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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (安藤の乱の展開)

安藤の乱の展開 出羽の蝦夷蜂起と同じ元亨二年(一三二二)春、惣領安藤又太郎季長(すえなが)とその従兄弟五郎三郎季久 / 安藤の乱の展開
通史編1(古代・中世) (工藤氏の活躍)

なお鼻和郡・外浜の所領は、安藤の乱に際して津軽で安藤季長を捕らえたという工藤貞祐(祐貞)からの没収地であった
通史編1(古代・中世) (後醍醐方につく)

北条得宗家によって蝦夷沙汰や地頭代職を受け継ぐ嫡流に取り立てられたのであったが(それが鎌倉時代末期の「安藤,の乱」の直接の原因であった)、最終的にはその北条氏を見限り、後醍醐方につくこととなった。  
通史編1(古代・中世) (片穂家から伝領した所領)

しかし元亨二年(一三二二)、資光は安藤の乱鎮圧に出陣するに際して、「おやよりさきたちまいらせ候あいた、,以後、沼楯村については、資光は件の安藤の乱鎮圧への出陣に際して、やはり父光頼への譲状をしたためているが,資光は安藤の乱鎮圧への出陣に際して、当地についても父光頼に宛てて単独の譲状をしたためている(斎藤文書、
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・岩楯村)

光頼は嘉暦元年(一三二六)、安藤の乱の激戦、西浜合戦(史料六二三)に出陣するに際して(嫡子資光は先年、,安藤の乱の渦中で戦死)、光高に譲渡し(この譲状は現存しない)、無事帰還後の翌年、それを確認している(史料六二七
通史編1(古代・中世) (海の民・山の民としての安藤氏)

安藤氏が山の民であったことは、のちに触れる鎌倉末期の「安藤の乱」(津軽大乱)鎮圧のことを「津軽山賊誅伐事
通史編1(古代・中世) (曽我貞光とその家族)

曽我貞光とその家族 しかし資光は鎌倉時代末期の安藤氏の内紛(安藤の乱・津軽大乱)に参戦して早世し(史料六二三
通史編1(古代・中世) (安藤系図)

の功労者「安藤次」の名(季信 津軽守護人)がみえ、また後述する鎌倉末期の、幕府滅亡ともかかわる有名な安藤,の乱(津軽大乱)の立役者安藤又太郎季長の名が惣領名としてみえることから、学界では鎌倉時代の安藤氏の世系
通史編1(古代・中世) (蝦夷の乱と安藤氏の乱)

たしかに安藤の乱に先行して、事実として蝦夷の乱があったわけであるが、それを中央の人々がどれくらい意識していたかについては
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

しかし鎌倉幕府末期の安藤の乱(後述)当時、安藤宗季派が外浜に築城したこと(史料六一七)、外浜の伝尻八館跡
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●元応二年(一三二〇)、出羽蝦夷蜂起、元亨二年まで続き、安藤の乱と関わる。,●嘉暦二年(一三二七)六月十四日、小田氏、安藤の乱での軍忠を認められる。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 新渡戸文書 172 ●元応二年(一三二〇)、出羽蝦夷蜂起、元亨二年まで続き、安藤,の乱と関わる。,………………………… 南部家文書 176 ●嘉暦二年(一三二七)六月十四日、小田氏、安藤の乱での軍忠を
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