉄道電化)

 昭和二十七年(一九五二)には、弘前市に二社目の私鉄が開業することになり、弘前市中心部と南津軽郡大鰐町,当初の計画では、大鰐町から弘前市を経て北津軽郡板柳町までの路線と、弘前市から中津軽郡西目屋村までの路線,をつくる予定であったが、資金が思うように集まらず、結局弘前-大鰐間の第一期工事でで完了となった。
資料編1(古代・中世編) (四 板碑の様式と石質)

大鰐町周辺の板碑は、宿川原~大鰐間の鶴ヶ鼻から産する石英安山岩が利用され、分布範囲は平川下流部の弘前市外崎,大鰐町三ッ目内の板碑群の中にも、比較的大型の碑が含まれている。
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

延久蝦夷合戦と津軽 この乳井から大鰐にかけての南津軽地方は、中世前期において津軽全体の政治的・文化的中心,をなしていたと推測されており、福王寺以外にも、後白河上皇の創建と伝えられ「津軽国分寺」の伝承(史料五二二)をもつ大鰐町蔵館,写真75 高伯寺跡(大鰐町)  とはいえ、延久合戦後の津軽・比内・鹿角・糠部など、北緯四〇度以北,しかもそうした高地性集落の一つである大鰐町砂沢平遺跡では、一一世紀の後半、その集落の最終時期に切岸が整備
通史編4(近・現代1) (鉄道の開通と運輸事業)

、馬車台数二八輌で、同盟員は青森五人、弘前三人(田辺粂吉・福津兼蔵・鹿内友蔵)、碇ヶ関二人、蔵館(現大鰐町蔵館,)三人、大鰐二人、小湊(現平内町小湊)一人、野辺地一人で構成され、相当広い営業圏を持っていた。,新城 大釈迦 浪岡 弘前 大鰐 碇ヶ関運賃 八・五銭 二三銭 三〇・五銭 五五・五銭 七三銭 八八銭
通史編5(近・現代2) (景気回復後の弘前市の商業)

五能線沿線   薬品 A 市内個人,官公立病院,深浦,鰺ヶ沢,北,南,西各郡   B 市内各病院,浪岡,大鰐,,尾上,目屋,石川,平賀,猿賀   C 市内各病院,南郡,北郡,市周辺   陶器 A 黒石,大鰐,浪岡,市内,南,中,西,北郡,五能線沿線 90% B 中,南郡,市内 70% 食料品 A 船沢,相馬,目屋,大鰐,,水木,吉田   B 鰺ヶ沢,五所川原,大鰐,黒石,相馬,船内,五能線沿線   C 西,南,北の各郡,
資料編1(古代・中世編) (七 板碑の発見と保護の状況)

       一基  中津軽郡岩木町如来瀬  一基  南津軽郡平賀町岩館   一基  南津軽郡大鰐町宿川原,  一基  南津軽郡大鰐町三ッ目内 一基  南津軽郡藤崎町藤崎   二基  南津軽郡田舎館村二津屋,④大鰐町(当時蔵館村)蔵館の二基のうち、一基は大円寺墓地へ移されている。他の一基は行方不明。,現在行方不明になっている大鰐町蔵館の板碑(『陸奥古碑集』所載)  現在津軽地方の板碑の多くは文化財
資料編1(考古編) ((10)工具)

斧は袋柄のもので、大小があり、最も大きなものでは長さ15cm(大鰐町大平遺跡)、小さなもので9cm(青森市蛍沢遺跡,鉋は、古館遺跡(碇ヶ関村)・砂沢遺跡・大平遺跡(大鰐町)の3遺跡から出土している。
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

小友遺跡(弘前市)・石川長者森遺跡(弘前市)・大平野遺跡(弘前市)・古館遺跡(碇ヶ関村)・砂沢平遺跡(大鰐町,図13 10世紀の集落跡(大鰐町大平遺跡) 図14 津軽型防御性集落(11世紀,碇ヶ関村古館遺跡,) 図15 津軽型防御性集落(11世紀,大鰐町砂沢平遺跡) 砂沢平遺跡地形図
通史編3(近世2) (盛雲院)

乳井氏が建立し、本寺は三ツ目内村(現南津軽郡大鰐町)の金竜寺であったが、後に耕春院末寺となった。
資料編1(考古編) (19.折紙層Ⅸ)(おりがみそう))

模式地は、大鰐町三ツ目内川支流の折紙沢下流域。
資料編1(考古編) (62.三ツ目内川層Ⅰ)(みつめないがわそう))

