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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編3(近世編2)
(第二節 寺院)
第二節
寺院
[
寺院
] / 第二節
寺院
通史編3(近世2)
(寺院の動向)
この寺社禄の削減は、別当
寺院
廃止も手伝って
寺院
の存続を根底から揺るがした。,諸
寺院
はやがて経済的に立ち行かなくなり、藩では明治四年正月に新政府に対して、領内の
寺院
の中には住居修理,もままならない
寺院
が多く、廃寺にもなりかねないとして、
寺院
合併の許可を願い出ている。,やがて諸
寺院
は荒廃し、無住の
寺院
があちこちに出現した。,このため神仏分離の過程で
寺院
の移転が広く行われた。 /
寺院
の動向
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
一 中世
寺院
の建立 「弘前中世
寺院
」(第四章第三節)でみたように、中世も後期に入ると地内に定着化した,菩提寺として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺や海蔵寺をはじめとする曹洞宗
寺院
,この曹洞
寺院
に次いで多いのが、貞昌寺を中心とする浄土宗であり、その数は七ヶ寺に及ぶ。,この浄土宗
寺院
も曹洞
寺院
と同じく、やはり在地土豪の定住化のなかで営まれたものが多い。 ,その浄土真宗
寺院
の造営について、近年の研究をもとに紹介してみることにしよう。 / 一 中世
寺院
の建立
通史編3(近世2)
(弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)
弘前市内
寺院
所蔵の彫刻・絵画 平成九年(一九九七)の調査終了時点で、市内八四ヵ寺に八三〇件二〇〇〇点余,ひゃくたくじ)山門に安置されていた五百羅漢像が、長勝寺蒼龍窟に一〇九体(一部は補作)、弘前市内および津軽一円の
寺院
,図185.木造十一面観音坐像 図186.木造羅漢立像 このほか弘前の
寺院
所蔵文化財で / 弘前市内
寺院
所蔵の彫刻・絵画
通史編3(近世2)
(勝岳院)
「曹洞諸
寺院
縁起志」によると、山号石神山は「一巻石」を鎮守とした社の側に寺を建てたことによるという。,「長勝寺並
寺院
開山世代調」・「曹洞諸
寺院
縁起志」・正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、いずれも「
通史編3(近世2)
(常源寺)
常源寺 常源寺(じょうげんじ)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によれば、永禄六年(一五六三)、開基を為信,「曹洞諸
寺院
縁起志」は、三ツ目内村(現南津軽郡大鰐町)の金竜寺の末寺であったが、金竜寺が衰退するに及んで,創建には諸説があり、真言宗の
寺院
で熊野・稲荷宮を司っていたのを曹洞宗に改めたとか、和徳讃岐の建立とか、
通史編3(近世2)
(耕春院)
耕春院 耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によれば、曹洞宗現空派に属,「曹洞諸
寺院
縁起志」には、為信が実父守信のために堀越村(現市内)に創建したとある。,に命じられて田舎館村に住み、信枚は二世連室に帰依していたため、惣五郎の葬式の導師を頼み、東根の曹洞宗
寺院
通史編3(近世2)
(宝積院)
宝積院 宝積院(ほうしゃくいん)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によると、天正十四年(一五八六)、中別所,「曹洞諸
寺院
縁起志」には、元亀年間(一五七〇~七二)に中別所玄蕃が創建したとある。
通史編3(近世2)
(照源寺)
照源寺 照源寺(しょうげんじ)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によれば、初め温湯(ぬるゆ)村(現黒石市,「曹洞諸
寺院
縁起志」には、創建は堀越村(現市内)と温湯村の二説を挙げ、慶長年間(一五九六~一六一四)としている
通史編3(近世2)
(鳳松院)
「長勝寺並
寺院
開山世代調」は「鳳勝院」とし、「曹洞諸
寺院
縁起志」は「鳳松院」としているところから、延宝八年
通史編3(近世2)
(正伝寺)
「長勝寺並
寺院
開山世代調」、「曹洞諸
寺院
縁起志」、正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」は、「松伝寺」
通史編3(近世2)
