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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
年頭の挨拶に
宗家
に登城しないことは明らかに
宗家
に対する反抗である。 ,すでに豊臣政権によって信直が南部領の正式な大名として認定されているとはいえ、
宗家
の信直をしのぐほどの実力,信直自身、九戸一揆が九戸政実や櫛引清長ら国人衆の
宗家
に対する「逆心(ぎゃくしん)」だけで引き起こされたのではなく
通史編1(古代・中世)
(後醍醐方につく)
後醍醐方につく 安藤宗季(むねすえ)は、元来、安藤氏庶流でありながら、北条得
宗家
によって蝦夷沙汰や地頭代職
通史編1(古代・中世)
(文永の蝦夷の乱)
北条得
宗家
の幕政全般における権力掌握につれて、得
宗家
は全国的海運をも掌握するに至っていた。
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
一五三九)に当主晴政(はるまさ)が将軍足利義晴(よしはる)の一字を与えられていることからも南部一族の
宗家
,そのため、三戸南部氏の
宗家
としての地位は、非常に不安定なものであったのである(小林清治「九戸合戦」『北辺,天正十八年(一五九〇)七月二十七日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直(のぶなお)が南部氏の
宗家
通史編1(古代・中世)
(所領の経営)
文保元年(一三一七)、平賀郷地頭代曽我泰光は代官京(景ヵ)範を通じて、得
宗家
公文所に対して正和四年(一三一五,なおこの結解の最初に据えられた花押は得
宗家
の内管領長崎高資のものである。
通史編1(古代・中世)
(得宗被官の入部)
そこには、得
宗家
公文所から派遣された実務官僚が配置されていたようである。
通史編1(古代・中世)
(時頼廻国伝説)
ちなみに右の三浦盛時(もりとき)が、三浦本
宗家
滅亡後、三浦介を継ぐことになる。
通史編1(古代・中世)
(蝦夷の乱と安藤氏の乱)
幕府側の対策を見てみると、そこでは蝦夷管領職の動向が問題とされているし、鎌倉末期における蝦夷管領職は得
宗家
,管轄下にあったのだから、『鎌倉年代記』『保暦間記』『諏方大明神画詞』などがこの乱を取り上げたのは、得
宗家
管轄下
資料編1(古代・中世編)
(三 刀剣)
70.2 反り 2.4 茎長 21.2 ・弘前市指定有形文化財 ・古刀期に属す・中世 ・盛
宗家
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光の奮戦)
それに対して貞光は、曽我本
宗家
の師助(もろすけ)の援助を仰ぎながら三ヵ月かけてそれらを追い払っている(,写真155 曽我貞光軍忠状案 この間、貞光は暦応三年には本
宗家
の師助と同じ左衛門尉に昇格し(史料六八三
通史編2(近世1)
(信政の襲封と黒石分知)
図86.津軽信政画像 信英は、分知を受ける領地について津軽信隆(のぶたか)ら
宗家
重臣に選定を委
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
下国安藤氏を攻めて、蝦夷島(北海道)へ敗走させ、その後の数度の合戦を経て、十五世紀の後半には、下国安藤本
宗家
,ばれ、「大名」として半ば独立的な活動を展開したように、彼らはいわば「目下の同盟者」の地位にあって、本
宗家
通史編1(古代・中世)
(安藤の乱の展開)
山の民・海の民として自由な存在であった安藤氏ではあるが、このころには、蝦夷管領も鎌倉殿というよりは得
宗家
,季長・季久両人とも鎌倉に上り、理非を争ったわけであるが、得
宗家
の実権を握る内管領長崎高資は、両方から賄賂
通史編2(近世1)
(弘前藩の副藩主)
をみて明らかなように、弘前津軽家から黒石津軽家へは、信政の五男が黒石四代寿世(ひさよ)となっており、また
宗家
一門
通史編3(近世2)
(旧幕府軍の軌跡)
品川沖を出帆したのは、徳川
宗家
の存続が明らかになったことをうけた行動だった。
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
任ぜられたほか、十二年三月十二日には幕府から朝鮮への国書改竄(かいざん)事件により処罰された、対馬の
宗家
,このうち国書改竄事件は、藩主宗義成(そうよしなり)と重臣柳川調興の対立によるお家騒動であるが、一歩間違えば
宗家
改易
通史編2(近世1)
(信寿の高増運動)
また、彼女は近衛基煕(このえもとひろ)の娘であることから、近衛家を
宗家
と仰ぐ津軽家には有力な後ろ盾となるはずであった
通史編3(近世2)
(一二代承昭の襲封)
となった田安家もこれに同調したため、藩首脳は本次郎を黒石藩主に据え、血統存続を強調したうえで、この問題を
宗家
通史編3(近世2)
(信政)
惟足は上京して唯一神道吉田兼倶(かねとも)の一族、萩原兼従(かねより)に師事し、
宗家
の子弟にも授けられなかった
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
この計いは、貞時の得
宗家
にとって祖父の時頼以来の秘すべき伝統的な「大事」であったのではないか。,時頼の死後、約四十年後の今、孫の貞時の世に至っても、なお「大事」なる営みとして、公然の秘密として、得
宗家
,政連は時頼ではなく、孫の貞時の「微行」を指して「大事」としたが、この「大事」なる営みは、右の得
宗家
に流,貞時は当時の得宗による幕政の専制化を図るためにも、この得
宗家
領の津軽において、御内人の結束を固める目的,このように、北条貞時は得
宗家
の専制化の道を、津軽の護国寺においても具現化したのである。
通史編3(近世2)
(藩論の統一)
さらに西舘は、津軽家が
宗家
と仰ぐ近衛忠熈(このえただひろ)・忠房(ただふさ)父子からの、勤皇に励み、家名
通史編3(近世2)
(幕末期近衛家との関係)
五摂家筆頭で、津軽家の先祖藤原政信が近衛尚通(ひさみち)の猶子(ゆうし)(養子)となったのを契機に近衛家を
宗家
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の合戦)
源宗山とは源氏の
宗家
のよった山の意味であるというのである。
通史編3(近世2)
(一一代順承の治世)
困り果てた順承と家老大道寺族之助(やからのすけ)ら重臣は津軽家が
宗家
と仰ぐ近衛家に事態打開を求め、近衛忠熈
通史編3(近世2)
(新政府からの借財と藩札の発行)
しかし承昭は
宗家
近衛忠房(このえただふさ)の娘尹子(ただこ)との婚約が成立しており、上京してもすぐに国元
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
のみならず、盛岡藩・秋田藩でも出兵の準備が進められ、盛岡藩から分かれた八戸藩も、寛文四年(一六六四)、
宗家
通史編2(近世1)
(公家との関係)
近衛家は津軽家の「
宗家
」とされ、系図の上においても、「寛永諸家系図伝」編纂の際、幕府から系図の提出を求
資料編3(近世編2)
(【解説】)
そうした混乱の中、七月十一日に京都留守居西館平馬が弘前藩が
宗家
と仰ぐ近衛忠熈(ただひろ)・忠房(ただふさ
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●寛永十二年(一六三五)三月十二日、幕府、国書改竄により、対馬
宗家
重臣柳川調興らを処罰し、この日、調興
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