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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (蝦夷首長阿弖流為)

中・後軍が「賊帥阿弖流為(あてるい)」の居に至るころ、蝦夷軍三百人ばかりの迎撃に会ったが、官軍は強く、,実は「阿弖流為」最初の三〇〇人の蝦夷軍はおとりであって、官軍を奥地に誘い込むための罠(わな)であった。,官軍がその前方を、突如現れた八〇〇人の蝦夷軍にはばまれて混乱に陥った最中に、今度はその後方を、東山から,現れた四〇〇人の蝦夷軍にふさがれ、官軍はもはや北上川に飛び込むしかなかった。,当然のことながら、桓武天皇は官軍の将を激しく非難するが、古佐美はこれまでの功績に免じて不問。
通史編1(古代・中世) (小松柵の戦い)

小松柵の戦い この年八月中旬、玉造郡を発した官軍は松山の道を経由して磐井郡中山の大風沢(おおかぜさわ,宗任軍の死者は六十余人、負傷兵は数知れず、官軍は死者一三人、負傷兵は一五〇人であったという。  ,九月、貞任が頼義の本営に奇襲をかけたが(史料四五一)、粮食(りょうしょく)が足りず長期戦を避けたかった官軍
通史編1(古代・中世) (清原氏の登場)

こうしたなか、安倍氏を制するだけの兵力がない頼義は、出羽山北(せんぼく)の清原氏に対して、甘言をもって官軍,ついに康平五年(一〇六二)七月、清原武則(たけのり)が兵一万余人を率いて官軍に加わった。,官軍は七陣に編成されたが、将軍率いる第五陣を除く他の陣はすべて清原軍が押領使であった。,こうして官軍は一気に優勢になった。
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

政府軍の苦戦 七月六日より秋田城下から薩摩・長州・佐賀藩など官軍諸隊が、庄内方面へ向け進軍を開始した,この反撃の勢いは強く、官軍方は敗退を余儀なくされるとともに、新庄城下は戦火に包まれた。,続いて象潟方面の総督軍陣地が相次いで攻め落とされ、八月一日には官軍諸藩は本荘藩まで退却した。
通史編1(古代・中世) (安倍氏の滅亡)

安倍氏の滅亡 さて十五日夕刻、官軍は安倍軍の立て籠る厨川(くりやがわ)・嫗戸(うばど)柵を包囲した。,熱さに堪(たま)りかねて飛び出してきた安倍軍は、ことごとく官軍に討ち取られたという。  ,一方、貞任は官軍の鉾(ほこ)に刺されると、大楯に乗せられて将軍の前に担ぎ込まれた。
通史編1(古代・中世) (津軽への注目)

しかし逆に津軽蝦夷のなかにも三〇〇〇人の渡嶋の蝦夷とともに出羽国の官軍に味方する者があり、その勢力が「,形成して中央政府に抵抗しようとはしない、政治的に未熟な蝦夷集団を討つ、征夷戦の常道であったが、今回も官軍
通史編3(近世2) (箱館戦争をみた農民)

と明治二年(一八六九)のもの(同前No.五〇四)が収められているが、後者には常治自身が青森に出向いて官軍,着いて早速宿を交渉したところ、そこの婆が出てきて、この官軍の人数のためとてもあなたがたを泊める余裕はない,目を覚ますとすぐに耳に入ってきたのは官軍諸藩の訓練の音であった。,家々にはすべて本陣および筑後・松前・箱館・水戸・徳山などの諸藩の名札が掲げられており、官軍の兵士が町中,そうしているうちに昼近くになったが、突然官軍の艦船が出帆するという噂が耳に入ってきた。
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

九月二十三日の野辺地戦争は、官軍に頑強な抵抗を続ける盛岡藩を牽制(けんせい)する目的から、奥羽鎮撫総督府付軍監,榎本軍の箱館占領に応じて官軍も続々と兵員を青森に集結させたが、時節は厳寒に向かい、両軍とも本格的軍事行動,そのうえ、自藩はもとより、榎本軍が箱館を占領してからは、官軍の越冬を賄う負担が大きく弘前藩にのしかかってきた,それでも弘前藩にとって過重な負担となったのはいうまでもないことで、官軍の賄い方に関して家老杉山上総は「,表17.青森駐留官軍人数 No.
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

