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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(戦場に駆り出された民衆)
は息子彦蔵へ 8 岩崎彦蔵 54歳 諸手足軽 5石2斗 秋田矢島領吉沢村 永世17俵
家督
,66歳 諸手足軽 1石2斗1升 南部野辺地 永世15俵
家督
は息子平之助へ 13 羽賀多吉 27歳,諸手足軽 5石2斗 南部野辺地 永世15俵
家督
は息子徳之助へ 14 成田清太郎 40歳 諸手足軽 3,
家督
は息子百吉へ 18 竹村長太郎 45歳 諸手足軽 5石2斗1升 南部野辺地 永世15俵
家督
は息子常吉,永世15俵
家督
は息子岩太郎へ 24 佐藤純吉 29歳 諸手足軽 6石 箱館桔梗野 永世15俵
家督
資料編3(近世編2)
(第三節 蝦夷地警備と開港下の政治動向)
エトロフ事件 (三)文政四年の警備引き揚げ (四)安政期の蝦夷地警備 (五)蝦夷地警備と
家督
相続
通史編1(古代・中世)
(北条得宗領の形成)
津軽地方の諸地域は、鎌倉時代を通じて最終的にすべて鎌倉北条氏の得宗領となった得宗とは執権北条氏の嫡流(
家督
通史編3(近世2)
(桐山正哲)
四代正哲は明和七年(一七七〇)に
家督
(高一五〇石六人扶持)を相続し、表医となった。
通史編1(古代・中世)
(秀衡と義経の死)
その際秀衡は、異母兄弟である国衡・泰衡と義経との三人を枕元に呼び寄せ、
家督
を泰衡(やすひら)に譲ること,を「父太郎」、泰衡を「母太郎」と呼んでいるが、その母太郎泰衡が後継者となったということは、家の母が、
家督
継承
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
信直が南部領の正式な大名として認定されているとはいえ、宗家の信直をしのぐほどの実力を戦国末期から蓄え
家督
奪取,をねらっていた政実にとって、奥羽の一揆と連動するかたちで自らも一揆を起こし立ち上がらねば、二度と南部家の
家督
通史編2(近世1)
(近世中期の三人の藩主)
宝永七年(一七一〇)十月十八日、津軽信政は弘前城中で死去し、同年十二月十九日、嫡子信重(のぶしげ)が
家督
相続
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
慶長十一年(一六〇六)に
家督
を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三湊の再開発に着手し、そのほかにも
通史編2(近世1)
(秀吉の東国への停戦令)
その内容は、①下野佐野(さの)氏の
家督
を北条氏忠(うじただ)が継承することの承認、②徳川家康の赦免(当初
通史編1(古代・中世)
(南部晴政の登場と一族間の対立)
められていた九戸氏のほかにも、室町中期まで本家と並ぶ勢力を保っていた一族の八戸南部氏も、一六世紀初頭の
家督
夭折,は当主晴政と石川城主南部高信の長男で田子(たっこ)城主である信直(のぶなお)(一五四六~一五九九)の
家督
相続
通史編2(近世1)
(三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)
この大浦為信の時期、三戸南部家では当主晴政に実子晴継(はるつぐ)が誕生し、
家督
継承をめぐって養子信直を
通史編2(近世1)
(津軽信英による後見政治と法令の整備)
両名は信義時代からの家老で、明暦三年八月五日付で幕府大目付北条氏長宛てに信政
家督
相続に際しての家老起請文
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
この後、天正十五年(一五八七)、安東愛季が急死し、わずか十二歳の実季(さねすえ)が
家督
を継いだ。
通史編3(近世2)
(一二代承昭の襲封)
、翌五年十二月四品(しほん)(従四位)に叙され、安政六年(一八五九)に一一代順承の隠居に伴って正式に
家督
相続
通史編2(近世1)
(藩政の転換と家臣団統制の動き)
グループと、それを批判する譜代・下士層の間に政治的対立が生まれたことはすでに述べたが、信政の死去・信寿の
家督
相続
