• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 145件
辞書ファセット
/ 3ページ
通史編5(近・現代2) (昭和天皇の来弘)

昭和天皇の来弘 戦前・戦時中、国民にとって現人神とされていた昭和天皇が、戦後、人間宣言をし、全国各地,戦後の民主改革で天皇の退位や戦犯追及、天皇制自体の廃止も内外で論じられていた。,けれども結果的に天皇の巡幸は、現人神のイメージを壊し、統治権者としての天皇から象徴天皇へ転換する上で大,天皇の巡幸は国民の天皇に対する好意的な印象を引き出した。,写真103 昭和天皇の弘前巡幸  天皇は八月十三日に青森県をあとにした。 / 昭和天皇の来弘
通史編4(近・現代1) (明治天皇崩御)

明治天皇崩御 明治天皇が崩御されたのは四十五年(一九一二)七月三十日午前零時四十三分である。,天皇の御発病から崩御、御大葬まで、弘前市の小学校の動きを見ると、小学校がいかに天皇と深く結びついていたかが,天皇の御病気が発表されると、全国の学校は御平癒を祈願するが、本市も例外ではない。,の御快癒を祈ったが、天皇はついに崩御された。,それは明治政府が天皇を道徳の根幹として、営々と積み重ねた天皇制教育の成果を示す頂点と見ることができる。 / 明治天皇崩御
通史編1(古代・中世) (後三条天皇の登場)

後三条天皇の登場 前九年合戦が終了してから六年後の治暦四年(一〇六八)、藤原道長の外孫であり、道長の,子頼通を関白に迎え在位二四年に及んだ後冷泉天皇が死去して、新たに摂関家を外戚としない後三条天皇(後冷泉天皇,彼は摂関家と外戚関係をもたないというだけではなく、父は一条天皇の皇子後朱雀天皇、母は三条天皇の皇女禎子内親王,写真70『国史略』治暦4年7月条 目録を見る 精細画像で見る  後三条天皇の政治改革は、第一に,まさに平安王朝の創始者桓武天皇の再来を彷彿とさせるものであった。   / 後三条天皇の登場
通史編4(近・現代1) (大正天皇の来迎と弘前市民)

大正天皇の来迎と弘前市民 大正四年は大正天皇の即位式を行う予定があった。,大正天皇に対して、国民の間に病弱な天皇という意識が強かったことがうかがえよう。,明治天皇に対し「明治大帝」という意識が国民の間に定着し、天皇の死とともに、一つの時代が終わったとの印象,お召し列車の試運転も行うなど、天皇の大演習参加は一般の天皇行幸と同様、執拗かつ綿密に実施し、厳重な警備体制下,後者は多分に演出的効果を狙ったものであり、天皇来迎時に目前に演じられる風景からは、人々の天皇に対する信頼 / 大正天皇の来迎と弘前市民
通史編4(近・現代1) (学事奨励と天皇御巡幸)

学事奨励と天皇御巡幸 県内の就学率向上と学事奨励のため、明治七年から県令(県知事)による学校視察がしばしば,そのような学事奨励の中でも、ひときわ異彩を放つのは明治天皇の天覧授業である。,九年七月十五日、東北巡幸の天皇は青森小学に行幸され、親しく生徒の授業を天覧されたのである。,九年七月、明治天皇巡幸の際、青森小学において学事奨励。東奥義塾及び小学生徒が代表参加。   ,十四年九月、天皇再度の東北巡幸。有栖川親王弘前内の五校を代巡。    / 学事奨励と天皇御巡幸
通史編4(近・現代1) (特別大演習と天皇の弘前行幸)