すなわち、奥羽鎮撫総督の指揮下に入り、官軍と行動をともにするか、東北諸藩と足並みをそろえて、奥羽列藩同盟,会津・庄内の恭順謝罪を嘆願し、和平的な解決を望むためであったのに、特に仙台藩主戦派の勢いに押され、反官軍的,山崎は実際の敵ならばともかく、官軍に討ち入ることはできないと強く反対したのであった。,反官軍的な行動をとることは「狂人之如シ」とまで批判している(同前No.五二九)。  ,やがて、藩内の対立が激化する様相に危機感を抱いた藩では、五月二十一日、徳川家名の存続と諸道官軍の撤退命令
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

この一連の経緯は、江差への官軍諸藩兵の出陣が実行される前の出来事であったため、先日青森で話し合われた作戦,松前徳広の病状も思わしくなかったが、官軍の応援も届かない状況下では、自力で津軽領へ脱出するよりほかなく,こうして箱館戦争が始まったが、相次ぐ出兵と官軍の滞陣、戦争の長期化で、既に弘前藩の国力は限界に近づいていた,十一月二十四日、藩は松前落城の様子と領内の防備状況を朝廷に報告し、官軍の応援を要請した(資料近世2No,しかし、厳寒期であるうえに、軍艦という決定打に欠ける官軍は旧幕府軍の動向を見守るしかなかった。
通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

さらに一月十五日、朝廷よりの官軍協力命令(資料近世2No.五〇七)が東北諸藩に向けて出された。,それは、徳川慶喜反逆につき、その追討のため、東海・東山・北陸三道を「官軍」が進発することを告げ、応援協力
通史編1(古代・中世) (「津軽」の地の独自性)

土知朱は「津軽蝦夷」とはかって、狩猟用の剛弓(猪鹿弓)・剛矢(猪鹿矢)で攻めて官軍を悩ませたので、官軍
通史編3(近世2) (醍醐忠敬の弘前転陣)

菊章旗はいうまでもなく、官軍の象徴である。,彼らの弘前布陣は弘前藩とは逆に、反官軍を表明した盛岡藩との戦争を目的とするものであった。,醍醐参謀の滞在する弘前藩はもはや官軍方に一寸の疑いも持たれてはならず、こうした扱いはその具象化であるといえよう
通史編1(古代・中世) (夷語を解する小野春風)

それに感激した蝦夷たちは、官軍に酒食を供えたという逸話も伝わっている。
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

この時、陸奥湾周辺へ詰めていた官軍諸藩の兵力は次のように把握されている(『弘前藩記事』二)。   ,ようやく青森港に入港した応援の官軍艦隊は勝利を予感させる堂々たる威風であった。
通史編3(近世2) ((一)箱館戦争の開始)

「奥羽同盟方一同謝罪ノ処より静謐、諸方官軍も追々引払、下民家業ニ有附候」(『家内年表』明治元年十月二十三日条
通史編1(古代・中世) (黄海の戦い)

この戦いは前九年合戦前半のハイライトであるが、官軍は激しい吹雪のなか、糧食も少なく疲れ果てて、貞任軍の
通史編3(近世2) (藩論の統一)

弘前藩は翌七月に至るまで肝心の藩論を決定することができず、六月十五日には、官軍の証である菊花証旗(錦の,からみて、新政府軍に従うことに藩論を統一したかったとみられるが、その諮問の結果、多くは「同盟ヲ履ンテ、官軍
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

これは、弘前藩が討庄応援を命じられたが、庄内藩がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては
通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

総督軍に佐賀・長州・薩摩・平戸藩などから応援兵が続々と秋田に上陸して各地へ出兵を重ねたため、しだいに官軍有利
通史編3(近世2) (箱館戦争の終結)