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
図8.南部信直画像 九戸政実はすでに、戦国末期の南部晴政の代から南部氏の
家督
をねらっており、信直
通史編2(近世1)
(弘前藩庁日記の開始)
以下は順不同で、藩士の任免・役替・家禄増減・
家督
・改名・縁組などが記され、また賞罰記事は武士のみならず
通史編1(古代・中世)
(平泉藤原氏)
しかし文治三年(一一八七)、泰衡に
家督
を譲り、義経を守ることを誓わせてこの世を去った。
通史編2(近世1)
(藩士対象の司法制度)
そのほか御祝儀の御赦とは藩主の
家督
相続・初入国などの理由によるもので、「国日記」の記録も少ない。
通史編2(近世1)
(「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)
津軽弘前・盛岡両藩主が暇を賜って帰国する際、儀礼の中で「必松前表の事仰出される」ことが慣例であり、また
家督
通史編4(近・現代1)
(弘前地方米穀商組合の活動)
また、加藤幸助、武田又吉は先代の親が米穀商を開業しており、
家督
相続している。
通史編2(近世1)
(茨木屋の苦悩)
延享元年(一七四四)には、新藩主津軽信寧の
家督
相続に伴う物入りや干ばつによる不作などで、七七三貫五四七匁余
通史編3(近世2)
(毛内宜応)
宝暦八年
家督
三〇〇石を継ぎ、足軽頭を務めたが、天明二年に病身を理由に御役御免を願い隠居を申し出た。
通史編5(近・現代2)
(棟梁・堀江佐吉)
明治十年(一八七七)、
家督
を相続した佐吉は北海道の開発ブームに目をつけ、明治十二年(一八七九)六月函館
通史編2(近世1)
(乳井の略歴)
六代藩主津軽信著(のぶあき)に奉公見習として仕え、手廻五番組に任じられ、翌元文元年(一七三六)に父儀右衛門の
家督
五
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
また戦死した者の
家督
は間違いなく家族に約束する」との自筆書を下付されており(資料近世2No.四六四)、
通史編3(近世2)
(一〇代信順の治世)
代藩主信順は、寛政十二年(一八〇〇)九代寧親(やすちか)の長子として生まれ、文政八年(一八二五)四月に
家督
通史編3(近世2)
(二等銃隊の創出)
副役の福士は御手廻無足(むそく)組で、奉公見習い中であり、扶持はわずかに五人扶持だが、やがて正式に
家督
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●永禄十年(一五六七)、この年、大浦為則、女婿為信に
家督
を譲り、まもなく死去するという(為則の死は、永禄四年,●天正三年(一五七五)十一月、織田信長、嫡子信忠を秋田城介に任官させ、さらに
家督
を譲る。
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
先祖安藤太郎重光と申者有之、俗名ニ而牡鹿遠嶋先達職相預リ罷在リ、其後右親族安藤四郎此人当郡十八成浜惣右衛門先祖江
家督
相続
通史編3(近世2)
(第一次藩政改革と特色)
やくめんならびにいんきょちゃくしじゅんせきさだめ)」等の規定を発表し、無役となった者の公的場所における席次や、嫡子の
家督
相続
資料編3(近世編2)
(【解説】)
このほか、蝦夷地警備との関わりで、出兵藩士死亡にあたっての
家督
相続の問題、渡海安全祈願と死者供養の問題
資料編3(近世編2)
(新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)
の蝦夷地警備 ………………………………………………………………… 二七一 (五)蝦夷地警備と
家督
相続
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
………………………… 八戸湊文書 306 ●永禄十年(一五六七)、この年、大浦為則、女婿為信に
家督
を譲,・封内事実秘苑 318 ●天正三年(一五七五)十一月、織田信長、嫡子信忠を秋田城介に任官させ、さらに
家督
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