特別大演習と天皇の弘前行幸 大正四年(一九一五)十月二十日から三日間にわたって、弘前市を中心に津軽平野一帯,大演習御統覧のために大正天皇は十九日に弘前に行幸、二十五日まで第八師団司令部に滞在された。  ,天皇の行幸と大演習及び観兵式参観について、市小学校長会は一ヵ月前から協議を重ね、その対策を練った。,天皇が弘前にお着きになったのは十月十九日午後五時二十四分。,天皇鹵簿(ろぼ)を、弘前および中郡、南郡の各小学校児童は御順路沿道で奉迎したが、和徳小学校は「午後五時二十分天皇御着三年以上 / 特別大演習と天皇の弘前行幸
通史編1(古代・中世) (斉明天皇六年の「北征」)

斉明天皇六年の「北征」 比羅夫は、斉明天皇六年(六六〇)にも三たび北征を試みた(史料二七)。,比羅夫の「北征」はこの斉明天皇六年(六六〇)までで、翌年からは、その水軍は大和政権による百済救援のための / 斉明天皇六年の「北征」
通史編1(古代・中世) (斉明天皇五年の「北征」)

斉明天皇五年の「北征」 斉明天皇五年(六五九)三月にも、比羅夫は越国を発して再度「北征」に赴いた。 / 斉明天皇五年の「北征」
通史編1(古代・中世) (斉明天皇四年の「北征」)

斉明天皇四年の「北征」 そこで以下、これらの記事にそって、比羅夫の北方航海の状況を詳しく見てみよう。,第一次の遠征は斉明天皇四年(六五八)から始まる。,写真31『日本書紀標註』巻之二十一 斉明天皇四年四月条  この斉明四年次の北征の論功行賞として / 斉明天皇四年の「北征」
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

●景行天皇五十六年、御諸別王、蝦夷の騒動を鎮圧。 ●応神天皇三年、蝦夷朝貢。,●仁徳天皇五十五年、蝦夷の反乱。田道を派遣するも敗死。 ●清寧天皇四年、蝦夷等内付。,●欽明天皇五年、越国、佐渡島への粛慎人漂着を伝える。 ●敏達天皇十年、蝦夷数千反乱。,●崇峻天皇二年、東山道使、蝦夷の国との境を視察。 ●舒明天皇九年(六三七)、蝦夷反乱。,●斉明天皇四年(六五八)四月、阿倍比羅夫の遠征。 ●斉明天皇四年(六五八)七月、蝦夷朝貢。
通史編1(古代・中世) (桓武の登場)

桓武の登場 この間に七三歳の老帝光仁天皇は、天応元年(七八一)、位を子の桓武天皇に譲った。,その最晩年に、「天下徳政相論」と呼ばれた論争で、「造作と軍事」こそが最大の政治問題となった桓武天皇の治世,征夷戦争は、桓武天皇の治世の重要な柱の一つであった。  ,すでに触れたように、古佐美は光仁天皇の時代に征討副使の任にあった人物である。,桓武天皇は古佐美に対して、全権委任の証(あかし)である節刀(せっとう)を賜る際に、「坂東の安危はこの一挙
通史編4(近・現代1) (巡幸と記念碑)

巡幸と記念碑 明治の初め、都が東京に移された後、明治天皇には、前後数回にわたって全国各地に巡幸をされた,後に全国各地に明治天皇の巡幸を記念した記念碑が建てられ、その数は千数百ヵ所に上ると言われている。  ,天皇巡幸の際のゆかりの地を「聖蹟」と呼ぶことがあるが、弘前の聖蹟に建てられた四基の記念碑は、それぞれの,写真31 行幸記念碑 (青森地方裁判所弘前支部構内)  明治天皇が青森県に足跡を印(しる)せられた,写真32 明治天皇
通史編5(近・現代2) (軍隊と皇室(皇族))

軍隊と皇室(皇族) 旧軍は「天皇の軍隊」だった。,それゆえ軍隊の研究には、大元帥(すい)たる天皇の研究は不可欠であり、皇室と軍隊の問題は重要な研究テーマ,天皇は大元帥として軍隊を統帥する存在だったが、男性皇族は陸海軍いずれかの軍人将校として勤務することになっていた,男性皇族が軍人将校にならねばならなかったことは、天皇の直弟たちも避けられなかった。,天皇の直弟が来弘することは、弘前市民にとってたいへんな名誉となった。
通史編4(近・現代1) (国家主義教育の浸透)