模式地は、大鰐町三ツ目内川上流。深山沢の上流及び大和沢の上流域に分布する。
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

大鰐町の宿川原はこの幹線道路にちなむ地名である。,奥大道沿いにはいくつか類似の地名が現存しているが、大鰐のそれは日本最北の宿川原である。,矢立峠をはさんで大館側には矢立廃寺が、大鰐側には高伯寺跡が知られており、いずれもこの時代の大寺院である,高伯寺とかかわる大鰐町大円寺には、日本最北端の丈六仏である大日如来像(実は阿彌陀如来像)があるが、鎌倉前期
資料編1(考古編) (12.大落前川層Ⅲ)(おおらくまえかわそう))

模式地及びその北東の山地、大鰐町三軒新田の西方に分布する。
通史編3(近世2) (正伝寺)

正伝寺 正伝寺(しょうでんじ)は、文禄四年(一五九五)、森山村(現南津軽郡大鰐町)の庵で竜岩が薬師像
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

石川落城に対して、南部氏は早速軍勢を大鰐・宿川原に出陣させ、その後もしばしば軍勢を送った。,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自大浦大わに(大鰐)被攻候而、,このように石川落城後も、津軽平野の関門に当たる石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、為信は、戦略的要地,また、石川城跡の南、尾開山東面の尾根には、鉢巻山館・鶉長根館などの城塞群が、大鰐から碇ヶ関にかけての平川河谷
通史編3(近世2) (百沢寺)

この時、仏像は長勝寺と専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された。
通史編3(近世2) (常源寺)

「曹洞諸寺院縁起志」は、三ツ目内村(現南津軽郡大鰐町)の金竜寺の末寺であったが、金竜寺が衰退するに及んで
資料編1(考古編) (18.尾開山凝灰岩※Ⅷ)(おびらきやまぎょうかいがん))

模式地は、大鰐町尾開山周辺。弘前盆地南東縁に円弧状に分布する。
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

弘前市) 大国主神社(秋田県仙北郡西木村) 大阪府立中之島図書館 大日霊貴神社(秋田県鹿角市) 大鰐町企画観光課,広島県豊田郡安芸津町) 神長官守矢史料館(長野県茅野市) 仙台市教育委員会 仙台市博物館 大円寺(南津軽郡大鰐町
資料編1(考古編) (48.虹貝凝灰岩Ⅷ)(にじかいぎょうかいがん))

模式地は、大鰐町虹貝字新田付近。碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁及びその外縁に広く分布する。
資料編1(考古編) (55.早瀬森層Ⅲ)(はやせもりそう))

模式地は、大鰐町早瀬森。模式地を中心として、北西に狭く南東に幅広い鋭三角形状に分布する。
資料編1(考古編) (11.大日影山層Ⅸ)(おおひかげやまそう))

模式地は、大鰐町平川支流の虹貝川上流の大日影山付近。模式地付近にほぼ帯状に分布する。
資料編1(古代・中世編) (協力者及び協力機関一覧(敬称略))

岩手県立図書館(岩手県盛岡市) 岩手大学附属図書館(岩手県盛岡市) 円覚寺(青森県深浦町) 大鰐町教育委員会,神明社(大日堂)(秋田県比内町) 浄願寺(秋田県秋田市) 誓願寺(青森県弘前市) 大円寺(青森県大鰐町
資料編1(考古編) ((11)その他の生活用具)

このほか、火おこしの道具として火きり杵(弘前市荼毘館遺跡)、火きり臼(大鰐町大平遺跡)があるが、これは, 残存 10C 3 高館遺跡(黒石市) 86H・床面 1cmあたり16本の歯 11C 4 大平遺跡(大鰐町
通史編1(自然・原始) (花巻面)

また写真35に示したが、大鰐町鯖石(さばいし)に分布する「さば石」も年代側定では約四九万年前であって、,大鰐町鯖石より採取 (KFT 941124-1784) (株)京都フィッション・トラックによる(Ma,は100万年) 写真35 大鰐町鯖石の「さば石」採石場
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

しんじょう)~油川(あぶらかわ)~青森~浅虫~小湊(こみなと)~狩場沢(かりばさわ)~南部領、②弘前~堀越~大鰐,弘前~油川間と、奥州街道の油川~狩場沢間を合わせたものであり、②は後に参勤交代路となる羽州街道の弘前~大鰐,共通して記載されているのは、大道小道帳では西根小道とある弘前~百沢を結ぶ百沢街道、同じく東根小道とある大鰐
通史編1(古代・中世) (大光寺楯の合戦)

