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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(東照宮)
東照宮 東照宮は、信枚の正室満天姫が徳川家康の養女であったことから、寛永元年(一六二四)、
天守閣
の近,同四年、
天守閣
が雷火により焼失すると、東照宮も被害を受けたらしく、同五年に現在地へ再建され、別当薬王院
通史編4(近・現代1)
(公園の払い下げ)
公園の払い下げ そのころ、
天守閣
付近の石垣が崩れて、修理のため
天守閣
を本丸入り口左に移さねばならなかったのを,
天守閣
五〇円 矢倉四棟 一〇〇円 亀甲門 二五円 その他門五棟 一〇〇円 杉大橋 一五円 ,されたものであったため、驚くべき安価であったが、政府は旧城地の一部を軍用地として使用する方針をとっていたこともあり、
天守閣
,三十六年四月、これまでも小規模な陳列を試みたが、
天守閣
を活用して古物館にし、三層全部に旧藩主や家臣の遺品
通史編4(近・現代1)
(城跡の荒廃)
写真120は明治五年に親方町の西谷休之助が撮影したもので、
天守閣
に続いて石垣の上に土塀が連なり、また、,写真120
天守閣
付近(明治5年) 明治初年の城地には、東洋回天社を唱える若者たちが、これを借
通史編3(近世2)
(神明宮)
寛永四年(一六二七)、
天守閣
が落雷により焼失した時、御神体を背負って城の東北へ避難させた者が、後に伊勢神宮
通史編3(近世2)
(薬王院)
一六一一)、徳川家康の養女満天姫が信枚のもとに嫁したことから、寛永元年(一六二四)、信枚の願いが認められて
天守閣
,寛永四年(一六二七)、雷火により
天守閣
が焼失した時に東照宮も被害を受けたらしく、同五年、現在地へ再建の
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
青森県立郷土館 秋田市立佐竹史料館 安盛寺(青森県弘前市) 圓覚寺(青森県西津軽郡深浦町) 大阪城
天守閣
通史編5(近・現代2)
(雪燈籠まつり)
夜には弘前城の
天守閣
と老松がライトアップされ、蓮池の周りには、ロウソクを灯した小さなかまくらが多数並べられる
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
五層の
天守閣
・各櫓(やぐら)・門に必要な鉄物は大量に必要だったため、森山内蔵助(もりやまくらのすけ)に
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
それを機会に、九代寧親は
天守閣
の再建を打ち出し、現存する三層の
天守閣
が構築されたのである。
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
また藩では同七年(一八一〇)四月に、
天守閣
(辰巳櫓)の再建に着手し、翌年三月に完成している(第四章第三節二参照
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
また、当城本丸跡の
天守閣
付近でも、縄文晩期の大洞A式土器と石器が採集されている。
通史編3(近世2)
(弘前の民衆)
)が朝廷に出され(「青森県歴史」明治四年十一月四日条 国立公文書館蔵)、明治二十九年(一八九六)には
天守閣
,
天守閣
の手前に人物が写しだされているが、左端は第一分営の兵士であろう。
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
御本丸御絵図」(弘図津)には、本丸の北側三ヵ所、西側二ヵ所および御殿に接して南側一ヵ所の各土蔵および現
天守閣
,現在の
天守閣
は文化六年(一八〇九)に起工し、同八年三月に竣工しているが、屋根は最初から銅瓦葺きであった
通史編4(近・現代1)
(弘前観桜会の幕開け)
大正十年になると、
天守閣
にイルミネーションを施した。
通史編3(近世2)
(伊勢参り)
)、城内に「太神宮」として神主惣宮太夫久長に祀らせ(資料近世1No.一五一)、寛永四年(一六二七)、
天守閣
焼失
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
横岡哲雄氏蔵 口絵16 暗門奇勝 青森県立郷土館蔵 口絵17 弘前市立博物館蔵 口絵18 同上 1 大阪城
天守閣
蔵,津軽信建書状写 慶長3年8月26日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書能代市史編さん室写真提供 38 大阪城
天守閣
蔵,三上登氏蔵 61 弘前市 長勝寺蔵 62 御国縮図並弘前同其外所々之図 弘前市立博物館蔵 63 大阪城
天守閣
蔵
通史編4(近・現代1)
(ランプと写真)
彼が明治四、五年のころに撮った旧城内
天守閣
付近の写真が現存している。
通史編5(近・現代2)
(空襲を受けなかった弘前市)
特筆されるのは昭和二十年八月九日、弘前市立図書館で保存してきた『藩日記』など、郷土の歴史資料を公園内の
天守閣
資料編3(近世編2)
(2 本丸御殿の考察)
これは幕末に近いころのものと見られ、現存する
天守閣
が「三層御櫓」として描かれており、奥部分の増築が計画
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
次いで、弘前城そのものをみると、本丸にはすでに
天守閣
はなく、本丸の南西隅に「天主ノ跡」という記載がみえる
通史編5(近・現代2)
(昭和弘前市民の一側面)
当時弘前城には津軽為信の銅像があり、桜と
天守閣
と為信像は市民のシンボルであり誇りでもあった。
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