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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

うち高倉は寛文四年に引退し、その後を受けて神保長治が家老に就いている。  ,)が家老に就いている(「国日記」寛文十二年十二月朔日条)。,同年十月六日、北村・渡辺・進藤の三家老は、信政より長年の労をねぎらわれ、家老職を免じられた。,この処置は、信政が先代以来の家老を行政から遠ざけ、三家老がよって立つ政治的基盤であり、これまで藩権力の,それまで三家老が果たしてきた職務を用人に吸収させるねらいがあったものと思われる。
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

を執ることが不可能なことに加えて、三代藩主信義時代が家中騒動などで藩政が不安定だった状態を踏まえて、家老,後見政治の期間、家老として特に重きをなしたのは、信英と同じく前藩主信義の弟である津軽信隆と、神保清成(,両名は信義時代からの家老で、明暦三年八月五日付で幕府大目付北条氏長宛てに信政家督相続に際しての家老起請文,この他に家老として高倉盛成・北村統好・渡辺政敏・傍島正伴らがいた。,信英と家老たちが合議ないしは相談の上で藩政を進めていったと考えられるが、しかし、この時期藩の支配機構がどのようなものであったか
通史編2(近世1) ((三)藩士土着政策廃止をめぐる諸問題)

これに先立って、同年五月二十三日・二十四日に、家老牧野左次郎、用人赤石安右衛門、勘定奉行菊池寛司が御役御免蟄居,責任をとらされたのであるが、赤石が同年三月二十八日に五〇石加増されて用人となっていることから、廃止側の家老津軽中書永孚
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

今後の方向性を協議すべく、同道の佐藤英馬を先行させて秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日に、同藩家老岡本又太郎,秋田藩は翌日、家老戸村十太夫と用人金大之進を使者として仙台へ派遣した。,閏四月十一日付の岡本又太郎ら家老四人が沢副総督との会見した後に戸村十太夫に出した書簡によれば、この使者派遣目的,そして、白石入りを果たした山中兵部は「奥羽諸藩家老連署嘆願書」(『仙台市史』近世1)に加判し、同二十日
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

延宝二年(一六七四)十月には、各組の大頭の移動が行われ、家老たちが組支配に携わるようになった。,には津軽政朝・津軽為玄(ためもと)・梶川政順(まさより)という藩主信政の弟たちが命じられ、馬廻組頭は家老,一方で、組頭の人事から、依然として一門・重臣層による軍事組織の掌握が図られていることや、また家老と組頭,従来は、何事も家老を経由した上意下達のシステムがしかれていたと思われるが、それが一部崩され、家老の職務権限,なお、これ以降の家老就任者と用人就任者を比べると、家老は門閥・譜代重臣層が登用されるのに対して、用人職
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

たとえば「国日記」の場合、各役職においてまとめられていた記録と考えられる「御伝帳」・「御家老帳」・「御家老剪紙,)  「国日記」一日分の記事内容は、初期のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老,それから日々の記事は、まず、月日と天候が記されたあと、その日の家老・用人・大目付の登城の有無、次に祭祀,形式的には、月初めに月番家老と用人名を掲出し、日々の記事は、月日天候、その日の当番用人名を記して、それから
通史編3(近世2) (英学寮)

しかし同年七月十四日に廃藩置県が断行されるに及んで、同月二十七日に英学寮は閉鎖され、その学生は旧家老の,大道寺繁禎(しげよし)の邸宅(現弘前中央高校テニスコート付近)と、同じく旧家老津軽廷尉の邸宅とで修学することとなり
通史編2(近世1) (在宅制度廃止後の廃田・新田開発)

すなわち、『記類』下によると、前年の十月三日に九代藩主津軽寧親は家老喜多村監物らを伴って木造新田を巡見,これを受けて、まず「御郡内開発御用掛」に藤田権左衛門が任じられ、翌享和三年正月二十八日に、家老喜多村監物
通史編3(近世2) (白石会議)

また、仙台・米沢両藩家老連盟の白石会議招請状が奥羽諸藩へ発送された。,それによると、五日に仙台藩家老但木(ただき)土佐より書状によって、会津藩主松平容保の降伏謝罪の件について,この結果、会津藩家老名による「嘆願書」と、仙台・米沢藩主連名の「会津藩寛典処分嘆願書」、そして、白石会議
通史編2(近世1) (情報収集活動)

津軽弘前藩では寛文九年(一六六九)七月十五日付で江戸在府の家老北村宗好から国元の家老に対して、青森の町人,また、この北村の指示以前、七月十二日に松前藩家老蠣崎広林(かきざきひろしげ)・同広隆(ひろたか)方へ阿部喜兵衛
通史編2(近世1) (藩士対象の司法制度)

家老・用人・大目付・勘定奉行など上級藩士に対する取り調べの詳細は不明であるが、「国日記」によれば、預り,表58 申し渡し人と申し渡し場所 申し渡し人 申し渡し場所 ① 家老 家老宅 ② 大目付 評定所 ③,また幕府と異なり、その適用は御目見以上の藩士とはかぎらず、家老から足軽級までかなりの幅があった。
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

このため信順はひそかに「夜鷹様(よたかさま)」とあだなされるようになり、文政九年には家老高倉盛隆(もりたか,そこで家老津軽多膳(たぜん)は信順に詰め寄り、天保四年八月に増衛の屋敷の廃棄と彼女の国元送りを承諾させた,彼の父笠原八郎兵衛皆当(ともまさ)は九代寧親の代に江戸家老として活躍していたが、派手な生活を好む寧親に,かわりに家老には大道寺玄蕃繁元(げんばしげもと)が任じられ、笠原は御馬廻組頭兼用人(天保五年に家老就任,津軽多膳は信順が隠居した天保十年(一八三九)に再び家老になるが、これに先立つ天保七年(一八三六)九月、
通史編3(近世2) (学校落成式)

家老牧野左次郎をはじめ重臣列席のもと、総司は染帷子(そめかたびら)に長袴の礼装で従者九人を、小司は染帷子
通史編2(近世1) (七 津軽一統志)

同年十月に家老津軽校尉(こうい)の名で領内に資料収集の協力を求める触れが出され、同十六年五月に完成した
通史編3(近世2) (信政の教養)

娘婿である岡八郎左衛門(素行の甥)は、延宝七年(一六七九)、津軽家の家臣となり、天和元年(一六八一)、家老,さらに素行の二女鶴は、延宝六年(一六七八)、藩士北村源八(後に喜多村政広と改む)に嫁し、源八も天和元年に家老,となり、その子政方も家老職を継いだ。
通史編3(近世2) (武士と庶民の喧嘩)

今と川元は武士としての身分は定かでないが、事件の顛末を取り調べられ、家老の笠原八郎兵衛宅で隠居を申し渡
通史編3(近世2) (勤務の状況)

御用座敷は上ノ間から家老、二ノ間は用人・大目付、三ノ間は三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)、四ノ間は,梅ノ間御次ノ間には大目付が午前十時から午後二時まで勤め、家老・用人が退出後、用事がなければ帰る。,大納戸役(おおなんどやく)(藩主からの下され物についての管理を扱った職)一人は午前九時より勤務し、家老,右筆(ゆうひつ)(側用人(そばようにん)直属の下僚で書記)一人は、家老・用人が出仕する前に詰め、彼等が
通史編2(近世1) (乳井の略歴)

乳井は家老に、人民困窮の救済について「御沙汰有度事」と願い出たところ、家老の回答には、すでに万策尽きている,そこで乳井は、自分の策が用いられれば「一国の富有今明年の内にあり」と進言したところ、家老から「汝か存念一,そして翌七年には家老席に列し一〇〇〇石を賜り、栄達を極めた。  
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

すなわち、津軽家は、「家風俗不宜」とされ、遠国であることと、家老が「悪人」のため、浪人の再就職先として,また、家老に新参者を取り立てたことも世上で批判があり、「家ニ人ナキト見ヘタリ」と評されているとしている,信政の弟で家老を勤める津軽政朝、山鹿派の代表的存在である津軽政実は「トモニ悪人也」とされ、特に政朝が「,そして、「信政ト家老ハ君臣合体ノ悪人」であり、現状では家名は長く続かず、世間から誹謗(ひぼう)されるだけであるという
通史編3(近世2) (礼服)

大目付の指揮を受ける監察の官)、平服麻裃(掃除見分の用人(ようにん)・大目付(おおめつけ)……用人は家老,享保二年(一七一七)――常服半袴(藩主の一族・家老・用人・大目付)、常服麻裃(城中の諸番人) 宝暦三年,文政十一年――熨斗目麻裃(家老・用人)常服麻裃(大目付)  藩主在国中の文政十一年より、在府中の前二者
通史編2(近世1) (文教政策の展開)

さらに六月十七日には城中梅之間において儒者小泉由己が大学の講義を行い、家老・用人が聴講している。,翌日、小泉の「論語」講釈が、家老盛岡主膳元長邸で開始された(同前元禄八年三月十九日条)。
通史編3(近世2) (出発)

家老・用人・城代が御目見(おめみえ)し、続いて山水ノ間・梅ノ間・浪ノ間で次々と重臣が御目見する。,玄関より出る時は、玄関下座敷西の方に家老、同東の方に城代、その後に用人が控え、さらに白砂東の方に大目付,文政五年(一八二二)三月の「御参府御供登調帳」(弘図津)によれば、家老津軽頼母(つがるたのも)以下重臣,一番最後は用人と家老であった(『記類』下)。
通史編3(近世2) (金木屋日記にみえる衣服)

礼服では六月二十九日に耕春院へ家老大道寺と一緒に参詣した際は裃を着用していた。,それより以前六月七日には、弘前城下の他家を訪問した際に、絹羽織を着ており、金木屋は家老大道寺や藩の重臣
通史編3(近世2) ((三)日常生活)

に大組足軽頭(おおくみあしがるがしら)、天和二年には馬廻三番組頭となり、元禄十年(一六九七)ころから家老
通史編3(近世2) (入学式)

「封内事実秘苑」は、その状況を伝えて、当世、何事も「唐流」になり、家老を「唐風」に「国相」と、勘定奉行
通史編2(近世1) (家臣団構成)

次に文久元年の分限帳では、役職数は三五と寛延期の半分以下であるにもかかわらず、家老から名主に至るまで三五九人
通史編3(近世2) (一二代承昭の襲封)

大藩細川家と縁を結び、近衛家ともより密接になれるこの申し出に、家老津軽図書・大道寺族之助らが飛びついたのはいうまでもない,その主張の急先鋒は用人山田登であり、彼は同志を募りながら家老西館宇膳・山中兵部・杉山八兵衛らと対決姿勢
通史編3(近世2) (弘前藩の対応)

藩の対応として、江戸表では、一月二十一日、緊迫した状況下に、家老より江戸詰家臣へ向け、残らず帰国命令が,これを受けて、二月四日に再び藩士が城に集められ家老からの口達が出されたが、ここでも、征討の義が述べられ
通史編3(近世2) (養老礼)

この時は「三老」が堀蓮水(御家老隠居 八十余歳 病欠)、「五更」は山野十右衛門(御馬廻組頭 七十余歳)
通史編3(近世2) (勧進能)

この興行は藩主・家老まで報告されていることから、藩庁の強力な後援で行われたことがわかる。
通史編2(近世1) (在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)

められ、天明五年二月二十八日に藩は「当仕込世話役」として、在方七六名、城下五五名の者を任命し、さらに家老津軽多膳
通史編3(近世2) (帰国の旅)

午後十時ころ、家老津軽大学(つがるだいがく)が足軽三人を小山より先に帰国させることを命じる。  ,家老梅津半右衛門が病気のため正木兵庫が出て応対する。,夜食にひやむぎが出されて藩主が召し上がり、家老・用人が相伴し、私たちも頂戴する。  
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

をして戦線近くにいた大隊長山崎所左衛門らであり、一方後者は、奥羽列藩同盟の離反とその制裁を恐れる筆頭家老西館宇膳,五月十二日、家老、用人たちが藩主承昭の前に呼ばれ、「勤王佐幕之儀」について話し合いが持たれた。,仙台から同盟に調印した山中兵部が帰藩し、より詳しい事情を得た弘前藩は、十六日、碇ヶ関(いかりがせき)へ家老杉山上総
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

また素行の長女亀の娘婿、岡八郎左衛門は延宝七年(一六七九)津軽家の家臣となり、天和元年(一六八一)家老,さらに素行の二女鶴は延宝六年(一六七八)藩士喜多村源八に嫁し、源八も天和元年に家老となった。
通史編2(近世1) (意見書提出の奨励)

森岡主膳元徳(もりおかしゅぜんもとのり)(家老)・山田彦兵衛勝令(やまだひこべえかつはる)(用人)・大谷津七郎茂成,(おおやつしちろうもりしげ)(江戸用人)と津軽多膳貞栄(つがるたぜんさだよし)(用人、後に家老)との対立
通史編3(近世2) ((一)箱館戦争の開始)

これに対して弘前藩は、家老大道寺族之助(だいどうじやがらのすけ)・山中兵部(やまなかひょうぶ)の判断で
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

『下国伊駒安陪姓之家譜』(史料一一五五・写真127)は、安藤氏庶子系の子孫である松前下国氏(松前藩の家老職
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

同じ年の十月三十日、家老瀧川統伴(むねとも)は免職、閉門を申し渡された。,このほか、家老大湯五左衛門、郡奉行対馬万右衛門、寺社奉行岡三太左衛門ら四二人がこれに連座し処分を受けた,盛岡藩の家老席日誌である「雑書」(盛岡市中央公民館蔵)がこの事件に関して記している(「雑書」宝永五年十二月七日条,また、家老の盛岡元隆(もとたか)・大道寺直聴・津軽広庸(ひろやす)が、領内から先年の不作の際与えられた,この中では、領内を覆う困窮と藩士が武士らしさを失っている原因を、素行派の家老で元禄十年(一六九七)に知行
通史編3(近世2) ((三)住居)

ここは藩士が勤務したところで、西から東へ上段・御用所上ノ間(家老〈大名の重臣で家務を統轄する者〉が詰める,)、二ノ間(用人・大目付…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三奉行…
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

この時期、列藩同盟参加に大きく傾斜していた家老西館宇膳(にしだてうぜん)・山中兵部(やまなかひょうぶ),結局沢為量通行問題は現地に戻った山崎と秋田出役中の家老杉山八兵衛(すぎやまはちべえ)の独断で処理された
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

、藩主徳広(のりひろ)は病気がちのために、思うように執政を行えず、藩政の実権は、佐幕的性格の強い筆頭家老松前勘解由,徳広の病状は思わしくはなかったが、家老下国安芸崇教(たかのり)を中心として、松前勘解由ら佐幕派を排除した
通史編2(近世1) (領内アイヌと寛文蝦夷蜂起)

先述した七月十五日付の江戸家老北村からの指示には、外浜・十三・鰺ケ沢の松前往来船数と領内アイヌの所有船数
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

翌文久元年(一八六一)春、家老・用人・大目付が二度にわたって楮町の楮畑と、紙漉町の紙漉座とを検分に訪れた,文久二年八月、弘道を庇護し事業を推進してきた家老大道寺族之助が病死した。
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

当面は浅利氏の子と家老を秋田氏の城下へ詰めさせ、以後は一般の家臣同様に城下詰めとすること。,この裁定によって浅利氏は、再び秋田氏家臣として再確認され、さらに軍役・物成の一般家臣並みの上納、子息と家老
通史編3(近世2) (釈奠)

初期のころは春秋二回、藩主もしくはその代理として家老が祭酒となってこれを司った。
通史編3(近世2) (東北戊辰戦争の終結)

盛岡藩は、秋田戦争・野辺地戦争の代価として、家老楢山佐渡の切腹と七万両の賠償を支払うことになった。
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

たとえば一五〇〇石を給された大身の家老、津軽百助(ももすけ)の場合、宝暦十年(一七六〇)の段階では知行地
通史編1(古代・中世) (枝城・端城の城跡)

一方『津軽一統志』『津軽名臣伝』『盛岡由緒書』には、津軽為信代の家老職を務め、独立統一のため戦陣の総師
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

「津軽一統志」の編纂 享保十二年(一七二七)、五代藩主津軽信寿は、家老津軽(喜多村(きたむら))政方,政方は、信政の代に家老を勤めた津軽政広の子息で、山鹿素行の外孫に当たる。
通史編4(近・現代1) (含英女小学創設)

校舎は元寺町森岡氏邸宅(旧藩家老の家柄、現桜大通りの土地)に設けられたが、同邸はほどなく警察署分署となったので
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