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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (寺社政策)

寺社政策 宝暦改革は寺社をもその対象とした。,乳井貢の寺社の在り方についての考え方や、当時の寺社の状況、そして何より、前述した経済政策をはじめとして,、領内全体を対象としなくてはならない改革の特質から、寺社のみを例外とするわけにはいかなかった。,それではなぜ、このように領内寺社の軒数・員数改めが徹底してなされたのであろうか。,また、寺社門前町方の町奉行への移管替えも行われ、町方支配の合理化が図られた。 / 寺社政策
通史編3(近世2) (四 寺社建築)

四 寺社建築 弘前市周辺に存在する寺社建築は、そのほとんどが既に文化財に指定されており、これまでにもたくさんの,本文では、これまで寺院と神社を分けて述べられた書籍が多い中で、寺社建築を一緒にして年代別にみてゆく。 / 四 寺社建築
通史編3(近世2) ((一)寺社の開帳)

(一)寺社の開帳 開帳とは、寺社が厨子に入れて秘蔵する神仏や霊宝を公開して、人々に拝観させることで、,居開帳(いがいちょう)は自分の寺社において、出開帳(でがいちょう)は繁華地に出向いて行うものであった。,もともと結縁(けちえん)により加護を得るというのが本来の目的であったが、しだいに寺社の修復や経営の費用,それによって寺社は多額の臨時収入を得ることができたのである。,津軽における開帳は、「国日記」にみられ、その中から特色あるものを寺社ごとにまとめて摘記しよう。 / (一)寺社の開帳
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

二 北奥宗教界を彩る中世的寺社 前項一においては、『津軽一統志』によりながら、弘前を含めた北奥津軽の,古代・中世における寺社群を表化した。,本項では、それを受けて、『新撰陸奥国誌』によりながら、弘前地域に限定した寺社世界の中世的な展開相を眺めてみることにしよう,今日の「禅林三十三ヵ寺」や「新寺町」が政治的に形成されたのは、近世期のことであり、その意味で、今日の寺社群,「弘前近隣における古代・中世の寺社」は、前項一でみた『津軽一統志』のなかの、主要寺社から、弘前と深いかかわりを / 二 北奥宗教界を彩る中世的寺社
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

三 中世寺社の存在形態 津軽地域における寺社の存在形態を最も基本的に規定したのは、何といっても、「蝦夷管領 / 三 中世寺社の存在形態
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

ここには領内の全寺社名・藩主からの寄進の石高・堂社の管理者が記されており、藩は寺社の経済的把握のみならず,寺社領は全部で三六九二石余で、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)の三八五九石余,寺社奉行は定員二人が月番で、官署が設けられていなかったので、寺社奉行宅で事務を取り扱った。,配下に寺社役二人、寺社方物書三人、寺社方小使三人が属した(黒瀧十二郎『日本近世の法と民衆』一九九四年 ,寺社の縁起は、真言宗最勝院を除いて、寺社の手で元禄十四年(一七〇一)・十五年に成立したものが残っている
通史編3(近世2) (藩政後期)

これらは藩士・寺社の破綻した経済を再建させるための政策であった。,同年、藩庁は寺社門前をそれまでの寺社奉行より町奉行の支配下に置き、町役の負担はこれまでどおり寺社奉行の,しかし、町役は出人足であったので、寺社に奉仕させる掃除等の出人足はそのまま寺社奉行の扱いとした。,このような急激な財政再建は領内経済を混乱させ、標符の廃止、乳井の失脚によって終わったが、寺社領、寺社門前,享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)は、「貞享検地帳」、正徳の「寺社領分限帳
通史編2(近世1) (僧侶・神官対象の司法制度)

幕府の「寺社方御仕置例書(じしゃかたおしおきれいしょ)」―明和七年閏六月など)を適用あるいは参考とされた,②の場合は、入牢・揚屋入りではなく、寺社奉行の管轄下で行われ、末寺の起した事件は僧録所(そうろくじょ),②の場合、寺社奉行が寺社奉行宅で申し渡しているのが一般的傾向であった。  ,僧侶・神官が俗人と組んで犯罪を犯した場合、僧侶・神官は正犯・従犯ともに寺社奉行の管轄で、②と同様に寺社奉行,が寺社奉行宅で申し渡すのが一般的傾向であったといえよう。
通史編3(近世2) (神道)

神職組織は延宝六年(一六七八)に寺社奉行が設置されて、寺社行政が整備されていく中で形成されてきた。,図202.神職組織と神道本末関係図  神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門のみは寺社奉行の直接支配,寺社奉行は宝暦七年(一七五七)、山村父子を寺社奉行の直接支配に変更したが、最勝院・社家頭の働きかけによって,それは、官職受領願は寺社奉行へは最勝院の添状が必要であったが、吉田家へは寺社奉行の添状のみを持参するので,正徳元年(一七一一)「寺社領分限帳」に百姓名の禰宜一六人がみえるが、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳
資料編3(近世編2) (はじめに)

はじめに 近世になって城郭が形成されていった弘前では、数多くの寺社がいっきに建立され、それがまた、よく,ここではそれらの寺社を取り上げてみるなかで、気のついたことを書き上げてみることにする。  ,特に、二代信枚のころは、弘前城郭の建設とともに城下町の建設が行われ、城下町鎮護のための寺社の整備も急がれたようであった,城郭外の寺社建築の様子を眺めても、慶長十七年(一六一二)の弘前八幡宮、慶長十八年(一六一三)の熊野奥照神社,また、寛永十五年(一六三八)ごろには、岩木町百澤寺の工事がなされており、この辺りまで、あちこちの寺社の
通史編3(近世2) (寺院の動向)

大幅な家禄削減の結果、藩士たちの大多数は非常に苦しい生計を余儀なくされたが、禄の削減は聖域を設けず寺社禄,藩は同三年閏十月四日に寺社禄につき九ヵ条からなる布達を発した。,その内容は、以後、寺社禄は地方知行(じかたちぎょう)(知行地からの年貢徴収をその領主に任せる方式)から,つまり、寺社領の自立性を弱めて藩の統制下におく政策が断行されたのである。,この寺社禄の削減は、別当寺院廃止も手伝って寺院の存続を根底から揺るがした。
通史編3(近世2) (勝岳院)

「長勝寺並寺院開山世代調」・「曹洞諸寺院縁起志」・正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、いずれも「,正岳院」とするが、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」に至って「勝岳院」と称していることがわかる。
通史編3(近世2) (弘前八幡宮小野家)

寺社奉行は、寛文元年(一六六一)の切支丹改衆から仕事を引き継ぎ、延宝六年(一六七八)に岡文左衛門・成田七郎右衛門,寺社奉行の設置によって寺社行政が整備されていく中で、神職組織も整えられていった。,八幡宮の別当最勝院は、寺社奉行のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職
資料編3(近世編2) (【解説】)

【解説】 第八章「藩政期の宗教と信仰」では、弘前市内の寺社に関する史料を掲載し、市外は省略した。,但し、寺社の書上帳として、最も古くまとまりをみせている「長勝寺並寺院開山世代調」は全文を掲載した。,第一節は「宗教政策の展開」とし、弘前藩庁日記(国日記)から切支丹改め、切支丹類族改め、寺社奉行の設置に,(一六八二)七月に月番制の採用があり(封内事実秘苑)、以後寺社行政が整備されていくことになる。,分限帳として最も完備しており、寺社の財産目録であり、この時点での文化財目録であるとも言えよう。  
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

四 中世津軽の宗教世界の特色 中世津軽の宗教界の特色の第一は、冒頭で触れたように、寺社群が一ヶ所に集中,次にその点在の在り方を、寺社建立の形態を物差しにしてみると、大別して、三つの形態に類型化できる。  ,これは寺社建立における「国家権力」型と規定していいだろう。,この「国家権力」型の寺社建立のさらなる進展としてあらわれたのが、在地土豪クラスによる寺社造立である。,この「在地領主」型を中世津軽における寺社建立の第二類型とすれば、第三のそれは「中央教団」型の寺社建立である
通史編3(近世2) ((二)富籤興行)

幕府は、元禄年間(一六八八~一七〇三)に、流行する富籤を禁止したが、他方、寺社に堂社の修復費を目的とする,各大名領でも寺社の助成を目的とする富籤が行われたが、特産品の入札・宿場入費の助成から、港・芝居小屋修復,八月十五日には貴賤の群集が境内で見物するなか、寺社方・徒目付が立ち会って抽選が行われ、一番は鰺ヶ沢米蔵,、他の寺社との調整を行っていたことがわかる。  ,広居富吉の申請により、町奉行が寺社と同じ取り扱いをした。
通史編3(近世2) (最勝院)

しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)には「本寺高野山心南院」とあり、享和三年(一八,〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)には「勧修寺宮院室密乗院兼金剛山光明寺最勝院」とみえる,享和三年の「寺社領分限帳」によれば、本堂には八幡宮本地仏として、信枚寄進の阿弥陀仏、信重寄進の勢至・観音
資料編3(近世編2) (第一節 宗教政策の展開)

第一節 宗教政策の展開 一 切支丹改め 二 切支丹類族 三 寺社奉行の設置 四 社寺取り調べ
通史編3(近世2) (二代信枚)

慶長十五年(一六一〇)に高岡(たかおか)(現弘前市)に築城を開始すると、城下町形成に当たり堀越や在方から寺社,を移転させ、城下防衛の役割を負わせるとともに、寺社を通じて領民の掌握に当たった。,信枚は、由緒ある寺社を取り立てて保護を加える一方、城下町形成に当たって寺社を移動させ、それまで寺社が持
資料編2(近世編1) (一 宝暦改革の実施)

(一)改革の開始と諸政策 (二)改革の変容と「標符」の発行 (三)改革の終焉 (四)改革の寺社政策
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

改帳は国元にも置かれたが、一部は江戸藩邸から幕府寺社奉行へ提出した。,これを郡奉行を通して寺社奉行へ提出した。,藩士の場合は、御目見以上は寺社奉行へ直接提出し、組支配の者は番頭に判鑑を置き、組頭より寺社奉行へ提出した
通史編2(近世1) (弘前八幡宮の祈祷)

弘前八幡宮の祈祷 津軽弘前藩は、藩体制の危機を回避する願望を込めて祈祷(きとう)を寺社に命じている。,その祈祷を行うことが寺社の役務(やくむ)であったが、それが最も顕著に遂行されたのが蝦夷地警備に関するものであった,35 五穀成就・風雨順時祈祷 163 その他(時疫退散祈祷等) 40 注) 長谷川成一「近世北奥大名と寺社,しており、対外危機が直接的に藩国家の危機認識につながっていることがわかる(長谷川成一「近世北奥大名と寺社
通史編3(近世2) (住吉宮)

寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、寺社奉行の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ,この時、寺社奉行直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・社家頭
通史編3(近世2) (本行寺)

しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」では為信からの寄進を五〇石とし、享和三年(一八〇三)の「,寺社領分限帳」は信枚から三〇石、信義から二〇石、信寧から三〇石と俵子三〇俵、合わせて八〇石三〇俵の寄進
通史編3(近世2) (熊野宮)

、慶長十五年(一六一〇)、信枚が再建し、社領一三石九斗余を寄進したとするが、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳,毎年六月十五日の神事には寺社奉行が出座して神楽を奏するほか、五穀成就・国家安穏の祈祷を行った(「国日記
通史編3(近世2) (徳増寺)

徳増寺 徳増寺(とくぞうじ)は、「山崎専称寺並末寺由緒記」、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(
通史編3(近世2) (火災)

火災 火災は武家町・町人町では頻繁に発生しており、寺社や城郭内からも起きている。,延宝九年の「寺社法度」によれば、寺社に対して灯明などの火の用心が厳しく通達されていたのである(前掲『御用格
通史編3(近世2) (修験)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、大峰派六六人、羽黒派六人を数え、心応院,宝暦六年(一七五六)に大行院から寺社奉行に対し、神職が霞内で修験の祈祷を排除する動きに抗議が出された。
通史編3(近世2) (安盛寺)

寺領二〇石は、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によると、信義の寄進によるものであった。
通史編3(近世2) (白道院)

白道院 白道院(びゃくどういん)は、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、「貞昌寺念仏堂覚入庵
通史編3(近世2) (梅林寺)

(同前No.四一四)は信義が森岡家は先祖の家にあたるとして寄進したとするが、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳
通史編3(近世2) (切支丹類族)

この時、必要によっては寺社奉行が立ち会うことになっていた。,類族改めは春秋二回行い、組頭を通して寺社奉行へ提出させた。,同六年、「古切支丹類族帳」を幕府へ提出し、今後はその控えをもとに寺社奉行が類族改めを行うことにした。
通史編3(近世2) (正伝寺)

「長勝寺並寺院開山世代調」、「曹洞諸寺院縁起志」、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、「松伝寺」
通史編3(近世2) (概観)

そして三つ目は、寺社に関する造形で、仏像や仏画、狛犬(こま)や絵馬、建築に付随する天井画や襖絵などの問題,さらに第三の寺社の彫刻絵画については、明治二十九年(一八九六)に市役所が行った「社寺寶物調」以外にほとんど
通史編3(近世2) (十一面観音堂)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、慶長元年(一五九六)八月十七日に為信の長男信建が鰐口を寄進
通史編3(近世2) (蘭庭院)

しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は慶長年間(一五九六~一六一四)に兼平村より弘前へ移ったとする
通史編3(近世2) (法立寺)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、寺領五〇石は為信が慶長年間(一五九六~一六一四)に寄進したとする
通史編3(近世2) (下居宮)

に大堂を再建、寺領四〇〇石を寄進し塔頭一〇院と神主安倍を配した(資料近世1No.一七一、正徳元年の「寺社領分限帳,享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)によれば、大堂(拝殿)の本尊阿弥陀如来
通史編3(近世2) (専徳寺)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によれば、慶長七年(一六〇二)、一町田村より元寺町へ移り、それから
通史編3(近世2) (二十三夜待)

このほか、農家では真言を唱えながら、害虫を追う虫送りをしているが、雨乞いは藩が寺社に命じて行わせた(資料近世
通史編3(近世2) (東照宮)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、宝物として信枚寄進の天海筆の東照権現三所像・東照宮名号、信政寄進
通史編3(近世2) (清安寺)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、信枚が慶長年間(一五九六~一六一四)に三三石三斗三升を寄進したとする
通史編3(近世2) (三代信義)

うとうじんじゃ)、青森市)を再建、古懸不動尊(こがけふどうそん)(現国上寺、南津軽郡碇ヶ関村)を移転させ、寺社
通史編3(近世2) (先祖供養)

図254.寺社建築の用語(1) 図255.寺社建築の用語(2)
通史編2(近世1) (裁判と判決)

を隔てて三之丸東側の評定所(ひょうじょうしょ)のほかに、庄屋(しょうや)(名主(なぬし))・町奉行・寺社奉行宅,評定所では大目付(おおめつけ)または目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(寺社奉行
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

このとき「在々住居之諸人並大浦御城下面々、堀越え御引越被仰付、其外寺社之分も引越被仰付候」(『永禄日記,それゆえ、これらの記録が正しければ、堀越城では家臣団の集住が進められただけで、領内の寺社・商工業者の城下集住
通史編3(近世2) (藩主の行列)

参勤交代のみならず、そのほか領内の寺社参詣や視察などによる藩主の行列へ農民が出会った場合には、次のような
通史編3(近世2) (耕春院)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によると、寺領一〇〇石は為信が寄進している。
資料編1(古代・中世編) (五 乳井地区の城館群と宗教的領域)

図51 乳井地区の中世城館と寺社・集落の分布  興味深いのは、近世の「乳井通り」=中世の奥大道が,中世社会においては、寺社の境内は世俗権力の介入を許さぬ一種のアジール(治外法権領域)をなしていたことが,乳井地区の「寺内」は近世の呼称であるが、これまで見てきたようなこの地域の街道の配置、寺社の分布、城館の
通史編1(古代・中世) (青森県内の田村麻呂伝説)

東北地方の田村麻呂関係寺社では多くが延暦十五年以降建立とされており、十二年まで遡るものはめずらしい。,また福島県あたりでは、大同二年説話をもつ寺社が、法相(ほっそう)宗の高僧徳一(とくいつ)開基であるとされるものであることから
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