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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(奥州合戦の勃発)
奥州
合戦の勃発 しかし義経問題は、もともと
奥州
討伐のための口実にすぎない。,南九州からはるばる
奥州
まで数カ月の道程はさぞかし大変であったろうが、しかしこれにしたがわなければ一所懸命,そのことは、自らの「
奥州
討伐」を、これから折に触れて述べるように、前九年合戦の源頼義の故実に倣って実施,今回の「
奥州
討伐」には高度に政治的な計算が秘められていたというわけである。 /
奥州
合戦の勃発
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行制の確立)
奥州
惣奉行制の確立 こうして日本史上初めて、東北のほぼ全域が統一国家の領域に組み込まれることとなった,頼朝は朝廷から陸奥・出羽両国を知行する「
奥州
羽州地下(じげ)管領」権=
奥州
総地頭職権を獲得した。 ,ここに葛西清重・伊沢家景の二人が相並ぶ、いわゆる
奥州
惣奉行制が確立したのである。 /
奥州
惣奉行制の確立
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行葛西清重)
奥州
惣奉行葛西清重
奥州
合戦勝利の直後から、頼朝は積極的に東北地方の治政に着手した。,そこで古老の
奥州
住人、清原実俊(さねとし)・実昌(さねまさ)兄弟を召し出して、新たに絵図を描かせて、土地台帳,ついで
奥州
合戦に戦功のあった御家人らに論功行賞がなされた。,
奥州
一円の軍事指揮官ともいうべき立場である。,『吾妻鏡』では、のちにこの地位を「
奥州
惣奉行」と呼んでいる。 /
奥州
惣奉行葛西清重
通史編1(古代・中世)
(奥州安倍氏とのつながり)
奥州
安倍氏とのつながり そしてこの(安倍)高丸を介して、安藤氏が、
奥州
のかつての覇者安倍氏の系譜につながることとなる /
奥州
安倍氏とのつながり
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
豊臣再仕置軍の
奥州
下向 秀吉が、その朱印状によって正式に九戸一揆の討伐を命じたのは、天正十九年(一五九一,秀吉は、「
奥州
奥郡(おうしゅうおくぐん)」の仕置のため、徳川家康・豊臣秀次(ひでつぐ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ,天正十九年正月には豊臣政権の仕置軍は品川・小田原まで兵を進め、また徳川家康などは
奥州
への出陣のため下野国,の一揆の鎮圧、つまり朱印状にも明らかにされているように「
奥州
奥郡」の仕置に発展したのである。,この後、南部信直はひたすら秀吉軍の
奥州
下向に最後の望みをかけつつ、領内の有力な領主である野田氏に、久慈氏 / 豊臣再仕置軍の
奥州
下向
通史編1(古代・中世)
(応永十八年の衝突)
写真165 『聞老遺事』 目録を見る 精細画像で見る 室町期、安藤氏を除いて、国人相互間に
奥州
探題,を軸とした秩序(「
奥州
探題体制」)が形成されていたという。,
奥州
探題は、室町幕府の地方行政機関であり、軍事指揮権や当時の奥羽の国人が熱望していた官途推挙(かんとすいきょ,つまり、
奥州
探題体制が及ぶのは、南奥羽から南部氏の本拠である糠部郡までで、夷島・津軽・秋田という地域は,南部氏への葛西氏の支援は、
奥州
探題体制側からの支援であったということができよう。
通史編1(古代・中世)
(足利幕府の奥羽支配)
建武政権から離反した尊氏は、ここで北畠氏の
奥州
支配奪取を目指して、斯波家長(しばいえなが)を
奥州
総大将,また建武四年二月には、駿河・伊豆の守護であった石塔義房(いしどうよしふさ)が
奥州
総大将として現地に入部,官僚を引き抜いたり、北朝側の除目(じもく)で家長を陸奥守に任じて、現地で顕家の解職を宣伝するなどして、
