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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (薬王院)

このため、六代信著が遺言で長勝寺に埋葬されると、両寺が対立し、報恩寺が津梁院を通じて寛永寺に訴え、その,同三年、寛永寺宮門跡より、「一輪山桂光院報恩寺」の補任状が与えられた(資料近世2No.四〇四)。,参道の西には日吉山山王大権現、東には池の中島に弁天堂を据える島弁天を置き、比叡山や寛永寺を模倣した伽藍配置
通史編3(近世2) (報恩寺)

国元では同三年、報恩寺を寛永寺宮門跡から寺号を受けて創建した(資料近世2No.四〇四)。
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

この様子をみて、報恩寺亮運は長勝寺呂山と論争し、遂に津梁院へ訴え、本寺寛永寺の権威により改葬することになった
通史編2(近世1) (幕末期の借財)

しかし、藩はこの年上野寛永寺山門普請の上納金や、「異国船渡来海防」の経費がかさみ、とても支払える状態でなかった
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

一方旧幕府側は、恭順の意を示すために、二月十二日より徳川慶喜が上野寛永寺大慈院(かんえいじだいじいん)
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

任命(ほぼ譜代大名に限られる)、江戸城各門の警備(門番)、江戸城や幕府施設などの防火(火消・火之番)、寛永寺,桜田門に集合して防火に当たる役目を担った方角火消(なお、増援として奉書火消も併用された)、③江戸城や寛永寺
通史編3(近世2) (出開帳)

開帳による収入の四〇〇両は、寛永寺門主へ宛て藩の飛脚便で送ることになった。  ,寛延元年(一七四八)、善光寺如来開帳のことが、寛永寺門主から江戸の津軽家の菩提寺津梁院(しんりょういん
通史編3(近世2) (戦線の北上)

として結成された彰義隊(しょうぎたい)は反政府的な色彩を濃くし、徳川慶喜が一時身を寄せていた上野東叡山寛永寺
通史編3(近世2) (二代信枚)

図190.求聞寺  天海僧正は、天台宗の僧で徳川家康の帰依を受け、上野の寛永寺(かんえいじ)を創立
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

として一万五〇〇〇両、天保三年(一八三二)には不作などで一万両を融資、さらにこの年の暮れには幕府が同藩へ寛永寺将軍家位牌所
通史編3(近世2) (能楽)

公海は天海の弟子で、京都の毘沙門堂を復興し、家光の命で天海の跡の寛永寺を継いだ人物である。
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●寛永五年(一六二八)九月十四日、寛永寺大僧正天海、津軽信枚へ書状を遣わし、大久保主膳の赦免を伝える。
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