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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(奥羽の特殊産物)
奥羽
の特殊産物 蝦夷管領のもう一つの重要な職務として、蝦夷世界との交易がある。,具体的に見ると、このころの
奥羽
地方には、馬・砂金といった、特殊な所当官物が割り当てられていた。 ,
奥羽
の北端にあっても、そこがたとえ「外浜」といった名称に代表されるような、浜・牧・湊・浦・島という特殊,そこで異民族たる蝦夷の住む夷島に注目し、
奥羽
の延長に夷島があり、したがってその夷島産物は
奥羽
所出品であるという,にとって不可欠の、軍事力的要素を構成するものであり、それらを含めてこうした中世国家編成上の必要性から、
奥羽
/
奥羽
の特殊産物
通史編4(近・現代1)
(奥羽本線の開通)
奥羽
本線の開通 殖産興業政策の一環として位置づけられた鉄道は、明治五年(一八七二)に新橋-横浜間において,官設鉄道に関しては、明治二十五年七月に鉄道庁が逓信大臣の管掌に属することとなり、翌年四月、福島-青森間の
奥羽
本線建設,この
奥羽
本線敷設に関して、当初は停車場を黒石町に設置する予定であったが、弘前市会議長田中耕一が政府に意見書,三十二年六月二十一日には碇ヶ関-白沢間、同年十一月に白沢-大館間が開通と敷設距離を延ばしていき、結局
奥羽
本線, 鉄道省編『日本鉄道史』(一九二一年)によれば、鉄道が普及する一方で、各地で事故も発生しており、
奥羽
本線 /
奥羽
本線の開通
通史編1(古代・中世)
(奥羽地方の戦国時代)
奥羽
地方の戦国時代 戦国時代の
奥羽
地方については、大きく南
奥羽
と北
奥羽
に分けてその動きをみることができる,ここでは、まず
奥羽
全体の戦国時代を概観してみよう(図59)。,図59
奥羽
の群雄 南
奥羽
の戦国時代は伊達氏を中心として展開していく。,このことをもって、室町期を通じて続いてきた
奥羽
探題体制の解体とともに、
奥羽
戦国期の開始の画期とする考え,このあとの伊達氏は、晴宗の孫の政宗の代に南
奥羽
を統合して、
奥羽
随一の戦国大名へと発展していく。 /
奥羽
地方の戦国時代
通史編3(近世2)
(奥羽列藩同盟の成立)
奥羽
列藩同盟の成立 さて、白石同盟が成立した後、続いて閏四月二十九日に場所を仙台に移して、列藩会議が,図50.
奥羽
越列藩同盟参加各藩 盟約書の内容は、諸藩の衆議を前提として、同盟諸藩の相互援助と協力関係,こうして
奥羽
諸藩の強い連携と総督府とのつながりを重ねて明示することで、朝廷に離反するものではないと内外,同藩は、
奥羽
諸藩の動きに逆らえず、討庄の先導役を総督府に辞退するとともに、中心となった中老吉田大八を切腹,させるという大きな犠牲を払って、
奥羽
列藩同盟に参加したのであった。 /
奥羽
列藩同盟の成立
通史編1(古代・中世)
(奥羽地方の地頭制)
奥羽
地方の地頭制 ところが
奥羽
両国における地頭職の補任に際しては、郡や荘園ないし保を単位として行われるという,郡の範囲が実質的に荘園の範囲であるところも多かったので、結果的に郡単位の地頭設置が目立つが、これこそ
奥羽
地域,
奥羽
には守護的な惣奉行が置かれはしたものの、守護自体は置かれなかったこともあって、この地の地頭たちは国衙 /
奥羽
地方の地頭制
通史編1(古代・中世)
(足利幕府の奥羽支配)
足利幕府の
奥羽
支配 これより先、建武二年七月に、北条時行(ときゆき)を旗頭に立てる北条氏残党の反乱(,北畠氏の国府と同じように、鎌倉幕府以来、
奥羽
各地を掌握していた得宗御内人(とくそうみうちびと)クラスの,
奥羽
の武士をそのまま配下として取り込んでいったらしい。,鎮守府将軍へ、足利氏側が奥州総大将から陸奥守へと、それぞれ相手の制度的拠点を奪い合いながらも、結局は同一の
奥羽
掌握策,をとっているわけで、中央政府にとっての
奥羽
の武士たちの重要性が知られよう。 / 足利幕府の
奥羽
支配
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
北
奥羽
の領知確定 天正十八年(一五九〇)七月の
奥羽
仕置は、
奥羽
の諸大名の領土を確定することが第一の目的,表4 北
奥羽
の大名・小名の領知高 領 主 場 所 石 高 年 代 南部大膳大夫 南部内七郡 天正18,に移転され、かつ翌文禄元年に領内の諸城の破却が行われ、四八城から一二城へ減少させられたごとく、着実に
奥羽
,この朱印状と同日付でほぼ同文の朱印状は、
奥羽
の地では秋田実季・南部信直・小野寺義道に発給されているが、,長吉は天正十八年(一五九〇)の
奥羽
の仕置後も
奥羽
の大名の領国支配維持を担当し、また、文禄二年に秀吉から / 北
奥羽
の領知確定
通史編2(近世1)
(北奥羽の大名の動向)
北
奥羽
の大名の動向 まず、南部氏についてみてゆくことにしよう。,これまで述べてきたように、
奥羽
に対する惣無事令の発令の時期、そして、それが北
奥羽
にまで伝達されたかどうかというところについては,本堂道親(ほんどうみちちか)も、豊臣勢の出羽出動に期待し、その情報を南部氏に問い合わせていたといい、北
奥羽
,また、
奥羽
、なかでも北出羽は、北国海運を通じて上方(かみがた)の的確な情報をつかむことができたという(,南
奥羽
では、たとえば伊達氏の場合、天正十三年(一五八五)五月から翌十四年八月までの長期にわたり軍事行動 / 北
奥羽
の大名の動向
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
伏見築城と
奥羽
大名 豊臣秀吉は、文禄二年(一五九三)九月二十三日、
奥羽
の大名らが朝鮮半島に渡海することなく,伏見城の普請は、関東や
奥羽
大名に対し、伏見城下への参勤と、伏見城普請への動員という二つの条件を大名に突,これは、西国大名が朝鮮への出兵を命じられたことに代わる
奥羽
の諸大名に課せられた軍役(ぐんやく)の一種であり,
奥羽
の大名の中で、この伏見指月城の普請にかかわったのは秋田実季だけであった。,秀吉は
奥羽
仕置と同時に秋田領の杉に目をつけ、それを朝鮮出兵や政権の中枢である伏見城の普請・作事に利用しようとしており / 伏見築城と
奥羽
大名
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
関ヶ原の戦いと
奥羽
の情勢 豊臣政権は、その天下統一が短期間になされたことにより、豊臣家内部の対立をはじめ,
奥羽
の大名たちもこれに無関係でいることはできなかった。 ,
奥羽
での戦いの中心となったのが、西軍に味方した豊臣政権の五大老の一人である会津の上杉景勝と、それに対する,すなわち出羽国庄内をめぐる義光と景勝の争い、南
奥羽
の覇権をめぐっての政宗と佐竹義重・義宣父子の争いである,、秀吉の
奥羽
仕置によって改易された旧領主和賀氏・稗貫氏らの旧家臣による一揆に見舞われた。 / 関ヶ原の戦いと
奥羽
の情勢
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
奥羽
大名の名護屋参陣 天正十五年(一五八七)五月、九州平定を終えた秀吉は、対馬の領主宗義調(そうよししげ,関東・
奥羽
の大名に対する指揮権を保持し、彼らを率いて参陣していたのである。,関東・
奥羽
の大名衆は、翌文禄二年三月には渡海が命じられる予定であり、南部信直はそのため正月から渡海準備,踏襲されており、東北の大名にとってまさにこの名護屋参陣は、秀吉が
奥羽
・「日の本」まで天下統一を実現した,その際に晋州牧使城取巻衆に入らなかった
奥羽
地方の武将たちにも、秀吉は新たな忠誠を誓わせようとした。 /
奥羽
大名の名護屋参陣
通史編3(近世2)
((一)東北諸藩と弘前藩)
新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征総督に、沢為量(さわためかず)を
奥羽
鎮撫総督,この人事は、
奥羽
諸国の今後の情勢に大きな影響を与えることになる。,後に世良は、大山へ宛てた「
奥羽
皆敵」の密書が仙台藩の手に渡ったため、暗殺される。,そして、この事件がその時の
奥羽
諸藩の動向にも大きな影響を与える結果となったのであった。 ,早速、総督府は
奥羽
諸藩に会津征討を命じたが、仙台藩をはじめどの藩も動く様子はなかった。
通史編2(近世1)
(関東・奥惣無事令)
さて、
奥羽
に対しては、「関東・
奥羽
惣無事之儀、今度家康ニ被仰付条」とある、佐竹氏の家臣多賀谷重教に宛てた,による影響は見いだされるものの、あくまでも南
奥羽
諸氏の自己規制によるものであるという(粟野俊之「戦国期南
奥羽
,すなわち、南
奥羽
を直接の対象とする、
奥羽
の惣無事令には、家康の関与が見いだしがたく、もっぱら富田知信(,もちろん、北
奥羽
の地域が、これとまったく無関係にあったとは思われない。,次に、このころの北
奥羽
大名の様子についてみてゆくことにしよう。
通史編2(近世1)
(一 九戸一揆と動員大名)
一 九戸一揆と動員大名 天正十八年(一五九〇)七月からの
奥羽
日の本仕置(おううひのもとしおき)が終了,し、その仕置軍が帰還した直後の同年十月、
奥羽
の地においては、豊臣政権の徹底した検地・刀狩り・城破(しろわ,この
奥羽
の一揆に連動するかたちで九戸(くのへ)一揆も起こることになる。
通史編2(近世1)
(二 肥前名護屋での「日本之つき合」)
日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸一揆が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一)十月、豊臣秀吉は
奥羽
再仕置,を終えてすでに
奥羽
から帰っていた浅野長吉を総奉行に任命し、肥前名護屋(ひぜんなごや)において築城工事の
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
伏見滞在と派閥抗争
奥羽
の大名は、天正十八年以来、検地、刀狩り、城破(しろわ)り、太閤蔵入地・「御鷹場,秀吉政権はすでに妻子の上洛を強制し、天正十八年八月には、
奥羽
の有力大名である伊達政宗、最上義光、南部信直,この名護屋在陣において、結局
奥羽
の大名は朝鮮渡海を免除され、文禄二年の末には帰国することになるが、これ,北
奥羽
の大名らは、秀吉の朱印状によって「
奥羽
・日の本」と一括して把握されながら、取次を媒介としながらそれぞれまったく,しかし、この伏見での「日本之つき合」の中で北
奥羽
の大名らは保身を図ることはできなかった。
通史編1(古代・中世)
(応永十八年の衝突)
奥州探題は、室町幕府の地方行政機関であり、軍事指揮権や当時の
奥羽
の国人が熱望していた官途推挙(かんとすいきょ,この奥州探題体制には、
奥羽
のほぼすべての国人が組み込まれていたが、有力領主の中では安藤氏がただ一人そこからはずれていた,つまり、奥州探題体制が及ぶのは、南
奥羽
から南部氏の本拠である糠部郡までで、夷島・津軽・秋田という地域は,安藤氏は、夷島・北
奥羽
の沿岸地域を中心として交易の主導権を握り、北方の産物を畿内へ送り、畿内・西国の産物
通史編3(近世2)
(総督軍の集結)
総督軍の集結 さて、
奥羽
越列藩同盟の力が強まっていた仙台城下を脱出した九条道孝ら
奥羽
鎮撫総督一行は、,一方、蝦夷地渡海を目指すべく大館(おおだて)まで進んでいた
奥羽
鎮撫総督副総督の沢為量一行は、津軽領の領内通行止,この時政府軍の総勢は約一二五〇人で、ここに
奥羽
鎮撫総督軍の秋田総集結が実現したのであった。 ,
奥羽
総督軍は、取り巻く情勢の悪化から比較的勤皇色の強い秋田へ退避したという様相が強かったが、ここで再集結
通史編2(近世1)
(一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)
天正十七年八月二十日付の前田利家(まえだとしいえ)が南部信直(なんぶのぶなお)に宛てた書状から、秀吉の出馬による
奥羽
,さて、北条氏を攻略した秀吉は、天正十八年七月十七日、いよいよ
奥羽
仕置のために小田原から会津黒川に向かった,そして、七月二十六日に宇都宮に到着し、ここで
奥羽
仕置の基本方針を示した。
通史編2(近世1)
(秀吉の東国への停戦令)
さらに、秀吉は、
奥羽
(直接には南
奥羽
を対象とした)の大名間の紛争にも介入するようになる。,現在、このときに
奥羽
の諸大名に発給された秀吉の「御書」は確認されてはいないが、北関東の諸大名に朱印状を,山上道牛のような役割は、小笠原貞慶に任されていたが、五月二十日に上杉景勝が上洛した後は、景勝に関東から
奥羽
通史編3(近世2)
(鎮撫総督軍の領内通行問題)
鎮撫総督軍の領内通行問題
奥羽
列藩同盟参加に続いて問題となったのが、
奥羽
鎮撫副総督沢為量(さわためかず,結局、五月十四日、上京して
奥羽
の情勢について説明をしたいという九条総督の意向を受けて、総督府一行を盛岡,仙台藩使者水野邦助が弘前に到着し、五月三日の
奥羽
列藩同盟の成立を伝えたのであった。,つまり、
奥羽
列藩同盟の締結とその盟約内容は弘前藩にとっても、他藩にとっても看過(かんか)できない大きな,そして、五月十三日付で今回の入領は沢副総督のみで、薩長兵は許可できないこと、これは、
奥羽
諸藩の合同決定
通史編3(近世2)
(藩論の紛糾)
藩論の紛糾 さて、この
奥羽
列藩同盟参加、鎮撫総督軍の領内通行問題、そして、秋田藩境封鎖に至る過程の中,すなわち、
奥羽
鎮撫総督の指揮下に入り、官軍と行動をともにするか、東北諸藩と足並みをそろえて、
奥羽
列藩同盟,前者を強く主張するのが、実際に出兵をして戦線近くにいた大隊長山崎所左衛門らであり、一方後者は、
奥羽
列藩同盟,かくして
奥羽
鎮撫使一行の九条・沢・醍醐は、そろって秋田に滞在することとなった。,なお、
奥羽
鎮撫総督府は、五月二十九日、
奥羽
越列藩同盟に加わる諸藩に向けて、同盟離脱を促す令書を出した(
通史編3(近世2)
(庄内征討命令をめぐって)
これを受けて、
奥羽
鎮撫総督軍は総勢を二分し、沢為量副総督らは庄内征討のために岩沼(現宮城県)を後にし、,反政府軍に対する
奥羽
諸藩の勢いが強くなる中で、閏四月六日討庄の厳命を受けた秋田藩は、七日、庄内藩征討に,また翌日には、
奥羽
鎮撫総督府参謀世良修蔵が、強硬な態度で事に当たり、
奥羽
諸藩を敵視したために、仙台藩等,仙台・米沢を中心とする
奥羽
勢の勢いが
奥羽
鎮撫総督軍に大きく迫ってきていたのである。
通史編3(近世2)
(東北戊辰戦争の終結)
これを受けた
奥羽
鎮撫総督府は、これを受領し、同時に止戦・解兵命令を出した(資料近世2No.五五一)。,こうして、東北地方一帯が鎮静化し、弘前に本陣を置いていた
奥羽
鎮撫総督参謀醍醐忠敬も引き揚げを開始した。,そして、十月十七日、
奥羽
平定と解兵帰国が通知された(『弘前藩記事』一)。
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
また、公儀の軍隊である豊臣軍の進軍ルートがこの時点で津軽領内を通過することになっていたことは、まさに
奥羽
,浅野長吉は、天正十八年七月の
奥羽
仕置以後も一貫して信直に対する取次を果たす一方で、今度の再仕置においても,図11.浅野長政(長吉)画像 このように、信直の領国糠部郡を含む
奥羽
の地が
奥羽
再仕置に深く巻き,中央の軍隊である秀次・家康・氏郷・長吉を出馬させることを考えていたが、九戸一揆を契機として、津軽氏ら
奥羽
,の諸大名をすべて動員することによって
奥羽
仕置をさらに大規模なものに転換させることにしたのである。
資料編3(近世編2)
(第二節 戊辰戦争と弘前)
第二節 戊辰戦争と弘前 一 戊辰戦争下の
奥羽
地方 二 軍制改革の展開 三 庄内出兵と野辺地戦争
通史編2(近世1)
(知行安堵)
南部・戸沢の両氏の領知は、
奥羽
地域の中間域にあり、これにより自動的に隣接諸大名の領域も定まることになり,さて、天正十八年八月十二日、
奥羽
両国に検地条目が出され(資料近世1No.二四)、九月末にかけて検地が実施,、陸奥では、検地の後に起きた葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆の影響で、上洛は果たせなかったようであり、
奥羽
両国,の終末」小林清治他編『中世
奥羽
の世界』一九七八年 東京大学出版会刊)。,表1 北
奥羽
大名の領知高(万石以上) 史 料 名 南部氏 津軽氏 秋田氏 小野寺氏 戸沢氏
年表・索引編
([年表(近世以前)])
[年表(近世以前)] [年表(旧石器時代~天正十九年) 蝦夷・津軽・
奥羽
関係] [年表(文禄元年~
通史編4(近・現代1)
(城西小野球部全国大会出場)
全国少年野球大会の第二次予選は、これまで東北第二次予選として仙台で行われていたが、大正十四年に規則が改正されて北
奥羽
予選,抽選の結果この年の北
奥羽
予選は弘前市が大会場と決定し、城西校はそれに出場することになった。,十四年七月十二日北
奥羽
予選は弘前市南塘球場で開催され、出場チームは盛岡市城南小学校、青森市莨町小学校、,城西は
奥羽
代表の証(あかし)となったアイスクリーム屋の旗のような貧弱なのを一本持っただけなので甚だしく
通史編3(近世2)
(戦線の北上)
一方、
奥羽
鎮撫総督一行の仙台脱出を許した
奥羽
越列藩同盟は、六月十六日、会津に身を寄せていた上野輪王寺宮公現,
奥羽
攻防の要として重要な意義を持つのが東北地方の玄関口ともいえる「白川関(しらかわのせき)」である。,
奥羽
越列藩同盟に新たな展開をみせた六月十六日、平潟(ひらかた)港(現茨城県北茨城市)に政府軍が上陸を始
通史編3(近世2)
((一)箱館戦争の開始)
「
奥羽
同盟方一同謝罪ノ処より静謐、諸方官軍も追々引払、下民家業ニ有附候」(『家内年表』明治元年十月二十三日条,こうして、東北地方における戦争は
奥羽
朝敵諸藩の降伏で終了したが、休む間もなく箱館戦争に突入することになったのである
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
最上氏支援の動員体制にも、慶長六年の上杉景勝国替に際しての動員にも津軽氏は組み入れられておらず、当時の北
奥羽
,この包囲網に動員された
奥羽
・越後の各氏は、南部利直を除いてはほとんど上杉氏と領界を接するため、出陣を命,この牧使城の攻囲に加わるはずだった
奥羽
大名と、慶長五・六年の上杉包囲網に動員された諸大名は当主の交代などの,慶長五・六年の
奥羽
地方における大名動員の基本方針が、朝鮮出兵時の軍役を踏襲するものであったとするならば,、「太閤様御置目」に従って動員・編成された
奥羽
の体制から津軽氏は除かれており、そのことが逆に津軽氏の関
通史編2(近世1)
(津軽氏の鷹保護)
氏郷は、
奥羽
地方の大名たちに関東・奥惣無事令の執行者として臨んでいたことを想起すれば、太閤鷹の保護と献上,九州と同様、
奥羽
日の本仕置によって、豊臣政権による
奥羽
地方の支配統制の確立と、津軽地方における名鷹の独占
通史編3(近世2)
(討庄応援部隊の解兵)
しかし、同月のうちに、弘前藩においても
奥羽
諸藩と情報の交換を繰り返し、
奥羽
列藩同盟の動きに合わせて、弘前藩,つまり、
奥羽
諸藩の同盟の成立と、これが朝廷に反抗するものではない点を強調したうえで、解兵処置は嘆願書提出
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
湊合戦と惣無事令違反 その後、北
奥羽
地域では、天正十七年(一五八九)二月初め、元湊城主湊茂季(みなとしげすえ,湊合戦は、北
奥羽
全域を巻き込んだものであった(なお、檜山城での戦いはなく、ここを本拠として、カトウド城,諸大名をその権力体系の中に組み込むことを意図して、鷹の献上を自らが求めたという(長谷川成一「鷹・鷹献上と
奥羽
大名小論,そして、ここで為信に対する処罰がなされなかったことは、天正十八年(一五九〇)の
奥羽
仕置での津軽地域の在
通史編3(近世2)
(軍事情勢の膠着)
奥羽
列藩同盟への参加の是非をめぐる藩内の対立についてはすでに前節で述べたが、五月十一日に秋田藩に身を寄,せていた
奥羽
鎮撫副総督沢為量(さわためかず)が津軽領への転陣を打診してくると、事態はますます切迫化した,彼は二月に総督九条道孝(みちたか)・参謀醍醐忠敬(だいごただゆき)らと
奥羽
鎮撫総督府に任命され、三月に,仙台藩に出陣したが、総督府付き参謀の長州藩士世良修蔵(せらしゅうぞう)が高圧的態度で仙台藩士に
奥羽
鎮撫
通史編1(古代・中世)
(応永初期の動乱)
安藤氏の「蝦夷沙汰」の対象がその地域での交易活動を含んでいたということからも、北
奥羽
の世界と無関係のものであったとは,考えにくく、この動乱の鎮圧は、北
奥羽
の南北朝の動乱を終わらせ、新たな時代の幕開けをもたらした事件であった
通史編2(近世1)
(九戸一揆の意義)
天正十八年の
奥羽
仕置では検地等の直接的仕置はなされなかったが、この再仕置によって南部領にも直接的に秀吉,また、この一揆鎮圧のために津軽氏を含む東国の大名衆を軍事動員できたことにより、秀吉は
奥羽
・「日の本」までに,至る仕置を現実化することができ、これを土台としてこの直後の朝鮮出兵のための名護屋(なごや)参陣を
奥羽
の
通史編5(近・現代2)
(公労協ストの本県の情況)
公労協ストの本県の情況 この年の十一月二十八日、国鉄は五能線で二往復、
奥羽
線の弘前-大館間で一往復あっただけで,
奥羽
線では、大館発午前五時四十分の下り列車が弘前駅で打ち切りのため、弘前発午前六時四十七分の青森行き列車,開業以来列車の止まったことのない
奥羽
本線は、初めて一本の列車も走らず全面ストップした。
通史編3(近世2)
(白石会議)
また、仙台・米沢両藩家老連盟の白石会議招請状が
奥羽
諸藩へ発送された。,
奥羽
全体の意志として和平的な解決を新政府に示す意図からの会議招請であった。 ,仙台藩家老但木(ただき)土佐より書状によって、会津藩主松平容保の降伏謝罪の件について話し合いをしたいことがあり、
奥羽
諸藩
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
為信も信直との和睦を画策し、政権下で重きをなし、惣無事令発令以来
奥羽
の仕置の中心にあった家康に斡旋を依頼,前田利家は、天正十八年の
奥羽
仕置の際、検地奉行として津軽の検地を行っているが、その利家から「表裏之仁」,しかし、同じ
奥羽
の大名である為信は、関東・
奥羽
の政策に重きをなす家康・利家・長吉らの分権派に接近するしかない,の終末」『中世
奥羽
の世界』一九七八年 東京大学出版会刊)。,それほどまでに朝鮮出兵とは、
奥羽
の諸大名を秀吉の天下に捕らえ込んでいく大きな出来事であった。
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
ところが九戸氏は天正十八年七月の
奥羽
仕置の後も三戸氏をしのぐ勢いを持っており、当主である九戸政実(まさざね,豊臣秀吉はこのような状況に対し、天正十八年七月から行われた
奥羽
仕置の際に、和賀・稗貫・南部領の仕置については,しかし、この
奥羽
仕置軍が去った直後の天正十八年十月、すでに述べたように出羽国では仙北・由利・庄内藤島一揆,
奥羽
の地はまさに一揆の嵐が吹き荒れていたのである。
通史編1(古代・中世)
(後三年合戦)
の契機となり、やがて兄義家の苦戦を聞いた新羅三郎義光の参戦などもあって、義家・清衡同盟を介して一気に
奥羽
地方,への支配権拡大を目指す源氏と、独立を全うしようとする清原氏との対決という構図となり、戦火は
奥羽
全体に拡大
通史編2(近世1)
(三 鷹献上と鷹保護)
当時における鷹の最大の供給地としては、松前蝦夷地と
奥羽
地方が供給地全体の七割近くを占め、対馬を経由した,なかでも松前は、
奥羽
地方が後に各大名領での鷹の自給に汲々としていたのに対し、後背地の蝦夷地に広大な鷹の
通史編3(近世2)
(各藩使者の来弘)
弘前藩記事の藩主諭告 目録を見る 精細画像で見る 津軽弘前藩が武備充実と藩論統制に努めているころ、
奥羽
諸藩,これに先立って秋田藩は、一月十六日、京都で岩倉具視(いわくらともみ)より
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諸藩をまとめて東征軍を応援,東北随一の大藩である仙台藩使者の訪れと、その内容の重大さに驚きながらも、戦争を阻止するための陳情については
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諸藩,つまり、弘前藩は、仙台藩の征討中止策に賛意を示し、
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諸藩が同意見ならば、独自に建白して仙台藩を側面から
通史編2(近世1)
(四 元禄飢饉と農政の転換)
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地方の凶作は、こうした冷害が原因となり、時にそれが飢饉となって現れてくるのであった。
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
九戸一揆の始まり
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の各地で一揆が勃発するなか、天正十九年正月、南部氏の居城三戸城では恒例の年賀の,されているとはいえ、宗家の信直をしのぐほどの実力を戦国末期から蓄え家督奪取の機会をねらっていた政実にとって、
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,この豊臣軍派遣は、前年の天正十八年七月の
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仕置を最初の仕置とすれば、再仕置ということになる。
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
秋田安東実季の名護屋参陣 天正十九年から朝鮮出兵へ向けて準備が本格化していたが、翌文禄元年、
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・「,この紛争は、かつて
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仕置の際に秋田の検地奉行を勤めた豊臣秀次の家臣木村重茲が調停に入り、結局実季が浅利氏
通史編3(近世2)
(旧幕府軍の軌跡)
このとき榎本武揚らは、蝦夷地開拓と
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列藩同盟への援助、この二つを目的として脱走したことが、勝海舟を通,そして目的の一つであった
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列藩同盟への援助はほとんど実行できなかったため、彼らの焦点は蝦夷地開拓に絞
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
秀吉は、天正十九年(一五九一)の九戸一揆と、それに続く文禄元年(一五九二)からの名護屋参陣において、
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,として編成することを実現していたが、この慶長元年からの伏見作事板の運上も軍役の一種であることから、彼ら
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,
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の大名・小名衆にとって、豊臣政権の庇護がなければ領国支配を実現できない状況下では、たとえそれが大きな
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