奥州
総大将,義房の
奥州
での活動は、幕府によって全面的に保証されていたのである。 ,北畠氏側が陸奥守から鎮守府将軍へ、足利氏側が
奥州
総大将から陸奥守へと、それぞれ相手の制度的拠点を奪い合
通史編2(近世1)
(一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)
、小田原出陣中の天正十八年四月十一日に真田氏に宛てた朱印状の中で、小田原城を兵糧攻めした後に「出羽・
奥州
,・日ノ本之果迄モ被相攻、御仕置等堅可被仰付候」(「武家事紀」巻第三〇)と
奥州
への仕置を行う意志があることを,さらに、秀吉が四月十三日に北政所の侍女五さへ宛てた消息では、日本の三分の一に相当する小田原から
奥州
までの,秀吉は、
奥州
にまで到達すれば日本の支配は完了するというように認識していたということになる(長谷川成一『
資料編2(近世編1)
([付図])
(平賀町個人蔵) 四、青森御町絵図・寛文初期(弘前市立図書館蔵「津軽家文書」) 五、
奥州
十三之図,・慶安元年(市立函館図書館蔵) 六、
奥州
深浦之図・慶安元年(市立函館図書館蔵) 七、陸奥鰺
通史編1(古代・中世)
(津軽惣地頭宇佐美実政)
の要衝でもある津軽地方の鼻和・平賀・田舎三郡(津軽地方の中世の郡制については、次項で詳述する)には、
奥州
合戦,
奥州
合戦直後の東北地方では、こうした複数の郡・荘・保を統合した大ブロックを管轄する惣地頭が各地で任命されていった,そもそも頼朝は、こうした奥羽の支配形態を全国に推し進めるために
奥州
合戦を起こしたのだとさえいわれている
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
[十五世紀] ●応永十四年(一四〇七)四月二十八日、
奥州
探題斯波満持、南部光経を修理亮に推挙。,
奥州
の南部氏もこれに同心するという。,●宝徳四年(一四五二)六月、幕府、造内裏段銭を諸国に賦課し、
奥州
探題大崎教兼、
奥州
の諸氏に納入を命じる,●寛正六年(一四六五)八月二十六日、斯波義廉被官三十人、
奥州
へ下向。,
奥州
の歴史のほか、南部氏の動向、一宮塩竈社領の分布、
奥州
管領の糠部支配の記事が見える。
通史編1(古代・中世)
(国衡の死)
一方の国衡は、
奥州
一の名馬と呼ばれた「高楯黒」にまたがって、出羽道を経て大関山(笹谷峠)を目指したが、,
奥州
一の名馬といえども、「大肥満」といわれたかの巨漢の国衡を乗せてはいかんともしがたく、ついに畠山重忠
資料編1(古代・中世編)
([十二世紀])
●仁平三年(一一五三)九月十四日、
奥州
摂関家荘園の年貢に北方の珍物。,●治承四年(一一八〇)十二月四日、
奥州
戎狄藤原秀衡に源頼朝を討たせるとの風聞。,●文治五年(一一八九)八月十日、阿津賀志山の合戦に際し、藤原国衡、
奥州
第一の駿馬に乗る。,●文治五年(一一八九)十二月九日、源頼朝、
奥州
の良馬を選び、厩を建てる。,●建久五年(一一九四)六月二十五日、京都の獄囚を
奥州
(外浜か)流刑。
奥州
夷(安藤氏)に渡す。
通史編1(古代・中世)
(鳥取越えの奇襲と安藤次)
まさか背後から敵があらわれるとは夢にも考えていなかった
奥州
軍は、搦手(からめて)が破られたものと信じて,この人物は
奥州
一円の山や海を舞台に広く活動していた津軽安藤氏の同族と推定されている。,鎌倉方の道案内をするということは、
奥州
方への裏切り行為ともいえるのであるが、海運や商品流通に深くかかわる
通史編1(古代・中世)
(大河兼任の乱)
大河兼任の乱 このように、着々と
奥州
方面の戦後処理が進んでいくが、しかしなお頼朝やその御家人の東北支配,正月八日、鎌倉では東海道大将軍に千葉介常胤、東山道大将軍に比企能員を任命し、結城朝光以下の
奥州
に所領をもつ,御家人らに
奥州
への発向を命じた。
通史編1(古代・中世)
(湊の始まり)
時はあたかも
奥州
