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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (学区の改変)

学区の改変 七年四月亀甲小学の設置によって、これまで大ざっぱに土手町を中心に弘前を南北に分けていた白銀小学,と、和徳小学の学区が変更された。  ,白銀小学学区は、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒越町、馬屋町、茂森町、片堀町(旧古堀町)、,相良町、本町、元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町などとなり、和徳小学学区,新設の亀甲小学学区は、亀甲町、田茂木町、田町、小人町、若党町、春日町、禰宜町、馬喰町、長坂町、笹森町、 / 学区の改変
通史編4(近・現代1) (弘前市学区会の廃止)

弘前市学区会の廃止 明治三十五年(一九〇二)四月、これまでの学区会が廃止された。,弘前市の学区は第一区から第五区まであって、学区は小学校を維持するために学区会を組織し、一三人から一五人,学区会のことを通常「区会」、学区会議員を「区会議員」と称した。  ,学区が制定されたのは明治二十五年、それから一〇年間というもの、小学校の経営維持は学区民から選ばれた学区会,教員の団体たる弘前教育会は、教育の発展向上には学区廃止が妥当、と学区廃止に賛成した。 / 弘前市学区会の廃止
通史編4(近・現代1) (学区・学校聯合区の改正)

学区・学校聯合区の改正 明治十四年(一八八一)十月、県はこれまでの「学校聯合区」(九年決定)を廃止して,「学区割」に改めた。,隣接する学区が聯合して一校を設置することをやめ、一学区一校設置の「学区割」を実施した。,「学区割」は小学校と地域住民の結びつきを深くさせたが、経済的には重い負担となった。,それを緩和するために出されたのが同十七年の学区及びその学聯区の指示である。 / 学区・学校聯合区の改正
通史編4(近・現代1) (学区取締(とりしまり))

学区取締(とりしまり) 学制第八章に学区取締の規定がある。,「一中区内学区取締十名乃至十二三名ヲ置キ、一名ニ小学区二十或(あるい)ハ三十ヲ分チ持タシムベシ、此(この,)学区取締ハ専ラ区内人民ヲ勧誘シテ務テ学区ニ就カシメ、且(かつ)学校ヲ設立シ或ハ学校ヲ保護スベキ事或ハ,学区取締は弘前、中津軽郡、西津軽郡を包含する第三中学区内に十人ないし十二、三人あって、弘前の最初の学区取締,学区取締は明治十二年(一八七九)九月の教育令公布とともに廃止された。 / 学区取締(とりしまり)
通史編4(近・現代1) (学制の実施)

それによると、全国を八大学区に分け、一大学区を三二の中学区に分け、さらに一中学区を二一〇の小学区に分け,学制実施に当たって、青森県は第七大学区に属し、県内は左の四中学区に分かれていた。,第一四中学区 青森、東津軽郡、南津軽郡、北津軽郡 第一五中学区 弘前、中津軽郡、西津軽郡 第一六中学区,第一四中学区 青森(現長島小学校)、平内、黒石、木造、十三、五所川原、板柳 第一五中学区 白銀(現朝陽小学校,)、和徳、鰺ヶ沢、深浦 第一六中学区 七戸、野辺地、三本木、田名部、大畑、大間、川内 第一七中学区
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

両校の学区議員が合併について十五年一月第一回の集会を開いて協議、異議なく合併案を採択した。,表19 中津軽郡各学区及び其聯合区域等(抜粋)    中津軽郡      表中教授等科欄内中ハ中等科初,ハ初等ノ略符ニシテ町村名欄内○ハ学校所在ノ地トス 学聯区名 学区名 校数 学区内町村名 学校名 等科, 土手町学区 和徳学区 亀甲学区 下町学区以上五学区内ニ高等小学科ヲ教授スル一校ヲ置ク 第一学聯区 富田学区,二 ○富田、紙漉町 富田 中初 富田分校 中初 小沢学区 一 ○小沢、坂本 小沢 初等 悪戸学区 一
通史編4(近・現代1) (大成小学校創設)

