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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (天台宗)

天台宗 天台宗は、報恩寺が領内触頭で寺内に僧録所を設けて一宗の寺務を取り扱い、図193のように触下には,図193.天台宗本末関係図  薬王院の塔頭千寿院は、文化七年(一八一〇)に知行米横領と、寺院修復 / 天台宗
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

この一点をみる限り、天台宗の方が真言宗よりも明らかに一歩先んじている。,天台宗はこの上げ潮ムードに乗ってか、地方布教の拠点ともいうべき天台別院を、東国にも設置し始める。,この異常ともいえる東国仏教と天台宗の関係は、では一体どのような歴史的背景から生じたものであろうか。,つまり、道忠こそが古代東国に天台宗の宗教土壌を作り出した魁(さきがけ)であったのである。  ,平安前期における北奥宗教界に君臨していたのは、やはり天台宗であったと考えられる。
通史編3(近世2) (深沙宮)

「天台宗縁起」(弘前市立図書館蔵)によれば、仁徳天皇の五十五年(三六七)、上毛野君田道命(かみつけぬのきみたみちのみこと,元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して神宮寺を別当とし、塔頭四院と神主四軒を置いた。
通史編3(近世2) (神宮寺)

「天台宗縁起」(同前No.四〇七)によれば、延暦十四年(七九五)、坂上田村麻呂が蝦夷と交戦中、深沙大権現,元和五年(一六一九)、信枚が再建、もとの天台宗へ戻し、別当を神宮寺とし一〇〇石を寄進した。
通史編3(近世2) (津梁院)

津梁院 常福寺本祐は、藩の所有する上野の菜園に隠居所を建て、信枚の法号により津梁院(天台宗、現東京都台東区,信枚はそれまでの曹洞宗から天台宗に改宗し、正室に家康の養女満天姫(まてひめ)を迎え、家康に影響力を持つ
通史編3(近世2) (袋宮権現宮)

袋宮権現宮 袋宮権現宮(ふくろのみやごんげんぐう)(現熊野神社、市内茜(あかね)町)は、「天台宗縁起
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

にそう際立ったかかわりを持つことは少なく、その意味で鎌倉前期の北奥の仏教界は古代の延長上にあって、依然天台宗,その宗教政策とは、ごく簡単にいえば公家政権が標榜する天台宗中心の「顕密主義」仏教に対して、幕府が公権力,これまで天台宗一色に彩られてきた北奥仏教界が、この幕府による反天台宗の立場からする「禅密主義」の宗教指導,まさに天台宗からの中世的転回がそれである。次にこの転回について眺めてみることにしよう。  ,そしてまた、「平堂教院」が仮りに天台宗に始まったものであるなら、ここにも天台宗から臨済宗への明白な形での
通史編3(近世2) (常福寺)

常福寺本祐とも師弟関係にあったため、寛永元年(一六二四)、東照宮の別当薬王院の開基・第一世に本祐を推し、天台宗
通史編3(近世2) (二代信枚)

図190.求聞寺  天海僧正は、天台宗の僧で徳川家康の帰依を受け、上野の寛永寺(かんえいじ)を創立,とうしょういん)(現薬王院)の創建に当たっては本祐を開基に推し、真言宗に改宗させられていた深沙宮の別当神宮寺を天台宗,また、幕府から一三年間預けられていた天台宗の僧慶好院(金勝院)の意見を取り入れ、最勝院を大寺とし五山の
通史編5(近・現代2) (承祜公のミイラ)

報恩寺はもともと天台宗で、津軽家の菩提寺として由緒ある寺であったが、一二代藩主を継ぐべくして夭折した承祜
資料編3(近世編2) (●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝)

袋宮寺は天台宗の寺院であり、弘前の樋の口にある熊野宮(本殿は県重宝)の別当寺であったが、明治に廃止されたために
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