次いで道徳教育が採り上げられているが、この道徳教育は天皇の徳教を基にし、天皇の聖旨によって教育の根元となるべき,この道徳教育では徳目主義がとられ、忠君愛国を根幹に諸徳目が枝葉となって、巨木をなしながら天皇制教育の構造,而して宇内(うだい)に於て比類なきものは、万世一系の天皇を奉戴するの最大栄誉と最大幸福と有する是なり」,要するに政府の考える国民教育とは、天皇制国家主義教育の教科実践にほかならない。,この改正小学校令公布の前後から、小学校現場にはさまざまな行事が入ってきて、行事を通して天皇制国家主義教育
通史編1(古代・中世) (阿弖流為の投降)

しかしこの征夷は、翌年、病に伏せた桓武天皇の病床で繰り広げられた、菅野真道(すがののまみち)と藤原緒嗣,大同元年(八〇六)三月には桓武天皇も七〇歳で世を去った。  ,弘仁二年(八一一)正月十七日、嵯峨天皇は豊楽院(ぶらくいん)に出御して弓矢の射競べを御覧になった。,その後、天皇は諸親王や臣下に命じて順次、弓を射させた。,その場には、天皇の弟の弱冠一二歳の葛井(ふじい)親王(桓武天皇と田村麻呂の娘春子との間の子)も同席していたが
通史編4(近・現代1) (森文部大臣の遭難)

ただ、森文部大臣は、明治天皇侍講(じこう)元田永孚たちの、天皇を神とする極端な国教主義者から反感を持たれていた,森は一見、元田らの考える天皇制教育を否定したかに見えるが、その実、彼の国家主義教育は、天皇制教育の土台,森の死の直後から、澎湃(ほうはい)として湧き上がった天皇中心の教育政策を見れば、それが理解できるであろう
通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

本州北部の「蝦夷の地」併合という後三条天皇の意図はそう簡単に実現しなかったとはいえ、この合戦が北の地域, それによれば、福王寺は坂上田村麻呂の創建になるが、いったん荒廃したものを承暦二年(一〇七八)、白河天皇,ここにみえる「白河天皇の勅願で承暦二年に福王寺が建立」されたという伝承は、『津軽一統志』などにも記されており,「嘉承」とは、白河上皇の院政下で堀河天皇の最後の時代、一一〇六~八年の年号であり、長治(一一〇四~一一,この山号もまた、すでに菅江真澄が『栖家の山』で推測しているごとく、乳井福王寺が嘉承年間=堀河天皇の代(
通史編4(近・現代1) (第一次世界大戦の衝撃)

前回の大演習は明治天皇の臨席を想定して、会場が皇居(当時は宮城と呼ばれていた)に近い埼玉県の川越で行われた,明治天皇の病状が悪化していたため遠方での大演習が控えられていたのである。,明治天皇の後を承(う)けて即位したばかりの大正天皇にとって、弘前市への大演習は初めての臨席となった。
通史編4(近・現代1) (第八師団の実状)

第八師団の実状 全国各師団の実状は時折天皇に上奏されることになっていた。,明治三十五年(一九〇二)一月、明治天皇に上奏した各師団長の言上書が防衛庁防衛研究所図書館に残されている,立見師団長は天皇への上奏の最後に、第八師団将兵と地方官民との間は、相互の事情を疎通するにしたがい円満になりつつあると,明治三十五年(一九〇二)の一月下旬、立見師団長が明治天皇に師団の実状を上奏したその月に、師団管下の第五
通史編5(近・現代2) (敗戦時の郷土部隊)

当初は大混乱を来すと見られていた日本軍も、大元帥たる天皇の命令により驚くほど素早く武装解除が進んだ。,天皇の軍隊として「皇軍」と呼ばれ、戦時中は勢力絶大だった軍隊も、敗戦とともに武装解除を受けた。,師団・連隊も解散させられ、天皇の軍隊は驚くほどあっけなく解体したのである。
通史編1(古代・中世) (足利尊氏の離反)