大成小学校創設 十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、鍛冶町の三学区は,廃され、それらが包含されて新しく「土手町学区(第二学区)」となった。,したがって土手町学区は学区内に蓬莱、知類、敬業の三小学校を有することになった。,一学区に一小学校が例で、三校では多すぎ、経費もかかるので、三校合併案が地域住民から持ち上がった。,三校合併案は十七年十一月学区町村聯合会(「学区町村聯合会」とは学聯区ではあるが、三校とも隣接村落〔清水村
通史編4(近・現代1) (時敏小学校の創設)

時敏小学校の創設 大成小学校の聯合創設に刺激され、第四学区(亀甲学区)が、学区内にある亀甲、盈進の二小学校,第四学区は十七年の学区改正以前には亀甲学区(笹森町、長坂町、蔵主町、大浦町、田町、田茂木町、禰宜町、若党町,、小人町、春日町、馬喰町、亀甲町の一二ヵ町)と盈進学区(親方町、百石町、百石町小路、一番町、東長町、元寺町,それが十七年の改正により、一つの学区となった。,一学区に二校を置いて学資金を二分するよりも、一校を設置して資金を集中し、学校設備の充実を図った方がよいと
通史編4(近・現代1) (市制施行と小学校)

写真101 和徳小学校校舎 (明治22年新築の四層楼)  また、従来の学区は、校名を番号に換え,、弘前市第一学区(朝陽)、弘前市第二学区(大成)、弘前市第三学区(和徳)、弘前市第四学区(時敏)、弘前市第五学区,(城西)と称されることになり、学校維持権は引き続き学区会が持つことになった。  ,したがって、経費を学区会に頼らざるを得ず、学区会は学区住民に割賦して学校を維持するが、そのため市当局より,学区会の意向が教育を左右した。
通史編5(近・現代2) (文京小学校の創設)

同校の前身は松原小学校で、学区は中野、三嶽(みたけ)、松原地区一帯で、同地区は自由学区として、児童は第二大成,自由学区の児童数は六〇四人に上り、松原小学校PTAは三十六年八月、自由学区解消を市教委に陳情していた。,市教委も事情を了承し、三十九年四月一日をもって自由学区を解消して、中野の市立商業高校跡地に一校を新設することを,同校はその後逐年校舎を建築したが、学区一帯が住宅地として急激に発展したため、児童数も急増し、その都度校舎
通史編5(近・現代2) (南中学校の開校)

学区は松原、千年、大和沢の各小学校学区および文京小学校学区の一部で、市の南に位置し、りんごの生産を主とする,学区内の人々や生徒父母たちは、南中学校を「地域の学校」という認識で、創立時から協力を惜しまなかった。
通史編4(近・現代1) (第二大成尋常小学校の創設)

大成小学校は他校に比して児童数が多く、校舎は狭隘(あい)を極めて、増築することは学区民の話題になっていたが,一九二 四〇四 城 西 二〇八 一九六 四〇四 明治三十四年度『弘前市事務報告書』  そこで第二学区会,は、市会の決議に従って品川町七一番地に一校を新設したが、同一の学区に建てられた小学校なので校名を同じくし,第二大成尋常小学校は三十五年四月に開校したが、同じ日に学区制度(学区会による学校管理制度)が廃止されたので,また、第二大成の通学区域は第一大成と同じであることから、男子児童は第二大成、女子児童は第一大成に入学するようになった
通史編4(近・現代1) (弘前市青年団分団の結成)

 右の趣旨に沿って全国的に青年団の設置が急がれることになったが、弘前市は大正八年(一九一九)九月、各学区,学区内の勤労青少年たちは早速入団を勧誘された。,市内各学区ごとに設立をみた市青年団分団は学区の小学校長を分団長とし、その小学校の施設を利用して活動を始,平常の事業としては運動部と弁論部を置き、小学校の教員や学区内の有志が指導に当たった。
通史編5(近・現代2) (進修小学校を和徳小学校に合併)

この合併により、三大字を学区とする進修尋常小学校は弘前市進修尋常小学校と改称し、市に移管された。  ,もともと進修小学校は和徳小学校に合併することを希望していたが、和徳学区民に反対があって実現せず、その後和徳学区民,が合併に賛成すると、今度は進修学区民に猛烈な反対が起きるなど、合併は曲折を経たが、昭和十三年に至って急速
通史編5(近・現代2) (桔梗野小学校の創立)

桔梗野小学校の創立 戦後、朝陽小学校学区の新寺町以南は急速に住宅が建ち、著しい人口増加を来した。,朝陽小学校PTAは二十四年一月二十四日臨時総会を開催して、仮称第二朝陽小学校新設に関する対策協議を行ったが、学区編成,が問題となり、寺沢川を境界として以南を仮称第二朝陽小学校学区、以北を在来の朝陽小学校学区とすることに話
通史編5(近・現代2) (第三大成小学校の創設)

それに伴い、第一大成と第二大成の学区を改正して、新たに第三大成学区を編成することにした。,松森町、楮町、新楮町が第三大成に移り、第二大成から富田町をはじめ富田地区一帯及び取上地区が移ってこれを学区,一方、第一大成から品川町の一部、山道町、住吉町、紙漉町、桶屋町、銅屋町、南川端町が第二大成学区に移った
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

三十年九月二十八日、県令第四〇号として新遊廓地が一方的に指定されると、学校職員はもちろん父兄、学区民、,しかし、地元民に何の相談もなく一方的に決められたから、学区民が激昂したのも無理はなかった。,第三学区会及び弘前教育会の誠意を込めた遊廓指定地変更の願いに対し、知事は変更の意思はないの一点張りで会談,和徳小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時和徳村俵元
通史編5(近・現代2) (裾野中学校の開校)

学区は統合前の両中学校学区で、貝沢、大森、十面沢、十腰内となっている。
通史編4(近・現代1) (弘前市立弘前幼稚園)

弘前幼稚園設置の経過を同幼稚園沿革は「弘前第二学区の区会議員大高歳行、今村嘉三郎、花田直太郎、野村忠兵衛,福田忠之進、松木彦右衛門、雨森音次郎、小坂重吉、佐藤才八その他有志相寄り、明治三十五年四月一日の弘前市学区区会廃止,弘前幼稚園は学区民の有志の手で設置され、それを弘前市に寄附したものである。  
通史編4(近・現代1) (大正二年大凶作と小学校)

中津軽郡和徳村(現和徳小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態
通史編5(近・現代2) (東小学校の創立)

同校は城東地区の市街化に伴い、これまでの学区を変更して和徳小学校、豊田小学校、第一大成小学校からの四三二人,同校学区内を国道七号が通っているため交通量が非常に多く、県内でも有数の交通事故多発地区となっていた。
通史編4(近・現代1) (教育令の公布)

改正教育令により、従来の小学区に替え、数ヵ町聯合による「学聯区(がくれんく)」を設けることができ、一校,また、県の役人であった学区取締が廃され、学聯区から選挙で選ばれた「学務委員」がこれに代わることになった
通史編5(近・現代2) (和徳地区小学校統合問題)

一六人の教育委員が各自勝手な思惑を述べ、中には傍聴の三学区民に対してスタンド・プレーを行う者もあって、,建築敷地に不満の静修学区民は統合反対を叫んで市内をデモ行進し、隊列を組んで市教委庁舎に押し寄せた。,原案どおり可決されると、怒り狂った反対学区民は怒号し、罵声、暴言をほしいままにし、市教委も紛糾を収拾するため
通史編5(近・現代2) (弘前市立和徳幼稚園の設置)

和徳小学校学区には私立幼稚園が一園も設置されておらず、地域住民から公立幼稚園設置の請願が市議会に提出され
通史編5(近・現代2) (第一、第二大成小学校の統合)

両校ともピーク時の昭和三十年(一九五五)には児童数が二〇〇〇人に近く、その緩和策として学区を改正し、第三大成小学校,それを受けて市教委は、両校PTA、両校学区内各町会、あるいは同窓会等に木目細かな事情説明を加えて、両校統合
通史編5(近・現代2) (東中学校の創立)

開校二年前の平成二年三月に校名や学区が決まり、校舎建築に着手する手回しのよさであった。
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校校舎新築落成)

新校舎竣工落成式は二十七年一月十四日に挙行され、学区民有志から校内放送施設、校旗、大花器などが寄贈された
通史編4(近・現代1) (弘前の小学校)

しかし、学制第六章には「人口約六百人ヲ以テ一小学区トナス」とあるから、弘前はなお多数の小学を必要としたが
通史編4(近・現代1) (鬼沢小学開校と「村落小学」)

鬼沢小学は同村の民家を借用して教室に充て、教師一人、生徒男子のみ五〇人、授業料三銭で発足し、鬼沢、楢木を通学区域,同 現東目屋小学校 番館小学 同 中畑村 同七月 同 同 一 二九 二 同 明治二十二年廃校 学区
通史編5(近・現代2) (高杉小学校の創設)

今回は三回目の合併で、市教委内部にも成果を危ぶむ声もあったが、合併は両校学区民の声をよく聴き、十分根回
通史編5(近・現代2) (大和沢小学校の復校)

昭和三十年、千年村が弘前市へ合併したときはまだ分校であったが、同三十三年、さきの二大字に狼森を加えた学区
通史編5(近・現代2) (紀元二千六百年奉祝)

うものが多く、朝陽小学校は理科教育設備拡充に児童保護者会が千数百円を投じ、和徳小学校は学校放送設備一式を学区内有志
通史編4(近・現代1) (第二大成小学校の焼失)

第一大成校とはもともと同一学区であり、学校も近かったので問題はなかったが、和徳小学校との二部授業は、距離
通史編4(近・現代1) (青年訓練所の設置)

軍事教練は学区内の在郷軍人が指導員として委嘱されて当たった。
通史編5(近・現代2) (松原小学校の創立)

学区は弘前市の南側に位置し、南北に走る県道石川・土手町線と石川・百田線に挟まれた地域で、県道に沿って松原東一丁目
通史編5(近・現代2) (北小学校創立開校)

同校学区は弘前市の北部に位置し、岩賀地区、清野袋地区、向外瀬地区、それに新興住宅街の宮園地区、青山地区
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校の移転と新築)

児童数の増加を来し、昭和六年には全校児童一一二一人に及び、校舎校地の狭隘となって、その移転新築が市会や学区民
通史編4(近・現代1) (私立小学校の乱立)

私立小学校の乱立 公立の亀甲小学が開設された七年四月、第一五中学区内だけで二三校が私立小学校として設立
通史編5(近・現代2) (学校統合の推進)

④第三中学校学区の一部と堀越中学校及び豊田中学校を統合し、新たに第五中学校を設置する。
通史編5(近・現代2) (職業指導)

かねてから就職希望者に対する技能指導の必要性を重視していた山辺将二郎第三中学校長は、昭和二十五年、学区内
通史編5(近・現代2) (禅林街・太平高等学校)

この種の学校としては、青森県が最も北で、学区も北海道・東北北部であった。
通史編4(近・現代1) (最初の県会)

明治八年(一八七五)十二月に「青森県会規則」を制定した際、その第一条に、県会は現在の正副区長、戸長、学区取締及
通史編4(近・現代1) (組合町村制)

しかし、戸長役場の行政区域は第一部から第五部の名称で納税・貯蓄・火防・衛生・学区などで市民生活に生き残
通史編5(近・現代2) (草薙小学校大石寮の設置)

草薙小学校大石寮の設置 草薙小学校学区の大石開拓部落(のち大石農場と呼称)は、昭和三十八年(一九六三
通史編5(近・現代2) (新制中学校の開校式)

表28 新制中学校発足時の組織と学級編成 校名 校長 職員数 生徒数 学級数 所在地 学区 第一中学校
通史編4(近・現代1) (義務教育の延長)

四十年七月から市内六校の四年生(最高学年)の員数を調査し、教室の増築や各校就学児童数を平均化するための通学区域
通史編5(近・現代2) ([付図])

下土手町風景〈昭和15年頃〉 15 南塘球場内に「報国農園」設置〈昭和16年〉 16 時敏学区女子青年団
通史編5(近・現代2) (弘前市教育委員会の発足)

こうして弘前市教育委員会は発足したが、窮迫する財政のもとで、学都弘前の建設、小学校教室の増設と学区の再編成
通史編5(近・現代2) (弘前南高校の誕生)

高校教育の多様化を目的とした施策の一環で、全県一学区としてどこからでも志望できるようにしたものである。
通史編5(近・現代2) (弘高通信教育部の誕生)

に恵まれなかった女子を優先すること、全日制・定時制に通学不可能の地域に居住する者を採ることなどとし、学区全般
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