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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
諸
家
業
と職人 弘前城下における町人の
家
業
についてわかる最も古い史料は、先に引用した元禄年間(一六八八,図1.さまざまな
家
業
表1.弘前町中の諸職・
家
業
軒数調べ 種別 職 種 軒数 備 考 御 役,
業
145種 4009 隠 職 工 ・ 諸
家
業
御役職工 73 御役
家
業
10,無役
家
業
10 注) 「弘前町中人別戸数諸工諸
家
業
総括牒」(資料近世2No.196)より作成。 ,ここで注目したいのは、「外(ほか)に隠(かくし)諸工・諸
家
業
之部」に御役諸工が七三、御役
家
業
が一〇、無役
家
業
/ 諸
家
業
と職人
通史編2(近世1)
(領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制)
領内戸数・人数・諸
家
業
調べおよび諸
家
業
・諸職の統制 さて、人返し令において、農村人口を増加させるための,一助として行われた「潰
家
業
」は、言い換えれば「
家
業
改(かぎょうあらため)」であり、認められた
家
業
については,また、無断での
家
業
替えはもちろん、新規の
家
業
・借
家
なども一切差し止めとする。というものであった。,調査に当たっての指示事項は多岐に及ぶが、多くは諸
家
業
・諸職・諸工・借
家
の統制に関するものであり、
家
業
札,なお、これらの措置を徹底するため、
家
業
札の掲示を命じるとともに、隠
家
業
・隠職・隠仲買、さらには隠田畑・ / 領内戸数・人数・諸
家
業
調べおよび諸
家
業
・諸職の統制
通史編5(近・現代2)
(国家総動員体制下の商工業)
国
家
総動員体制下の商工
業
日中戦争の開始後、経済は戦時色が強まり、昭和十三年(一九三八)には国
家
総動員法,昭和十四年(一九三九)には、国
家
総動員法第四条の規定に沿った国民徴用令が制定され、国民が軍需産
業
に徴用,ノ製作用糸等) (二)調査
業
種ハ左記ニ依り分類ノコト (1)畳表製造
業
(2)製縫
業
,(3)紐製造
業
(4)天幕製造
業
(5)布帛製造
業
(6)茣蓙、花筵製造
業
(7)セメント,袋製造
業
(8)皮革製品製造
業
(9)洋服製作
業
(10)授産場 其ノ他必要製造
業
種別 / 国
家
総動員体制下の商工
業
通史編4(近・現代1)
(授業料)
授
業
料 白銀・和徳・亀甲小学とも明治七年の開校当初は授
業
料六銭六厘(当時、米一升は五銭)であったが、,極貧ノ者ハ戸長ヨリ見聞ノ実証ヲ以テ不納ヲ許スモノトス、一
家
ニ二人ノ子弟ヲ学校ニ入ルルハ一人半分、三人以上,当時の就学の不振と学校への不満は、授
業
料の徴収が原因であった。,文部省、地方官による厳しい就学督促や学事督促も学校への不平不満をかき立てたが、授
業
料は直接
家
計に響くだけに,その上子弟を入学させることによって、これまで
家
庭にあって父兄を助けていた子弟の労働力が減じるので、それが / 授
業
料
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の振興)
個々の農
家
で副
業
的養蚕が奨励される一方、本格的な製糸
業
を目指す動きも出ており、大正八年(一九一九)、陸奥製糸株式会社,
業
務は生糸と蚕種の製造販売、桑苗の製造販売、蚕糸
業
にかかわる付帯
業
務など、広範囲の事
業
を行った。,福島は、大正十一年(一九二二)に福島醸造株式会社を創設した弘前の実
業
家
で、醸造のほかにも多数の異
業
種を,同会社には、弘前市のみならず、中・南津軽郡の投資
家
・農
家
を中心に県内の実
業
家
、有力者が投資しており、他,一九二〇)の養蚕戸数は、青森県全体で四七二五戸、うち弘前市一一七戸、中津軽郡一八五戸で、これは県内全農
家
数 / 養蚕
業
の振興
通史編5(近・現代2)
(卸売・小売業、飲食店の事業所)
卸売・小売
業
、飲食店の事
業
所 卸売・小売
業
、飲食店の事
業
所数は、昭和五十六年まで増加し、以後、平成期,273 276 271 4.9 5.1 5.3 1.1 △1.8 51 衣服・食料・
家
具等卸売
業
432,57
家
具・建具・じゅう器小売
業
332 268 254 6.0 4.9 5.0 △19.3 △5.2,2,290 2,138 2,757 8.8 8.9 10.6 △6.6 29.0 51 衣服・食料・
家
具等卸売
業
,4.1 4.4 3.9 △1.3 △5.0 57
家
具・建具・じゅう器小売
業
1,421 932 1,098 / 卸売・小売
業
、飲食店の事
業
所
通史編4(近・現代1)
(養蚕業の奨励)
養蚕
業
の奨励 明治期、全国的に養蚕
業
が奨励された。,このような中で、県は養蚕
業
の導入、発展に熱心であった。,たけだじんざえもん)が弘前及び周辺で野桑が繁殖していることに着目し、養蚕・製糸・製綿・機(はた)織りを勧め、武田
家
では,写真98 製糸工場内風景 また、養蚕
業
は、明治初期から藩士の授産事
業
として奨励され、同七年(一八七四,その理由の第一は、養蚕
業
は大規模、投機的なイメージが強く、一般農
家
での副
業
的養蚕や簡易な自
家
製糸は普及 / 養蚕
業
の奨励
通史編5(近・現代2)
(製造業の動向)
製造
業
の事
業
所構成では、食料品・たばこ製造
業
の比率が昭和五十年代において最も高く、
家
具・装備品製造
業
がこれに,
家
具・装備品製造
業
も漸減している。,これに対して増加傾向にある製造
業
種は、衣服・その他の繊維製品製造
業
、窯
業
・土石製品製造
業
、電気・機械器具製造
業
,34.4 17
家
具・装備品製造
業
73 71 65 11.7 11.6 10.6 △2.7 △8.5,30.4 17
家
具・装備品製造
業
277 208 202 3.5 2.4 1.9 △24.9 △2.9 / 製造
業
の動向
通史編5(近・現代2)
(木村産業研究所)
木村産
業
研究所 日本の近代建築史において、最も重要な一人に数えられる建築
家
に前川國男(まえかわくにお,主として大阪方面で活動した実
業
家
。,ドイツ人建築
家
であり、桂離宮などの日本の美を世界に紹介したブルーノ・タウト(一八八〇-一九三八)は、この,後年、屋根がかけられたり、一部の外観に改造の跡が見られたりするものの、スチールサッシュや床タイル、
家
具,写真300 (財)木村産
業
研究所旧状(昭和16年) / 木村産
業
研究所
通史編4(近・現代1)
(出家と禅画)
出
家
と禅画 佐藤禅忠は、明治十六年(一八八三)一月二十九日弘前市和徳町に生まれた。,このとき忠三は姉の菩提を弔うために出
家
することを決意した。,この後、県立弘前中学校に入学して三十六年に卒
業
したが、この間、禅僧千崎如幻の仏苗学園でも学んだ。,次兄正雄が陸軍将校という
家
庭環境で、忠三も中学卒
業
後、進学のため上京した。,そして八月、弘前の長勝寺に来て忠三の出
家
に反対する父忠正を説得、忠正も承諾するに至った。 / 出
家
と禅画
通史編4(近・現代1)
(実業補習学校)
は飛躍的に発展し、こうした社会情勢に対応するため、大正九年、実
業
学校令及び実
業
補習学校規程が改正され、,大正七年八月、男子に先駆けて女子の実
業
補習学校が誕生したが、弘前女子実
業
補習学校がそれである。,高等科(女子のみ収容)に併設されていた補習科が母胎となったもので、本科二年、研究科二年、普通科目のほか、
家
事,や裁縫などの
家
庭婦人として必要なことを教えた。 ,しかし先生方は「本校はその設立の目的からいって、実際に役に立つ
家
庭婦人の養成のための特殊教育の課程であるから / 実
業
補習学校
通史編5(近・現代2)
(産業組合拡充運動)
その内容は、産
業
組合未設置農村の解消、区域内農
家
の全戸加入、信用・販売・購買・利用の四種兼営、組合統制力,わが国の産
業
組合は、信用事
業
を中心にスタートしたが、農
業
と農民組織の発展の中で産
業
組合の取り扱う事
業
の,拡大が課題となり、この運動を通して事
業
の総合化、全農
家
加入というわが国独特の系統農協組織の基礎が作られることになった,事
業
は、資金の貸付けと貯金、生産物の販売と加工、産
業
経済上必要な物資の提供などが主たるものである。,事
業
内容も初期の信用事
業
中心であったものから「信用購買販売」を扱うようになっており、その特徴は総合的事
業
/ 産
業
組合拡充運動
通史編5(近・現代2)
(弘前市の合併と農業)
弘前市の合併と農
業
昭和二十六年度(一九五一)の「弘前市農
業
要覧」から農地改革直後、および昭和三十年,総人口に占める農
家
人口の割合は七%、総世帯に占める農
家
世帯は五%であり、弘前市の旧市地域だけを見ると農
業
,同三十一年九月、中津軽郡岩木村駒越の一部編入、同三十二年九月、南津軽郡石川町の合併により、新弘前市の農
家
戸数,、農
家
人口、経営耕地面積は、六〇四戸(昭和二十九年八月一日)から九二〇九戸(昭和三十一年二月一日)、三九六三人,造成地には、二集団の新規入植のほかに既入植者の増反、その他農
家
の増反地として活用し、酪農、畜産の振興を / 弘前市の合併と農
業
通史編5(近・現代2)
(職業は寺山修司)
職
業
は寺山修司 寺山修司は昭和十年(一九三五)十二月十日に弘前市紺屋町に生まれたが、父・八郎が警察官,寺山修司は太宰治と並んで、多くのファンをもつ作
家
である。,作
家
というよりは、俳句(資料近・現代2No.六五一)、短歌、詩(同前No.六五〇)、映画、演劇、小説、,評論、作詞、写真など、あらゆるジャンルを駆け抜け、「職
業
は寺山修司」と自ら宣言した多彩きわまりない芸術
家
,芸術
家
と故郷という主題は、芸術
家
と母という主題と同じほどに深い。 / 職
業
は寺山修司
通史編5(近・現代2)
(「建築家」の誕生)
「建築
家
」の誕生 わが国に初めて正統の様式建築の設計技術を伝えたのがジョサイア・コンドルであることは,こうして誕生したわが国の建築
家
が実務で活動するのは明治二十年(一八八七)以降のこととなる。,明治四十三年(一九一〇)、弘前に県立工
業
学校が設立され、建築科を置いた。,やがて大正時代に入ると工
業
学校の教師が設計活動を実践するようになる。,ここにきて、ようやく建築の設計だけを仕事とする「建築
家
」の誕生をみ、建築の近代化が遂げられることになるのである / 「建築
家
」の誕生
通史編3(近世2)
(農家の遺構)
農
家
の遺構 一般農民の
家
屋は、狭い建坪に田の字型の間取りに土間(どま)と馬屋がついているのが基本型である,これに対し、萢中(やちなか)村(現市内萢中・浜ノ町東)にある石戸谷
家
は名主(なぬし)(庄屋)を務めたこともある,間口一六間(約三二メートル)、奥口(梁行)六間(約一二メートル)に、縁・玄関などの下
家
(げや)(母屋(,図をみると、向かって右端から六間余(約一二メートル)は「うまや」と「いなべや」と称する作
業
場などで占める,図119.石戸谷
家
平面図 / 農
家
の遺構
通史編5(近・現代2)
(工業都市弘前)
工
業
都市弘前 昭和になり、我が国の経済不況が深刻化してくると産
業
の不振を打開するため、県を挙げての産
業
振興,昭和六年七月一日、弘前市役所において総会が開かれ、商
業
、工
業
、農
業
の各部門における理事や委員が選定されるとともに,そして、(一)酒造
業
、(二)織物
業
、(三)漆器
業
、(四)木通蔓細工工
業
、(五)銅・鉄工
業
、(六)
家
具指物
業
,、(七)菓子製造
業
、(八)醤油・味噌醸造
業
の八
業
種の組合や研究会から提出された調査事項にもとづき、市を,昭和六年度における弘前市の産
業
を生産額でみると、農
業
が四万七一九一円、畜産
業
が四万三六九円、工
業
が四七二万三四一九円 / 工
業
都市弘前
通史編4(近・現代1)
(凶作と副業の奨励)
凶作と副
業
の奨励 明治後期、三十五年(一九〇二)、三十八年、三十九年と大きな凶作が続いた。,750 813 齋藤芳風編『青森県凶作惨状』、明治36年より作成 この時期の連続凶作により、周辺農
家
の,顧客で成り立っている弘前市内の商店街は、当然にも、農
家
の困窮により大きな打撃を受けた。 ,年間労力の均衡化を計るために、副
業
として藁細工、蔓細工、柳細工、藺筵、竹細工、木綿機
業
、木炭製造、寒天,氷豆腐製造、草履表製造、湯葉製造が冬季間の仕事に最適であると推奨した(青森県農会『青森県冬季間ニ於ケル農
家
副
業
調査 / 凶作と副
業
の奨励
通史編5(近・現代2)
(飲食業のあり方)
この経過について、昭和五十五年度の弘前市商
業
近代化に関する弘前商工会議所の報告は、飲食サービス
業
については,(1)弘前市の飲食サービス
業
は個人企
業
が大半で、九五%を占め、法人組織は僅かに五%に過ぎない。,(4)従
業
員は
家
族従
業
員を含め、男女ともに一人雇傭が殆どで、企
業
の零細性を浮き彫りにしている。,店舗の所有関係は、自己所有が僅か五・七%で、借
家
が四八・七%、その他五〇・六%となっていて、企
業
基盤の,鍛冶町も同様四八・九%が借
家
となっている。 / 飲食
業
のあり方
通史編4(近・現代1)
(工業建設の意見)
工
業
建設の意見 工
業
発展のための政策提言を次に見たい。,ヲ期スルコト (ハ)出機若クハ組合ヲ以テ副
業
者ヲ誘導シ、集約的ニ企
業
セシメ、機
業
地ヲ形成セシムルコト,、無名ニシテ無限ノ宝庫ヲ探ネ、コレヲ発表シ、コレヲ広告シ、大ニ資本
家
及経営者ヲ誘致ス可シ、無限ノ宝庫トハ,与フルコト 三、資本
家
ヲ招シテ踏査ヲ請フコト 四、各郡市ニ授産場ヲ設ケ県ハ之ニ対シ相当ノ補助ヲ与フルコト,二、県下ノ有力
家
ヲ網羅シ、商工協会ヲ組織シ、自治的ニ工
業
発展策ヲ講セシメ、常ニ商工
業
ノ指導開発ニ任 / 工
業
建設の意見
通史編5(近・現代2)
(家政女学校の創設)
家
政女学校の創設 弘前和洋裁縫女学校とほぼ同じころ、私立弘前
家
政女学校が創設されている。,昭和五年には、校名を私立弘前高等
家
政女学校と改め、七年には師範科卒
業
生に対しては、無試験検定で小学校
家
事科本科正教員免許状,写真71 弘前
家
政女学校校舎(紙漉町 昭和15年以降) 終戦後の新学制が発足するとともに、
家
政女学校,創立以来約四〇〇〇人の卒
業
生を送り出し、柴田やすの「和洋」と並び称され、弘前の女子教育界に大きな足跡を,昭和三十一年三月二十日、鷹ヶ岡女子高等学校は、最後の卒
業
式の後、引き続き閉校式を挙行し、女子中等教育機関 /
家
政女学校の創設
通史編4(近・現代1)
(運送業の活躍)
運送
業
の活躍 大正期には株式会社の新設が著しく、運送
業
においても大正十年に既存の澁谷運送店を母体に丸叶弘前運輸株式会社,(取締役社長福嶋藤助、専務取締役澁谷広吉)が創
業
した。,丸ホ 關利三郎、丸通 山崎範正、丸大 小田桐政信、丸弘 竹森勇次郎」の名があり、いずれも停車場前で営
業
していた,により企画され、その後昭和初年までには大塚多三郎、花岡文次郎、田村勘徳、齋藤吉六、對馬才八の五人が営
業
し,また、乗合以外の営
業
者は一七人でその台数は二八台、自
家
用車の所有者は四人で台数は四台、貨物運搬営
業
者数 / 運送
業
の活躍
通史編4(近・現代1)
(県立工業学校)
県立工
業
学校 東奥義塾の廃校を条件に弘前に開校した県立工
業
学校は、大正九年に義塾が再興するに及んで、,このとき同窓会から落成記念にモーターサイレンが寄贈され、始
業
・終
業
の時を告げることになった。,これは『弘工六十年史』によれば、「観覧人のおもなものは各官衙長、軍人、実
業
家
、商人、各種学校生徒等にして,弁論の盛んな時世で、工
業
学校も例外ではなかった。,写真188 県立工
業
学校 / 県立工
業
学校
通史編5(近・現代2)
(軍人遺家族の援護対策)
軍人遺
家
族への授産や慰問、生活保護(生活改善)のほか、傷痍軍人への職
業
斡旋、戦死者の市葬など、総じて戦死者,市町村当局や農会、産
業
組合、漁
業
組合などの団体に授産設備を作らせ、遺
家
族に無償貸付けさせる事
業
で、仕事内容,は技術的にも簡易で応召
家
族の従
業
に適するものとされた。,具体的に奨励された仕事内容には、藁工品、炭俵、養兎、りんご袋製作など、副
業
施設による生活補助的な仕事が,召集解除や除隊となった帰郷軍人の経験を、銃後の生活に具現させるための援護指導も事
業
化された。 / 軍人遺
家
族の援護対策
通史編4(近・現代1)
(商業弘前倶楽部の活動)
商
業
弘前倶楽部の活動 弘前市における商工
業
者団体の活動は、明治十七年(一八八四)の商
業
弘前倶楽部の活動,同倶楽部は一〇七人の会員により発足し、弘前の有力財界人や政治
家
の大道寺繁禎、菊池九郎ら二一人を名誉会員,設立規則書には、早く農工商
業
の道を開き、財産を増殖して商
業
の境を広め、貨物融通の便利を進め、弘前の隆盛 / 商
業
弘前倶楽部の活動
通史編5(近・現代2)
(福祉事業の推進)
人々の好意で支えられていたように、これまで基本的には地域の人々によって保障されていた諸制度が、今度は国
家
予算,保護の無差別平等、保護の国
家
責任の明確化、最低生活の保障がそれである。,敗戦直後に治安当局が全国の特高警察に命じて民心の動向を調査させているが、その調査結果からも、多くの人々は国
家
のために,外地に夫を残し子供を抱えて引き揚げてきた女性を典型に、男性が復員しておらず女性だけで子供を養う
家
庭は、,弘前市内には柴田やすが経営する柴田職
業
指導所など、いくつかの授産場があった。 / 福祉事
業
の推進
通史編3(近世2)
(商業の農村進出)
商
業
の農村進出 農民は田畑の仕事をせずに商売や日雇銭を稼ぐことは、原則として禁止されていた。,水呑(みずのみ)百姓に対してこう呼ばれた)維持のため、農民の次、三男が分
家
することを禁止していた(「国日記,分
家
を無制限に認めると、一戸当たりの耕地面積がしだいに小さくなり、税負担に耐えがたくなるからである。,その後になると、農民の贅沢が目立ち、村内に商
家
も増え、農民の次、三男の中で商人になる者が多くなった。,村の店が増加すると農
業
の妨げになるというが、それを禁止するだけでは隠商売の者を根絶できない。 / 商
業
の農村進出
通史編5(近・現代2)
(個人作家の活躍)
個人作
家
の活躍 戦後は、前述したように多くの美術団体の活動が再び活発に行われるようになってきたが、一方,で、個人の作
家
の全国的、世界的な活躍が目立ってくる。 ,五所川原市)を父とする工藤哲巳(くどうてつみ)(昭和一〇- 一九三五- 五所川原市)は、東京美術学校卒
業
後,卒
業
後は、青を基調とした軽快な色彩の抽象画で高い評判を得、その作品は国内外の美術館の収蔵となっている。,また、出身地・生没年不明の作
家
については記載していない。) / 個人作
家
の活躍
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の商業活動)
日清戦争後の商
業
活動 日清戦争後の明治三十年(一八九七)と翌三十一年につき、商
家
の営
業
形態別戸数を見,表37 商
家
営
業
別 明治30年 明治31年 卸 売 戸 戸 東津軽郡 17 6 西津軽郡 50,減少している営
業
のうち、卸売は、明治三十年の数値が大きい。,その内訳は不明であるが、卸売商
業
が浮沈が激しいものであることがわかる。 / 日清戦争後の商
業
活動
通史編2(近世1)
(公家との関係)
公
家
との関係 従来、江戸時代における朝廷・公
家
勢力は、元和元年(一六一五)の「禁中並公
家
諸法度」で幕府,津軽
家
と公
家
との関係で想起されるのが五摂
家
の筆頭とされる近衛(このえ)
家
との関係である(津軽
家
と近衛
家
,の関係を検討した研究として、久保貴子「『基煕公記』にみえる公
家
と大名―公武関係・研究の基礎作
業
」、瀧澤武雄編,重要な事
業
であった。,寺社などの所在地である京都における連絡所、第二に、文化的伝統を持つ商
業
都市京都の生産する物品を購入し、 / 公
家
との関係
通史編5(近・現代2)
(弘前工業高校の動向)
昼食携帯困難セヌ者 無理ナルガ携帯セル者 携帯スルタメ
家
族欠食スル者 携帯不可能ナル者 携帯不可能,ナルタメ授
業
短縮希望スル者 携帯困難ナルモ授
業
短縮ヲ希望セヌ者 調査項目そのものにこの時代の事情がよく,弁当を持ってこられないので、授
業
短縮を希望する者が七四%にもなっている。,弁当を持たせるために
家
族が欠食して我慢しているのが三二%もある。,昭和二十三年四月、青森県立弘前工
業
高等学校と改称された。 / 弘前工
業
高校の動向
通史編5(近・現代2)
(音楽家たち)
音楽
家
たち 水木音彌(みずきおとや)(明治一四-昭和二九 一八八一-一九五四)は大鰐苦木生まれ。,弘前新聞』の笹森順造(ささもりじゅんぞう)の紹介文によると、弘前中学校の同窓生であり、世界的なバリトン声楽
家
であるとしている,明本京静(あけもときょうせい)(明治三八-昭和四七 一九〇五-一九七二)は黒石市出身、声楽
家
としてデビュー,、コロムビア・レコード専属の歌謡曲作曲
家
であった。,再興東奥義塾の一回生であり、法政大学英文科卒
業
後、昭和二十二年から四十四年まで弘前高校の教諭を務めた。 / 音楽
家
たち
通史編5(近・現代2)
(高度経済成長期の工業)
、変化の方向は、第一次産
業
就
業
者の減少、第二次及び第三次産
業
の就
業
者の増加であった。,事
業
所数では、食料品製造
業
、木材木製品工
業
、
家
具製造
業
、パルプ及び紙加工
業
、出版印刷
業
、窯
業
の順になっている,180 3.1 10,997 1.1 木材 56 10.0 564 9.6 105,804 10.2
家
具,これを見れば、食料、
家
具、金属、木材である。,14.3 木材 56 100.0 17 30.4 16 28.6 16 28.6 3 5.4 4 7.1
家
具 / 高度経済成長期の工
業
通史編4(近・現代1)
(電灯業の発展)
電灯
業
の発展 明治三十四年(一九〇一)に弘前電灯株式会社が設立された。,前年の三十三年に電灯営
業
願が弘前電灯株式会社の設立発起人から逓信大臣の星亨あてに出された。,営
業
願によると、弘前電灯株式会社は、清水村大字富田に発電所を設け、汽灌(かん)を動かして発電機を回転させ,表46に見るように特に一般住
家
での電灯使用の増加が著しかった。,- - - - - - 1 2 20 劇 場 1 27 945 2 6 58 2 6 66 一般住
家
/ 電灯
業
の発展
通史編5(近・現代2)
(笹森順造の偉業)
笹森順造の偉
業
弘前市の剣道の歴史に、もちろん明治維新以降の歴史であるが、この北辰堂の果たした役割は,(中略)更に著者は小野次郎右衛門忠一から津軽土佐守信寿に伝え、爾来代々津軽
家
に伝わった一刀流の正統直伝,さらに、昭和二十五年、全日本竹刀競技連盟が発足し、会長に就任するなど、政治
家
、教育者としての
業
績は言うに / 笹森順造の偉
業
通史編4(近・現代1)
(細民救済対策事業)
細民救済対策事
業
凶作は、県南のように二分作の悲惨さはないが、生活難は弘前市民の上にも現れていた。,十一月の市会では、小学校の授
業
料未納問題が取り上げられた。,時敏尋常小学校 一一五名 城西尋常小学校 二六〇名 合計 一二七五名 授
業
料,この督促は、経費、日数がかかって効果が上がらないので、市では授
業
料全廃を考慮中という答弁だった。 ,この案を説明して、電灯会社から三一万円の金が動き、市に五万円の償却金が入り、金融が緩和され、商
家
の不景気対策 / 細民救済対策事
業
通史編5(近・現代2)
(国際化・自由化と農林業振興計画)
昭和五十四年(一九七九)策定の同計画は、強まる農産物輸入の増大、兼
業
農
家
の増大、高齢化、後継者不足の中,農
家
をめぐる環境はより複雑になった。,平成に入り、市では、「一九九〇年農
業
センサス」において、農
家
戸数が前回(昭和六〇年・一九八五年)より七,それは昭和六十年代をピークとする農
業
産出額の低下に顕著に表れているように農
業
所得の減少、加えて農
家
経済,を圧迫しているのは農
業
生産だけではなく、農
家
総所得の減少である。 / 国際化・自由化と農林
業
振興計画
通史編5(近・現代2)
(市立商業高校と市立女子高校)
市立商
業
高校と市立女子高校 市立商
業
学校は、昭和二十三年の新制高校発足に伴って、弘前市立商
業
高等学校,しかし、このとき桔梗野にあった市立女子高校が蔵主町の市立商
業
校舎に移されることになり、市立商はやむなく,一方、終戦時、元寺町にあった市立高女は、戦災に遭った青森師範学校を受け入れるために山道町の旧
家
政女学校校舎,三十年の市町村合併の際に郡部から要望のあった農
業
科が加えられ、商
業
、農
業
、
家
庭の三つの課程から編成されることになった,この先見性は、後の実
業
高としてのスポーツ全盛期につながっていくのである。 / 市立商
業
高校と市立女子高校
通史編4(近・現代1)
(家禄制度改革)
旧藩士の
家
禄は、上下の格差が大きかった。,表3 明治4年青森県
家
禄総計 項目 米(石) 金(円) 旧知藩事
家
禄 19,111.00 内,表4 旧弘前県貫属士族卒
家
禄内訳
家
禄の大きさ 人数 合計(石) 米80石 11 880.00 米60,明治六年十二月に
家
禄税が設けられた。,旧弘前藩士が得た金禄公債は、第五十九国立銀行の設立資金に充てられるなど、産
業
の振興や旧弘前藩士の生活の /
家
禄制度改革
通史編5(近・現代2)
(家庭に戻る女性たち)
ところが敗戦で男性職員が復帰したため女性職員の多くは退職し
家
庭に戻ることになった。,これは国鉄の方針が極力女性職員の
家
庭復帰を督促していたからである。,「職
業
婦人」という言葉もあったが、まだ特殊な響きをもっていた。,それでも
家
庭の都合で働かざるを得ない女性は多数おり、なかには
家
庭の外で働きたいと考えていた者もいただろう,写真106
家
庭に戻る女性を報じた『東奥日報』 /
家
庭に戻る女性たち
通史編4(近・現代1)
(津軽産業会の活動)
津軽産
業
会の活動 明治期の弘前市産
業
界をリードした津軽産
業
会の成立期以来の活動について、同会の理事として,津軽産
業
会定款 第一章 目的 第一条 本会の目的は汎く農工商諸
業
の利得損失を討議し智識,しかし、日清戦後期に至り、工
業
や商
業
などの広範な産
業
振興のための部会設置に至ったのである。 ,製作せば其販路は容易するのみならず数万円にても会社之れを買占めんとのことなりし故に本会は近く中郡の各農
家
に,を誘起するの当然なるを確認せり 一、勤倹節約を励行すること 降雨の後
家
屋を繕ひ盗賊を捕へて縄を綯( / 津軽産
業
会の活動
通史編4(近・現代1)
(弘前商業会議所の活動)
弘前商
業
会議所の活動 商
業
会議所は、明治二十三年(一八九〇)制定の商
業
会議所条例に規定された団体であり,弘前市でも、明治二十七年に弘前商
業
会が総会で商
業
会議所の設立を議決しているが、実を結ばなかった。,明治三十五年(一九〇二)には商
業
会議所法が制定され、商
業
会議所の法的基礎が強化された。,同法では、商
業
会議所の事務権限が、商工
業
の発達を図るに必要なる方策を調査することなどとされ、また、鉱
業
権者,獣肉取引では一斤=一〇〇匁となっているのは顧客との取引慣行であり、国
家
権力によらなければ変更は困難であること / 弘前商
業
会議所の活動
通史編5(近・現代2)
(景気回復後の弘前市の商業)
また、専門店小売
業
が全体の商店の中で多数を占めており、次に飲食店と製造小売
業
が多い。,表20 弘前市の商店数(昭和27年)
業
態 個人商店 法人商店 合計 卸売
業
142 88 230 各種商店小売
業
,多額なのは一般卸売
業
で、二六三八万円余であり、石油小売
業
が九九五万円余でこれに次いでいる。,ただし、卸売
業
や小売
業
の分類については、兼
業
している事例もあり、引用した弘前市の統計では、それらについては,五所川原,陣場,鷹巣,大館 理髪美容具品 A 他県には殆どでない,県内では青森,金木,深浦,八戸
家
具類 / 景気回復後の弘前市の商
業
通史編4(近・現代1)
(第五十九銀行の営業状況)
第五十九銀行の営
業
状況 普通銀行転換前後における第五十九銀行の営
業
状況も、『当銀行誌材料書類』に記録,されている「営
業
上失敗の事」と「営
業
の難易及盛衰の事 第二」の史料からうかがうことができる。,その史料から(一)営
業
上の失敗、(二)支店出張所の設置、(三)日露戦争後の景況、(四)本店の新築、の営
業
状況,また、政府が郵便為替貯金などの制度を設けて銀行
業
を始めたことで営
業
が圧迫された。,建築にあたったのは県下における著名な建築
家
である堀江佐吉であった。 / 第五十九銀行の営
業
状況
通史編5(近・現代2)
(弘前市の商工業行政の方向)
弘前市の商工
業
行政の方向 昭和四十三年(一九六八)五月八日に、弘前市政に中小企
業
対策を要望する協議会,②本市の中小企
業
対策の主力は、金融および信用補完、企
業
・
業
界診断である。,只、求人については
家
内工
業
的考えを改め、付加価値の向上に努め、適正な給与を支払うよう要望する。,⑨技能指導員の各企
業
への派遣はかなり困難だ。,(同前) 弘前市の産
業
がりんごや米の農
業
に依存する側面が強いこと、また観光が重要な産
業
であること、 / 弘前市の商工
業
行政の方向
通史編3(近世2)
(稽古館の文化事業)
稽古館の文化事
業
稽古館は文化活動として稽古館蔵版の奥付を有する書物を翻刻出版している。,また教科書以外の稽古館本として、津軽
家
と深くかかわりのある山鹿素行の「中朝事実」(文政元年六月)、「聖教要録 / 稽古館の文化事
業
通史編5(近・現代2)
(新進気鋭の評論家)
新進気鋭の評論
家
三浦雅士は昭和二十一年(一九四六)に弘前市に生まれた。,四十年、弘前高等学校を卒
業
。,五十七年に退社、以後は新進気鋭の評論
家
として活躍。 / 新進気鋭の評論
家
通史編5(近・現代2)
(鉄道営業の整備)
鉄道営
業
の整備 昭和二年(一九二七)七月には、弘前市会において五能線の列車を弘前駅に直通させ、その発着点,これは弘前まで来るのに川部駅で乗り換えなくてはならない煩雑さを解消するためと、同年九月開
業
予定の弘南鉄道,一、弘前ハ五能線関係ノ津軽平原ニ於ケル各町村ノ住民ト物資トニ対シテ密接ナル関係ヲ有スルト共ニ其産
業
並,▽弘高一三▽弘中一九一▽弘工八三▽義塾一二四▽高女一一五▽弘女四五▽和洋二五三▽
家
政四六▽女子実
業
二▽ / 鉄道営
業
の整備
通史編4(近・現代1)
(りんご生産の展開と農業振興)
)の松方財政は、農村恐慌を引き起こし、特に青森県の場合は同十六年の不作、同十七年の凶作も重なって、農
家
の,けいぎょうしゃ)(現藤崎町、明治十八年開
業
)や興農社(こうのうしゃ)(後に興農会社に改称、現黒石市、明治二十年開
業
,写真96 旧清水村樹木にあった清水林檎生産購買販売組合 なお、明治期の主な移出
業
者(屋号、営
業
場所,樹幹洗浄は、一部精農
家
の園地ではサルスベリの木のように光沢を放ったと言われるほど熱心に行われた。,.四一八)や東京在住の資本
家
による株式会社経営などの参入も企画された(「津軽林檎栽培株式会社の発起趣意書 / りんご生産の展開と農
業
振興
通史編4(近・現代1)
(士族授産事業としての銀行設立の奨励)
士族授産事
業
としての銀行設立の奨励 明治新政府による旧体制改革である廃藩置県と、それに続く秩禄処分によって,
家
禄を失った士族は、その多くがわずかばかりの金禄公債を生活の糧とするしかなく、失
業
状態に置かれ、深刻な,つまり、華士族が銀行事
業
への投資により、公債の利子金とともに銀行事
業
利益の配当金を得ることで、生活の安定 / 士族授産事
業
としての銀行設立の奨励
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