を築いて抵抗し、矢立峠あたりから津軽方面に侵入する動きを示したのに対し、「国中給主御家人」を大阿尓(大鰐
通史編5(近・現代2) (秩父宮の歩兵第三一連隊赴任)

昭和三年一月十四日、秩父宮は大鰐スキー大会に参加するため来県している。,写真17 大鰐スキー場への行啓  秩父宮の来弘に対しては、市当局や市民だけでなく、青森県全体が宮
資料編1(考古編) (61.萬左衛門山層Ⅲ)(まんざえもんやまそう))

模式地は、大鰐町萬左衛門山北側の小沢。虹貝川最上流域に分布する。
資料編1(考古編) (20.折紙沢層Ⅷ)(おりがみざわそう))

模式地は、大鰐町折紙から上流の折紙沢沿い。
資料編1(考古編) (4.阿闍羅山安山岩Ⅷ)(あじゃらやまあんざんがん))

模式地は、大鰐町南東方の阿闍羅山。岩相は、安山岩溶岩と降下火砕物とから成る。
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

兵士の中には負傷している者もいたであろうが、藩では大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)と浪岡(なみおか
通史編5(近・現代2) (混乱・混迷の合併交渉)

その結果、石川町当局者の間では弘前市か大鰐町への合併が望ましいとの結論になった。,藤森市長は「大弘前市」建設のため石川町や大鰐町との合併を推進していた。
通史編3(近世2) (大円寺)

明治五年(一八七二)、神仏分離により最勝院が大円寺の場所へ移り、大円寺は高伯寺(こうはくじ)(現南津軽郡大鰐町
通史編1(自然・原始) (一 弘前市の位置および外形)

南半では白神(しらかみ)山地とこれに続く大鰐(おおわに)山地が展開し、そして山地から平野部への出口付近,稜線の延長部には大鰐町と境する西股(にしまた)山(九五四メートル)・尾開(おびらき)山(五〇九メートル
通史編3(近世2) (一代本尊)

普賢菩薩 愛宕様(橋雲寺) 午 勢至菩薩 袋の観音(白山姫(はくさんひめ)神社) 未・申 大日如来 大鰐
資料編1(考古編) (49.虹貝層(にじかいそう))

模式地は、大鰐町虹貝川下流域。模式地のほかに、平川流域及び弘前市大舘山付近に分布する。
資料編1(考古編) (6.碇ヶ関層Ⅷ)(いかりがせきそう))

模式地は、大鰐町長峰字駒木沢。本層の分布は、碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁の内側に限定される。
資料編1(考古編) ([口絵])

〔阿闍羅山から望んだ津軽平野〕 大鰐山地を源とする平川は、後カルデラ丘としての阿闍羅山の裾野を通,〔大鰐町鯖石〕 田代平カルデラに起因する田代平溶結凝灰岩で、約40万年前に黒石及び大鰐方面へと流下
資料編1(古代・中世編) (二 青森県の板碑分布)

実地調査で確定できた数は二八四基余(大鰐町三ッ目内や弘前市乳井古堂・国吉には確定不能の板碑がある)、そのうち,その第一は岩木川と平川の合流点、藤崎町藤崎と弘前市三世寺を北限とする平川・浅瀬石川の流域、黒石~大鰐を,多数の板碑が存在する地点は大鰐町三ッ目内、弘前市乳井、弘前市国吉、弘前市中別所、深浦町関、深浦町北金ヶ
通史編1(自然・原始) (古懸浮石流凝灰岩)

古懸浮石流凝灰岩 碇ヶ関村古懸(こがけ)、大鰐町唐牛(かろうじ)・苦木(にがき)・蔵館(くらだて)・,台地は河床面から約二〇~三〇メートルの高度差が認められ、平野寄りの大鰐町宿川原(しゅくがわら)や支流である,#160;40°28'44” E140°33'40” 南津軽郡大鰐町早瀬野,大鰐町苦木および長峰など下流側ほど軽石粒や本質岩片が細かくなり、マグマとは無関係な異質礫の混入が多くなってくる,平野への出口にあたる大鰐町宿川原では軽石粒混じりの中粒~粗砂層となり、層全体にラミナが発達して再堆積の
通史編1(古代・中世) ([口絵])

) 弘前市貞昌寺 13 菊仙和尚倚像 弘前市長勝寺 14 大日如来坐像(重文)大鰐町大円寺
資料編1(考古編) ((6)漁業)

また、ヤスやモリは、大鰐町大平遺跡・黒石市高館遺跡から出土している。
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