• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 499件
辞書ファセット
/ 10ページ
通史編5(近・現代2) (一 小学校教育)

合併の結果、弘前市の小中学校は、小学校が三二校(分校二を含む)、中学校が一七校と計四九校の多きに達した,表50 弘前市立小学校一覧表(昭和三十年五月一日現在) 番号 種別 学校名 所在地 校長名 教員数 児童生徒数,学級数 1 小学校 修斉 十面沢字赤坂三 藤田利一郎 一一 四二一 一〇 2 小学校 草薙 大森字田浦一二,成田武作 七 二一四 六 3 小学校 自得 鬼沢字菖蒲沢一二二 工藤一雄 一三 四七五 一二 4 小学校,一二 四一五 一〇 6 小学校 新和 種市字高瀬九五 工藤武衛 一一 四三三 一〇 7 小学校 高杉 / 一 小学校教育
通史編5(近・現代2) (二 中学校教育)

二 中学校教育 昭和三十年(一九五五)三月一日の市町村合併の結果、これまで市立中学校四校の弘前市が、,表52 市立中学校一覧表(昭和三十年五月一日現在) 番号 種別 学校名 所在地 校長名 教員数 児童生徒数,学級数 1 中学校 修斉 十面沢字赤坂三 藤田利一郎 五 一七五 四 2 中学校 草薙 大森字田浦一三,成田武作 四 一〇一 三 3 中学校 自得 鬼沢字菖蒲沢一二二の二 加藤屹郎 九 一九〇 六 4 中学校,一三 三五一 一〇 11 中学校 千年 原ヶ平字中野一五 成田信 一七 五〇八 一二 12 中学校 / 二 中学校教育
通史編5(近・現代2) (国民学校令)

その教育審議会の討議によって生まれたのが国民学校制度である。,国民学校令は昭和十六年(一九四一)三月一日公布、四月一日から実施され、その日から本市の小学校はもちろん,、全国の小学校は一斉に国民学校と改称された。  ,国民学校令第一条は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲナスヲ以テ目的トス」,写真56 国民学校制定第1年記念の和徳国民学校児童 / 国民学校令
通史編3(近世2) (学校縮小)

学校縮小 文化五年(一八〇八)二月二日、学校を当分廃止し、規模縮小のうえ、城中三の丸屋形を修復して学問所,学校経費はおよそ三〇〇〇石から三〇〇石の一〇分の一に縮小された。,学校の旧建物は文化八年(一八一一)取り壊し、その資材は本行寺、法立寺、大円寺、貞昌寺に払い下げられた。 / 学校縮小
通史編4(近・現代1) (弘前女学校)

弘前女学校 私立弘前女学校は、大正四年(一九一五)九月、設立者兼校長であったミス・アレキサンダーに代,送ったことは、他の中等学校の生徒と同様であった。,この当時、学校のあった坂本町の校舎から仰ぐ岩木山をシンボルマークにしたのである。  ,大正六年三月には「高等女学校卒業者と同等以上の学力を有するものと指定」された。,なお、大正八年七月には、学校の名称から「私立」を除いて「弘前女学校」と呼ぶことに改められている。   / 弘前女学校
通史編5(近・現代2) (進修小学校を和徳小学校に合併)

進修小学校を和徳小学校に合併 昭和十一年(一九三六)一月十五日、中津軽郡和徳村の堅田、高崎、俵元の三大字,この合併により、三大字を学区とする進修尋常小学校は弘前市進修尋常小学校と改称し、市に移管された。  ,もともと進修小学校は和徳小学校に合併することを希望していたが、和徳学区民に反対があって実現せず、その後和徳学区民,進修小学校は三月二十八日閉校式を挙行し、翌日から和徳小学校に校具を運んだ。,進修小学校の児童は十四年四月和徳小学校に編入学し、和徳小学校児童数は一三二二人の多数となり、これを二〇 / 進修小学校を和徳小学校に合併
通史編4(近・現代1) (小学校の改革)

小学校の改革 明治十九年(一八八六)八月、弘前各小学校は一斉に尋常小学校と改称した。,また、地方の実状によっては、小学校簡易科を設けて、尋常小学校を代用できることにした。,簡易小学校の修業年限は三年、授業料は徴収することなく、学校経費は全部区町村が支出することと規定した。,では建設中の公立中学校校舎を転用してこれに当たることとし、二十年一月二十五日、「弘前高等小学校」として,また、公立中学校も旧制度のものであったので、十九年八月の中学校令の公布により全く廃止された(公立弘前中学校 / 小学校の改革
通史編4(近・現代1) (実業補習学校)