足利尊氏の離反 建武二年(一三三五)十月、天皇親政をスローガンとする建武政府に対する武士の不満を結集,写真153 足利尊氏像  尊氏は、鎌倉幕府滅亡後、隠岐(おき)から脱出したばかりの後醍醐天皇から,しかし建武二年八月に、離反した尊氏が建武政府から鎮守府将軍の職を解かれると、北畠氏は後醍醐天皇に積極的
通史編1(古代・中世) (エミシとは)

この「エミシ」という音は、早く『日本書紀』神武天皇即位前紀に載せられた久米歌(くめうた)(神武天皇の戦勝
通史編1(古代・中世) (蝦蛦)

写真9『日本書紀通證』巻之二十九 「蝦蛦」の表記  『日本書紀』では、皇極天皇元年(六四二)九月,から持統天皇三年(六八九)正月にかけて、一三条にわたり、この見慣れない「蝦蛦」という漢字が使用されている,この斉明天皇五年(六五九)の遣唐使がエミシを同行したのは、時の唐の皇帝高宗にそれを披露して、日本も異民族,また『日本書紀』景行(けいこう)天皇四十年条(写真10)の、天皇が日本武尊に東夷征討を命じた詔(みことのり,この記述も、景行天皇紀にかけられてはいるが、おそらく七世紀ころの中央貴族のエミシ観念を伝えるものである
通史編1(古代・中世) (北畠親房の政権構想)

北畠親房の政権構想 後醍醐(ごだいご)天皇(写真152)は、正慶二年(元弘三年、一三三三)六月、北条氏滅亡,写真152 後醍醐天皇  建武政府は後醍醐の意を受けて天皇親政を旨としていたと一般には考えられているが
通史編4(近・現代1) (明治九年の巡幸)

そのためにも天皇の各地への巡幸は大きな意義を持った事業であった。,明治九年の巡幸は、天皇の車駕が東京を出発したのは六月二日、関東、東北各県を巡幸の上、青森に到着されたのは,天皇は時には馬車または輿(こし)、時には馬上と乗り物を替えられたが、側近者や従者の数だけで二〇〇人を超
通史編4(近・現代1) (御真影下賜と教育勅語)

御真影とは天皇皇后両陛下のお写真のことである。,紀元節、天長節、神武天皇祭、元始祭、春秋の皇霊祭、神嘗祭など儀式の挙行方法を定めたのである。,御真影、教育勅語、祝祭日儀式と続く一連の行為は、天皇中心の国民共同の感情と慣行を維持させることに大いに,天皇制教育の体制化を図る政府の構想が確実に実ったといえるであろう。
通史編1(古代・中世) (藤崎系図)

いずれも孝元天皇から系譜が始まっているが、これは系図一般がそうであるように自家の家系の箔づけのためであって,ここで孝元天皇以下が持ち出された理由は、大毘古命(おおひこのみこと)や建沼河別命(たけぬなかわかけのみこと,しかし『藤崎系図』では「孝元天皇」から「安東」まで線引きがなされているのに対し、『秋田家系図』では線引,さてこの『藤崎系図』では、神武天皇東征の時に滅ぼされた長髓彦の兄安日を、事実上その系譜の起点とし、奥州安倍氏
通史編1(古代・中世) (「東夷征討」祈願)

その直後、後三条天皇は国家鎮護の軍神である石清水八幡宮に行幸し大般若経を供養して「征討東夷」の祈願を行,しかし実際の当時の動きを見ると、北奥の地ではこのときこそ、後三条天皇の「綸旨」(宣旨)を受けて、陸奥守源頼俊,の治暦三年(一〇六七)に陸奥守に任じられ、一族・郎等を率いて奥州に赴任していたために、このとき後三条天皇,自らを抜擢してくれた後三条天皇の期待に応えるべく、意欲満々、勇躍して出陣したに違いない。  
通史編1(古代・中世) (「蝦夷・蝦狄」表記の創造)