「蝦夷管領」という幕府の行政的使命により、安藤氏は自ら幕府の掲げる「禅密仏教」政策を、天台宗から真言宗,の諸社と、国上寺や久渡寺にはじまる天台宗系寺院群は、いずれも真言密教へと首尾よく改宗を遂げたに違いない,古代において、桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄の三者によって彩られてきた北奥の天台宗的仏教世界は、ここに装,を真言宗寺院として誤認してしまったのは、鎌倉時代における天台宗から真言密教寺院への改宗一大事業自体が、,その点からいっても、「恐山」における天台宗の未改宗は、古代的な慈覚大師信仰=天台宗の保持の強烈な連続性
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

図204.革秀寺津軽為信霊屋  信枚は天海僧正に帰依し、江戸では天台宗常福寺を菩提寺として埋葬されたが,三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗報恩寺を創建して
通史編3(近世2) (信枚)

信枚は、それまでの津軽家が菩提寺としてきた曹洞宗から天台宗に改宗した。
通史編3(近世2) (報恩寺)

報恩寺 天海に帰依して天台宗に改宗した信枚は、寛永八年(一六三一)に江戸で死去すると常福寺に葬られ、
通史編3(近世2) (修験)

また、天台宗聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)(本山派)に連なる羽黒派に属する山伏が二人いる。
通史編3(近世2) (長勝寺)

藩主家は曹洞宗を信仰してきたが、信枚が天台宗に改宗し、後に建立される報恩寺を菩提寺に改めた。
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

古代における当該地域は、坂上田村麻呂を開基と伝える神社が大半を占め、あわせて僧円智に例をみるように、天台宗,もと猿賀村) 坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六) 猿賀神宮寺 尾上町 (もと猿賀村) 天台宗,これも本来的には前項一で検証したように、円智の開創ののち、慈覚大師円仁の造せる聖観音を安置すると伝える天台宗寺院,この天台宗から真言宗への改宗を伴う久渡寺に次いで伝えるのは、藤崎町の護国寺の旧跡の満蔵寺である。  
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

こうした宗派的特性に思いを致し、遠く古代東北の宗教世界が「坂上田村麻呂-伝教大師最澄」の天台宗を中心に,開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代に至り、幕府の反天台宗,そのベースの上に、天台宗とか真言宗という宗派的な仏教や羽黒派とか当山派や本山派という派閥的な修験が展開
通史編1(古代・中世) (青森県内の田村麻呂伝説)

こうした伝説が、天台宗の教線の東北地方への広がりとともに、当地に伝えられていたらしい。
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

所領を安堵し、祈願所としたが、翌十五年には領主の命に別当が従わないのは反乱に結びつくとして、それまでの天台宗
通史編3(近世2) (薬王院)

報恩寺信枚が天海に帰依したことから、藩主家は江戸の菩提寺を天台宗津梁院・常福寺としてきた。
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

袋宮寺は天台宗の寺院であり、元来は樋の口の「熊野神社」の別当寺であったが、明治に廃止された後、現在地の,報恩寺は、三代信義の菩提寺として創建された天台宗の寺院であり、その五〇回忌に当たって再建されたのが現本堂
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

寺社の建立では、信政が明暦二年(一六五六)、父信義のため天台宗報恩寺(ほうおんじ)を創建し、薬王院(やくおういん
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

信政の葬儀は菩提寺の天台宗報恩寺で営まれ、神道による祭儀によって高岡に葬送された。
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

新寺町には寺町にあった天台宗・浄土真宗・日蓮宗・浄土宗の寺院が移転した。
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

)、西には浄土宗の誓願寺、南西には長勝寺・耕春院をはじめとする曹洞宗寺院、東には浄土真宗(門徒宗)・天台宗
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

津軽山王坊なる天台宗的な宗教道場を営んだと伝えられる安倍氏の末裔の安藤氏は、『日蓮遺文』に (一)文永五年
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

一つは、古代の坂上田村麻呂とセットに考えられる神社の創建と天台宗寺院の造立と通底する、かの執権時頼による
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀神宮寺十二坊を改易し、天台宗より真言宗に改めるという。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

…… 盛岡南部家文書 342 ●天正十五年(一五八八)、この年、大浦為信、猿賀神宮寺十二坊を改易し、天台宗
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