永く支援基地として多大な労苦を担わされていた青森からも、同月中に官軍諸隊の引き揚げが開始された。
通史編3(近世2) (松前城の恢復)

稲穂峠方面へ三度引き揚げることとなった官軍兵士たちも疲労の極みに達し、また兵糧や武器の補充が緊急の課題
通史編3(近世2) (農兵の動員実態と要求)

また、いざ各地に出張してみると、隊員は官軍諸隊と比較して自分たちの姿がひどくみすぼらしいことに気づかされた
通史編3(近世2) (青森商社の終末と意義)

青森商人としては、戊辰戦争で支出した官軍賄費(まかないひ)の償還もないうちから商社の積金を取り立てられ
資料編3(近世編2) (【解説】)

仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩からも野辺地戦争直後に降伏状が出され、十月に至って東北地方は官軍,この戦争で弘前藩が一番負担を強いられたのは、翌二年四月から始まる箱館総攻撃までの間、官軍諸藩の兵站を賄,でめざましい軍事功績をおさめられなかった弘前藩は、これを完遂して勤皇の証としようとしたが、長期にわたる官軍,朝廷は後日、官軍賄い方に係わる費用はこれを償還するとしたが、財政基盤が脆弱な新政府にとってそれは不可能
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

弘前藩の出兵 さて、秋田に続きようやく藩論を勤皇に統一した弘前藩も、藩境を封鎖するなどの行動で受けた官軍方
通史編1(古代・中世) (乱の勃発)

しかもその後も出羽国の官軍は苦戦の連続で、もはや現地では進退窮まった観すら呈していたのである。
通史編3(近世2) (青森商社の設立)

この時期は箱館戦争前後で、官軍諸藩の賄(まかな)い方に忙殺(ぼうさつ)されていたころである。
通史編3(近世2) (政府軍の乙部上陸)

乙部村の住民は政府の艦隊を認めると、陸へ渡るための橋船三隻を提供し、官軍を受け入れた。
通史編1(古代・中世) (比羅夫は何回遠征したか)

「官軍のために弓矢を持っているのではありません。,もし官軍に対するために弓矢を用意したというのなら齶田浦の神が罰するでありましょう。
通史編3(近世2) (盛岡藩の参戦)

八月二十八日、総督軍参謀副役である佐賀藩士田村乾太左衛門(かんたざえもん)を総隊長に、官軍諸隊の応援兵
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

そのうえ、今回は弘前藩自体の敗戦ではなく、総督府中牟田の失敗であり、弘前藩は、今回の作戦に関して官軍に
通史編1(古代・中世) (蝦蛦)

齶田(あぎた)エミシの族長としてその名が知られる恩荷(おが)は、阿倍比羅夫に降伏した際に、弓矢の所持は官軍
通史編3(近世2) (軍制への戸惑いと浸透)

また、秋田藩に薩長を中核とする官軍が集結するようになると、前線の先行部隊は最新式の洋式軍隊を自らの目でみるようになり
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

藩は自領を守るためにも、政府や官軍諸藩に働きを示すためにもこの機会は逃せなかったといえよう。
通史編3(近世2) (新政府からの借財と藩札の発行)

新政府からの借財と藩札の発行 後日に官軍軍費を償還するとした新政府だが、当時はまだ財政基盤が脆弱(ぜいじゃく
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

は和平的な解決のために同盟に参加し、解兵をしたのであるが、転陣問題では、仙台が総督府三卿を抑留し、反官軍的
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

●元慶二年(八七八)六月十六日、出羽守、官軍兵士の多数逃亡を報告。救援軍を派遣。
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

官軍が最も多く結集したのは箱館総攻撃に際してであったが、『津軽承昭公伝』では明治二年四月時点で各地に展開
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

………………………… 日本三代実録 78 ●元慶二年(八七八)六月十六日、出羽守、官軍兵士の多数逃亡を
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