(万蔵寺)
万蔵寺 「長勝寺並
寺院
開山世代調」によれば、弘長二年(一二六二)、藤崎村唐糸(からいと)の前(現南津軽郡藤崎町,「曹洞諸
寺院
縁起志」には、北条時頼が衰退していた午堂教院を臨済宗護国寺に改めたとか、霊台寺に改めたなどと
通史編3(近世2)
(隣松寺)
隣松寺 隣松寺(りんしょうじ)は、津軽における曹洞宗大源派の本寺で、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によると,「曹洞諸
寺院
縁起志」は、享禄年間(一五二八~三一)の創建とする。
通史編3(近世2)
(宝泉院)
宝泉院 宝泉院(ほうせんいん)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によると、初め中畑村(現市内)にあり、その,「曹洞諸
寺院
縁起志」は、鬼沢村に創建したとする。
通史編3(近世2)
(蘭庭院)
蘭庭院 蘭庭院(らんていいん)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によると、創建年代は不明であるが、兼平(,「曹洞諸
寺院
縁起志」によれば、元和年間(一六一五~二三)に兼平中書が夫人の菩提のため創建し、戒名「蘭庭薫公大姉
通史編3(近世2)
(天徳寺)
「浄土宗諸
寺院
縁起」は、弘前城下形成により、大浦城下から元寺町へ移ったとする。,貞昌寺三世良城が隠居所とし、信枚へ茶道を教え、御目見
寺院
の列に加えられた。
通史編3(近世2)
(神仏分離とは)
分離令のおおよその内容は、従来
寺院
に合祀(ごうし)されていた神社を
寺院
から切り離すことであり、具体的には,鰐口(わにぐち)(仏殿などの銅製の金鼓)・梵鐘(ぼんしょう)など仏具の除去、別当(神社に付属していた
寺院
,の長)・社僧といった
寺院
・神社両属の者の還俗(げんぞく)(僧籍から離脱し、髪をのばすこと)と神主(かんぬし,明治二年三月の明治天皇行幸までに領内一九六ヵ寺すべての廃寺を決定し、富山藩では九ヵ寺を残して一六二七ヵ寺の
寺院
整理
通史編3(近世2)
(京徳寺)
京徳寺 京徳寺(きょうとくじ)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」(同前No.四〇五)によると、享禄三年(,「曹洞諸
寺院
縁起志」は創建を享禄二年とし、智證大師作の正(しょう)観音を、浪岡城主北畠具永が信仰し、寺号
通史編3(近世2)
(四 寺社建築)
本文では、これまで
寺院
と神社を分けて述べられた書籍が多い中で、寺社建築を一緒にして年代別にみてゆく。,当時の宮大工たちは、
寺院
建築も神社建築も一緒にこなしていた。
通史編3(近世2)
(二代信枚)
岩木山麓の西根から、耕春院(現宗徳寺)を中心にした下寺(したでら)には八甲田山麓の東根から、合わせて曹洞宗
寺院
三三,図189.茂森禅林街 元寺町(もとてらまち)へ集めた
寺院
は「正保城絵図」(資料近世1No.七一六,)によれば、天台寺一ヵ寺、浄土寺一ヵ寺、門徒寺(浄土真宗)四ヵ寺、法華寺(日蓮宗)二ヵ寺がみえるが、
寺院
名,
寺院
の縁起から浄土寺は貞昌寺(ていしょうじ)、門徒寺は真教寺(しんきょうじ)、専徳寺(せんとくじ)、法源寺,天台寺がどの
寺院
に当たるかはわからない。
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
表2〈『津軽一統志』「神社 仏閣」に見る
寺院
〉
寺院
名 宗教名 本寺 創立年次 備考 (1) 百沢寺,であり、神宮寺と東福院および袋宮寺は同期の天台宗
寺院
である。 ,写真139 『津軽一統志』百沢寺 変転を重ねたこれら真言
寺院
と伝えられる
寺院
も、国上寺および久渡寺,具体例を挙げると、「神社」の項でみた岩木山三所大権現の別当
寺院
である百沢寺は 別当
寺院
ハ者往日有二山,と同様に天台宗
寺院
として十三湊の地に建立されていたのではなかろうか。
通史編3(近世2)
(曹洞宗)
「曹洞諸
寺院
縁起志」(資料近世2No.四一四)によれば、隣松寺は「本寺不詳」、享和三年(一八〇三)の「,図197.曹洞宗本末関係図 領内の禅宗
寺院
は曹洞宗のみで、後に黄檗宗(おうばくしゅう)が加わったが,延宝八年(一六八〇)の「長勝寺並
寺院
開山世代調」(資料近世2No.四〇五)では、宗全寺(現青森市)が慶長年間
資料編1(考古編)
(〈建物跡の発見される遺跡〉)
竪穴建物跡 (2)集落跡 掘立柱建物跡・竪穴建物跡 (3)屋敷跡 掘立柱建物跡・竪穴建物跡 (4)
寺院
跡
資料編3(近世編2)
(【解説】)
但し、寺社の書上帳として、最も古くまとまりをみせている「長勝寺並
寺院
開山世代調」は全文を掲載した。,第二節「
寺院
」では、縁起・由緒書をできる限り載せた。,幕府は、寛永八年(一六三一)より新地の
寺院
建立を再三にわたって禁止し、元禄五年(一六九二)にはこれまである,
寺院
を古跡として認め、これ以後の庵室の
寺院
への取り立てを禁じた。,ただ、浄土宗にあって本山専称寺へ提出された「山崎専称寺並末寺由緒書」と、地元に残された「浄土宗諸
寺院
縁起
通史編3(近世2)
(久渡寺)
明治四年(一八七一)、もともと神仏混淆でないため
寺院
は存続することになった。
資料編2(近世編1)
(第一節 領内支配と支配機構の整備)
小泊 (四)十三 六 地方知行の状況 (一)知行充行状の下付 (二)知行帳 (三)
寺院
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
在々住居之諸人並大浦御城下面々、堀越え御引越被仰付、其外寺社之分も引越被仰付候」(『永禄日記』)、あるいは「
寺院
並町々共大浦,つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった
寺院
と町、それに津軽氏の家臣団であった。,堀越はあくまで過渡期の本拠だったことになる(なお『愚耳舊聴記』では、町の移転を記さないかわりに、領内の
寺院
通史編3(近世2)
(徳増寺)
「浄土宗諸
寺院
縁起」は、承応二年(一六五三)、貞昌寺六世無角を開基としている。
通史編3(近世2)
(遍照寺)
「浄土宗諸
寺院
縁起」は、承応三年(一六五四)、貞昌寺六世無角が隠居所として創建したとする。
通史編3(近世2)
(安盛寺)
安盛寺 安盛寺(あんせいじ)は、「長勝寺並
寺院
開山世代調」によれば、寛永元年(一六二四)に服部長門が
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦と津軽)
一二五四)の北条時頼再興伝承をもつ碇ヶ関村古懸(こがけ)の国上寺など、中世初期の創建伝承をもつ有力な
寺院
,そしてこの福王寺は、そのなかでも最古の伝承をもつ
寺院
であった。,その
寺院
が前記のごとく延久合戦後の僧侶の移住、再興(事実上の創建)、住民を指揮しての開発といった伝説をもち
通史編3(近世2)
(梅林寺)
寺領三〇石は、「曹洞諸
寺院
縁起志」(同前No.四一四)は信義が森岡家は先祖の家にあたるとして寄進したとするが
通史編3(近世2)
(天台宗)
図193.天台宗本末関係図 薬王院の塔頭千寿院は、文化七年(一八一〇)に知行米横領と、
寺院
修復
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
寺社の配置をみると、城下の東北から北にかけて八幡宮とその別当
寺院
の真言宗最勝院、熊野宮、および神職の住,(ねぎまち)、伊勢大神宮(神明宮)、西には浄土宗の誓願寺、南西には長勝寺・耕春院をはじめとする曹洞宗
寺院
,、東には浄土真宗(門徒宗)・天台宗・日蓮宗(法華宗)・浄土宗の各
寺院
と、東照宮とその別当
寺院
の薬王院(,南西の曹洞宗
寺院
の集まる区域は台地になっており、北側は斜面で、南側は寺沢川が流れる。,この
寺院
街の入り口は北から南にかけて土塁が築かれ、空堀が掘られ、東側への防御対策がとられており、長勝寺構
通史編3(近世2)
(西福寺)
「浄土宗諸
寺院
縁起」は、堀越城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前城下元寺町の貞昌寺門内に
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
とりあえず、藩は寺社奉行を社寺(しゃじ)御用所、寺社役を社寺調方と改め、別当
寺院
の神職支配を停止させた,そのため藩内の全神社は
寺院
の支配を離れ、社寺調方の直接扱いとなったが、一方で新たな神職組織の再編成を迫,明治二年八月~同四年十二月の神職組織であるが、このふたつを比べると、薬王院(やくおういん)や最勝院などの別当
寺院
通史編3(近世2)
(黄檗宗)
、新寺町報恩寺の東側に創建する時は、新寺建立禁止に触れるため、長勝寺山内にあった古跡の復興としてその
寺院
名
通史編3(近世2)
(専徳寺)
新撰陸奥国誌』によると、誓円は九州菊池氏の一族で、本願寺蓮如の弟子となり、為信の帰依によって一町田村に
寺院
資料編1(考古編)
(第3節 中世・近世の住居と集落)
竪穴 屋敷 2 二ツ沼遺跡 市浦村 14,15 竪穴 集落 3 檀林寺跡 市浦村 14,15 掘立
寺院
,4 伝山王坊跡 市浦村 14,15 礎石
寺院
7 中里城跡 中里町 15 掘立・竪穴?
通史編3(近世2)
(清安寺)
「長勝寺並
寺院
開山世代調」(同前No.四〇五)は、信義の正室富宇(ふう)が母「心悦清安大姉」の位牌を祀
資料編3(近世編2)
(●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝)
袋宮寺は天台宗の
寺院
であり、弘前の樋の口にある熊野宮(本殿は県重宝)の別当寺であったが、明治に廃止されたために
通史編3(近世2)
(戸口と住民構成)
このほか、
寺院
九一宇、庵三宇、社家二五戸、修験(しゅげん)一一戸、祠堂(しどう)(寺で檀家の位牌を祀る,現在と比べると
寺院
数が多いのが目につく。
通史編3(近世2)
(袋宮寺)
明治二年(一八六九)、別当職が廃止となり、そのまま社内に
寺院
を置くことが不都合になり、報恩寺境内の十一面観音堂無量院
通史編3(近世2)
(南溜池の成立)
津軽弘前城之絵図」南溜池部分 慶安二年(一六四九)五月の寺町大火によって、現在の元寺町にあった
寺院
,、浄土宗五、法華宗三、門徒寺六、天台寺一が焼亡し、翌三年に寺町の
寺院
を新たに南溜池の南側に移転させ、この
通史編1(古代・中世)
(時頼廻国伝説)
写真103)があり、また名川町の法光寺(写真104)は廻国中の時頼を助けたことによる恩賞としての、旧
寺院
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
ちなみに、町曲輪Ⅰの南の地域には、天和の絵図で「道心寺」という名の
寺院
が描かれ(現在でもここには
寺院
と,また明治時代の分限図を見ても、短冊型地割とは明瞭に異なる地割が広がっていて、ここにかつての堀越城下町の
寺院
街
資料編3(近世編2)
(●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)
●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢 (一)楼門--重要文化財 下居宮の別当寺であった真言宗
寺院
の,内部の構成も明快で、密教
寺院
本堂としての雰囲気を今に伝えている。,開放的に使用されているが、これは、明治初期の「神仏分離令」によって百澤寺から岩木山神社へと移行し、密教
寺院
本堂
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
この功により為信は念西坊に寺領二四石を与え、慶長九年(一六〇四)には一三石余を加増するなど、その地域の
寺院
勢力,このように、為信は統一に当たって
寺院
勢力を利用して敵を攻略し、古くからこの地方の信仰を集めていた旧勢力
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
慶長期の
寺院
建築として、革秀寺(かくしゅうじ)の本堂、長勝寺の本堂・庫裏(くり)が挙げられる。,ともに曹洞宗(そうとうしゅう)
寺院
であり、津軽家の菩提寺や為信の菩提寺であったりと、津軽家との関係も深,いものがあるが、これらの
寺院
には、いずれも当初の棟札は保存されていない。
通史編1(古代・中世)
(得宗領・安藤氏との関わり)
付加されたものらしいが、土崎湊といい、外浜といい、藤崎湊といい、能代湊といい、いずれも唐糸伝説を伝える
寺院
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