「蝦夷・蝦狄」表記の創造 『日本書紀』のエミシ表記の研究によると、持統天皇四年(六九〇)ころから、『,日本では、律令体制成立以前には、蝦夷を、天皇中心とした体系的な世界観のうちに位置づけようとする、中国の,しかし中国に範をとった律令体制の整備が進み、また天智天皇二年(六六三)、日本が友好国であった百済の復活,たとえば斉明天皇の時代には、蝦夷や粛慎(あしはせ)といった北(東)方の異民族たちを、飛鳥寺に設けられた,天武天皇の時代以後になると、奄美(あまみ)以南の南島にも中央政府の使が派遣され、朝貢を促している。
通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏 元弘三年(一三三三)閏二月の後醍醐天皇の隠岐脱出に始まり、同年五月の足利尊氏,後醍醐天皇は、同八月、北畠顕家を陸奥守に任じ、ここから建武政府の陸奥支配が本格化した。
通史編4(近・現代1) (御真影奉置所の設置)

御真影奉置所というのは、学校に下賜された天皇皇后両陛下の御写真を奉蔵する建物のことで、奉安殿(でん)ともいった,御真影奉置所は各小学校に設けられ、奉置所は校地内の神域として、児童の登校・下校の際は最敬礼するのを常として、天皇制教育
通史編5(近・現代2) (秩父宮夫妻と弘前市民)

しかし社会的には天皇の直弟であることに変わりない。ゆえにその社会的影響力は想像以上に大きかった。,天皇や皇族の行幸啓は単なる儀式・儀礼なのではなく、皇室に対する国民の敬慕を募り、大日本帝国の根幹を支えるための,天皇・皇后を筆頭に、皇族男女の行幸啓で演じる言動は、そうした社会システムを機能させるための必要不可欠な
通史編1(古代・中世) (鬼王・安日)

のなかでの日本創世神話(すでに『古事記』や『日本書紀』とはかけはなれた神話が流布していた)において、神武天皇登場以前,これによれば、安日は神武天皇に敗れて一族もろとも「東国外浜」へ追放され、その子孫が蝦夷になったという。
通史編4(近・現代1) (鷹揚園の命名)

鷹揚園の命名 明治四十一年九月、皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)が東北地方を行啓、二十三日弘前に御到着
通史編1(古代・中世) (比羅夫は何回遠征したか)

比羅夫は何回遠征したか 『日本書紀』の斉明天皇紀には、長短あわせて一一ヵ条の遠征記事が載せられている,写真29『日本書紀』巻之十二 斉明天皇4年4月条の比羅夫北征記事 目録を見る 精細画像で見る,   ・斉明天皇四年四月(史料二二・写真29)  阿陪臣が軍船一八〇艘を率いて蝦夷を伐(う)った。,・斉明天皇五年三月(史料二五)  阿倍臣が軍船一八〇艘を率いて蝦夷国を討った。,・斉明天皇六年三月(史料二七)  阿倍臣が軍船二〇〇艘を率いて粛慎(あしはせ)国を伐(う)った。
通史編1(古代・中世) (津軽、「日本史」の舞台へ)

津軽が史上初めて『日本書紀』に登場するのは、斉明天皇元年(六五五)七月己卯条で、そこには、大化改新によって,写真22『日本書紀』巻之十二 斉明天皇元年七月条にみえる津軽の初見記事。,先に触れた斉明天皇五年の遣唐使による蝦夷紹介でも「都加留」とみえていて、やはり「つかる」である。  ,斉明天皇四年(六五八)から開始される阿倍比羅夫北征と呼ばれる事業の成功の背景には、こうした津軽蝦夷の早期
通史編1(古代・中世) (一 「日の本将軍」安藤氏)

永享八年(一四三六)四月、「奥州十三湊日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が後花園天皇の勅命を受けて、前年三月
通史編1(古代・中世) (仲麻呂鬼伝説)

