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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (銃後後援強化週間の実施)

弘前市でも昭和十四年二月七日、県から銃後奉公会の設置を要請され、時局の推移に鑑みて挙郷一致の単一団体とし,銃後奉公会は市町村の軍人援護の中枢団体として位置づけられ、会の指導・統制は市町村長が行い、県内の全般的指導,この結果、弘前市銃後奉公会が結成され、会長には市長が就任した。,写真23 銃後奉公会関係の簿冊  軍人援護に関する資金は、国や軍ではなく、各地域で支えるということが,銃後奉公会は市民に直接接する市町村当局によって運営された。そのため市民の戦争参加はいっそう進んだ。
通史編4(近・現代1) (就学励行)

弘前の町方などでは、学齢に達すると他家に奉公に出すことが多かった。,奉公による賃金が目的でなく、家庭の口減らしのためで、奉公による不就学児童もずいぶん多かった。,尋常小学校ノ教科ヲ修了セザル学齢児童ヲ雇傭スル者ハ雇傭ニ依リテ児童ノ就学ヲ妨グルコトヲ得ズ」の条項をもって、奉公先,から通学させることを命じているが、守る奉公先はほとんどなかった。
通史編5(近・現代2) (戦時下の幼稚園)

昭和十六年五月一日、この日から毎月一日に行われる興亜奉公日に、幼児に対して朝九時に宮城遙拝、昼に黙禱を,「今年度初めての興亜奉公日、小さい組はまだわからないけれども、形からだんだん馴らして行く。
資料編3(近世編2) (第一節 後期藩政の展開と社会状況)

 藩財政の窮乏と商品流通  (一)廻米と借財  (二)知行借り上げと蔵入り  (三)給銭高騰と奉公人不足
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

自己の家臣団を編成し、その領地石高に見合った一定の数量の人数・軍馬・武器等を提供するもので、いわば「奉公,大名領主権は、幕府が課した「奉公」としての役奉仕を通じて形成されていったのである。
通史編3(近世2) (日雇と松前稼ぎ)

日雇先は不明であるが、そのうち二軒には奉公に出ている旨の記載がある。,一方借家の方は、三分の一が日雇で生計を立てており、三軒には奉公に出ている旨、一軒には新田在に稼ぎに出ている,さて、両帳の記載で注目されるのは家業がありながら、家族の中に「奉公に出ている」とか「松前稼ぎに出ている,奉公に出るのは家業を継ぐため修業に出ているものと考えられるが、松前稼ぎは現在の北海道への出稼ぎであり、,ほかにも、桶屋の通い弟子でいったん松前に出稼ぎに行ったが、当時は秋田領へ奉公に行っている者も一人いる。
通史編5(近・現代2) (傷痍軍人の保護)

写真28 軍人援護の回覧板  けれども軍人援護事業が銃後奉公会をはじめ、民間団体の協力を得て行われたことも,これには地元の銃後奉公会や地方事務所だけでなく、社団法人映画配給社と毎日新聞社が主催し軍事保護院が後援
通史編2(近世1) (他領者の入領規制と流通統制)

また、在方や町方では、身元が確かでない他領者を奉公人として雇うことは禁止、田植えや稲刈り時などの短期間,の雇用も同様、武家や寺社の奉公人は他領者を雇うことがないよう、通達された。  ,他領者は即刻帰すこと(ただし、廃田復興に携わっている者は「御国益」になるので除外)、家中で他領出身の奉公人,を雇っているものは即刻暇を出すこと、奉公人宿も他領者を扱うことは禁止、入切手を持っていても、原則的に「
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

松前稼ぎには、鯡場(にしんば)稼ぎに代表される漁場労働のみならず、箱館・松前など都市部における「飯炊并勤奉公,」・茶屋奉公・売春などの稼ぎも相当数あり、また、松前のブローカーと結託して、女性を拘引(こういん)同様
通史編3(近世2) (公娼と私娼)

両浜の遊女になるには人身売買(じんしんばいばい)によるほか、親が遊女屋へ証文を出して年季奉公の形をとった,しかし、女たちがこのような奉公に耐えきれずに、遊女屋から逃げ出して温泉場で稼ぐ者もあった。
通史編2(近世1) (賃銭・物価の統制)

藩はこの仮子や家中奉公人についても給銭を下方修正して定めている(同前No.四七~四九)。,に対応したものであるが、それは物価の高騰が、基本的には百姓成り立ちや家中成り立ち、さらには人夫や武家奉公人
通史編4(近・現代1) (弘前市処女会の設立)

弘前市処女会の設立 市内の町には、嫁入り前の家事手伝いの女子や奉公に出て他家にある者などがおり、その
通史編5(近・現代2) (少年団の結成)

我等ハ朝陽少年団員ナリ   一、大御心ヲ奉体シ心ヲ合セテ奉公ノ誠ヲツクシ     天壌無窮ノ皇運ヲ
通史編3(近世2) (盆行事)

十六日は、地獄の釜の蓋が開くといわれ、奉公人は藪入(やぶい)りで実家へ帰り、嫁も里帰りする。
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

また、『寛政重修諸家譜』に弘前津軽家が分知後も「なを四万七千石の軍役をつとむ」とあることから、幕府が「奉公
通史編3(近世2) (津軽国学社中)

鶴舎(本名武田乙吉)は鶴屋宇兵衛の次男で、幼年より富豪伊香八太郎の家に奉公し、毎夜、津軽俳壇の重鎮であった
通史編5(近・現代2) (軍人遺家族の援護対策)

その結果、青森県と恩賜財団軍人援護会青森県支部が主催し、青森、弘前、八戸三市の銃後奉公会が後援して遺家族生活改善講習会,昭和十六年五月二十一日、県は各市町村当局や銃後奉公会に対し、帰郷軍人の前線体験を銃後の生活に具現させる
通史編5(近・現代2) (忠霊塔建設)

忠霊塔の建設は弘前銃後奉公会(会長は弘前市長が充てられた)が中心となり、市内各学校生徒児童の勤労奉仕と
通史編3(近世2) (子供を池に投げ殺害)

せんは子供の万之を連れては秋田領で奉公もできかねるので、捨てようかと考えていると常に相談したところ、常
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

ということで領内一様に算用を命じたところ、浅利氏は妻子を捨て、突然上洛し「上様(うえさま)」(豊臣秀吉)に直接奉公
通史編5(近・現代2) (日中戦争の勃発への着手)

それが銃後奉公会に代表される「前線」将兵を支えるための「銃後」の社会だった。  ,慰問、徴用ヲ解除セラレ帰郷スル者ノ歓迎等ハ応召者ニ準シ之ヲ為スコト」  ③「応召兵ニ準シ市町村銃後奉公会等
通史編2(近世1) (秀吉による朝鮮出兵の背景)

は「身分統制令」を発布して兵農分離の方針を徹底させ、ことに侍・中間(ちゅうげん)・あらし子などの武家奉公人
通史編4(近・現代1) (『曠野の花』に描かれた笹森儀助)

これもお国への御奉公ですよ」と大きな袋を座席へゆっくり縛りつけながら、「最初はわし一人で朝鮮にゆき、元山
通史編5(近・現代2) (女性・学童・朝鮮人の動員)

一九四二)二月六日、国民勤労報国協力令に基づき、弘前市でも国民勤労報国隊を結成し、勤労を通じて国家に奉公
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

21 『青森県綜観』弘前市蔵 写真22 「乳幼児ニ関スル書類綴」弘前市立図書館蔵 写真23 「銃後奉公会,関係]綴」弘前市立図書館蔵 写真27 「日本赤十字社関係書類綴 東目屋」弘前市蔵 写真28 「銃後奉公会関係綴
通史編2(近世1) (地方知行制の復活と借知制の実施)

自己の裁量で支配・経営し、これを給養地として、自己の責任で軍事力(武器・馬・兵糧・従者)を調えて主君に奉公
通史編4(近・現代1) (地租増徴問題と青森県)

国運進歩の費用を献ずること最も多き者は農民社会」と同情し、同じ兵役義務三年にしても、商工社会では見習奉公
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

師助はのちに義房に従って上洛し、将軍奉公衆にまでなった人物である。  
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

また、西国大名らの家臣団編成は、身分が低い小者(こもの)であっても主人に対し格別の奉公を果たせば侍(さむらい,)身分に引き上げ、それをみた家臣たちは我劣らじとさらに奉公に励む構図になっており、「ミやうち(名字)」,軍役を完璧に果たさねば「身上(しんじょう)は(果)て」るため、それを避けるため必死になって秀吉に対し奉公
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

彼は幼時から武田玉之の家で見習奉公をした。
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

病人一七人は馬に乗せて出生の村へ丁寧に送り届け、身寄りのない者は町方の者は町名主のもとで奉公させ、在方
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

てて、すぐに金を得られる蝦夷地の鯡場(にしんば)稼ぎや、箱館・松前・江差(えさし)といった町場に女中奉公,や茶屋奉公などの出稼ぎに出てしまうことであった。
通史編3(近世2) (災害と生活)

取り調べを受けた結果、故意に犬を傷つけたわけではないが、「奉公遠慮」を申し渡された。
通史編2(近世1) (刀狩り)

そして、会津に到着した秀吉は、三日後の八月十日に、 一、諸奉公人者、面々以給恩其役をつとむへし、百姓
通史編2(近世1) (下級藩士への開発奨励(I期))

(1)四代藩主信政が定めた城下集住策に背くものの、廃田の開発は奉公同様「国益之筋」にかなう。
通史編2(近世1) (町方支配)

道橋之事」「伝馬馬次駄賃銭人足諸役之事」「商売物之事」「失火之事」「公事之事」「父子之事」「跡式之事」「奉公人之事
通史編2(近世1) (土着策と蝦夷地警備)

そこで、これまでみてきた土着策による家中成り立ちと、蝦夷地出兵の関係をとらえてみると、従者(武家奉公人
通史編2(近世1) (文久の面改め)

また家中・在方・町方を問わず、他領からの奉公人の実態、出稼ぎや他領への移住の実態の把握も重要な要件であり
通史編2(近世1) (乳井の略歴)

享保二十年(一七三五)六代藩主津軽信著(のぶあき)に奉公見習として仕え、手廻五番組に任じられ、翌元文元年
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

これは、過重な役負担を大名に課さないことで、「奉公」に支障が出ないよう配慮したものと考えられる。
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

その後、八月十日に指定の普請場所以外に「御奉公」として、修学院惣廻石垣の崩れの修復も命じられている。
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

それは農村人口の確保策や家中奉公人(従者)確保策とも表裏一体の関係にあった。  
通史編3(近世2) (二等銃隊の創出)

副役の福士は御手廻無足(むそく)組で、奉公見習い中であり、扶持はわずかに五人扶持だが、やがて正式に家督
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●明徳三年(一三九二)正月、奥羽両国が鎌倉府の管轄とされ、奥羽の諸氏に鎌倉奉公が命ぜられる。
通史編2(近世1) (毛内宜応の「秘書 全」)

に戸籍調査や営業規定等によって三民の計画的配分の方向に向かい、非人や乞食も不足がちな仮子(かりこ)や奉公人
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動 軍役を中心とする将軍に対する諸大名の「奉公」が、「御恩」給付、
通史編3(近世2) (城下での生活)

その時、奉公について、今年中にも藩主の江戸登りがあったならば、お供を勤めたいと申し上げると、甚右衛門はもっとものことだと
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

その際、信直・八戸政栄・東政勝・南慶儀の四者会談が行われ、それぞれ信直への奉公を誓う。
資料編3(近世編2) (新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)

知行借り上げと蔵入り ………………………………………………………………  四四    (三)給銭高騰と奉公人不足
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

岩手県葛巻町八幡神社鰐口銘文 225 ●明徳三年(一三九二)正月、奥羽両国が鎌倉府の管轄とされ、奥羽の諸氏に鎌倉奉公,その際、信直・八戸政栄・東政勝・南慶儀の四者会談が行われ、それぞれ信直への奉公を誓う。
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