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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編3(近世編2)
(●円明寺 本堂 新寺町--県重宝)
●円明寺 本堂 新
寺町
--県重宝 明応八年(一四九九)に現在の青森市油川に創立されて、その後弘前へ移,ってきたものであり、新
寺町
で一度焼失し、仮本堂として明和元年(一七六四)に再建されたものが現本堂であると / ●円明寺 本堂 新
寺町
--県重宝
資料編3(近世編2)
(●報恩寺 本堂 新寺町--県重宝)
●報恩寺 本堂 新
寺町
--県重宝 津軽三代信義の菩提寺として創立されたもので、その後、三代藩主の五〇 / ●報恩寺 本堂 新
寺町
--県重宝
資料編3(近世編2)
(●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝)
●袋宮寺 本堂 新
寺町
--県重宝 本堂とされているが、三間四方に裳階のついた観音堂であり、境内仏堂とも / ●袋宮寺 本堂 新
寺町
--県重宝
資料編3(近世編2)
(●本行寺 護国堂 新寺町--県重宝)
●本行寺 護国堂 新
寺町
--県重宝 この堂の創立沿革についての詳細は不明であるが、寺蔵の記録では、七代信寧 / ●本行寺 護国堂 新
寺町
--県重宝
通史編3(近世2)
(法源寺)
慶安四年(一六五一)に元
寺町
から新
寺町
へ移った。,『新撰陸奥国誌』は、浪岡から元
寺町
へは慶長十一年(一六〇六)、新
寺町
へは慶安三年に移ったという。
通史編3(近世2)
(南溜池の成立)
図36.正保2年「津軽弘前城之絵図」南溜池部分 慶安二年(一六四九)五月の
寺町
大火によって、現在,の元
寺町
にあった寺院、浄土宗五、法華宗三、門徒寺六、天台寺一が焼亡し、翌三年に
寺町
の寺院を新たに南溜池,の南側に移転させ、この町割りを新
寺町
と称したという(資料近世1No.七一三~七一六)。,同三年には新
寺町
の町割りとともに新たに南溜池に橋が架けられ、万治二年「弘前古絵図」(弘図津)には、在府,(ざいふ)町と新
寺町
を結ぶ通路として西側在府町寄りに橋が描かれている。
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
前年五月三日に横町から火災が起き、
寺町
の五ヵ寺等が焼失した。,新
寺町
には
寺町
にあった天台宗・浄土真宗・日蓮宗・浄土宗の寺院が移転した。,このため、
寺町
は以後本
寺町
(元
寺町
)と呼ばれるようになる。,この絵図では
寺町
の寺院街が空白になっており、新
寺町
の町割りがなされていないので慶安二年(一六四九)成立,・鞘師町が二町(現上・下鞘師町)・本
寺町
五丁目(現元
寺町
小路)ができたこと。
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
成田俊蔵 茂森新町 古堀町 古堀新割町 大島佳寿 新
寺町
, 北新
寺町
新
寺町
新割町 清水慶太郎 親方町 百石町 同細小路 ,一番町 小田桐〓 東長町 元
寺町
鉄砲町 上・下鞘師町 元
寺町
小路
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
慶長十一年に城下
寺町
を経て、現在地。,城下
寺町
を経て、正保年間に現在地へ。,浪岡城主・北畠氏の保護、のち為信が再興し
寺町
を経て現在地。,→城下
寺町
を経て、一六五一年現在地へ。,~五二)に城下
寺町
に移り、のち現在地へ。
通史編3(近世2)
(正蓮寺)
『新撰陸奥国誌』は、栄存は伊勢国(現三重県)桑名の出身で、寛永年間(一六二四~四三)に元
寺町
に創建し、,慶安年間(一六四八~五一)に新
寺町
へ移ったとする。
通史編3(近世2)
(教応寺)
四〇九)、『新撰陸奥国誌』は、開基を了竜とし、石川大膳大夫の家来中山冨之進宗種が出家して正保元年、元
寺町
,に創建し、慶安年間(一六四八~五一)、新
寺町
へ移転したとする。
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
津軽郡第三大区 一小区 弘前町(八九ヵ町) 本町 上白銀丁 下白銀丁 元大工町 元長町 親方町 元
寺町
, 一番丁 鉄砲町 上鞘師町 下鞘師町 元
寺町
小路 東長町 百石町 百石町小路 田町 田茂木町 禰宜町 ,大浦町 亀甲町 小人町 馬喰町 春日町 若党町 鍛冶町 新鍛冶町 北川端丁 南川端丁 銅屋町 桶屋町 新
寺町
, 北新
寺町
新
寺町
新割丁 茂森新丁 古堀新割丁 西茂森町 古堀丁 茂森町 在府丁 相良丁 覚仙丁 森丁,、大矢場は新
寺町
新割町、足軽町は富田町、普光寺跡門前は住吉町、和徳足軽町・薬王院・薬王院門前町は和徳町
通史編3(近世2)
(西光寺)
弘前城下の形成に伴い、元
寺町
へ移った跡の草庵は、のちに西光院となる。,慶安二年(一六四九)に類焼し、新
寺町
貞昌寺山内へ移った。
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
元大工町、森町、覚仙町、塩分町、上白銀町、元長町、茂森町、西茂森町、茂森新町、古堀町、古堀新割町、新
寺町
,、北新
寺町
、新
寺町
新割町 朝陽 中初 土手学区 三 ○土手町、品川町、山道町、住吉町、新品川町、鍛冶町,北横町、茶畑町、茶畑新割町 和徳 中初 亀甲学区 二 親方町、百石町、百石町小路、一番町、東長町、元
寺町
,、鉄砲町、○上鞘師町、下鞘師町、元
寺町
小路、下白銀町、笹森町、長坂町、蔵主町、大浦町、田町、田茂木町、
通史編3(近世2)
(西福寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、堀越城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前城下元
寺町
の貞昌寺門内に,慶安二年(一六四九)に類焼し、新
寺町
貞昌寺山内へ移った。
通史編3(近世2)
(天徳寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、弘前城下形成により、大浦城下から元
寺町
へ移ったとする。,慶安二年(一六四九)に類焼し、新
寺町
貞昌寺山内へ移転した。
通史編3(近世2)
(法立寺)
文禄三年(一五九四)に堀越、慶長十六年(一六一一)元
寺町
へ移転、同十七年、信枚は法立寺を本行寺と改称させ,慶安二年(一六四九)に類焼し、新
寺町
へ移った。
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
経過市町村 終尾 第41号国道 青森市長島 滝内村、新城村、大杉村、浪岡村、藤崎村、和徳村、弘前市元
寺町
,弘前市土手町 山道町、住吉町、清水村富田 第八師団司令部 歩兵第三十一聯隊兵営 弘前市親方町 本町、新
寺町
,歩兵営 輜重兵第八大隊兵営 弘前市新
寺町
清水村富田樹木派立 輜重営 騎兵第八聯隊兵営 第八師団司令部,中津軽郡役所 弘前市土手町 弘前市山道町、清水村富田 中津軽郡役所 停車場道 弘前停車場 弘前市元
寺町
,和徳村 弘前停車場 黒石道 弘前市土手町 代官町、和徳村、豊田村、猿賀村 尾上村尾上 国幣社道 弘前市元
寺町
通史編3(近世2)
(専徳寺)
正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によれば、慶長七年(一六〇二)、一町田村より元
寺町
へ移り、それから,新
寺町
へ移ったとする。
通史編3(近世2)
(円明寺)
慶安二年(一六四九)、元
寺町
において類焼し、翌三年新
寺町
へ移った。
通史編3(近世2)
(浄土宗)
図195.浄土宗本末関係図 信政は、宝永五年(一七〇八)に江戸浅草の熊谷(くまがい)稲荷を新
寺町
,に創建(現新
寺町
稲荷神社)し、別当白狐寺(びゃっこじ)を新たに造り、貞昌寺隠居入誉と弟子澄水に預けた。,、現在廃寺になっている出羽国大館の青蓮庵が金戒光明寺の末寺であったことと(遠藤聡明「宝永五年の弘前新
寺町
稲荷神社
通史編3(近世2)
(本行寺)
本行寺 本行寺(ほんぎょうじ)は、慶長十七年(一六一二)、元
寺町
にあった法立寺を改称したことに始まる,慶長年間(一五九六~一六一四)、法立寺が堀越より弘前元
寺町
へ移ると、信枚は本行寺と改称させようとした。,慶安二年(一六四九)に類焼し、法立寺は新
寺町
へ移った。
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
稲荷宮 稲荷宮(現新
寺町
稲荷神社)は、江戸浅草にあった熊谷(くまがい)稲荷を祀ったものである。,貞昌寺隠居入誉が、貞昌寺内に勧請したところ、この稲荷を祀る所が繁栄するというので、宝永五年(一七〇六)、信政が新
寺町
通史編3(近世2)
(真教寺)
現石川県)出身の浄理が坪貝(つぼかい)村(現中津軽郡岩木町)に創建し、大浦城(同町)が弘前へ移る時に元
寺町
,慶安二年(一六四九)に類焼し、同四年に新
寺町
へ移った。 ,俗謡に、「新
寺町
の真教寺の杉のしんこさ、雀四十四羽巣くてら」とうたわれるほど城下民に親しまれてきた。
通史編3(近世2)
(白狐寺)
白狐寺 白狐寺(びゃっこじ)は、稲荷宮(現新
寺町
稲荷宮)の別当であった。,弟子の貞昌寺隠居入誉が貞昌寺内に勧請したが、信政が宝永五年(一七〇八)新
寺町
に稲荷宮を創建し、別当を白狐寺
通史編4(近・現代1)
(含英女小学創設)
校舎は元
寺町
森岡氏邸宅(旧藩家老の家柄、現桜大通りの土地)に設けられたが、同邸はほどなく警察署分署となったので,写真55 明治初期の含英女小学(元
寺町
) 表16 弘前各小学(明治八年) 名 称 地 名 設立年,白銀女小学 同 白銀町 同 八年 旧官舎 公有 一 三 - 二一〇 含英女小学 同 元
寺町
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒越町、馬屋町、茂森町、片堀町(旧古堀町)、茂森派立、新
寺町
,、田茂木町、田町、小人町、若党町、春日町、禰宜町、馬喰町、長坂町、笹森町、蔵主町、大浦町、東長町、元
寺町
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
富田新町・新品川町・新
寺町
新割町なども慶応から明治初期にかけてできた侍町である(『新撰陸奥国誌』)。,そのほか、北新
寺町
が武家町になっているなどの変化がみられる。,鉄砲場は春日町の春日神社の境内、同大星場(大砲発射練習場)は常盤坂の千本杉と石森の間、矢場は南溜池沿い新
寺町
通史編4(近・現代1)
(時敏小学校の創設)
小人町、春日町、馬喰町、亀甲町の一二ヵ町)と盈進学区(親方町、百石町、百石町小路、一番町、東長町、元
寺町
,、鉄砲町、上鞘師町、下鞘師町、元
寺町
小路、下白銀町の一一ヵ町)とに分かれていた。
通史編3(近世2)
(浄徳寺)
は、越後国(現新潟県)出身の仙休が寛永年間(一六二四~四三)にこの地に至り、慶安元年(一六四八)に新
寺町
通史編1(自然・原始)
(松原面)
また寺沢川流域の新
寺町
や在府町付近にも小規模ながら分布している。 ,松原小学校④(七〇メートル)・学園町(六一メートル)・第三大成小学校⑤(五〇メートル)・寺沢川流域の新
寺町
,軽石質砂層直下には、新
寺町
では泥炭層(厚さ〇・五~一メートル)と砂質シルト(二~三メートル)の互層が、
通史編3(近世2)
(明教寺)
現茨城県)鹿島郡高松の出身で、寛永二年(一六二五)、賀田村(現中津軽郡岩木町)に草庵を結び、承応三年に新
寺町
通史編3(近世2)
(貞昌寺)
弘前城下の形成に伴い、大光寺から元
寺町
へ移ったが、正保二年(一六四九)の火事で類焼し、翌三年に新
寺町
へ
通史編3(近世2)
(白道院)
同八年に新
寺町
へ移転し、明治五年(一八七二)、遍照寺に合併した。
通史編3(近世2)
(慈雲院)
後に建立される黄檗宗慈雲院(現廃寺、市内新
寺町
)は、この古跡の復興として認められた。
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
ここは、旧東長町外廿二ヶ町戸長役場の建物を買収したもので、翌年元
寺町
一番地の中津軽郡役所跡に移った。,写真61 元
寺町
の市庁舎(明治25年新築) 中津軽郡各村の初代村長は次のとおりである。
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
弘前城下の問題としては、慶安二年(一六四九)五月三日に横町よりの火災で
寺町
の大寺五ヵ寺等が焼失し、翌年三月,に南溜池の南側に新
寺町
の派立がなった(同前No.七一三・七一四)。,
寺町
に新しい屋敷割ができ、本
寺町
(現元
寺町
)となるのは承応元年(一六五二)のことである(同前No.七四三
通史編5(近・現代2)
(弘前大谷幼稚園)
弘前大谷幼稚園 四十二年(一九六七)三月十八日、新
寺町
一五六番地二に弘前大谷幼稚園が設立認可された。
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
がみられたのは、慶安二年(一六四九)に横町(現東長町)の算盤(そろばん)屋大坂屋久兵衛宅から出火した火事により、
寺町
,の五ヵ寺が類焼し(資料近世1No.七一三・七一四)、翌年
寺町
の寺院を南溜池の南に移動させて新
寺町
を形成
通史編3(近世2)
(黄檗宗)
慈雲院を、享保十年(一七二五)、新
寺町
報恩寺の東側に創建する時は、新寺建立禁止に触れるため、長勝寺山内
通史編3(近世2)
(消防制度)
その鐘によって、二の丸の時太鼓櫓の者が、城郭内の火災の場合は早太鼓を打ち、周辺の
寺町
(てらまち)・蔵主町,本町(本町・新
寺町
(しんてらまち))、鍛冶町(かじまち)(鍛冶町・桶屋町(おけやまち)・銅屋町(どうやまち,きたよこちょう)・南横町(みなみよこちょう)・田町(たまち))、東長町(ひがしながまち)(東長町・元
寺町
通史編3(近世2)
(憩いの地としての南溜池)
文化十年二月には、在府町・相良町・新
寺町
・鍛冶町・茂森町の子供や家中の召使が、南溜池の「氷渡(こおりわたり,また津軽地方における富籤(とみくじ)興行が、文化九年(一八一二)新
寺町
の慈雲院(じうんいん)など同町に
通史編3(近世2)
(山伏にあるまじき行為)
大重院は医王山大重院教円寺(きょうえんじ)と称し、大行(だいぎょう)院(宝暦四年〈一七五四〉新
寺町
の報恩寺隣接地
通史編5(近・現代2)
(都市計画と道路建設)
3.3.8 紺屋町和徳町線 25 2,270 昭和53年1月14日 1,053 3.3.10 元
寺町
向外瀬線,0 3.4.3 上白銀町桔梗野線 16 3,090 〃 昭和48年11月22日 0 3.4.4 元
寺町
小沢線,16 3,300 〃 〃 0 3.4.5 上白銀町新
寺町
線 16 1,020 〃 〃 0 3.4.6
通史編3(近世2)
(火災)
①慶安二年(一六四九)五月二日、横町(よこまち)(東長町(ひがしながまち))より出火し、本
寺町
(もとてらまち,③延享元年(一七四四)五月十一日、本町(ほんちょう)一丁目から出火して一丁目~五丁目・親方町・本
寺町
・
通史編3(近世2)
(大円寺)
門外(かどけ)村(現市内)に移り、弘前城築城にあたり美濃輪田に移転し、寛永年間(一六二四~四三)に新
寺町
通史編4(近・現代1)
(町並みの推移)
商業の中心地域が従来の本町から、土手町・元
寺町
・百石町にその繁華を移したのもこのころであったが、三十七年,また、兵営に近接する富田町、新
寺町
、住吉町あたりには、将校や下士官のための下宿屋、そして兵隊相手の飲食店,それから弘前の夜景は、本町・元
寺町
はこの地目抜の箇所だけに、料理店・旅人宿・銀行・警察署・郵便局・芝居座
通史編3(近世2)
((三)住居)
同下町・横町(後に東長町(ひがしながまち))・上(かみ)長町(後に元長町(もとながまち))・下長町・
寺町
,(後に元
寺町
(もとてらまち))・土手町(どてまち) 城南―親方町(おやかたまち)・志わく町(しわくまち
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
毎年の定期発表会(翌年から元
寺町
の弘前東宝劇場を使用)のほかNHKのラジオ番組に出演し、また、夏休みや,笹森町 浜の町 和徳町 馬屋町 鍛冶町 新鍛冶町 銅屋町 南川端町 本町 亀甲町 田茂木町 仲町 下元
寺町
通史編3(近世2)
(大行院)
承応二年(一六五三)、花輪(鼻和)庄八幡郷より新
寺町
報恩寺東隣へ移転、宝暦四年(一七五四)、茂森の常源寺坂
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