市は、やむなく同年四月から、高等小学校は別として(従前どおり月三〇銭徴収)、小学校の授業料は全廃せざるを,大正六年、第一尋常高等小学校から改組・独立して蔵主町にあった弘前高等小学校に商業科が加設され、これが弘前商業補習学校,写真189 弘前高等小学校に併設された商業補習学校(大正11年)  弘前商業補習学校(大正十四年,大正七年八月、男子に先駆けて女子の実業補習学校が誕生したが、弘前女子実業補習学校がそれである。,その頃私たちの学校は(中略)時敏小学校の校舎の一部を使っていました。 / 実業補習学校
通史編3(近世2) (学校造営)

学校造営 これより先、寛政六年(一七九四)九月十日、学校用地が弘前城追手門外東南の一角(現在市立図書館,豊嶋勘左衛門・木村杢之助に屋敷替えを命じて、敷地八〇〇〇坪(『史蹟名勝天然記念物調査報告書』第一輯「学校総構之図,には医学・和学を学ぶ部屋が配置され、学科単位の非常によく練り上げられた教室配置になっている(「旧弘前藩学校稽古館図,事実、学校創設の総責任者であった津軽永孚は徂徠学に傾倒していたし、藩では釈奠・養老の礼が藩主の臨席のもと,旧弘前藩学校稽古館図 / 学校造営
通史編5(近・現代2) (学校統合の推進)

3 学校統合の重点を中学校に置き、小学校は最小限にとどめる。  ,①和徳中学校を廃止し、第一中学校に統合する。②草薙中学校を廃止し、新和中学校に統合する。,③藤代中学校を廃止し、第二中学校に統合する。,④第三中学校学区の一部と堀越中学校及び豊田中学校を統合し、新たに第五中学校を設置する。,⑤千年中学校を廃止し、第三中学校に統合する。⑥清水中学校を廃止し、第四中学校に統合する。 / 学校統合の推進
通史編4(近・現代1) (弘前の小学校)

弘前の小学校 弘前で最初に開設された近代的小学校は、明治六年二月開校の私立東奥義塾小学科である。,都市で、人口三万三八八四人(明治四年調査)と最も多く、士族や商人が居住して、文化的にも経済的にも公立小学校開設,それが六年十月一日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)と六年十二月一日創立の二番小学(現弘前市立和徳小学校,)である(なお、和徳小学校は学校創立日を、学年開始に合わせて七年一月八日としたが、『文部年報第一年報』 / 弘前の小学校
通史編4(近・現代1) (県立工業学校)

県立工業学校 東奥義塾の廃校を条件に弘前に開校した県立工業学校は、大正九年に義塾が再興するに及んで、,工業学校では明治四十五年に東京へ修学旅行をしている。,これまでは十和田湖へ行っているが、弘前市内の中等学校で東京へ修学旅行をしたのは工業学校が早く一番乗りであった,弁論の盛んな時世で、工業学校も例外ではなかった。,写真188 県立工業学校 / 県立工業学校
通史編3(近世2) (学校落成式)

学校落成式 同年六月二十八日、完成した学校への引き移りの式典と地鎮祭が、礼式にのっとってものものしく,この日をもって学校名を「稽古館(けいこかん)」と号することが公式に宣言されたと思われる。 / 学校落成式
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

遊廓と小学校 明治三十年(一八九七)十月二日の和徳小学校日誌に「学校長出校、去月県令ヲ以テ遊廓地ヲ北横町及,ビ学校傍ニ指定セラレシ事ニ付、市長ニ其ノ不都合ヲ具申、速カニ変更ニ尽力アリタキ事ヲ申述べ十一時帰校ス」,とあるが、これは弘前市はもちろん、県下に論議を呼んだ遊廓地指定のため、和徳小学校が移転を余儀なくされたことの,三十年九月二十八日、県令第四〇号として新遊廓地が一方的に指定されると、学校職員はもちろん父兄、学区民、,和徳小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時和徳村俵元 / 遊廓と小学校
通史編4(近・現代1) (県立弘前医学校(県立青森医学校))

