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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (勝岳院)

「長勝寺並寺院開山世代調」・「曹洞諸寺院縁起志」・正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、いずれも「,正岳院」とするが、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」に至って「勝岳院」と称していることがわかる。
通史編3(近世2) (最勝院)

しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)には「本寺高野山心南院」とあり、享和三年(一八,〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)には「勧修寺宮院室密乗院兼金剛山光明寺最勝院」とみえる,享和三年の「寺社領分限帳」によれば、本堂には八幡宮本地仏として、信枚寄進の阿弥陀仏、信重寄進の勢至・観音
通史編3(近世2) (本行寺)

しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」では為信からの寄進を五〇石とし、享和三年(一八〇三)の「,寺社領分限帳」は信枚から三〇石、信義から二〇石、信寧から三〇石と俵子三〇俵、合わせて八〇石三〇俵の寄進
通史編3(近世2) (徳増寺)

徳増寺 徳増寺(とくぞうじ)は、「山崎専称寺並末寺由緒記」、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(
通史編3(近世2) (白道院)

白道院 白道院(びゃくどういん)は、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、「貞昌寺念仏堂覚入庵
通史編3(近世2) (安盛寺)

寺領二〇石は、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によると、信義の寄進によるものであった。
通史編3(近世2) (梅林寺)

(同前No.四一四)は信義が森岡家は先祖の家にあたるとして寄進したとするが、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳
通史編3(近世2) (正伝寺)

「長勝寺並寺院開山世代調」、「曹洞諸寺院縁起志」、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、「松伝寺」
通史編3(近世2) (十一面観音堂)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、慶長元年(一五九六)八月十七日に為信の長男信建が鰐口を寄進
通史編3(近世2) (蘭庭院)

しかし、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は慶長年間(一五九六~一六一四)に兼平村より弘前へ移ったとする
通史編3(近世2) (法立寺)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、寺領五〇石は為信が慶長年間(一五九六~一六一四)に寄進したとする
通史編3(近世2) (専徳寺)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によれば、慶長七年(一六〇二)、一町田村より元寺町へ移り、それから
通史編3(近世2) (下居宮)

に大堂を再建、寺領四〇〇石を寄進し塔頭一〇院と神主安倍を配した(資料近世1No.一七一、正徳元年の「寺社領分限帳,享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)によれば、大堂(拝殿)の本尊阿弥陀如来
通史編3(近世2) (東照宮)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、宝物として信枚寄進の天海筆の東照権現三所像・東照宮名号、信政寄進
通史編3(近世2) (清安寺)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、信枚が慶長年間(一五九六~一六一四)に三三石三斗三升を寄進したとする
通史編3(近世2) (耕春院)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によると、寺領一〇〇石は為信が寄進している。
通史編3(近世2) (橋雲寺)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」によれば、馬上の勝軍地蔵尊、前立仏の不動尊・毘沙門天王・地蔵尊は
通史編3(近世2) (心応院)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、大行院支配となっているが、弘化二年(一八四五
通史編3(近世2) (大行院)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によると、大峰派九八人、羽黒派一二人、合わせて一一〇人の山伏を束
通史編3(近世2) (藩政後期)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)は、「貞享検地帳」、正徳の「寺社領分限帳,図191.享和3年の寺社領分限帳  安政二年(一八五五)の「神社微細社司由緒調書上帳」(資料近世
通史編3(近世2) (誓願寺)

「浄土宗諸寺院縁起」は、信枚が慶長十四年、寺領三〇石を寄進したとするが、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳
通史編3(近世2) (熊野宮)

、慶長十五年(一六一〇)、信枚が再建し、社領一三石九斗余を寄進したとするが、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳
資料編3(近世編2) ([口絵])

弘前大学附属図書館蔵弘前八幡宮文書) 桜庭村切支丹改証文(本文史料390号) 享和3年寺社領分限帳
通史編3(近世2) (貞昌寺)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、阿弥陀仏・勢至・観音の阿弥陀三尊は為信
通史編3(近世2) (真教寺)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)によると、慶長十四年(一六〇九)に信枚より四石余、寛永十一年
通史編3(近世2) (修験)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、大峰派六六人、羽黒派六人を数え、心応院
通史編3(近世2) (神道)

正徳元年(一七一一)「寺社領分限帳」に百姓名の禰宜一六人がみえるが、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳
通史編3(近世2) (曹洞宗)

曹洞諸寺院縁起志」(資料近世2No.四一四)によれば、隣松寺は「本寺不詳」、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)は五代藩主信寿の時代のものであるが、貞享検地帳との照合,寺社領は全部で三六九二石余で、享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)の三八五九石余
資料編3(近世編2) (【解説】)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」は、正徳元年(一七一一)の「御改元帳」を引き継ぐものであり、貞享四年
通史編3(近世2) (出開帳)

四代藩主津軽信政が寄進の阿弥陀仏・十一面観音・薬師如来(享和三年〈一八〇三〉の「寺社領分限帳」)が、本地仏
通史編3(近世2) (居開帳)

享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)に、本地仏が信枚寄進の阿弥陀、信重寄進
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