藤原氏の滅亡から、鎌倉幕府による全国的な開発が進展していた時期であり、奥大道を中心とする,室町時代中期ごろに成立した廻船式目(かいせんしきもく)の三津七湊(さんしんしちそう)の一つとして示された「
奥州
,広島県安芸津(あきつ)町所在の浄福寺に旧蔵され、応安四年(一三七一)に書写された「大般若経」の奥書に「
奥州
津軽末十三湊,さらに、若狭(わかさ)国羽賀(はが)寺縁起に記された「
奥州
十三湊日之本将軍安倍康季(やすすえ)(安藤康季
通史編1(古代・中世)
(安藤系図)
そこでは、
奥州
安倍氏の祖を中央豪族である大和の阿倍氏とし、まずその阿倍氏の比較的詳しい系譜をつづる。,は貞任の子という)、その子和任(藤原惟平養子)を経て、次の季任が、安倍と養父藤原の姓を合して、「出羽
奥州
,またやはりこの系図のみにみえる「惟平」なる人物も、他の同時代史料からすると、
奥州
平泉の藤原清衡の長男で
資料編1(古代・中世編)
(三 刀剣)
茎長 21.2 ・弘前市指定有形文化財 ・古刀期に属す・中世 ・盛宗家の始祖森宗作か 銘(表)
奥州
津軽波岡之住森宗,・慶林森宗作か ・古刀期に属す・中世 ・大永年間(一五二一)以降か 銘(表)波岡森宗 (裏)
奥州
津軽
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の防塁)
緊急時であることを考えると、三郡といわず
奥州
全域から労働力を徴発した可能性もあろう。,既述した、
奥州
を実質的に支配していた秀衡時代の権勢の賜物(たまもの)であるともいえる。 ,鎌倉軍の主体は弓射騎兵であるが、馬はこの堀を越えることができないばかりか、段丘の高いところに立った
奥州
軍,戦いは圧倒的に
奥州
軍に有利のはずであった。 ,その萌芽は、早くこの
奥州
に見ることができる。
通史編2(近世1)
(人質徴収)
天正十八年(一五九〇)七月二十六日付で伊達政宗に宛てられた木下吉隆からの書状では、秀吉が宇都宮に到着し出羽・
奥州
,とその妻子である足弱衆の上洛は、各大名に個別に命じられてはいるが、七月晦日付の秀吉の朱印状では、出羽・
奥州
,豊臣政権にとって「津軽・宇曽利・外浜迄」という表現は、出羽・
奥州
の外にある境界領域という地理認識によるものであり,小田原参陣中の四月十一日に表明した「出羽・
奥州
・日ノ本之果迄」の仕置、すなわち、日本の支配を完了させようとする
通史編1(古代・中世)
(泰衡の死)
図37
奥州
合戦時の鎌倉勢の進路 二十五日には、泰衡のもとから頼朝宛の命乞いの書状が頼朝宿所に,ここに
奥州
合戦は終り、平泉藤原氏は滅亡したのである。,八日には、頼朝は「
奥州
追討」終了の書状を京都に送ったが、それと入れ違いに、翌九日に京都から陣岡の頼朝のもとへ,、「
奥州
追討」の大義名分を与える口宣案が届けられた。
通史編1(古代・中世)
(下国伊駒安陪姓之家譜)
またその子孫「長国安東太」の項に、安陪仲丸(阿倍仲麻呂)の子である広庭が、父の仇討ちのために
奥州
に走り,、下国氏と同族であると称して出羽国仙北の金洗沢之館に立て籠ったと記述し、その子孫が
奥州
安倍氏であると続
通史編1(古代・中世)
(所領の経営)
幕府は暦仁二年(一二三九)に
奥州
での所当の銭納を禁止しているが(史料五六二・五六三)、これはのちに撤回,地域によっては基準数すら直接銭貨で示されるような状況で、
奥州
への貨幣経済の浸透は予想をはるかに越えるものであった,これは当時
奥州
でも頻発するようになっていた百姓問題に対する解決策の一つであるらしい。
通史編1(古代・中世)
(奥羽の特殊産物)
があり、したがってその夷島産物は奥羽所出品であるという論法を編み出して、馬・砂金ばかりか夷島産出品をも
奥州
,たとえば摂関家領出羽国大曽禰(おおそね)荘では、
奥州
では採れない水豹(あざらし)皮が年貢品目になっている,蝦夷管領とは、幕府による蝦夷支配と犯罪人の夷島流刑を現地で執行する代官職であり、また中世国家によって
奥州
通史編1(古代・中世)
(田村麻呂と頼朝)
田村麻呂と頼朝 のちにも触れるが、文治五年(一一八九)九月、
奥州
合戦に勝利した頼朝が、平泉から鎌倉へ,さらにそれが『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』では安倍高丸となり、
奥州
安倍氏一族のうちに位置づけられるようになっている
通史編1(古代・中世)
(秀衡と義経の死)
頼朝は本格的な出兵準備を進めて
奥州
に圧力をかけ、一方では後白河法皇を通じて、数度にわたって義経を召し出,泰衡は本気でこれによって事態が打開されると読んでいたであろうし、事実、後白河法皇は、頼朝に対して
奥州
征伐,頼朝の再三再四にわたる
奥州
討伐勅許の請願に対し、後白河法皇はついに許可を下さなかったのである。
通史編1(古代・中世)
(工藤氏の出自)
あるいは
奥州
合戦の功によって陸奥国岩手郡を与えられた工藤行光の系統とも推測されている。
通史編1(古代・中世)
(一 「日の本将軍」安藤氏)
永享八年(一四三六)四月、「
奥州
十三湊日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が後花園天皇の勅命を受けて、前年三月
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光の奮戦)
は、関東曽我一族の惣領であると自認しており、弓の名手として尊氏に仕えていたが、このころ陸奥に下向し、
奥州
総大将石塔義房,後を継いだのは、かつて北畠顕家とともに
奥州
にあった後村上(ごむらかみ)天皇(義良親王)である。,
奥州
で南朝を支える南部政長・信政(のぶまさ)親子に対しては、陸奥介・鎮守府将軍北畠顕信(あきのぶ)を再度下向
通史編1(古代・中世)
(仲麻呂鬼伝説)
とされる広庭にも当然、「鬼」のイメージがまとわりついているが、その広庭が、前述のように父の仇討ちのために
奥州
,当時の人々にとって、「鬼」は境界世界に住む恐怖の対象であり、
奥州
の終着地の外浜は、まさに東の境界世界であった
通史編1(古代・中世)
(北畠親房の政権構想)
鎌倉幕府滅亡後、急速に武士勢力を吸収しつつある足利尊氏を押さえるために、関東の背後の陸奥国を重視し、
奥州
武士,そのために陸奥国府を「
奥州
小幕府」的な機構に再建していった。
通史編1(古代・中世)
(日の本の将軍と地域の自立性)
これに対して、たとえば、「
奥州
日の本の将軍、岩城の判官正氏殿」という表現がみられる(史料一一三三)日本海,つまり、日の本将軍という呼称のルーツは、平将門伝承にかかわる関東の語り物のなかに求められ、それが
奥州
にまで
通史編2(近世1)
(秀吉による朝鮮出兵の背景)
また、翌天正十六年四月、豊臣政権の東国政策を担当した奉行富田知信(とみたとものぶ)は、
奥州
の白川義親(,朱印状では、前年の天正十八年七月の仕置以後の新たな身分変更を厳禁しており、秀吉は奥羽・日の本仕置によって
奥州
通史編2(近世1)
(刀狩り)
)・鉄砲、並びに武具類を改め、また、検地も行うように(『青森県史』資料編近世1)と、局所的ではあるが
奥州
,刀・わきさし・弓・鑓・鉄炮、一切武具類持候事、御停止ニ付而、悉(ことごとく)被召上候、然者今度出羽・
奥州
両国之儀,そして、出羽・
奥州
、さらには津軽の果てまでをも射程に入れた刀狩りと検地とが一体となって施行されることを
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の合戦)
図36
奥州
合戦要図(菊池利雄原図:1979より、一部省略変更)(児玉幸多:1968より) こうして,念西はこの功績で伊達郡地頭職を賜り、これが
奥州
伊達氏の始祖となったのである。 ,しかしこうした緒戦での戦果にもかかわらず、
奥州
軍の勢力は強く、大木戸の国衡本陣には達することができないまま
通史編1(古代・中世)
(奥大道と文物の流通)
奥大道と文物の流通 北奥諸郡の建置、さまざまな物品の流通で注目されるのが、陸奥国を縦貫する奥大道(
奥州
街道,『吾妻鏡』によると、
奥州
藤原氏初代清衡は、白河関から外浜に至る二十日余の道程一町ごとに笠卒塔婆をたて、,今昔物語集』には、安倍頼時が北の胡国を目指したという説話があるが(史料四三七)、こうした伝説の背後には、
奥州
通史編2(近世1)
(一里塚)
一里塚 「正保国絵図」の中で、一里塚の印が記載されている街道は、大道筋の西浜街道・羽州街道・
奥州
街道,しかし、盛岡藩の場合は同年二月に
奥州
街道の分について一里塚築造に着手したと思われ(「篤焉家訓(とくえんかくん
通史編1(古代・中世)
(夷島流刑と東夷成敗権)
早くも建久二年(一一九一)には、最初の京都官人(強盗)一〇人の夷島流刑が「
奥州
夷」安藤氏によって実施されている
資料編1(古代・中世編)
([十四世紀])
●このころ、足利尊氏、闕所地(旧惣地頭北条泰家)の
奥州
外浜を所領とする。,●観応元年(一三五〇・南正平五)五月、
奥州
管領府、糠部・滴石(雫石)の南軍に対する攻撃を企て、軍勢を集,●元中三年(一三八六・北至徳三)十一月、北畠顕信の子親統、波岡に入り
奥州
新国司と称すという。,●南北朝末期ころ、『庭訓往来』に
奥州
金・奥漆・宇賀昆布・夷鮭など
奥州
・夷島の産物の名が見える。,●応永七年(一四〇〇)、幕府、斯波(大崎)満持を
奥州
探題に補任する。
通史編1(古代・中世)
(守護・地頭の制)
ないしそれに伴う得分のことを地頭職(じとうしき)と呼ぶが、その権益はかなり広汎で、領域内の公田の掌握、
奥州
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」以降の修史事業)
しかし、津軽家が
奥州
藤原氏に連なることを主張すれば、
奥州
藤原氏と安倍氏との血縁関係が存在する以上、安日
通史編1(古代・中世)
([口絵])
15 安東師季願文 16 秋田家系図 17 浄福寺大般若経 18
奥州
十三之図
通史編1(古代・中世)
(四 中世前期の交易)
四 中世前期の交易 平泉で栄えた
奥州
藤原氏の二代基衡(もとひら)は、同地の毛越(もうつう)寺建立にあたって
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
知行安堵と検地 宇都宮に到着した秀吉は、
奥州
の諸大名を呼び寄せて知行割を決定した(以下の記述は特に断,天正十八年七月、前田利家が検地を行うために出羽・
奥州
へ向かい、津軽地域にも赴いている(資料近世1No.,された大名は、大崎義隆(おおさきよしたか)(大崎五郡)・葛西晴信(かさいはるのぶ)(葛西七郡)など、
奥州
通史編1(古代・中世)
(四耳壺の出土)
奥州
藤原氏の経済力の豊かさを示す事例であるとともに、その使用目的が気にかかるところである。 ,浪岡町源常平) 5 珠洲四耳壺(中崎館) 6 珠洲四耳壺(田舎館村) 7 珠洲経容器(鯵ヶ沢町)
奥州
藤原氏
通史編1(古代・中世)
(藤崎系図)
史料一一五一)は、津軽から常陸に移住した藤崎氏(白鳥氏)に伝来したもので、安藤氏関係の系図としては、「
奥州
下国殿之代々之名法日記,さてこの『藤崎系図』では、神武天皇東征の時に滅ぼされた長髓彦の兄安日を、事実上その系譜の起点とし、
奥州
安倍氏
通史編1(古代・中世)
(陸の道・海の道)
この奥大道は『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記されたように、外浜から白河関までという
奥州
を縦断する幹線道路
通史編1(古代・中世)
(多宇末井の梯)
ここに
奥州
合戦の余燼は完全に収まることとなった。
通史編1(古代・中世)
(検断奉行への抜擢)
その家長が北畠顕家との戦闘で死んだのちに、
奥州
総大将として多賀府に着任した石塔義房は、家季に替えて五郎太郎高季改
資料編1(古代・中世編)
([十世紀])
奥州
のことを奏上。 ●永観三年(九八五)四月二十四日、陸奥守藤原為長貢馬御覧。
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