県立弘前医学校(県立青森医学校) 明治九年(一八七六)二月二十五日、青森県参事塩谷良翰は、県会での医学生教育,カセ生徒ヲ教育セント要ス」として県内各大区から五〇〇〇円の大金を集め、さらに県税金を投入して弘前に医学校,医学生の指導者として、東京医学校卒業の中村良益を招聘し、十年三月一日青森県立弘前医学校を親方町に開設した,これに不服の弘前人士は、政治力を使って医学校の弘前への奪還を策した。  ,しかし、再移転した弘前医学校も、十八年三月三日、県の財政不足のため廃止された。 / 県立弘前医学校(県立青森医学校)
通史編5(近・現代2) (南中学校の開校)

南中学校の開校 昭和五十九年(一九八四)四月一日、弘前市立南中学校が開校された。,同中学校は、当時東日本一のマンモス校といわれた弘前市立第三中学校から、分離独立して開校した。,学区は松原、千年、大和沢の各小学校学区および文京小学校学区の一部で、市の南に位置し、りんごの生産を主とする,学区内の人々や生徒父母たちは、南中学校を「地域の学校」という認識で、創立時から協力を惜しまなかった。 / 南中学校の開校
通史編5(近・現代2) (東中学校の創立)

東中学校の創立 平成四年(一九九二)四月一日、弘前市立東中学校が創立開校された。,東中学校は弘前市立第一中学校から分離し、同じく第五中学校の一部を統合して創立された。,東中学校の創立は城東地区の開発に伴って予想されたところであり、弘前市教育委員会は数年前から校地を買収して,また東中学校校舎のすぐ東側には、ふるさとの川モデル事業の認定を受けた腰巻川が流れ、校舎と腰巻川の水辺の,こうして統合する一方、分離して一校を新設するものありで、東中学校の創立により、弘前市は市立中学校一七校 / 東中学校の創立
通史編3(近世2) (学校開設準備)

学校開設準備 寛政三年(一七九一)、寧親(やすちか)(一七六五~一八三三)は九代藩主となるや信明の遺命,に従い、学校創設に取りかかった。,藩校創設の機運は熟し、寛政六年八月十一日には津軽永孚(ながざね)が学校創設の総責任者として用人に登用され / 学校開設準備
通史編5(近・現代2) (西小学校の創設)

西小学校の創設 昭和四十年、弘前市は三ヵ年計画で、市内樋の口地区に広さ四一・二ヘクタールの城西団地を,団地の戸数一四〇〇戸、その子弟はすべて城西小学校に入学した。,しかし、校舎が未完成のため、三学年以上は城西小学校校舎を借用し、一、二学年だけを新校舎に収容した。,同時に城西小学校を借用の三学年以上を新校舎に移し、ここで全学年が揃うことになった。,西小学校の創設によって、弘前市内小学校は附属小学校を含めて三二校となった。 / 西小学校の創設
通史編5(近・現代2) (東小学校の創立)

東小学校の創立 昭和五十七年(一九八二)四月一日、弘前市立東小学校が弘前市城東中央五丁目六の一に創立開校,同校は城東地区の市街化に伴い、これまでの学区を変更して和徳小学校、豊田小学校、第一大成小学校からの四三二人,これらの学校環境を生かす教育の実施が同校教職員に課せられた命題であろう。  ,同年八月二十日学校プール完成により全建築が終了、十月十七日創立落成記念式典を挙行し、十一月七日東小学校記念碑除幕式 / 東小学校の創立
通史編5(近・現代2) (学校給食の開始)

学校給食の開始 二十二年(一九四七)一月二十九日、市内各国民学校に学校給食が開始された。,学校では児童用食器の購入など物入りだったが、父母の援助により陶器の碗などを急いで取り揃えた。  ,第一大成小学校では同年十二月、予算二四万五〇〇〇円をもって給食調理室を建設し、給食施設優秀校として県から,市内各小学校とも学校給食施設の完備には、ほとんど関係PTAの援助によるところが大きかった。  ,なおララ物資による学校給食の際は給食費は無料であったが、給食費を徴収するようになったのは同物資の放出が / 学校給食の開始
通史編4(近・現代1) (小学校令の公布)

このような立場から公布されたのが十九年三月の「帝国大学令」であり、同年四月の「師範学校令」「小学校令」,「中学校令」である。,写真100 初代文部大臣 森有禮と小学校令  それら学校令の中でも、森が最も重要視したのは「小学校令,小学校令は森文部大臣みずから起草したといわれるが、中でも注目されるのは小学校を尋常と高等の二等とし、修学期間,小学校令の実施に当たって、森は徳育の重視と小学教育の近代化を目指した。 / 小学校令の公布
通史編5(近・現代2) (時敏小学校焼失)

時敏小学校焼失 五年六月十五日午後三時、時敏尋常高等小学校から出火、同校を全焼して同三時半鎮火した。,火事の発見者は道路一つ隔てた玉成高等小学校の日直教員で、電話で知らせようとしたが通ぜず、走って報知したが,尋常科第一・二学年-和徳小学校、第三・四学年-朝陽小学校、第五・六学年-城西小学校。,高等科・実科女学校生徒-旧公会堂。,写真52 時敏尋常高等小学校校舎(昭和6年7月落成) / 時敏小学校焼失
通史編5(近・現代2) (裾野中学校の開校)

裾野中学校の開校 昭和五十七年(一九八二)四月一日、弘前市立裾野中学校が開校された。,裾野中学校は小規模中学校の草薙中学校(草薙小学校と併置)と修斉中学校を合併統合したものである。,学区は統合前の両中学校学区で、貝沢、大森、十面沢、十腰内となっている。,また、両中学校とも弘前市と合併以前は、旧中津軽郡裾野村に属していたので、それが新中学校に校名として残されたものである,新校舎は、十面沢字湯ヶ森四〇番地に建てられ、敷地は旧両中学校から等距離の地点である。 / 裾野中学校の開校
通史編5(近・現代2) (第五中学校開校)

第五中学校開校 昭和四十一年(一九六六)四月一日、豊田中学校と堀越中学校の統合による弘前市立第五中学校,生徒数五九五人、教員数二四人、一六学級、初代校長の成田七郎は、豊田中学校長から就任した。  ,第五中学校の新築工事は、昭和四十一年十一月から始まり、同四十二年十二月には二期工事が完了、翌年一月には / 第五中学校開校
通史編4(近・現代1) (大成小学校創設)

大成小学校創設 十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、鍛冶町の三学区は,したがって土手町学区は学区内に蓬莱、知類、敬業の三小学校を有することになった。,一学区に一小学校が例で、三校では多すぎ、経費もかかるので、三校合併案が地域住民から持ち上がった。,設置、校舎は蓬莱小学校をそのまま移築した。,写真57 大成小学校(明治24年落成の校舎) / 大成小学校創設
通史編5(近・現代2) (家政女学校の創設)

家政女学校の創設 弘前和洋裁縫女学校とほぼ同じころ、私立弘前家政女学校が創設されている。,校長の小山内もとは明治二十八年から弘前女学校や弘前高等小学校で教鞭をとっていたが、三十二年に再度上京して,東京裁縫女学校に学んで、裁縫科の教員資格を得ると、北海道の庁立札幌女学校に明治四十二年から大正二年まで,も「私立弘前家政女学校」と改めた。,写真71 弘前家政女学校校舎(紙漉町 昭和15年以降)  終戦後の新学制が発足するとともに、家政女学校 / 家政女学校の創設
通史編4(近・現代1) (県内中学校の概況)

県内中学校の概況 明治三十四年(一九〇一)、青森市に第三中学校、翌三十五年、西津軽郡木造町に第四中学校,また、三十四年には私立東奥義塾が弘前市に移管されて弘前市立中学校東奥義塾となったので、青森県内には公立中学校,教科内容に変わりはなかったが、第一中学校や第二中学校などの歴史ある学校には、独自の校風が確立していて、,写真109 明治時代の中学校野球部  第一中学校では、三十五年七月、県内各中学校に先駆けて校旗を,これは青森師範学校に次ぐもので、同年七月十九日に校旗樹立式を挙行している。 / 県内中学校の概況
通史編4(近・現代1) (小学校令と中津軽郡)

小学校令と中津軽郡 小学校令実施で中津軽郡の大半は簡易小学校となり、尋常小学校は数校にすぎなかった。,現高杉小学校) 富栄尋常小学校(二十年五月鼻和・富栄小学校が合併。,昭和三十五年時敏小学校に統合)   簡易小学校となったもの二〇校 十腰内簡易小学校(二十年四月、現修斉小学校,の前身) 大森簡易小学校(二十年五月、現草薙小学校の前身) 小友簡易小学校(二十年五月、現小友小学校,現三省小学校) 外崎簡易小学校(二十年五月、現豊田小学校) 知新簡易小学校(二十年五月、現福村小学校 / 小学校令と中津軽郡
通史編4(近・現代1) (弘前女学校の創設)

本多と遺愛女学校校長ミス・ハムプトンの企画で来徳(ライト)女学校と称したが、入学者は五十余人あった。,山鹿元次郎が初代校務担当者であったが、創設のころの様子を書いた『弘前女学校歴史』によれば、女学校と称しているものの,、その教科内容は尋常小学校程度であったという。  ,明治二十年になって、来徳女学校は函館遺愛の分校の形をとって弘前遺愛女学校に改称している。,弘前遺愛女学校を本格的な女学校にしたいというのが、弘前教会関係者の悲願でもあった。 / 弘前女学校の創設
通史編4(近・現代1) (私立小学校の乱立)

私立小学校の乱立 公立の亀甲小学が開設された七年四月、第一五中学区内だけで二三校が私立小学校として設立,私立小学校と名乗ったものの、従来の寺子屋にすぎないものが多かったが、これは政府による私立小学校設置奨励方策,第二に、公立小学校の設置によって民衆の学問熱が誘発されたことによる。,新時代に即応するには学問が必要なことを、子どもはもちろん親も気づいて、学校で学ばせようという気運が沸き,しかし、これら私立小学校の多くは、公立小学校の校舎や設備が整備され、その数が増加すると、二、三年のうちに / 私立小学校の乱立
通史編5(近・現代2) (松原小学校の創立)

松原小学校の創立 昭和五十四年(一九七九)四月一日、弘前市立松原小学校が開校された。,旧「松原小学校」は、前述のように、昭和三十九年に文京小学校の開設に伴って廃止されたものであるが、その文京小学校,ができなかったことにより分離独立となったもので、旧松原小の敷地跡である松原東二丁目一七番地に新規の小学校,さらに六月十四日学校プールが完成した。,松原小学校では校舎落成を待って、五十五年十月二十六日、学校創立校舎落成記念式典を盛大に挙行した。 / 松原小学校の創立
通史編5(近・現代2) (学校給食とPTA)

学校給食とPTA 戦後、弘前市で学校給食が実施されたのは昭和二十二年一月からで、一大、二大、和徳、時敏,、城西、朝陽、桔梗野の各国民学校が実施校となった。,実施のその年三月、関係学校による「弘前市給食委員会」(委員長金沢安次)が組織され、以後一切の給食問題はこの,学校保健主事会と協力して市当局と折衝を続けた。,学校給食は、その後法律ができて制度化され、日本全土に広がっていくが、弘前市の学校給食に対するPTAの尽力 / 学校給食とPTA
通史編5(近・現代2) (文京小学校の創設)

文京小学校の創設 昭和三十九年(一九六四)四月一日、中野一丁目に弘前市立文京小学校が創設された。,、松原、千年の各小学校に自由に入学することができた。,自由学区の児童数は六〇四人に上り、松原小学校PTAは三十六年八月、自由学区解消を市教委に陳情していた。,その後市教委から文京小学校の校名が通知された。  ,なお、文京小学校の開設により松原小学校は廃された。 / 文京小学校の創設
通史編4(近・現代1) (市制施行と小学校)

市制施行と小学校 二十二年(一八八九)四月、弘前は市制施行により弘前市となり、これまでの中津軽郡の管轄,したがって市内各尋常小学校は、校名の上に弘前市を付して、弘前市朝陽尋常小学校というように改称することになった,また、学校基本財産に至っては全く貧弱なもので、学校経費の半分以上が授業料に頼っているありさまである。,これにより中津軽郡は一六ヵ村となり、各村の小学校も新たな村名に基づき名称を変えるとともに、簡易小学校から,尋常小学校へ転換するものも相次いだ(合併構成村については本章第一節第一項参照)。 / 市制施行と小学校
通史編5(近・現代2) (北辰中学校の開校)

北辰中学校の開校 昭和四十四年(一九六九)四月一日、弘前市立北辰中学校が開校した。,北辰中学校はこれまでの高杉中学校と自得中学校の統合により誕生した。,その年十二月屋内体育館が完成、北辰中学校は校舎新築落成式を挙行した。初代校長は天内行雄である。  ,こうして、石川中学校も含め、昭和三十年の市村合併時に一八校あった中学校は、これらの統廃合によって一二校 / 北辰中学校の開校
通史編5(近・現代2) (青年学校令の制定)

青年学校令の制定 昭和初期におけるわが国の勤労青少年の教育機関としては、実業補習学校と青年訓練所が設置,され、女子青年は実業補習学校、男子青年は前記両者において教育を受けるものとされていた。,しかし、実業補習学校と青年訓練所には共通するものが多く、しかも男子では両者に二重在籍するものが多数だった,昭和十年(一九三五)四月一日、青年学校令及び青年学校令施行規則が制定され、実業補習学校と青年訓練所は統合,尋常小学校卒業者は普通科に、高等小学校卒業者は本科に入学し、本科卒業者はこれと相当する教養ある者とともに / 青年学校令の制定
通史編4(近・現代1) (日露戦争と小学校)

日露戦争と小学校 明治三十七年(一九〇四)二月六日の和徳小学校日誌に「日露ノ風雲愈々急ヲ告ゲ昨夜後備兵,市内各小学校はもちろん、中津軽郡の小学校も同様である。  ,しかし、小学校は軍の言いなりになっていたわけでない。,そのほか、小学校児童が協力したのは戦闘祝捷会の参列である。,当時手取(てっと)り早く人数を動員できる組織は小学校だけだった。 / 日露戦争と小学校
通史編4(近・現代1) (時敏小学校の創設)

時敏小学校の創設 大成小学校の聯合創設に刺激され、第四学区(亀甲学区)が、学区内にある亀甲、盈進の二小学校,一学区に二校を置いて学資金を二分するよりも、一校を設置して資金を集中し、学校設備の充実を図った方がよいと,合併はしたものの名目統合で、校舎は二校に分かれていて、これまでの亀甲小学校を時敏第一小学校とし、盈進小学校,を時敏第二小学校とした。,加えて学校管理が容易でなく、生徒通学にも不便だったので一校新築の案が出た。 / 時敏小学校の創設
通史編5(近・現代2) (北小学校創立開校)

北小学校創立開校 平成三年(一九九一)四月一日、弘前市立北小学校が創立開校された。,設立され、学校完成に向けて活動していた。,校舎建設終了と同時に行われた学校敷地の整備工事は、同じく九月二十五日に完了した。,また、学校プールの建設は三年五月十日に始まり、七月二十三日に完成した。,それを機会に、北小学校では平成三年十月六日、創立・校舎落成記念式典を盛大に挙行した。 / 北小学校創立開校
通史編4(近・現代1) (日清戦争と小学校)

日清戦争と小学校 明治二十七年(一八九四)八月一日、日本は清国(中国)に対し宣戦布告し、開戦詔勅が公布,しかし、一般に学校現場は戦争に対する緊張感もなく、のんびりした空気だった。  ,戦争が学校に与えた影響といえば、体育が急に大きく採り上げられたことである。,小学校に軍人崇拝や軍国主義的色彩が入り込むのは、戦時中より勝利を得た戦争後のことである。,その一例として日清戦争後、小学校に流行した軍歌を挙げよう。 / 日清戦争と小学校
通史編5(近・現代2) (新制中学校の開校式)

新制中学校の開校式 県教育民生部は「新学制実施について」という通達を出し、「新制中学校は、必ず四月二十一日開校,写真131 第三中学校が発足当時校舎として使用した桔梗野旧歩兵第31連隊兵舎跡  しかし、第一中学校,第二中学校の場合も市立商業の校舎を借りていたので同校講堂で、また、第四中学校は青森師範学校の仮用附属になることが,  市立高等女学校の一部を借用 二大小         第四中学校 須貝清一 一四 1 二七一 六,弘前市元町一 朝陽小 2 三〇 青森師範学校附属小学校の一部を借用   3 三七     (「生徒数 / 新制中学校の開校式
通史編5(近・現代2) (高杉小学校の創設)

高杉小学校の創設 昭和三十八年(一九六三)四月一日、高杉小学校と独狐小学校が合併し、新たに弘前市立高杉小学校,これは弘前市教育委員会が三十七年六月、教育施設整備五ヵ年計画を発表し、学校統合整備、危険校舎解消などを,五ヵ年の間に積極的に押し進めようというもので、その第一着手が高杉・独狐両小学校の合併であった。  ,新発足の高杉小学校は一八学級編成、初代校長に大瀬秀四郎が就任した。 / 高杉小学校の創設
通史編5(近・現代2) (弘前青年学校の発足)

弘前青年学校の発足 時局の進展に伴い、青年学校の振興は急務とされた。,と専任教員を置いた独立青年学校の設置が要望された。,これまで各小学校に併設されていた青年学校を廃止して、一校に統合したものである。,公立弘前青年学校校舎は、本町一丁目の弘前国民学校(元弘前高等小学校、現弘前税務署敷地)の一棟が充てられ,、校長事務取扱いとして弘前国民学校教頭の鎌田饒が任ぜられた。 / 弘前青年学校の発足
通史編4(近・現代1) (学校看護婦の配置)

学校看護婦の配置 大正六年(一九一七)四月、弘前市内各小学校に初めて学校看護婦が配置され、児童の衛生看護,これは市内小学校児童のトラホーム患者の激増に対処したもので、市当局の大英断をもって実施された。  ,県内小学校では明治三十七年度(一九〇四)からトラホーム検診予防を実施してきたが、検診者の三〇%から三八,石郷岡所長は各小学校に学校看護婦の配置を要望、みずから巡回指導して罹患児童の洗眼に当たった。  ,石郷岡医師が各校を巡回し、学校看護婦が毎日学校に出勤して罹患児童の洗眼に従事するが、トラホーム撲滅にはこの / 学校看護婦の配置
通史編5(近・現代2) (桔梗野小学校の創立)

桔梗野小学校の創立 戦後、朝陽小学校学区の新寺町以南は急速に住宅が建ち、著しい人口増加を来した。,朝陽小学校PTAは二十四年一月二十四日臨時総会を開催して、仮称第二朝陽小学校新設に関する対策協議を行ったが,、学区編成が問題となり、寺沢川を境界として以南を仮称第二朝陽小学校学区、以北を在来の朝陽小学校学区とすることに,すなわち、昭和二十四年九月一日、第二朝陽小学校は弘前市立桔梗野小学校と校名を改称、同時に第一朝陽小学校,は弘前市立朝陽小学校と改称された。 / 桔梗野小学校の創立
通史編5(近・現代2) (青年学校振興運動)

青年学校振興運動 義務制にしたため、青年学校の就学率は向上したが、出席率は甚だ振るわなかった。,そのため、昭和十六年三月十日の陸軍記念日を期して、青年学校振興運動が開始された。,運動は全国一斉に展開され、生徒の就学の徹底、青年教育の刷新充実を期したが、実は学校現場としては、このような,運動よりも、青年学校における教師陣の充実、独立校舎の設置などが早急に望まれたのである。 / 青年学校振興運動
通史編4(近・現代1) (弘前高等学校の開校)

弘前高等学校の開校 大正九年(一九二〇)十一月二十六日勅令第五五一号により、鳥取高等農業学校・名古屋高等商業学校,・松江高等学校・富山薬学専門学校・金沢高等工業学校とともに全国で第一六番目の高等学校として弘前高等学校,初代校長には鹿児島県立第一鹿児島中学校長秋田実が任命された。,写真191 初代弘前高等学校校長秋田実  志願者は文科甲類三四五人、文科乙類六八人、理科甲類一一五人,写真190 大正10年8月校舎落成当時の弘前高等学校 / 弘前高等学校の開校
通史編4(近・現代1) (簡易小学校について)

簡易小学校について 小学校令が公布された明治十九年当時、日本全国の学齢児童の三分の二は、授業料を払うことのできない,簡易小学校は授業料を徴収せず、教科書は学校で貸与した。,原因の二つ目は、簡易小学校が貧民学校視されて、差別と蔑視を受けたことが挙げられる。  ,事実、簡易小学校は、児童ばかりでなく担任する教員までが、簡易科教員の名称で、小学校訓導や尋常科教員より,のもと、簡易小学校はわずか数年で小学校現場から消滅した。 / 簡易小学校について
通史編4(近・現代1) (旧藩主逝去と小学校)

それに先立って七月十五日、弘前市内各小学校児童職員一同は、中川寛蔵時敏小学校長を代表に選んで、お見舞いの,また、市内小学校代表として、校長会は山中嵯峨之助弘前高等小学校長を選んで藩公葬儀参列に上京させた。,旧藩主と市内小学校の結びつきは極めて強固であった。,旧藩主も弘前へ来るたびに小学校長たちを集めて、教育の様子を尋ね、また、全市小学校児童に菓子を与えるのを,旧藩主と小学校の結びつきが、明治以来の本市小学校教育に、独自の気風をもたらしたことは否定できない。 / 旧藩主逝去と小学校
/ 10ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました