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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

太閤蔵入地の設定 右にみてきたように、天正十九年十月までに確定された津軽氏の領知高は三万石程度であったと,また太閤蔵入地の石高は、出羽国を例にすると、蔵入地の代官を命じた大名の領知高の半分であるといわれる。,そして、津軽地方に太閤蔵入地が設定された時期は、秋田実季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同,また、太閤鷹を確保・独占するという点からは、岩木川東側の平川沿いにも設定されたとみられる。,以上のように、津軽地方に設定された約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の目的は、太閤鷹の保護と秀吉への上納の際 / 太閤蔵入地の設定
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

伏見作事板の運上と太閤蔵入地 豊臣政権にとって秋田氏領内の太閤蔵入地(豊臣政権の直轄地)は、伏見指月城,杉板の廻漕は、主に秋田氏の領内に設定された太閤蔵入地からの収入がその費用に充当させられた。,津軽氏は、知行高三万石に対し約一万五〇〇〇石が太閤蔵入地として設定されていた。,この津軽氏の太閤蔵入地も伏見作事板の廻漕費用に充当されていた。,南部領には太閤蔵入地は設定されておらず、秀吉政権は太閤蔵入地を領内に設定した秋田・仙北・由利・津軽の大名 / 伏見作事板の運上と太閤蔵入地
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

秀吉はこれら集権派に属する財務に秀でた奉行や家臣らを北国海運の拠点に据え、その海運によってもたらされる太閤蔵入地,図32.越前国敦賀湊・若狭国小浜交通図  仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地,、御蔵入領に召出れ候は、治部様(石田三成)御意向之由也」とあるように、太閤蔵入地として設定されたのは、,北羽の太閤蔵入地の選定には、三成の意向が大きく影響していたのであり、太閤蔵入地からの収入によって廻漕される,実際、秋田領に設定された太閤蔵入地の年貢米の算用状(さんようじょう)は、秋田氏から集権化を目指す奉行衆徳善院
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

太閤蔵入地は、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川を分岐点とする津軽平野中心部一帯に設定され、為信はその,この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された大浦城を中心とする地域の支配強化を実現,また、岩木川東岸地帯で平川沿いの太閤蔵入地の代官の地位は、為信が同地へ統治を及ぼすことを比較的容易にし,岩木川沿岸部への太閤蔵入地の設置は、同地域の近世的体制への転換を促し、為信の岩木川東岸への本格的進出を,また為信は太閤蔵入地の代官となることによって秀吉政権の庇護を受けることになり、領内の小土豪層や小館主層
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

であるが、豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆・秋田氏、そして津軽氏を「隣郡之衆」に編成することにより、太閤蔵入地,の代官職を遂行させるとともに、太閤蔵入地からの収益を利用して朝鮮出兵の軍船や伏見城普請用の材木の伐採と,廻漕、また太閤鷹や金の徴収をもくろんでいたのである。,両氏に朱印状が発給されたとされており、津軽氏の場合、約三万石の領知を認められ、ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地,津軽領には太閤蔵入地が設定され、この太閤蔵入地からの年貢米を敦賀の豪商組屋(くみや)源四郎に命じて南部領
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

秋田郡の内において合計五万二四三九石二斗七升三合を宛行(あてが)われるとともに、二万六二四四石八斗三升の太閤蔵入地,この太閤検地によって浅利氏の旧領である扇田(おうぎた)村、独鈷(とっこ)村、花岡(はなおか)村、中野(,この時、実季は、浅利領にも太閤蔵入地を設定し、七〇〇〇石の内、五〇〇〇石を浅利氏の知行、二〇〇〇石を太閤蔵入地,また同年七月二十日には、浅利氏三家老の一人である片山弥伝(かたやまやでん)に対し、太閤検地については秀吉,また、浅利領には太閤蔵入地が二五〇四石設定されていたため、天正十八年分は木村重茲が直接受け取り、翌十九年分
通史編2(近世1) (一 伏見杉板の賦課)

)九月の九戸一揆鎮圧から間もない十二月、豊臣秀吉は関白(かんぱく)職を甥の豊臣秀次(ひでつぐ)に譲り太閤
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

これら浅利氏の実季に対する軍役や太閤蔵入地からの物成(年貢)未進が、後に浅利氏と秋田氏との確執の原因になっていく,はこの浅利氏の行動は、未進の物成(ものなり)から逃れるためだと豊臣政権に訴えているが、事実、文禄元年の太閤蔵入地
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

氏郷は、奥羽地方の大名たちに関東・奥惣無事令の執行者として臨んでいたことを想起すれば、太閤鷹の保護と献上,天正十九年に鷹献上を命じた、秀吉朱印状(資料近世1No.四一)にみえる、御鷹=太閤鷹として位置づけられたからであった
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

津軽地方における上方廻米は、文禄四年(一五九五)の組屋源四郎による、太閤蔵米(たいこうくらまい)の南部
通史編3(近世2) (朝鮮出兵への批判)

そこのところを混同して、「今ノ士タル者ハ太閤ノ気風ヲ望テ武道ノ意気地ト貴ブ。
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

また、さきに触れたように伊達氏は会津・安積・磐瀬を没収され、秋田・小野寺・戸沢氏などは太閤蔵入地が設定,太閤検地は、奥羽全域に等しく実施されたものではなかったのである。
通史編2(近世1) (知行安堵)

   B 慶長4年諸侯分限帳 10 3    19    4    C 太閤秀吉公時代諸大名分限帳,10 3    5    3    3    D 太閤御時代一万石以上之分限帳
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

太閤蔵入地が岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川の分岐点を中心とする津軽平野中心部一帯に設定されたと推定
通史編3(近世2) (館神)

『記類』によれば、正八幡宮の神体は豊太閤(ほうたいこう)坐像であった。
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

慶長五年九月の島津討伐を福島正則と黒田長政に命じた榊原康政(さかきばらやすまさ)ほか連署覚書には、「太閤様御置目,・六年の奥羽地方における大名動員の基本方針が、朝鮮出兵時の軍役を踏襲するものであったとするならば、「太閤様御置目
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

この二通の覚書は、浅利氏が秋田氏へ納めた軍役や物成、太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板の運上の決算報告書
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

伏見滞在と派閥抗争 奥羽の大名は、天正十八年以来、検地、刀狩り、城破(しろわ)り、太閤蔵入地・「御鷹場,出羽国の太閤蔵入地は石田三成らによって設定され、以後、吏僚派の奉行である三成のほか長束正家・増田長盛・,しかし、この最中の慶長三年八月、伏見城において太閤秀吉が死去する。  
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

『当代記』によれば、春から伏見城普請として日本の大名衆が上洛していることを記し、『太閤記』では二月初め
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

(2)浅利氏に賦課される軍役・物成や太閤蔵入地の代官所支配も、一般の家臣並みとすること。
資料編2(近世編1) (【解説】)

そもそも津軽領の検地は、天正十八年(一五九〇)の奥羽日の本仕置(ひのもとしおき)において太閤検地が実施
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

相違する高一万五〇〇〇石余は、「組屋文書」(資料近世1No.五九・六〇)にみえる津軽地方に設定された太閤蔵入地,徳川政権の成立により代官であった津軽家の領知に太閤蔵入地が編入され、そのことによって津軽領四万五〇〇〇
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

また、『太閤記』所収の肥前名護屋在陣衆に、津軽氏の場合一五〇人の兵が書き上げられ、さらに『天正記』には
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

一方、信建は「太閤に仕えた」人物であり、早くから上方生活を送っていた。
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

…  15   一 検地・人質徴収・城破り・刀狩り …………………………  15   二 領知安堵と太閤蔵入地
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

そして、具体的には検地衆が「奥州・津軽・日の本まで、さしつかわされ、そのうへ、国々御検地」(「太閤さま
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書能代市史編さん室写真提供 38 大阪城天守閣蔵 39 伏見桃山御殿太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣朝臣秀吉公御城並大小名御屋舗之図
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄四年(一五九五)十一月二十日、若狭小浜の組屋源四郎、津軽の太閤蔵米を売却する。,●文禄四年(一五九五)十一月二十六日、浅野長吉、若狭小浜の組屋源四郎売却の、津軽の太閤蔵米販売代金を受領
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