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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(二七 ためし草)
飢饉史料はほかに「耳目心痛(通)記(じもくしんつうき)」(弘前市立図書館蔵)、「
天明卯辰日記
」(青森県立郷土館蔵
通史編2(近世1)
(流民の発生と施行小屋の設置)
逃散する飢民らは、口々に「殿様がいないような国にいるわけにはいかない」といったり(『
天明卯辰日記
』)、,男女合わせて二三〇人と激減し、一泊しただけで帰った者もいたという(施行小屋の経緯については主として『
天明卯辰日記
,人ずつ死ぬようになり、十月の死者二四六人、十一月六一九人、翌天明四年一月には一三七〇人にも及んだと『
天明卯辰日記
通史編2(近世1)
(飢饉のその後)
それでも七月には所々で七夕祭りや宵宮があり、酒盛りなどが開かれにぎわいをとり戻してきたという(『
天明卯辰日記
,図125.
天明卯辰日記
藩は城下の長勝寺・革秀寺等に餓死者供養の施餓鬼(せがき)を命じる一方、
通史編2(近世1)
(天明期の借り上げと寛政期までの状況)
『
天明卯辰日記
』によると、餓死者がピークを迎えた天明四年閏正月に、二〇〇〇石を用立てるよう弘前の蔵持ちの,このような藩庁の態度に、『
天明卯辰日記
』の著者は「評に曰く」として「数万人の人民を餓死に至らせ、そのうえ
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
実際に買えたのは三〇〇〇石で、その代金は二〇五〇両に及んだ(『
天明卯辰日記
』十一月七日条)。,ほかに津梁院の仲介で閑院宮から九〇〇〇両、伊奈半左衛門から三〇〇〇両の援助があったという(『
天明卯辰日記
通史編2(近世1)
(農村部での騒動)
されたもので、広須・木造新田へ結集を呼びかけ、不参加の村には「後日難儀」があるという回状が回ったという(『
天明卯辰日記
通史編2(近世1)
(騒動のその後)
し、自宅は「空屋」になっているが、実際はその後も藩の命令で秋田藩に種籾の買い付けなどに派遣された(『
天明卯辰日記
通史編2(近世1)
(飢饉の惨状)
津軽領の史料で代表的な「
天明卯辰日記
」によると、天明三年十月には愛児を殺害して食したなど、早くも人肉食
通史編2(近世1)
(飢餓対策における殖産政策)
のため、安永初年から行われてきた貯米の大半が流用され、飢饉の備えの役を果たさなかったと非難されている(『
天明卯辰日記
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
米だけでなく「五果五菜」までも不作だったが、なぜか、りんごはおびただしく実ったという(『
天明卯辰日記
』
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