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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編2(近世編1) (一 宝暦改革の実施)

一 宝暦改革の実施 (一)改革の開始と諸政策 (二)改革の変容と「標符」の発行 (三)改革の終焉 / 一 宝暦改革の実施
通史編2(近世1) (宝暦改革と蔵米)

宝暦改革と蔵米 乳井貢が主導した宝暦改革では蔵米制が採用され、後年の恒常的な蔵米化の先駆けとなった。,標符制度は宝暦改革の特徴的政策の一つであったが、経済の混乱を招き、翌宝暦七年(一七五七)七月に廃止された / 宝暦改革と蔵米
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

宝暦改革の課題 十七世紀の前半から後半にかけて、新田高は飛躍的に増大するが、十七世紀の末にはほぼ限界,宝暦三年から始まる藩の宝暦改革では、この借財を整理し、上方市場に依存する体制を脱却して、財政の立て直しを / 宝暦改革の課題
資料編2(近世編1) (『志学幼弁』十巻)

一貫した姿勢をもって宝暦改革を推進していった乳井の思想的精神的基盤がよく窺える作品である。,と同時に、宝暦改革を頓挫せしめられた無念さが、行間のここかしこから伝わってくる。
通史編2(近世1) (二〇 安永律(あんえいりつ))

その背景には宝暦改革における法の整備があり、藩体制の弛緩や動揺を防ごうとする諸政策の一環と位置づけられる
通史編2(近世1) (二六 高岡霊験記(たかおかれいげんき))

二六 高岡霊験記(たかおかれいげんき) 高照(たかてる)神社祭司の後藤兵司が、宝暦改革の顛末(てんまつ
通史編2(近世1) (寺社政策)

寺社政策 宝暦改革は寺社をもその対象とした。,「高岡霊験記(たかおかれいげんき)」は高照(たかてる)神社の祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)が、宝暦改革,神田は悪田に取り替えられ、諸経費は削減された(資料近世1No.九六三)(以下、主に長谷川成一「津軽藩宝暦改革,の一断面―寺社政策を中心に―」『転換期北奥藩の政治と思想―津軽藩宝暦改革の研究―』平成三年度科学研究費補助金研究成果報告書
資料編2(近世編1) (はじめに)

藩政編に多くを学びつつ、『新編弘前市史』資料編1に続き、天正十七年(一五八九)からおおむね十八世紀後半、宝暦改革期,初期藩体制の成立、四代藩主津軽信政の寛文(かんぶん)・貞享(じょうきょう)から元禄期に至る政治の展開、宝暦改革,では、京都府陽明(ようめい)文庫で採訪した、津軽家と近衛家との関係を伺う上で貴重な文書史料を、ついで宝暦改革
資料編2(近世編1) (【解説】)

しかしながら、紙幅の制約上、資料編3に盛り込むことができなかったため、宝暦改革の政策的展開と改革推進者,宝暦三年から始まるいわゆる宝暦改革は、この財政立て直しが第一の課題であった。  ,第一節第一項は、この宝暦改革について、年代を追って、政策の展開を中心に構成したものである。,これまであまり触れられてこなかった部分であり、宝暦改革研究に厚みが出てくるものと思われる。,さて、宝暦改革は、乳井貢を中心として実施されたわけであるが、乳井は当時の思想界のなかでも独特の思想内容
通史編2(近世1) (宝暦五年の米切手と標符(通帳))

の発行であったこと(ただし標符の発行は宝暦六年からであり時期的にも一致しない)、調方や運送役といった宝暦改革,以上の特徴を、これまで述べてきた宝暦改革の流れの中に組み込むと、米切手と標符の関係は、次のようにとらえられる,(詳しくは、瀧本壽史「弘前藩宝暦改革における『標符(通帳)』の形態について」『弘前大学国史研究』一一一
通史編3(近世2) (藩政後期)

藩政後期 藩政後期の宝暦改革は、元司職の乳井貢が藩財政の再建を強力に推し進めたものであった。,社家頭は宝暦改革の方針と進展をみながら、神職本来の役務を取り戻すために綱紀粛正に乗り出した。,耕春院(現宗徳寺)覚源は幕府老中へ乳井の非道を訴えている(長谷川成一「転換期北奥藩の政治と思想 津軽藩宝暦改革
通史編2(近世1) (近世中期の三人の藩主)

信著の跡を継いで藩主となった信寧(のぶやす)(一七三九~一七八四)の代の初頭、いわゆる「宝暦改革」が始
通史編2(近世1) (恒常化する知行借り上げ)

藩の俸禄制度は知行制と蔵米制を繰り返していたが、宝暦改革期の一時的な蔵米制導入を経て、安永三年(一七七四
通史編2(近世1) (安永期の蔵米化)

安永期の蔵米化 宝暦八年(一七五八)に、乳井貢は失脚し、宝暦改革も頓挫するが、藩の財政はその後も度重,その一方で、宝暦改革でとられた在方の再掌握策は継続され、地方知行制においても一定の再編成がみられる。
通史編2(近世1) (二 寛政改革の実施)

なお、本章第一節三では宝暦改革を扱った。
通史編3(近世2) (婚礼・仏事の接待)

年代的にみてくると、婚礼・仏事に際しては、藩政中期までは二汁五菜~二汁三菜であったが、藩政後期以降は、宝暦改革
通史編2(近世1) (乏しい国産品)

それでも当藩の場合、上方(かみがた)市場からの自立を目指した宝暦改革の失敗後、郡奉行樋口弥三郎の主導により
通史編3(近世2) (弘前八幡宮小野家)

宝暦改革や幕末の稽古試しの際、綱紀粛正を進める中で自らの権力強化を企てるが、最勝院の支配下にあって徹底
資料編2(近世編1) (【解説】)

藩政確立期として第四代藩主津軽信政の藩主就任の明暦二年から、おおむね第七代藩主津軽信寧(のぶやす)代の宝暦改革,このような歴史的状況が、次章で取り上げる宝暦改革の前提となってくるのである。
通史編2(近世1) (領内アイヌ支配の変化)

宝暦六年(一七五六)、折から外浜を巡視していた、「宝暦改革」の立役者乳井貢(にゅういみつぎ)によって、,先の宝暦改革時の「犾」政治支配廃止後も民族文化を保っていた人々に対して、折からの対露緊張下において蝦夷地
通史編2(近世1) (改革推進体制の構築)

家老津軽主水、用人毛内有右衛門、勘定奉行乳井市郎左衛門(後に貢)、目付兼平理左衛門らを人的支柱とした津軽弘前藩宝暦改革,御調方役所の設置による行政組織の再編成と、元司職乳井貢への権限集中による強力な政策推進体制の構築によって、宝暦改革
通史編2(近世1) (朱子学批判)

この意味で乳井が宝暦改革に臨んだ姿は、まさしく彼の学問的思想的立場からの必然的帰結であり、また逆にそういった
通史編3(近世2) (学風の変化)

宝暦改革の折の乳井貢の思想的背景には徂徠の思想が控えていたし、寛政期に実施された武士の農村土着を献策した
通史編2(近世1) (宝暦―天明期の借財)

宝暦改革に伴って領内外からの借財高の調査をした「宝暦四年甲戌御改革帳之写」という文書がある(弘図岩)。
通史編2(近世1) (経済政策の前提)

知行の蔵入りは、知行の借り上げの延長線上にとらえられるのであるが、このときの蔵入りと借金の帳消しは、宝暦改革
通史編2(近世1) (綱紀粛正・倹約奨励)

宝暦改革におけるこれらの措置は、次に述べる経済政策・農村政策の実施に当たって、特に引き締めておかねばならない
通史編2(近世1) (大庄屋制の成立)

いわゆる「郷士(ごうし)」身分の設定であり、宝暦改革においては、大庄屋制(おおじょうやせい)として展開
通史編2(近世1) (意見書提出の奨励)

に及ぶ信寧の治世は、洪水や地震、さらには飢饉といった天変地異に悩まされ続けた時代であったが、先述した宝暦改革
通史編3(近世2) (信政の教養)

儒学の側面は空理空論を廃して、日用の実践を重視する学風で、宝暦改革の中心人物乳井貢の思想にもその影響が
通史編2(近世1) (騒動の背景)

騒動の背景 藩財政の自立を目指す宝暦改革が失敗したあと、藩は再び家老森岡主膳、側用人大谷津七郎・山口彦兵衛
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

足羽はのち寛保二年(一七四二)から再びこの山を請け負うが、宝暦改革の失敗で足羽が失脚し、尾太鉱山も彼の
通史編2(近世1) (飢饉への対策)

宝暦改革に辣腕(らつわん)を振るった乳井の指導力が飢饉でも発揮された形だが、一方でこれらの対策を支えていた
通史編3(近世2) (神道)

ちょうど宝暦改革の中で社家頭が綱紀粛正を打ち出し、自らの権力の強化を図っている時だけに、神職を離脱しようとする
通史編3(近世2) (信寿・信著・信寧時代)

乳井は勘定奉行、御元司として宝暦改革を推し進めた中心人物である。
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

改革の終焉と成果 乳井貢を中心とする宝暦改革は、これまでみてきたように、藩財政の再建を第一の目的として
通史編2(近世1) (茨木屋の苦悩)

宝暦改革では上方市場からの自立を目指していたが、実際には困難であった。
通史編3(近世2) (毛内宜応)

父茂巧は創設された御調方(おしらべかた)役所の惣司として、勘定奉行の乳井とともに宝暦改革を担っていったが
通史編2(近世1) (乳井の思想―「天職」―)

『志学幼弁』は宝暦改革挫折後の謹慎処分中に著されたものではあるが、改革に臨んだ乳井の胸中を推し量ることができる
通史編2(近世1) (毛内宜応の「秘書 全」)

毛内宜応茂粛(もうないぎおうしげとし)は、宝暦三年(一七五三)からのいわゆる「宝暦改革」において、乳井貢,関連性を認めることはできないが、寛政改革の中心政策である「藩士土着政策」が復古的側面を持つことから、宝暦改革
資料編3(近世編2) (【解説】)

当藩の藩政改革ではすでに『資料編2(近世編1)』において乳井貢による宝暦改革をとりあげている。,宝暦改革が体制維持の復古的改革という性格が強いのに対し、寛政改革は財政再建と対外危機を支配体制の再編によって,『近世編1』の最後を宝暦改革とし、『近世編2』の最初を宝暦・天明期の社会状況として設定した理由でもある
通史編3(近世2) (居開帳)

宝永四年(一七〇七)創建の稲荷宮の別当であった白狐寺は、供米九石で経済的基盤が弱く、宝暦改革で寺社の修復
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

396   二 商品経済の展開と藩財政の窮乏 ……………………………  427   三 乳井貢の登用と宝暦改革
資料編2(近世編1) (新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)

 第一節 改革の展開  …………………………………………………………………………  六二六   一 宝暦改革
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