この盛季の時代は、ちょうど皇室も当時一〇〇代目と意識されていた後円融天皇の在位期間に当たる。,そして当時また、天皇家が一〇〇代で滅亡するという、「野馬台詩」の「百王説」が流布していた。
通史編1(古代・中世) (摂関政治の時代)

のような広大な世界帝国を支配するために生まれた、前近代史上稀(まれ)にみる精致な法体系によって運用された、天皇,たしかにこの時代には、社会の上部構造を見ると、天皇や院や摂関家に代表される貴族など、古代的な支配構造は
通史編4(近・現代1) (弘前女学校)

この年十月には、弘前で陸軍特別大演習が行われ、弘前女学校の生徒も天皇以下関係者の歓送迎に毎日忙しい日を,十一月十日、大正天皇の即位式を期して、校旗を制定した。
通史編1(古代・中世) (阿倍比羅夫の登場)

朝鮮半島の利権を失った大和政権が失地回復のために北方の軍事征服に向かったのだともされている(のちの天智天皇,時の天皇である斉明女帝は、とかく派手好きで、「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」と誹(そし)られたような大土木工事,とするものがあるが、比羅夫は大化五年(六四九)制の冠位一九階中の第八位である大花下(だいかげ)という天皇側近,写真28『日本紀標註』巻之六 崇神天皇10年条の四道将軍記事
通史編5(近・現代2) (昭和から平成へ)

昭和から平成へ 一九八九年一月七日、昭和天皇の崩御によって、年号が「平成」に改元された。
通史編5(近・現代2) (戦後の佐藤正三)

卅一日午後十一時記  昭和二十一年元旦、天皇は年頭詔書で現御神(あらひとがみ)としての存在を否定して,しかし、弘前では会員一〇〇人内外で地下運動を企画、四月三日神武天皇祭を期して発足せんとしたが、石原莞爾
通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

明治十三年一月六日に、川越石太郎が明治天皇の弘前巡幸のための民情調査にきた元老院議員佐々木高行に提出した,一、天皇を始め文武百官、古昔の服装にする。  一、四民の別を明確にし、士族に資産を保障する。  
通史編4(近・現代1) (巡幸の日誌と弘前)

巡幸の日誌と弘前 天皇の巡幸の際には、文章をもって仕える係官が随行し、巡幸が終わってまもなく巡幸日誌,この大隈に私的に随行した峰源次郎が、天皇関係の文章係りとは別に巡幸日誌を残した。  ,これは、天皇の御召車に随行した旅行といった意味である。,后を徯(けい)する者(天皇の御出でを待つ者の意)四集歓呼す。
通史編1(古代・中世) (蝦夷沙汰職の行方)

すでに述べたように、当初それを掌握しようとしたのは、後醍醐天皇から鎮守府将軍に任ぜられた足利尊氏である
通史編2(近世1) (一 時慶卿記(ときよしきょうき))

時慶は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の側近として、豊臣政権から徳川政権へ移行する激動期において朝議に
通史編1(古代・中世) (三十八年戦争の時代)

その大事業が一段落した弘仁二年(八一一)に、時の征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の嵯峨天皇に対する,まさに光仁・桓武・平城・嵯峨と四代の天皇にわたる「三十八年戦争」ともいうべき長期間の戦争状態を経験したわけである,駿河麻呂は、蝦夷の侵略は大したことがないので、征討はやめたいなどといっていたが、光仁天皇に譴責(けんせき
通史編1(古代・中世) (「津軽」の地の独自性)

「津軽」の地の独自性 先にも触れたが、斉明天皇五年(六五九)の遣唐使の記録である『伊吉連博徳書』によれば,(景行)天皇の命にしたがわなかったので、日本武尊が征討のために遣わされた。
通史編5(近・現代2) (新憲法の公布)

明治二十二年(一八八九)二月十一日明治天皇が大日本帝国憲法を宣布されてから五八年目、ポツダム宣言受諾の
/ 3ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました