• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 483件
辞書ファセット
/ 10ページ
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

諸家業と職人 弘前城下における町人の家業についてわかる最も古い史料は、先に引用した元禄年間(一六八八,図1.さまざまな家業 表1.弘前町中の諸職・家業軒数調べ 種別 職 種 軒数 備 考 御 役,業 145種 4009 隠 職 工 ・ 諸 家 業 御役職工 73 御役家業 10,無役家業 10 注) 「弘前町中人別戸数諸工諸家業総括牒」(資料近世2No.196)より作成。  ,ここで注目したいのは、「外(ほか)に隠(かくし)諸工・諸家業之部」に御役諸工が七三、御役家業が一〇、無役家業 / 諸家業と職人
通史編2(近世1) (領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制)

領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制 さて、人返し令において、農村人口を増加させるための,一助として行われた「潰家業」は、言い換えれば「家業改(かぎょうあらため)」であり、認められた家業については,また、無断での家業替えはもちろん、新規の家業・借家なども一切差し止めとする。というものであった。,調査に当たっての指示事項は多岐に及ぶが、多くは諸家業・諸職・諸工・借家の統制に関するものであり、家業札,なお、これらの措置を徹底するため、家業札の掲示を命じるとともに、隠家業・隠職・隠仲買、さらには隠田畑・ / 領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制
通史編5(近・現代2) (国家総動員体制下の商工業)

国家総動員体制下の商工業 日中戦争の開始後、経済は戦時色が強まり、昭和十三年(一九三八)には国家総動員法,昭和十四年(一九三九)には、国家総動員法第四条の規定に沿った国民徴用令が制定され、国民が軍需産業に徴用,ノ製作用糸等)  (二)調査業種ハ左記ニ依り分類ノコト    (1)畳表製造業  (2)製縫業  ,(3)紐製造業  (4)天幕製造業    (5)布帛製造業  (6)茣蓙、花筵製造業  (7)セメント,袋製造業    (8)皮革製品製造業  (9)洋服製作業  (10)授産場   其ノ他必要製造業種別 / 国家総動員体制下の商工業
通史編4(近・現代1) (授業料)

授業料 白銀・和徳・亀甲小学とも明治七年の開校当初は授業料六銭六厘(当時、米一升は五銭)であったが、,極貧ノ者ハ戸長ヨリ見聞ノ実証ヲ以テ不納ヲ許スモノトス、一家ニ二人ノ子弟ヲ学校ニ入ルルハ一人半分、三人以上,当時の就学の不振と学校への不満は、授業料の徴収が原因であった。,文部省、地方官による厳しい就学督促や学事督促も学校への不平不満をかき立てたが、授業料は直接家計に響くだけに,その上子弟を入学させることによって、これまで家庭にあって父兄を助けていた子弟の労働力が減じるので、それが / 授業料
通史編4(近・現代1) (養蚕業の振興)

個々の農家で副業的養蚕が奨励される一方、本格的な製糸業を目指す動きも出ており、大正八年(一九一九)、陸奥製糸株式会社,業務は生糸と蚕種の製造販売、桑苗の製造販売、蚕糸業にかかわる付帯業務など、広範囲の事業を行った。,福島は、大正十一年(一九二二)に福島醸造株式会社を創設した弘前の実業家で、醸造のほかにも多数の異業種を,同会社には、弘前市のみならず、中・南津軽郡の投資家・農家を中心に県内の実業家、有力者が投資しており、他,一九二〇)の養蚕戸数は、青森県全体で四七二五戸、うち弘前市一一七戸、中津軽郡一八五戸で、これは県内全農家数 / 養蚕業の振興
通史編5(近・現代2) (卸売・小売業、飲食店の事業所)

卸売・小売業、飲食店の事業所 卸売・小売業、飲食店の事業所数は、昭和五十六年まで増加し、以後、平成期,273 276 271 4.9 5.1 5.3 1.1 △1.8 51 衣服・食料・家具等卸売業 432,57 家具・建具・じゅう器小売業 332 268 254 6.0 4.9 5.0 △19.3 △5.2,2,290 2,138 2,757 8.8 8.9 10.6 △6.6 29.0 51 衣服・食料・家具等卸売業,4.1 4.4 3.9 △1.3 △5.0 57 家具・建具・じゅう器小売業 1,421 932 1,098 / 卸売・小売業、飲食店の事業所
通史編4(近・現代1) (養蚕業の奨励)

養蚕業の奨励 明治期、全国的に養蚕業が奨励された。,このような中で、県は養蚕業の導入、発展に熱心であった。,たけだじんざえもん)が弘前及び周辺で野桑が繁殖していることに着目し、養蚕・製糸・製綿・機(はた)織りを勧め、武田家では,写真98 製糸工場内風景  また、養蚕業は、明治初期から藩士の授産事業として奨励され、同七年(一八七四,その理由の第一は、養蚕業は大規模、投機的なイメージが強く、一般農家での副業的養蚕や簡易な自家製糸は普及 / 養蚕業の奨励
通史編5(近・現代2) (製造業の動向)

製造業の事業所構成では、食料品・たばこ製造業の比率が昭和五十年代において最も高く、家具・装備品製造業がこれに,家具・装備品製造業も漸減している。,これに対して増加傾向にある製造業種は、衣服・その他の繊維製品製造業、窯業・土石製品製造業、電気・機械器具製造業,34.4 17 家具・装備品製造業 73 71 65 11.7 11.6 10.6 △2.7 △8.5,30.4 17 家具・装備品製造業 277 208 202 3.5 2.4 1.9 △24.9 △2.9 / 製造業の動向
通史編4(近・現代1) (出家と禅画)

出家と禅画 佐藤禅忠は、明治十六年(一八八三)一月二十九日弘前市和徳町に生まれた。,このとき忠三は姉の菩提を弔うために出家することを決意した。,この後、県立弘前中学校に入学して三十六年に卒業したが、この間、禅僧千崎如幻の仏苗学園でも学んだ。,次兄正雄が陸軍将校という家庭環境で、忠三も中学卒業後、進学のため上京した。,そして八月、弘前の長勝寺に来て忠三の出家に反対する父忠正を説得、忠正も承諾するに至った。   / 出家と禅画
通史編5(近・現代2) (木村産業研究所)

木村産業研究所 日本の近代建築史において、最も重要な一人に数えられる建築家に前川國男(まえかわくにお,主として大阪方面で活動した実業家。,ドイツ人建築家であり、桂離宮などの日本の美を世界に紹介したブルーノ・タウト(一八八〇-一九三八)は、この,後年、屋根がかけられたり、一部の外観に改造の跡が見られたりするものの、スチールサッシュや床タイル、家具,写真300 (財)木村産業研究所旧状(昭和16年) / 木村産業研究所
通史編4(近・現代1) (実業補習学校)

は飛躍的に発展し、こうした社会情勢に対応するため、大正九年、実業学校令及び実業補習学校規程が改正され、,大正七年八月、男子に先駆けて女子の実業補習学校が誕生したが、弘前女子実業補習学校がそれである。,高等科(女子のみ収容)に併設されていた補習科が母胎となったもので、本科二年、研究科二年、普通科目のほか、家事,や裁縫などの家庭婦人として必要なことを教えた。  ,しかし先生方は「本校はその設立の目的からいって、実際に役に立つ家庭婦人の養成のための特殊教育の課程であるから / 実業補習学校
通史編5(近・現代2) (産業組合拡充運動)

その内容は、産業組合未設置農村の解消、区域内農家の全戸加入、信用・販売・購買・利用の四種兼営、組合統制力,わが国の産業組合は、信用事業を中心にスタートしたが、農業と農民組織の発展の中で産業組合の取り扱う事業の,拡大が課題となり、この運動を通して事業の総合化、全農家加入というわが国独特の系統農協組織の基礎が作られることになった,事業は、資金の貸付けと貯金、生産物の販売と加工、産業経済上必要な物資の提供などが主たるものである。,事業内容も初期の信用事業中心であったものから「信用購買販売」を扱うようになっており、その特徴は総合的事業 / 産業組合拡充運動
通史編5(近・現代2) (弘前市の合併と農業)

弘前市の合併と農業 昭和二十六年度(一九五一)の「弘前市農業要覧」から農地改革直後、および昭和三十年,総人口に占める農家人口の割合は七%、総世帯に占める農家世帯は五%であり、弘前市の旧市地域だけを見ると農業,同三十一年九月、中津軽郡岩木村駒越の一部編入、同三十二年九月、南津軽郡石川町の合併により、新弘前市の農家戸数,、農家人口、経営耕地面積は、六〇四戸(昭和二十九年八月一日)から九二〇九戸(昭和三十一年二月一日)、三九六三人,造成地には、二集団の新規入植のほかに既入植者の増反、その他農家の増反地として活用し、酪農、畜産の振興を / 弘前市の合併と農業
通史編5(近・現代2) (「建築家」の誕生)

「建築家」の誕生 わが国に初めて正統の様式建築の設計技術を伝えたのがジョサイア・コンドルであることは,こうして誕生したわが国の建築家が実務で活動するのは明治二十年(一八八七)以降のこととなる。,明治四十三年(一九一〇)、弘前に県立工業学校が設立され、建築科を置いた。,やがて大正時代に入ると工業学校の教師が設計活動を実践するようになる。,ここにきて、ようやく建築の設計だけを仕事とする「建築家」の誕生をみ、建築の近代化が遂げられることになるのである / 「建築家」の誕生
通史編5(近・現代2) (職業は寺山修司)

職業は寺山修司 寺山修司は昭和十年(一九三五)十二月十日に弘前市紺屋町に生まれたが、父・八郎が警察官,寺山修司は太宰治と並んで、多くのファンをもつ作家である。,作家というよりは、俳句(資料近・現代2No.六五一)、短歌、詩(同前No.六五〇)、映画、演劇、小説、,評論、作詞、写真など、あらゆるジャンルを駆け抜け、「職業は寺山修司」と自ら宣言した多彩きわまりない芸術家,芸術家と故郷という主題は、芸術家と母という主題と同じほどに深い。 / 職業は寺山修司
通史編3(近世2) (農家の遺構)

農家の遺構 一般農民の家屋は、狭い建坪に田の字型の間取りに土間(どま)と馬屋がついているのが基本型である,これに対し、萢中(やちなか)村(現市内萢中・浜ノ町東)にある石戸谷家は名主(なぬし)(庄屋)を務めたこともある,間口一六間(約三二メートル)、奥口(梁行)六間(約一二メートル)に、縁・玄関などの下家(げや)(母屋(,図をみると、向かって右端から六間余(約一二メートル)は「うまや」と「いなべや」と称する作業場などで占める,図119.石戸谷家平面図 / 農家の遺構
通史編5(近・現代2) (工業都市弘前)

工業都市弘前 昭和になり、我が国の経済不況が深刻化してくると産業の不振を打開するため、県を挙げての産業振興,昭和六年七月一日、弘前市役所において総会が開かれ、商業、工業、農業の各部門における理事や委員が選定されるとともに,そして、(一)酒造業、(二)織物業、(三)漆器業、(四)木通蔓細工工業、(五)銅・鉄工業、(六)家具指物業,、(七)菓子製造業、(八)醤油・味噌醸造業の八業種の組合や研究会から提出された調査事項にもとづき、市を,昭和六年度における弘前市の産業を生産額でみると、農業が四万七一九一円、畜産業が四万三六九円、工業が四七二万三四一九円 / 工業都市弘前
通史編4(近・現代1) (凶作と副業の奨励)

凶作と副業の奨励 明治後期、三十五年(一九〇二)、三十八年、三十九年と大きな凶作が続いた。,750 813 齋藤芳風編『青森県凶作惨状』、明治36年より作成  この時期の連続凶作により、周辺農家の,顧客で成り立っている弘前市内の商店街は、当然にも、農家の困窮により大きな打撃を受けた。  ,年間労力の均衡化を計るために、副業として藁細工、蔓細工、柳細工、藺筵、竹細工、木綿機業、木炭製造、寒天,氷豆腐製造、草履表製造、湯葉製造が冬季間の仕事に最適であると推奨した(青森県農会『青森県冬季間ニ於ケル農家副業調査 / 凶作と副業の奨励
通史編5(近・現代2) (飲食業のあり方)

この経過について、昭和五十五年度の弘前市商業近代化に関する弘前商工会議所の報告は、飲食サービス業については,(1)弘前市の飲食サービス業は個人企業が大半で、九五%を占め、法人組織は僅かに五%に過ぎない。,(4)従業員は家族従業員を含め、男女ともに一人雇傭が殆どで、企業の零細性を浮き彫りにしている。,店舗の所有関係は、自己所有が僅か五・七%で、借家が四八・七%、その他五〇・六%となっていて、企業基盤の,鍛冶町も同様四八・九%が借家となっている。 / 飲食業のあり方
通史編5(近・現代2) (家政女学校の創設)

家政女学校の創設 弘前和洋裁縫女学校とほぼ同じころ、私立弘前家政女学校が創設されている。,昭和五年には、校名を私立弘前高等家政女学校と改め、七年には師範科卒業生に対しては、無試験検定で小学校家事科本科正教員免許状,写真71 弘前家政女学校校舎(紙漉町 昭和15年以降)  終戦後の新学制が発足するとともに、家政女学校,創立以来約四〇〇〇人の卒業生を送り出し、柴田やすの「和洋」と並び称され、弘前の女子教育界に大きな足跡を,昭和三十一年三月二十日、鷹ヶ岡女子高等学校は、最後の卒業式の後、引き続き閉校式を挙行し、女子中等教育機関 / 家政女学校の創設
通史編4(近・現代1) (工業建設の意見)

工業建設の意見 工業発展のための政策提言を次に見たい。,ヲ期スルコト  (ハ)出機若クハ組合ヲ以テ副業者ヲ誘導シ、集約的ニ企業セシメ、機業地ヲ形成セシムルコト,、無名ニシテ無限ノ宝庫ヲ探ネ、コレヲ発表シ、コレヲ広告シ、大ニ資本家及経営者ヲ誘致ス可シ、無限ノ宝庫トハ,与フルコト 三、資本家ヲ招シテ踏査ヲ請フコト 四、各郡市ニ授産場ヲ設ケ県ハ之ニ対シ相当ノ補助ヲ与フルコト,二、県下ノ有力家ヲ網羅シ、商工協会ヲ組織シ、自治的ニ工業発展策ヲ講セシメ、常ニ商工業ノ指導開発ニ任 / 工業建設の意見
通史編4(近・現代1) (運送業の活躍)

運送業の活躍 大正期には株式会社の新設が著しく、運送業においても大正十年に既存の澁谷運送店を母体に丸叶弘前運輸株式会社,(取締役社長福嶋藤助、専務取締役澁谷広吉)が創業した。,丸ホ 關利三郎、丸通 山崎範正、丸大 小田桐政信、丸弘 竹森勇次郎」の名があり、いずれも停車場前で営業していた,により企画され、その後昭和初年までには大塚多三郎、花岡文次郎、田村勘徳、齋藤吉六、對馬才八の五人が営業し,また、乗合以外の営業者は一七人でその台数は二八台、自家用車の所有者は四人で台数は四台、貨物運搬営業者数 / 運送業の活躍
通史編5(近・現代2) (軍人遺家族の援護対策)

軍人遺家族への授産や慰問、生活保護(生活改善)のほか、傷痍軍人への職業斡旋、戦死者の市葬など、総じて戦死者,市町村当局や農会、産業組合、漁業組合などの団体に授産設備を作らせ、遺家族に無償貸付けさせる事業で、仕事内容,は技術的にも簡易で応召家族の従業に適するものとされた。,具体的に奨励された仕事内容には、藁工品、炭俵、養兎、りんご袋製作など、副業施設による生活補助的な仕事が,召集解除や除隊となった帰郷軍人の経験を、銃後の生活に具現させるための援護指導も事業化された。 / 軍人遺家族の援護対策
通史編4(近・現代1) (県立工業学校)

県立工業学校 東奥義塾の廃校を条件に弘前に開校した県立工業学校は、大正九年に義塾が再興するに及んで、,このとき同窓会から落成記念にモーターサイレンが寄贈され、始業・終業の時を告げることになった。,これは『弘工六十年史』によれば、「観覧人のおもなものは各官衙長、軍人、実業家、商人、各種学校生徒等にして,弁論の盛んな時世で、工業学校も例外ではなかった。,写真188 県立工業学校 / 県立工業学校
通史編4(近・現代1) (商業弘前倶楽部の活動)

商業弘前倶楽部の活動 弘前市における商工業者団体の活動は、明治十七年(一八八四)の商業弘前倶楽部の活動,同倶楽部は一〇七人の会員により発足し、弘前の有力財界人や政治家の大道寺繁禎、菊池九郎ら二一人を名誉会員,設立規則書には、早く農工商業の道を開き、財産を増殖して商業の境を広め、貨物融通の便利を進め、弘前の隆盛 / 商業弘前倶楽部の活動
通史編5(近・現代2) (福祉事業の推進)

人々の好意で支えられていたように、これまで基本的には地域の人々によって保障されていた諸制度が、今度は国家予算,保護の無差別平等、保護の国家責任の明確化、最低生活の保障がそれである。,敗戦直後に治安当局が全国の特高警察に命じて民心の動向を調査させているが、その調査結果からも、多くの人々は国家のために,外地に夫を残し子供を抱えて引き揚げてきた女性を典型に、男性が復員しておらず女性だけで子供を養う家庭は、,弘前市内には柴田やすが経営する柴田職業指導所など、いくつかの授産場があった。 / 福祉事業の推進
通史編5(近・現代2) (個人作家の活躍)

個人作家の活躍 戦後は、前述したように多くの美術団体の活動が再び活発に行われるようになってきたが、一方,で、個人の作家の全国的、世界的な活躍が目立ってくる。  ,五所川原市)を父とする工藤哲巳(くどうてつみ)(昭和一〇- 一九三五- 五所川原市)は、東京美術学校卒業後,卒業後は、青を基調とした軽快な色彩の抽象画で高い評判を得、その作品は国内外の美術館の収蔵となっている。,また、出身地・生没年不明の作家については記載していない。) / 個人作家の活躍
通史編3(近世2) (商業の農村進出)

商業の農村進出 農民は田畑の仕事をせずに商売や日雇銭を稼ぐことは、原則として禁止されていた。,水呑(みずのみ)百姓に対してこう呼ばれた)維持のため、農民の次、三男が分家することを禁止していた(「国日記,分家を無制限に認めると、一戸当たりの耕地面積がしだいに小さくなり、税負担に耐えがたくなるからである。,その後になると、農民の贅沢が目立ち、村内に商家も増え、農民の次、三男の中で商人になる者が多くなった。,村の店が増加すると農業の妨げになるというが、それを禁止するだけでは隠商売の者を根絶できない。 / 商業の農村進出
通史編2(近世1) (公家との関係)

公家との関係 従来、江戸時代における朝廷・公家勢力は、元和元年(一六一五)の「禁中並公家諸法度」で幕府,津軽家と公家との関係で想起されるのが五摂家の筆頭とされる近衛(このえ)家との関係である(津軽家と近衛家,の関係を検討した研究として、久保貴子「『基煕公記』にみえる公家と大名―公武関係・研究の基礎作業」、瀧澤武雄編,重要な事業であった。,寺社などの所在地である京都における連絡所、第二に、文化的伝統を持つ商業都市京都の生産する物品を購入し、 / 公家との関係
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の商業活動)

日清戦争後の商業活動 日清戦争後の明治三十年(一八九七)と翌三十一年につき、商家の営業形態別戸数を見,表37 商家営業別 明治30年 明治31年 卸  売 戸 戸  東津軽郡 17 6  西津軽郡 50,減少している営業のうち、卸売は、明治三十年の数値が大きい。,その内訳は不明であるが、卸売商業が浮沈が激しいものであることがわかる。 / 日清戦争後の商業活動
通史編5(近・現代2) (音楽家たち)

音楽家たち 水木音彌(みずきおとや)(明治一四-昭和二九 一八八一-一九五四)は大鰐苦木生まれ。,弘前新聞』の笹森順造(ささもりじゅんぞう)の紹介文によると、弘前中学校の同窓生であり、世界的なバリトン声楽家であるとしている,明本京静(あけもときょうせい)(明治三八-昭和四七 一九〇五-一九七二)は黒石市出身、声楽家としてデビュー,、コロムビア・レコード専属の歌謡曲作曲家であった。,再興東奥義塾の一回生であり、法政大学英文科卒業後、昭和二十二年から四十四年まで弘前高校の教諭を務めた。 / 音楽家たち
通史編5(近・現代2) (弘前工業高校の動向)

昼食携帯困難セヌ者 無理ナルガ携帯セル者 携帯スルタメ家族欠食スル者 携帯不可能ナル者   携帯不可能,ナルタメ授業短縮希望スル者 携帯困難ナルモ授業短縮ヲ希望セヌ者  調査項目そのものにこの時代の事情がよく,弁当を持ってこられないので、授業短縮を希望する者が七四%にもなっている。,弁当を持たせるために家族が欠食して我慢しているのが三二%もある。,昭和二十三年四月、青森県立弘前工業高等学校と改称された。 / 弘前工業高校の動向
通史編4(近・現代1) (電灯業の発展)

電灯業の発展 明治三十四年(一九〇一)に弘前電灯株式会社が設立された。,前年の三十三年に電灯営業願が弘前電灯株式会社の設立発起人から逓信大臣の星亨あてに出された。,営業願によると、弘前電灯株式会社は、清水村大字富田に発電所を設け、汽灌(かん)を動かして発電機を回転させ,表46に見るように特に一般住家での電灯使用の増加が著しかった。,- - - - - - 1 2 20 劇 場 1 27 945 2 6 58 2 6 66 一般住家 / 電灯業の発展
通史編5(近・現代2) (高度経済成長期の工業)

、変化の方向は、第一次産業就業者の減少、第二次及び第三次産業の就業者の増加であった。,事業所数では、食料品製造業、木材木製品工業、家具製造業、パルプ及び紙加工業、出版印刷業、窯業の順になっている,180 3.1 10,997 1.1 木材 56 10.0 564 9.6 105,804 10.2 家具,これを見れば、食料、家具、金属、木材である。,14.3 木材 56 100.0 17 30.4 16 28.6 16 28.6 3 5.4 4 7.1 家具 / 高度経済成長期の工業
通史編5(近・現代2) (笹森順造の偉業)

笹森順造の偉業 弘前市の剣道の歴史に、もちろん明治維新以降の歴史であるが、この北辰堂の果たした役割は,(中略)更に著者は小野次郎右衛門忠一から津軽土佐守信寿に伝え、爾来代々津軽家に伝わった一刀流の正統直伝,さらに、昭和二十五年、全日本竹刀競技連盟が発足し、会長に就任するなど、政治家、教育者としての業績は言うに / 笹森順造の偉業
通史編4(近・現代1) (細民救済対策事業)

細民救済対策事業 凶作は、県南のように二分作の悲惨さはないが、生活難は弘前市民の上にも現れていた。,十一月の市会では、小学校の授業料未納問題が取り上げられた。,時敏尋常小学校   一一五名 城西尋常小学校   二六〇名      合計  一二七五名  授業料,この督促は、経費、日数がかかって効果が上がらないので、市では授業料全廃を考慮中という答弁だった。  ,この案を説明して、電灯会社から三一万円の金が動き、市に五万円の償却金が入り、金融が緩和され、商家の不景気対策 / 細民救済対策事業
通史編5(近・現代2) (国際化・自由化と農林業振興計画)

昭和五十四年(一九七九)策定の同計画は、強まる農産物輸入の増大、兼業農家の増大、高齢化、後継者不足の中,農家をめぐる環境はより複雑になった。,平成に入り、市では、「一九九〇年農業センサス」において、農家戸数が前回(昭和六〇年・一九八五年)より七,それは昭和六十年代をピークとする農業産出額の低下に顕著に表れているように農業所得の減少、加えて農家経済,を圧迫しているのは農業生産だけではなく、農家総所得の減少である。 / 国際化・自由化と農林業振興計画
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

旧藩士の家禄は、上下の格差が大きかった。,表3 明治4年青森県家禄総計 項目 米(石) 金(円) 旧知藩事家禄 19,111.00 内,表4 旧弘前県貫属士族卒家禄内訳 家禄の大きさ 人数 合計(石) 米80石 11 880.00 米60,明治六年十二月に家禄税が設けられた。,旧弘前藩士が得た金禄公債は、第五十九国立銀行の設立資金に充てられるなど、産業の振興や旧弘前藩士の生活の / 家禄制度改革
通史編5(近・現代2) (家庭に戻る女性たち)

ところが敗戦で男性職員が復帰したため女性職員の多くは退職し家庭に戻ることになった。,これは国鉄の方針が極力女性職員の家庭復帰を督促していたからである。,「職業婦人」という言葉もあったが、まだ特殊な響きをもっていた。,それでも家庭の都合で働かざるを得ない女性は多数おり、なかには家庭の外で働きたいと考えていた者もいただろう,写真106 家庭に戻る女性を報じた『東奥日報』 / 家庭に戻る女性たち
通史編5(近・現代2) (市立商業高校と市立女子高校)

市立商業高校と市立女子高校 市立商業学校は、昭和二十三年の新制高校発足に伴って、弘前市立商業高等学校,しかし、このとき桔梗野にあった市立女子高校が蔵主町の市立商業校舎に移されることになり、市立商はやむなく,一方、終戦時、元寺町にあった市立高女は、戦災に遭った青森師範学校を受け入れるために山道町の旧家政女学校校舎,三十年の市町村合併の際に郡部から要望のあった農業科が加えられ、商業、農業、家庭の三つの課程から編成されることになった,この先見性は、後の実業高としてのスポーツ全盛期につながっていくのである。 / 市立商業高校と市立女子高校
通史編4(近・現代1) (津軽産業会の活動)

津軽産業会の活動 明治期の弘前市産業界をリードした津軽産業会の成立期以来の活動について、同会の理事として,津軽産業会定款       第一章 目的 第一条 本会の目的は汎く農工商諸業の利得損失を討議し智識,しかし、日清戦後期に至り、工業や商業などの広範な産業振興のための部会設置に至ったのである。  ,製作せば其販路は容易するのみならず数万円にても会社之れを買占めんとのことなりし故に本会は近く中郡の各農家に,を誘起するの当然なるを確認せり 一、勤倹節約を励行すること 降雨の後家屋を繕ひ盗賊を捕へて縄を綯( / 津軽産業会の活動
通史編4(近・現代1) (弘前商業会議所の活動)

弘前商業会議所の活動 商業会議所は、明治二十三年(一八九〇)制定の商業会議所条例に規定された団体であり,弘前市でも、明治二十七年に弘前商業会が総会で商業会議所の設立を議決しているが、実を結ばなかった。,明治三十五年(一九〇二)には商業会議所法が制定され、商業会議所の法的基礎が強化された。,同法では、商業会議所の事務権限が、商工業の発達を図るに必要なる方策を調査することなどとされ、また、鉱業権者,獣肉取引では一斤=一〇〇匁となっているのは顧客との取引慣行であり、国家権力によらなければ変更は困難であること / 弘前商業会議所の活動
通史編5(近・現代2) (景気回復後の弘前市の商業)

また、専門店小売業が全体の商店の中で多数を占めており、次に飲食店と製造小売業が多い。,表20 弘前市の商店数(昭和27年) 業態 個人商店 法人商店 合計 卸売業 142 88 230 各種商店小売業,多額なのは一般卸売業で、二六三八万円余であり、石油小売業が九九五万円余でこれに次いでいる。,ただし、卸売業や小売業の分類については、兼業している事例もあり、引用した弘前市の統計では、それらについては,五所川原,陣場,鷹巣,大館   理髪美容具品 A 他県には殆どでない,県内では青森,金木,深浦,八戸   家具類 / 景気回復後の弘前市の商業
通史編4(近・現代1) (第五十九銀行の営業状況)

第五十九銀行の営業状況 普通銀行転換前後における第五十九銀行の営業状況も、『当銀行誌材料書類』に記録,されている「営業上失敗の事」と「営業の難易及盛衰の事 第二」の史料からうかがうことができる。,その史料から(一)営業上の失敗、(二)支店出張所の設置、(三)日露戦争後の景況、(四)本店の新築、の営業状況,また、政府が郵便為替貯金などの制度を設けて銀行業を始めたことで営業が圧迫された。,建築にあたったのは県下における著名な建築家である堀江佐吉であった。 / 第五十九銀行の営業状況
通史編3(近世2) (稽古館の文化事業)

稽古館の文化事業 稽古館は文化活動として稽古館蔵版の奥付を有する書物を翻刻出版している。,また教科書以外の稽古館本として、津軽家と深くかかわりのある山鹿素行の「中朝事実」(文政元年六月)、「聖教要録 / 稽古館の文化事業
通史編5(近・現代2) (弘前市の商工業行政の方向)

弘前市の商工業行政の方向 昭和四十三年(一九六八)五月八日に、弘前市政に中小企業対策を要望する協議会,②本市の中小企業対策の主力は、金融および信用補完、企業・業界診断である。,只、求人については家内工業的考えを改め、付加価値の向上に努め、適正な給与を支払うよう要望する。,⑨技能指導員の各企業への派遣はかなり困難だ。,(同前)  弘前市の産業がりんごや米の農業に依存する側面が強いこと、また観光が重要な産業であること、 / 弘前市の商工業行政の方向
通史編5(近・現代2) (新進気鋭の評論家)

新進気鋭の評論家 三浦雅士は昭和二十一年(一九四六)に弘前市に生まれた。,四十年、弘前高等学校を卒業。,五十七年に退社、以後は新進気鋭の評論家として活躍。 / 新進気鋭の評論家
通史編5(近・現代2) (鉄道営業の整備)

鉄道営業の整備 昭和二年(一九二七)七月には、弘前市会において五能線の列車を弘前駅に直通させ、その発着点,これは弘前まで来るのに川部駅で乗り換えなくてはならない煩雑さを解消するためと、同年九月開業予定の弘南鉄道,一、弘前ハ五能線関係ノ津軽平原ニ於ケル各町村ノ住民ト物資トニ対シテ密接ナル関係ヲ有スルト共ニ其産業並,▽弘高一三▽弘中一九一▽弘工八三▽義塾一二四▽高女一一五▽弘女四五▽和洋二五三▽家政四六▽女子実業二▽ / 鉄道営業の整備
通史編4(近・現代1) (りんご生産の展開と農業振興)

)の松方財政は、農村恐慌を引き起こし、特に青森県の場合は同十六年の不作、同十七年の凶作も重なって、農家の,けいぎょうしゃ)(現藤崎町、明治十八年開業)や興農社(こうのうしゃ)(後に興農会社に改称、現黒石市、明治二十年開業,写真96 旧清水村樹木にあった清水林檎生産購買販売組合  なお、明治期の主な移出業者(屋号、営業場所,樹幹洗浄は、一部精農家の園地ではサルスベリの木のように光沢を放ったと言われるほど熱心に行われた。,.四一八)や東京在住の資本家による株式会社経営などの参入も企画された(「津軽林檎栽培株式会社の発起趣意書 / りんご生産の展開と農業振興
通史編4(近・現代1) (士族授産事業としての銀行設立の奨励)

士族授産事業としての銀行設立の奨励 明治新政府による旧体制改革である廃藩置県と、それに続く秩禄処分によって,家禄を失った士族は、その多くがわずかばかりの金禄公債を生活の糧とするしかなく、失業状態に置かれ、深刻な,つまり、華士族が銀行事業への投資により、公債の利子金とともに銀行事業利益の配当金を得ることで、生活の安定 / 士族授産事業としての銀行設立の奨励
/ 10ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました