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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(僧侶・神官対象の司法制度)
②の場合は、入牢・揚屋入りではなく、
寺社奉行
の管轄下で行われ、末寺の起した事件は僧録所(そうろくじょ),②の場合、
寺社奉行
が
寺社奉行
宅で申し渡しているのが一般的傾向であった。 ,僧侶・神官が俗人と組んで犯罪を犯した場合、僧侶・神官は正犯・従犯ともに
寺社奉行
の管轄で、②と同様に
寺社奉行
,が
寺社奉行
宅で申し渡すのが一般的傾向であったといえよう。
通史編3(近世2)
(神道)
神職組織は延宝六年(一六七八)に
寺社奉行
が設置されて、寺社行政が整備されていく中で形成されてきた。,図202.神職組織と神道本末関係図 神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門のみは
寺社奉行
の直接支配,この矛盾は宝暦五年(一七五五)、山村伊勢・和泉の父子が、住吉宮の護国神を唯一神道で祀り、
寺社奉行
から直接,
寺社奉行
は宝暦七年(一七五七)、山村父子を
寺社奉行
の直接支配に変更したが、最勝院・社家頭の働きかけによって,それは、官職受領願は
寺社奉行
へは最勝院の添状が必要であったが、吉田家へは
寺社奉行
の添状のみを持参するので
資料編3(近世編2)
(第一節 宗教政策の展開)
第一節 宗教政策の展開 一 切支丹改め 二 切支丹類族 三
寺社奉行
の設置 四 社寺取り調べ
通史編3(近世2)
(藩政後期)
続いて、臨時の祈祷を命じる時は
寺社奉行
より祈祷料を出すこと、堂社破損の際は財政難ですぐにできないが、いずれ,同年、藩庁は寺社門前をそれまでの
寺社奉行
より町奉行の支配下に置き、町役の負担はこれまでどおり
寺社奉行
の,しかし、町役は出人足であったので、寺社に奉仕させる掃除等の出人足はそのまま
寺社奉行
の扱いとした。,よって
寺社奉行
により領内の全堂社の把握が行われたことになる。,図192.神社微細社司由緒調書上帳 慶応元年(一八六五)、藩は軍制改革に着手し、
寺社奉行
は神職
通史編3(近世2)
(キリシタン改め)
改帳は国元にも置かれたが、一部は江戸藩邸から幕府
寺社奉行
へ提出した。,これを郡奉行を通して
寺社奉行
へ提出した。,藩士の場合は、御目見以上は
寺社奉行
へ直接提出し、組支配の者は番頭に判鑑を置き、組頭より
寺社奉行
へ提出した
通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
寺社奉行
は、寛文元年(一六六一)の切支丹改衆から仕事を引き継ぎ、延宝六年(一六七八)に岡文左衛門・成田七郎右衛門,
寺社奉行
の設置によって寺社行政が整備されていく中で、神職組織も整えられていった。,八幡宮の別当最勝院は、
寺社奉行
のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職
通史編3(近世2)
(住吉宮)
寛延三年(一七五〇)に六代藩主夫人の願いから、
寺社奉行
の手で江戸から護穀大明神(現護穀神社(ごこくじんじゃ,この時、
寺社奉行
直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する最勝院・社家頭
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
延宝六年(一六七八)に切支丹改役の岡文左衛門に加えて成田七郎右衛門を
寺社奉行
に任命した(同前No.三九五,
寺社奉行
は定員二人が月番で、官署が設けられていなかったので、
寺社奉行
宅で事務を取り扱った。,各宗派とも僧録寺院の後継住職は、家老宅において
寺社奉行
・大目付が出座して家老より申し渡された(「国日記,また、僧侶が禁足などの処罰を申し渡される時は、
寺社奉行
宅で行われた(同前元禄十四年五月二十六日条)。
通史編3(近世2)
(切支丹類族)
この時、必要によっては
寺社奉行
が立ち会うことになっていた。,類族改めは春秋二回行い、組頭を通して
寺社奉行
へ提出させた。,同六年、「古切支丹類族帳」を幕府へ提出し、今後はその控えをもとに
寺社奉行
が類族改めを行うことにした。
通史編2(近世1)
(裁判と判決)
を隔てて三之丸東側の評定所(ひょうじょうしょ)のほかに、庄屋(しょうや)(名主(なぬし))・町奉行・
寺社奉行
宅,評定所では大目付(おおめつけ)または目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(
寺社奉行
通史編3(近世2)
(神明宮)
寺社奉行
が直接取り扱う領内で唯一の宮で、下社家二軒が配された。
通史編3(近世2)
(猿賀神社より盗み)
すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(
寺社奉行
・町奉行・勘定奉行・郡奉行)の命令
通史編3(近世2)
(浄土宗)
このため入誉は
寺社奉行
と協議し、専称寺と系列の異なる黒谷の金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)へ古跡・無本寺
通史編3(近世2)
(熊野宮)
毎年六月十五日の神事には
寺社奉行
が出座して神楽を奏するほか、五穀成就・国家安穏の祈祷を行った(「国日記
通史編3(近世2)
(修験)
宝暦六年(一七五六)に大行院から
寺社奉行
に対し、神職が霞内で修験の祈祷を排除する動きに抗議が出された。
通史編3(近世2)
((一)寺社の開帳)
江戸では幕府の
寺社奉行
へ願い出て、六〇日の長期間にわたるものには許可が記録され、短期間のものは記録されなかった
通史編3(近世2)
((二)本末制と僧録制)
これを補うため、江戸に各派の役所である江戸触頭(ふれがしら)=僧録(そうろく)所を置かせ、
寺社奉行
から
通史編2(近世1)
(寺社政策)
同四年閏二月二十七日の
寺社奉行
から諸寺院に出された「御廻状」によれば、本寺への修行等のため留守居を置いている,そして、祈祷に専念させるために、今後臨時の祈祷料などの支給に関しては
寺社奉行
が直接行い、また堂塔の修復
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
そのため三奉行(
寺社奉行
・町奉行・勘定奉行)が、三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場
資料編3(近世編2)
(【解説】)
第一節は「宗教政策の展開」とし、弘前藩庁日記(国日記)から切支丹改め、切支丹類族改め、
寺社奉行
の設置に,
寺社奉行
は、それまで切支丹奉行であったものが任命されており、切支丹改めの作業が進む中で設置され、天和二年
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
とりあえず、藩は
寺社奉行
を社寺(しゃじ)御用所、寺社役を社寺調方と改め、別当寺院の神職支配を停止させた
通史編3(近世2)
(神事能)
護穀神は、六代藩主夫人の願いから寛延三年(一七五〇)江戸から
寺社奉行
によって移され、領内五穀成就を祈る
通史編3(近世2)
(商業の農村進出)
さらにその後元治元年(一八六四)には、三奉行(町奉行・
寺社奉行
・郡奉行)から次のような申し出があった。
通史編3(近世2)
((三)住居)
、二ノ間(用人・大目付…用人は家老の補佐役、大目付は監察を任務とし法規典礼を掌る)・三ノ間(三奉行…
寺社奉行
通史編3(近世2)
(礼服)
のしめながばかま)(長柄(ながえ)奉行以上……長柄奉行とは長柄隊の頭で番方(ばんかた)の役職の一つ)、熨斗目半袴(
寺社奉行
通史編2(近世1)
(弘前藩庁日記の開始)
」一日分の記事内容は、初期のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老・用人・大目付・
寺社奉行
通史編3(近世2)
(生活の困窮)
そのため彼らの支配頭(がしら)と三奉行(町奉行・
寺社奉行
・勘定奉行)の相談により、質入れした品物は本人
通史編2(近世1)
(藩士対象の司法制度)
③の場合は、僧侶は
寺社奉行
―すなわち異なる機関で処理された(藩士と僧侶・神官との共同正犯の場合も同じと
通史編2(近世1)
(文久の面改め)
続く七月四日には、具体的に取り調べるための留意点を「面改取調方」名義で作成し、
寺社奉行
・九浦町奉行に冊子
通史編3(近世2)
(勤務の状況)
御用座敷は上ノ間から家老、二ノ間は用人・大目付、三ノ間は三奉行(
寺社奉行
・町奉行・勘定奉行)、四ノ間は
通史編2(近世1)
(烏帽子山紛争)
正徳三年十一月二十三日、この事件を担当する
寺社奉行
森川重興の屋敷に双方の当事者である百姓が出頭し対決した
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
藩内の吉凶事、重要な政策遂行の折りに使者(原則的には組頭)を立てて高照神社に報告したものである(管轄は
寺社奉行
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
藩は
寺社奉行
を頂点として、仏教は薬王院(やくおういん)・百沢寺(ひゃくたくじ)・神宮寺(じんぐうじ)・
通史編3(近世2)
(出開帳)
天明元年一月に
寺社奉行
土岐美濃守定経より許可が出て、閏五月に三〇人を擁して宝物類を江戸へ運んだ。
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
用人は家老に次ぐ役方の重職で、その支配対象は広範囲にわたり、使役・船奉行・
寺社奉行
・町奉行・勘定奉行から
通史編3(近世2)
(居開帳)
宝永七年(一七一〇)に堂社が焼失したため、再建のための開帳が青森・鰺ヶ沢町で認められ、修験触頭大行院・
寺社奉行
通史編2(近世1)
(信政晩年の藩政)
このほか、家老大湯五左衛門、郡奉行対馬万右衛門、
寺社奉行
岡三太左衛門ら四二人がこれに連座し処分を受けた
資料編2(近世編1)
(【解説】)
付されている)は、弘前八幡宮の社家頭小野家の当主が、代々書き継いできた社務にかかわる公用日記であり、
寺社奉行
通史編3(近世2)
(城下での生活)
より廻状が来て、急煩(きゅうわずらい)の際の届け出は長柄(ながえ)奉行以上は大目付(おおめつけ)へ、
寺社奉行
資料編3(近世編2)
(新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)
二 切支丹類族 ……………………………………………………………………………… 一〇一四 三
寺社奉行
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