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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
豊臣政権の
奉行
衆 秋田氏へ杉板運上の朱印状を取り次いだ人物は、文禄元年は加賀の前田利家、文禄三年(一五九四,前田利家は、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置の際、秋田や津軽の検地
奉行
として派遣され、家康らと同様に分権派,しかし、翌文禄二年には秀吉の
奉行
として中央集権化を目指す集権派グループの長束正家や、浅利騒動において秋田氏,秀吉はこれら集権派に属する財務に秀でた
奉行
や家臣らを北国海運の拠点に据え、その海運によってもたらされる,していたのであり、太閤蔵入地からの収入によって廻漕される伏見作事板にかかわる秀吉朱印状の取次に、集権派の
奉行
/ 豊臣政権の
奉行
衆
通史編1(古代・中世)
(検断奉行への抜擢)
検断
奉行
への抜擢 尊氏より奥羽掌握を命ぜられた関東執事斯波家長は、安藤家季を検断
奉行
(けんだんぶぎょう / 検断
奉行
への抜擢
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行制の確立)
奥州惣
奉行
制の確立 こうして日本史上初めて、東北のほぼ全域が統一国家の領域に組み込まれることとなった,ここに葛西清重・伊沢家景の二人が相並ぶ、いわゆる奥州惣
奉行
制が確立したのである。 / 奥州惣
奉行
制の確立
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行葛西清重)
奥州惣
奉行
葛西清重 奥州合戦勝利の直後から、頼朝は積極的に東北地方の治政に着手した。,二十二日になると、頼朝は奥羽経営のために、葛西清重に対して「陸奥国御家人のこと」を
奉行
するように命じた,『吾妻鏡』では、のちにこの地位を「奥州惣
奉行
」と呼んでいる。 / 奥州惣
奉行
葛西清重
通史編2(近世1)
(貞享検地への影響)
具体的にみていくと、惣
奉行
は大道寺繁清と間宮勝守であり、大道寺は高田検地の惣
奉行
、間宮は元締めであった,検地
奉行
の太田茂左衛門と今次兵衛は、高田検地にはともに竿
奉行
として国元から派遣された。,また竿
奉行
一〇人のうち六人が、高田検地の竿
奉行
その他二人も検地役人としてそれぞれ派遣されている。 ,・元締め・検地
奉行
・目付・竿
奉行
等といった検地役人の組織体制を作って領内総検地を実施するという方法は、,役職である勘定
奉行
・郡
奉行
よりは下の地位である。
通史編3(近世2)
(猿賀神社より盗み)
すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四
奉行
(寺社
奉行
・町
奉行
・勘定
奉行
・郡
奉行
)の命令
通史編2(近世1)
(裁判と判決)
から堀を隔てて三之丸東側の評定所(ひょうじょうしょ)のほかに、庄屋(しょうや)(名主(なぬし))・町
奉行
,・寺社
奉行
宅などが使用された。,評定所では大目付(おおめつけ)または目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四
奉行
(,寺社
奉行
・郡(こおり)
奉行
・町
奉行
・勘定
奉行
)・徒(かち)目付・足軽目付・町同心などが出席した。,死刑の一種でその死体は新刀の斬れ味を試みる様斬(ためしぎ)りに使用される)のほか追放も申し渡され、牢
奉行
通史編2(近世1)
(請作)
また、代官のみならず、一年作
奉行
が設置され、
奉行
には番方上士(本参、または手廻組)が多く選ばれている。,この一年作
奉行
の動きを、延宝三年(一六七五)の例によってみると、以下のとおりである。 ,まず、一年作
奉行
は、二月から三月初めの約一ヵ月にわたって派遣され、
奉行
の管轄が広範囲に及んでいる。,これらは、一年作地の年貢決定権が代官に属するということもあってか(同前四五)、一年請作
奉行
が請作地で、,は、蔵入地と同じように一年作
奉行
にあったようである。
通史編2(近世1)
(異国船打払令の発令と津軽弘前藩)
打払令の発令を受けて同藩では、三
奉行
(郡
奉行
・町
奉行
・勘定
奉行
)が今後の処置について検討し、藩庁へ申し,また、触書の趣旨の周知徹底については、三厩派遣の兵員・浦々の町
奉行
・湊目付にその心得方を申し渡すよう、,また大筒掛役・廻船の乗組員へは勘定
奉行
から同様に申し渡すようにとしている。,また高札を大間越から野内までの八浦、その外に金井ヶ沢・小泊・平舘・油川に立てることとし、作事
奉行
に命じて,立て札を作らせ、設置については八浦がそれぞれの町
奉行
、金井ヶ沢・小泊・平舘・油川については郡
奉行
が責任
通史編2(近世1)
(土着策実施への布石(Ⅱ期))
(5)望みの者は、郡・勘定
奉行
に問い合わせ、確認のうえ申し出ること。 等である。 ,の困窮対策が直接の目的となっており、また、まったくの自分「手人数」をもっての開発となっているが、勘定
奉行
,郡
奉行
と勘定
奉行
を土着策の担当としたのは、この理由からである。 ,こうして、同三年一月、赤石安右衛門が郡
奉行
(勘定
奉行
兼帯)に、菊池寛司が勘定
奉行
(郡
奉行
兼帯)に登用され
通史編2(近世1)
(僧侶・神官対象の司法制度)
②の場合は、入牢・揚屋入りではなく、寺社
奉行
の管轄下で行われ、末寺の起した事件は僧録所(そうろくじょ),②の場合、寺社
奉行
が寺社
奉行
宅で申し渡しているのが一般的傾向であった。 ,僧侶・神官が俗人と組んで犯罪を犯した場合、僧侶・神官は正犯・従犯ともに寺社
奉行
の管轄で、②と同様に寺社
奉行
,が寺社
奉行
宅で申し渡すのが一般的傾向であったといえよう。
通史編2(近世1)
(取り調べと牢屋)
その後容疑者が町
奉行
所に送られて与力(よりき)が取り調べ、その結果、
奉行
より「入牢証文(じゅろうしょうもん,)」が出され入牢、すなわち今日の未決勾留(こうりゅう)が決定すると、一件書類は
奉行
所の吟味方へ、また容疑者,津軽弘前藩の取り調べについては、町
奉行
の職務に刑律方(けいりつかた)というのがある。,図175.牢屋敷平面図 牢屋の役人は町
奉行
の支配下にあって、牢
奉行
・牢守・牢屋番人がいる。,牢
奉行
は定員三人で牢屋敷の管理、その下に定員二人の牢守がいて牢屋番人の監督をした。
通史編2(近世1)
(藩士対象の司法制度)
家老・用人・大目付・勘定
奉行
など上級藩士に対する取り調べの詳細は不明であるが、「国日記」によれば、預り,御徒目付 取上御仕置場 ⑥ 御徒目付 牢前 ⑦ 御徒目付 揚屋 ⑧ 御徒目付 村端または町端 ⑨ 町
奉行
,町
奉行
宅 ⑩ 御馬廻 深浦 ⑪ 鯵ヶ沢町
奉行
鰺ヶ沢町
奉行
所 ⑫ 青森町
奉行
青森町
奉行
所 ⑬ 代官,浪岡庄屋宅 ⑭ 今別町
奉行
今別町
奉行
所 ⑮ 町年寄 町年寄宅 ①は上級藩士に対するものである。,⑨~⑮までは、弘前城下で起った事件は町
奉行
宅や町年寄宅での申し渡しもみられるが、弘前から距離的に遠い地域
通史編2(近世1)
(検地の実施)
延宝元年 5月 9月13日 総検地
奉行
任命。,黒土・林は、前年の検地における検地
奉行
である(このとき、検地
奉行
は、六人が二人一組で任命された)。,検地目録は、検地
奉行
が派遣された地域ごとに作成され提出された。,天和二年(一六八二)も、検地
奉行
三人が弘前を出発している。,検地
奉行
三人、もしくは三組という編成、そして春と秋の二期に検地が実施されるという在り方は、延宝期の検地
通史編1(古代・中世)
(糖部郡での論功行賞)
糖部郡での論功行賞 一方、広大な糠部郡では、陸奧守顕家によって郡
奉行
と郡検断を併せ持つ検断
奉行
として,山梨県南部町)を本領としていたが、陸奥国内にも所領を有していたらしく(現在地は不詳)、それがきっかけで糠部の郡
奉行
通史編2(近世1)
(捜索・召捕)
捜索・召捕 幕府では刑事事件発生後の犯人(または容疑者)の捜索や召捕(めしとり)には、町
奉行
(まちぶぎょう,)(岡っ引き(おかっぴき)・口間(くちとい)・御用聞(ごようきき)・手先(てさき)などともいう)は町
奉行
配下,津軽弘前藩では町
奉行
(弘前城下の町方の行政・司法を担当)の付属吏である町同心・町目付・目明が担当した(,町
奉行
が逆に彼らを利用して犯罪捜査・召捕に効果を上げようとしたもので、いわゆる「毒をもって毒を制する」
通史編3(近世2)
(歌舞伎)
延宝九年(一六八一)の「町人作法之事」(『御用格』)では、勧進・操(あやつり)・相撲は町
奉行
の取り扱いになると,興行としては、藤八太夫が元禄四年(一六九一)、町
奉行
に対して、役者不足で小芝居になり見物人もないところから,同十年五月には四
奉行
・用人の奥方・藩士・町人・在方からの見物もあって繁昌したという(「秘苑」)。 ,)二月に居宅と芝居小屋とみられる家業場の修復費用が不足しているとして、富籤(とみくじ)の許可願いを町
奉行
通史編3(近世2)
(藩政後期)
諸
奉行
に修復させるという通達を出した(『御用格』寛政本)。,同年、藩庁は寺社門前をそれまでの寺社
奉行
より町
奉行
の支配下に置き、町役の負担はこれまでどおり寺社
奉行
の,しかし、町役は出人足であったので、寺社に奉仕させる掃除等の出人足はそのまま寺社
奉行
の扱いとした。,よって寺社
奉行
により領内の全堂社の把握が行われたことになる。,三
奉行
が相談した結果、不届きな言動には当たらないとして取り締まりの対象から外した。
通史編3(近世2)
(入学式)
「封内事実秘苑」は、その状況を伝えて、当世、何事も「唐流」になり、家老を「唐風」に「国相」と、勘定
奉行
,を「司会」、郡
奉行
を「郡正」、町
奉行
を「市正」、人別方を「民籍」などと呼んで、これら「凡て唐流の棟梁は
通史編3(近世2)
(神道)
神職組織は延宝六年(一六七八)に寺社
奉行
が設置されて、寺社行政が整備されていく中で形成されてきた。,図202.神職組織と神道本末関係図 神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門のみは寺社
奉行
の直接支配,寺社
奉行
は宝暦七年(一七五七)、山村父子を寺社
奉行
の直接支配に変更したが、最勝院・社家頭の働きかけによって,それは、官職受領願は寺社
奉行
へは最勝院の添状が必要であったが、吉田家へは寺社
奉行
の添状のみを持参するので,社家頭は天保十二年(一八四一)、三
奉行
から吉田家の「公儀御条目」の提出を求められた。
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
そのため三
奉行
(寺社
奉行
・町
奉行
・勘定
奉行
)が、三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場
通史編1(古代・中世)
(北畠親房の政権構想)
また奥羽の得宗領の特徴であった郡地頭職は、郡(こおり)
奉行
所という形に止揚されていった。,郡
奉行
所は国府の支庁として地方支配の要(かなめ)であり、郡地頭職さえもそのなかに包摂(ほうせつ)しようと,また軍事警察権を持つ郡検断も置かれて、郡
奉行
の輔佐に当たった。 ,郡
奉行
所へ登用された武士は、関東武士団の庶流中、白河(結城)宗広(しらかわ(ゆうき)むねひろ)・伊達行朝
通史編1(古代・中世)
(南北朝の動乱と曽我氏)
曽我氏 建武三年(延元元年、一三三六)正月、足利尊氏の御教書(みぎょうしょ)を受けた安藤家季が合戦
奉行
,この時には、秋田から浅利清連も合戦
奉行
として加わった。 ,安藤家季は、斯波家長が発給した合戦
奉行
への補任を示す「将軍家御教書」を掲げて、周辺の武士を多数募っていたという,これら一連の働きに対して、合戦
奉行
浅利清連が、貞光は南部師行方の楯々攻略に抜群の勲功を立てたと、総大将斯波家長
通史編3(近世2)
(キリシタン改め)
改帳は国元にも置かれたが、一部は江戸藩邸から幕府寺社
奉行
へ提出した。,これを郡
奉行
を通して寺社
奉行
へ提出した。,藩士の場合は、御目見以上は寺社
奉行
へ直接提出し、組支配の者は番頭に判鑑を置き、組頭より寺社
奉行
へ提出した
通史編3(近世2)
(切支丹類族)
津軽領では、元禄五年(一六九二)三月二十九日に町
奉行
宅へ、類族として油布宇太夫・矢野道説・蒔苗清三郎・,この時、必要によっては寺社
奉行
が立ち会うことになっていた。,類族改めは春秋二回行い、組頭を通して寺社
奉行
へ提出させた。,同六年、「古切支丹類族帳」を幕府へ提出し、今後はその控えをもとに寺社
奉行
が類族改めを行うことにした。,死体は、町名主・五人組・子供が付き添って月峰院まで運び、目付が見届けたうえで町
奉行
の手で塩詰めにした。
通史編3(近世2)
(勤務の状況)
、一人ずつ交代で詰め、物頭(ものがしら)(武頭、足軽(あしがる)大将といわれる武官)・長柄(ながえ)
奉行
,御用座敷は上ノ間から家老、二ノ間は用人・大目付、三ノ間は三
奉行
(寺社
奉行
・町
奉行
・勘定
奉行
)、四ノ間は,吟味役・勘定小頭(かんじょうこがしら)(両者は勘定
奉行
の下僚)が詰めて藩政を処理する。 ,この座敷には、御旗
奉行
・御持鑓(おんもちやり)
奉行
・大組足軽頭(おおくみあしがるがしら)・御持筒(おんもちつつ
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
⑪僧侶が弟子を取る場合は
奉行
へ届けること。 ⑫新社、新寺、在方における小庵の創建は禁止。,このような行動をする者が現れた時は
奉行
へ申し出ること。 ,延宝六年(一六七八)に切支丹改役の岡文左衛門に加えて成田七郎右衛門を寺社
奉行
に任命した(同前No.三九五,寺社
奉行
は定員二人が月番で、官署が設けられていなかったので、寺社
奉行
宅で事務を取り扱った。,各宗派とも僧録寺院の後継住職は、家老宅において寺社
奉行
・大目付が出座して家老より申し渡された(「国日記
通史編2(近世1)
(開国と箱館警備)
そして同月晦日には、箱館
奉行
を置いて勘定吟味役竹内保徳(やすのり)を任じ、七月には目付堀利煕をも任命した,たとえば、安政元年閏七月十八日に箱館
奉行
竹内保徳が幕府老中へ差し出した伺書(『大日本古文書 幕末外国関係文書,確立するまで、当分は松前家に従来どおりの「台場御固」などの警衛体制を続けさせるとともに、非常時には箱館
奉行
,すなわち、幕府・箱館
奉行
は、非常時の箱館警備の軍事力を松前・津軽弘前・盛岡三藩に依存しようとしたのである,安政元年十二月、箱館
奉行
堀利煕は、老中に対して、蝦夷地上知実施の際の見込みについて上申した。
通史編2(近世1)
(青森騒動の経過)
この騒動は当初町役人など町上層部の参加を得ないで開始されたが、名主会所を巻き込み町名主から町
奉行
に訴願,図127.青森町
奉行
所 騒動勢は町
奉行
が訴願を受け入れない場合は弘前城下へ強訴に出るつもりだったが,このようにして、騒動勢は商人一〇四軒が蓄積していた米穀約五二〇〇俵、大豆約六〇〇〇俵の存在を明らかにし、町
奉行
,これに対し、町
奉行
所はなすすべもなく、かえって自ら鎮圧に当たろうとした
奉行
が罵声を浴びせられ、負傷する,町
奉行
所は緊急に公定価格の堅持などを約束する高札を立てたので、騒動は夕刻にはようやく沈静化した。
通史編3(近世2)
(半紙の増産事業)
が過分に他領へ流出するのを改善するのがねらいであって、なんとか半紙だけでも国産にできないかと郡・勘定
奉行
,喜兵衛の答申に基づき
奉行
が作成した申し立てには、領内の紙漉の状況と半紙増産の方策が詳細に記されていた。,喜兵衛の申し立てによって三
奉行
から一人ずつ楮仕立て司取役が任命され、事業を推進することになった。
通史編2(近世1)
(幕末期の蝦夷地交易)
たとえば、滝屋は藩の御用を勤める一方、大顧客として箱館
奉行
所の注文をたびたび受けている。,慶応二年(一八六六)五月、箱館
奉行
の御用船健順丸(けんじゅんまる)が青森に入港し、兵粮(ひょうろう)八五俵,この他に滝屋が箱館
奉行
所に売却した物資は種籾・大豆・小豆など実に種類が多く、特に文久二年(一八六二)正月
通史編2(近世1)
(農村部での騒動)
騒動に参加した者は約一〇〇〇人で、弘前郊外の石ノ渡の川原で、郡
奉行
三上理左衛門・勘定
奉行
石郷岡徳左衛門,図129.木造新田の者たちが町
奉行
と対峙した石渡川原 「貯米」は元来、飢饉対策として安永期から
資料編3(近世編2)
(第一節 宗教政策の展開)
第一節 宗教政策の展開 一 切支丹改め 二 切支丹類族 三 寺社
奉行
の設置 四 社寺取り調べ
通史編3(近世2)
(商業の農村進出)
そのため、農業が衰微しないように注意すべきである、という藩から郡
奉行
(こおりぶぎょう)への訓令が出されている,さらにその後元治元年(一八六四)には、三
奉行
(町
奉行
・寺社
奉行
・郡
奉行
)から次のような申し出があった。
通史編3(近世2)
((三)住居)
める)、二ノ間(用人・大目付…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三
奉行
,…寺社
奉行
・町
奉行
・郡
奉行
の総称)・四ノ間(吟味役・勘定小頭(かんじょうこがしら)…勘定
奉行
の下僚)と
通史編2(近世1)
(穀物の流通統制)
御用達は月ごとに手形を最終的に御元方勘定
奉行
へ渡すことになっていた。,には御蔵米の値段を安値に放出して米価を下げようとしたり、翌二十九日には青森町で下層民の動揺を恐れて、町
奉行
,それでも藩は預手形の流通にこだわり、町
奉行
が米穀の実勢相場にかんがみて、正金銭と手形を併せて通用させ、,政策にかかわらず、正金銭でなければ購入できないため、町方の者が難渋に及んでしまうということで、今別町
奉行
,城下町の弘前でも小売米が減少し、町
奉行
が御蔵米四〇〇俵の払い下げを求めた際も、町の有力者が自分自身で他国
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
天正十八年七月以後の奥羽仕置において、秋田の検地
奉行
として木村重茲、津軽の検地
奉行
として前田利家、仙北,の検地
奉行
として大谷吉継と上杉景勝がそれぞれ派遣された。,秋田の検地
奉行
である木村重茲は、同年の八月ころから検地を実施し、十一月中旬に上洛している。,には、浅利氏三家老の一人である片山弥伝(かたやまやでん)に対し、太閤検地については秀吉が派遣した検地
奉行
,したとはいえ、いまだ独立的な片山氏を家臣として強固に統制するまでには至っておらず、豊臣政権が派遣した
奉行
通史編2(近世1)
(町方支配)
町方の支配機構は、町
奉行
のほかに、町年寄・町名主・月行事の町役人によって構成された。,町
奉行
は、御用人の支配のもとにあり、定員は藩政前期を除いて二人、石高は二〇〇~三〇〇石であった。,寛文五年(一六六五)十月六日付で、町
奉行
福士甚左衛門に宛てた「覚」(『御定書』四六)は、 ①伝馬人足,のこと という内容を持つ一二ヵ条からなり、町
奉行
の職務を細かく規定している。,そして、これら町
奉行
の職掌は、明治維新に至るまで、基本的にはほとんど変化しなかった。
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
三月二十一日には用人間宮勝守を元締めとする検地派遣役人を決定し(同前)、惣
奉行
に大道寺繁清(しげきよ),三月二十八日には、江戸から派遣される役人として、惣
奉行
一人、元締め二人、検地
奉行
二人、目付一人などの人数,勘定之者・物書などが不足しており、検地を滞らせないために国元で役人を選ぶよう伝え、翌日付の書状で、竿
奉行
,まず惣
奉行
の人選であるが、当初は家老の津軽政朝か津軽政実が候補者であった。,たとえば、高田領検地における実務責任者といえる検地
奉行
財津永治(ざいつながはる)と検地
奉行
加役田口維章
通史編2(近世1)
(赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)
この前後、人事の一新が行われて、寛政二年五月信明帰国、同年六月牧野を用人に、翌三年正月赤石を郡
奉行
(勘定
奉行
兼帯,)に、菊池を勘定
奉行
(郡
奉行
兼帯)に登用、また同年五月までに、赤石・菊池とともに、いわゆる「寛政七人衆,」に数えられる竹内長左衛門嘉次(よしつぐ)(勘定
奉行
手伝)・楠美荘司則徳(のりとく)(勘定
奉行
)・工藤甚之助祐与,(すけとも)(錠口役兼勘定
奉行
)・成田祐衛門恒佐(つねすけ)(勘定
奉行
)・三橋勘之丞定禧(さだよし)(,錠口役兼勘定
奉行
)が登用されている。
通史編3(近世2)
(大学の前触れ)
(2)二〇〇石長柄
奉行
以上の嫡子は十歳よりすべて入学すること。,(3)禄一五〇石四
奉行
以上の嫡子は十歳から十五歳のうちに入学すること。,(8)親並の者で大寄合(よりあい)格より長柄
奉行
以上の者は、文武諸芸の修行に学校に来るのは自由であるが
通史編2(近世1)
(林政の展開と漆木の栽培)
元禄6(1693).正 郡
奉行
,荒地野山への松・杉植林を申し立て、許可される。,他の雑木仕立てを命じ,惣山
奉行
を郡
奉行
支配とする。,宝永4(1707) 漆
奉行
対馬万右衛門,諸木植立について上申。,延宝五年(一六七七)には、初めて漆
奉行
という役職が「国日記」に表れる。,漆
奉行
は用人支配であり、定員は八人前後で、足軽隊の古参組頭クラスが命じられていたようである。
通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
寺社
奉行
は、寛文元年(一六六一)の切支丹改衆から仕事を引き継ぎ、延宝六年(一六七八)に岡文左衛門・成田七郎右衛門,寺社
奉行
の設置によって寺社行政が整備されていく中で、神職組織も整えられていった。,八幡宮の別当最勝院は、寺社
奉行
のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職
通史編3(近世2)
(御軍政局の発足と組織)
100俵勤料 武芸調方取扱・砲術調方 9 牧野栄太郎 〃 御長柄
奉行
格 100俵勤料,御徒頭格御備方御用 10 大道寺源之進 御軍政局調方 御長柄
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格 100石 御徒頭格鯵ヶ沢町
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,・御備方・京都留守居 明治2.2 御長柄
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格 13 北原将五郎 〃 御使番 7人扶持勤料 御小姓組,矢川俊平 〃 御使番 7人扶持勤料 御付御近習小姓・御簾番兼 17 岩田平吉 〃 御馬廻番頭格武具
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,5人扶持勤料 御中小姓頭格 明治1.7 緒長柄
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格 18 長谷川弥六 〃 御使番 100俵5人扶持
通史編2(近世1)
(乳井の略歴)
乳井の略歴 勘定
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乳井貢(にゅういみつぎ)は宝暦期の藩政を主導し、改革を断行していった。,一七五二)には「病気全快ニ付」御役復帰を願い出て、三月には手廻五番組、八月には寄合、翌年の一月十五日に勘定
奉行
,乳井の勘定
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登用の経緯は「高岡記」(『伝類』)によれば次のようである。,勘定
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に就任するや、思い切った財政改革を断行し、当初めざましい成果を挙げた。,図135.乳井貢画像 安永七年(一七七八)、乳井は再度勘定
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を仰せ付けられ、胸中深く計策を秘
通史編2(近世1)
(改革推進体制の構築)
改革推進体制の構築 さて、右の課題を解決するため、家老津軽主水、用人毛内有右衛門、勘定
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乳井市郎左衛門,中でもその中心は勘定
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乳井であった。,乳井の勘定
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就任は同年一月十一日であり、乳井の就任によって勘定所の吟味が万事改まった(「徧覧日記」宝暦三年一月十一日条,仕事内容は「勘定所惣調方御用」であり、勘定
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佐藤伝左衛門に惣調方を命じ、同役の乳井に手伝いを申し付けている,宝暦五年(一七五五)十二月二十三日、江戸において調方勘定
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の乳井は「元司職(もとししょく)」を命じられ
通史編3(近世2)
(生活の困窮)
そのため彼らの支配頭(がしら)と三
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(町
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・寺社
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・勘定
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)の相談により、質入れした品物は本人,文政十一年(一八二八)二月の三
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からの申し出によれば、質入れした品は八ヵ月で質流れにされていたが(衣類
通史編3(近世2)
(住吉宮)
寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、寺社
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の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ,この時、寺社
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直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・社家頭
通史編2(近世1)
(大問屋制の導入)
大問屋は日々の出入りの状況を確認し、月ごとに町
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に目録を整えて報告した。,この目録は、さらに勘定
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・勘定元方と回覧されたから、大問屋が関所と藩の幹部との間で、交易の確認をする,御用達は「上方仕切表」を作らせて注文主に送るとともに、大問屋が取りまとめて、町
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に報告した。
通史編3(近世2)
(幕末の交易活動)
すなわち、安政二年(一八五五)三月に箱館開港に対処するため、幕府は蝦夷地を上知し、箱館
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を設置するとともに,それと同時に青森の廻船問屋滝屋(伊東)善五郎や藤林源右衛門は箱館
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所の御用達(ごようたし)に任命され
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