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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (日の本将軍と鎮守府将軍)

日の本将軍と鎮守府将軍 日の本将軍の呼称は、安藤氏だけの呼称ではなかった。,これらの事例の中で、とくに足利直義(ただよし)が「日本将軍」と称され、それが鎮守府将軍を意味していたことなどから,、日の本将軍と鎮守府将軍とは重複視されるものであるという。,鎮守府将軍は、建武政権によってクローズアップされ、蝦夷沙汰と結びつけられたものであるという。,つまり、日の本将軍は室町幕府の北方政策にかかわるものであるということになる。 / 日の本将軍と鎮守府将軍
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍秀衡)

鎮守府将軍秀衡 東国を基盤に軍事政権樹立を目指す源頼朝にとって、東北地方への勢力拡大は重大事であり、,本来征夷の伝統のうちにある鎮守府将軍が、その軍を南進させるなど、前代未聞のことである。,ちなみに除目(じもく)の上では、安元二年(一一七六)に鎮守府将軍の地位はすでに陸奥守藤原範季(のりすえ,)に移っていたが、中央政府はその後も秀衡を鎮守府将軍として処遇し続けている。,京都では「奥州夷狄秀平、鎮守府将軍に任ず。 / 鎮守府将軍秀衡
通史編1(古代・中世) (日の本将軍の多面性)

日の本将軍の多面性 以上に述べてきたように、日の本将軍の呼称は鎮守府将軍と重複視され、室町幕府の北方政策,また、史料として日の本将軍が頻出するのは一五世紀以降のことであり、これはアイヌのサハリン進出が達成された,これに注目したとき、日の本将軍の「日の本」は、『諏方大明神画詞』(史料六一七・写真162)に見えるアイヌ,写真162 『諏方大明神画詞』  安藤氏の日の本将軍呼称については、なお検討を要する課題であるように / 日の本将軍の多面性
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍源頼義)

鎮守府将軍源頼義 安倍氏を押さえるため、中央政府は登任に代えて、源頼義を陸奥守とし、また彼に鎮守府将軍,喜んだ頼良は、将軍頼義と同名であることをはばかって、以後は頼時と名乗ったという(史料四三八)。   / 鎮守府将軍源頼義
通史編1(古代・中世) (一 「日の本将軍」安藤氏)

一 「日の本将軍」安藤氏 安藤氏に関する系図をひもといてみると、安藤氏が早くから「日下将軍」を称していたと,永享八年(一四三六)四月、「奥州十三湊日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が後花園天皇の勅命を受けて、前年三月,この康季が安藤氏では最初の「日の本将軍」である。 写真160 『本浄山羽賀寺縁起』 / 一 「日の本将軍」安藤氏
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍清原武則)

鎮守府将軍清原武則 前九年合戦で安倍氏が滅亡した後は、その論功行賞によって清原武則が俘囚出身者としてははじめて,鎮守府将軍になり、清原氏は秋田城在庁に加えて鎮守府在庁の指揮権をも握ることになった。 / 鎮守府将軍清原武則
通史編1(古代・中世) (征夷大将軍大伴弟麻呂)

征夷大将軍大伴弟麻呂 翌延暦九年(七九〇)、政府はただちに第二回目の胆沢征討の準備に入った(史料二一一以下,これまで征東大使は征東大将軍と呼ばれることがあったので、この征夷大使弟麻呂は征夷大将軍と呼ばれることになった,これがのちに武士が幕府を開く際に必要な資格とされる征夷大将軍の史料上の初見である。,そしてこのときの副将軍に、「赤面黄髭、勇力人にすぐ」といわれた坂上田村麻呂がいる(史料二一七、写真47 / 征夷大将軍大伴弟麻呂
通史編1(古代・中世) (日の本の将軍と地域の自立性)

さらに、こうした語り物では、関東ではそれ以前に日の本将軍の伝承が展開しており、鎌倉末期には、日の本将軍,そして、武人の誇りを示す心情を込められたものとして、平将軍(平貞盛)・余吾(よご)将軍(平維茂)というような,、「○○将軍」の呼称が鎌倉末から南北朝期に形成されたという。  ,また、日の本将軍が津軽の安藤氏と結びつけられるようになった初期の形を示すものは、安藤五郎を「日ノ本将軍,伝えられ、受容と変容の経過を経て安藤氏の日の本将軍の呼称となった。 / 日の本の将軍と地域の自立性
通史編1(古代・中世) (征夷大将軍 坂上田村麻呂)

征夷大将軍 坂上田村麻呂 延暦十五年(七九六)、坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使・陸奥守に任ぜられ(史料二三八,)、また鎮守将軍を兼官することとなった(史料二三九)。,田村麻呂は翌年には征夷大将軍になっているから(史料二四二)、東北経営に関わる主要な四官を独占したことになる / 征夷大将軍 坂上田村麻呂
通史編1(古代・中世) (分裂した蝦夷沙汰)

分裂した蝦夷沙汰 もっとも、北朝で征夷大将軍に任命され、幕府を開いた尊氏には、もはや鎮守府将軍に任命,古代においては坂上田村麻呂が陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守府将軍・征夷大将軍の四官を兼ねた例があるが、これは,蝦夷沙汰と深くかかわる鎮守府将軍は南朝方に置かれたままであった。,観応元年(正平五年、一三五〇)、尊氏と対立した足利直義は、南朝によってその鎮守府将軍に任じられている(,その解決は三代将軍足利義満(写真159)のときまで待たなければならない。
通史編1(古代・中世) (足利尊氏の離反)

153 足利尊氏像  尊氏は、鎌倉幕府滅亡後、隠岐(おき)から脱出したばかりの後醍醐天皇から鎮守府将軍,こうして蝦夷沙汰の職務と鎮守府将軍の地位とが、密接な関係をもつようになっていった。  ,しかし建武二年八月に、離反した尊氏が建武政府から鎮守府将軍の職を解かれると、北畠氏は後醍醐天皇に積極的,に働きかけて、同年十一月、陸奥守北畠顕家が鎮守府将軍を兼任することとなり、陸奥国府が積極的に蝦夷沙汰を,なお、建武三年二月に、正三位の地位にあって将軍職に就いたことから、顕家は特に「鎮守府大将軍」と名乗ることを
資料編1(古代・中世編) ([八世紀])

●和銅二年(七〇九)八月二十五日、征蝦夷将軍佐伯石湯等、凱旋。,征夷将軍・鎮狄将軍らを任じて節刀を授ける。,●養老五年(七二一)四月九日、征夷将軍・鎮狄将軍等、帰還。,持節大将軍等任官。 ●神亀元年(七二四)五月二十四日、鎮狄将軍、小野牛養。,●神亀二年(七二五)閏正月二十二日、征夷将軍以下に叙勲。
通史編1(古代・中世) (蝦夷沙汰職の行方)

すでに述べたように、当初それを掌握しようとしたのは、後醍醐天皇から鎮守府将軍に任ぜられた足利尊氏である,こうして蝦夷沙汰と鎮守府将軍が密接な関係をもつようになった。,しかし尊氏が建武新政府から離反すると、鎮守府将軍の職は北畠顕家に移り、建武政権側に蝦夷沙汰を掌握する法的根拠
通史編1(古代・中世) (狄坂丸の乱)

乱 天慶の乱の後には、天暦(てんりゃく)元年(九四七)の、「狄坂丸(てきのさかまる)」による鎮守府将軍関係者,「狄」とあることや鎮守府将軍の管轄範囲から考えて、坂丸は米代川上流地域の族長であった可能性が高いとされているが,これは、特別受領官鎮守府将軍・出羽城介体制の確立によって、平和がもたらされたのだとも評価されている。
通史編1(古代・中世) (桓武の登場)

翌延暦元年(七八二)、万葉歌人として著名な大伴家持(おおとものやかもち)が鎮守将軍となるが、家持はすでに,延暦七年には、征東大使(大将軍)に参議(さんぎ)紀古佐美が任ぜられている。,将軍、よくこれに勤めよ」(史料二〇〇)という著名な文言を含む勅書を発して励ました。
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

●延暦二十三年(八〇四)正月二十八日、坂上田村麻呂、征夷大将軍。副将軍・軍監らを任官。,●大同三年(八〇八)七月四日、鎮守将軍百済王教俊を叱責。,●弘仁二年(八一一)四月十七日、文室綿麻呂、征夷将軍。また副将軍任官。,●弘仁二年(八一一)五月十日、征夷将軍に俘囚綏撫の勅。,●弘仁四年(八一三)五月三十日、文室綿麻呂、征夷将軍。
通史編3(近世2) ((一)衣服)

(一)衣服 武士の礼服としては、将軍の上洛参内(じょうらくさんだい)(京都の朝廷へ挨拶に参上すること,)や将軍宣下(せんげ)(朝廷から将軍に任じられること)など朝廷関係の重い儀礼の場合には、将軍以下一般大名以上,直垂は将軍以下諸大名の四位以上の人々が着用し、大紋は五位の諸大夫(しょだいふ)(一般大名)、素襖は無位,(むい)の御目見(おめみえ)(将軍に謁見する資格のある武士)以上が用いている(谷田閲次・小池三枝『日本服飾史
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

南部晴政の登場と一族間の対立 天文八年(一五三九)、「奥州南部彦三郎」が上洛し、将軍足利義晴(よしはる,室町期から戦国期にかけて、奥州の有力武士が将軍の偏諱を得ることはさほど珍しいことではなかった。,三戸南部氏の場合も、安藤氏を十三湊から追放した南部義政の「義」字は、将軍足利義教(または義持)の偏諱を,将軍偏諱を拝領したことで、晴政は将軍の直臣として認定されるとともに、周辺の諸氏や家臣・領民に対して自らの,権力の背景に将軍権力があることを誇示することが認められたわけである。
資料編1(古代・中世編) ([十一世紀])

●寛弘元年(一〇〇四)十月二十一日、前鎮守府将軍藤原兼光、藤原道長に貢馬。,●寛弘五年(一〇〇八)正月四日、前鎮守府将軍藤原兼光、藤原道長父子に貢馬。,●長和三年(一〇一四)二月七日、鎮守府将軍平維良入京し、馬等を道長に贈る。,●長和四年(一〇一五)十一月三日、鎮守府将軍平維良、藤原道長に貢馬。,●長和五年(一〇一六)十一月六日、鎮守府将軍平維良、藤原道長に貢馬。
通史編1(古代・中世) (後三年合戦)

後三年合戦 前九年合戦の戦功により、清原武則は俘囚としては初めて鎮守府将軍に任ぜられた。,延久北奥蝦夷合戦の功により鎮守府将軍になった清原真衡は、その後、独裁政治的な体制を志向していったため、,それは同族的共同支配の段階から、嫡宗である鎮守府将軍真衡による家父長的専制支配体制への急激な転換に伴う
通史編1(古代・中世) (陸奥国と出羽国)

征越後蝦夷将軍は佐伯石湯(さえきのいわゆ)、副将軍は紀諸人(きのもろひと)である(史料四四。,同時に陸奥側でも陸奥鎮東(ちんとう)将軍に巨勢麻呂(こせのまろ)が任命されている)。,この遠征は簡単に終了したらしく、半年たらずで将軍たちは都に帰っている(史料四七)。,の藤原京の大極殿(だいごくでん)で行われた朝賀の儀に際して、皇城門(朱雀(すざく)門)外の朱雀路に、将軍
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

大名の社会でも、領地の石高、将軍家との親疎などの要素から家格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任,その理由づけで強調されている点は、第一に津軽領内での内高の多さ、第二に将軍家との関係の深さ、第三に「狄地,この時の願い出に当たり津軽家が強力な後ろ盾としたのが、「一位様」こと、六代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ,彼女は当時の将軍徳川吉宗の擁立にも一役買ったとされ、吉宗が一目置かざるをえない存在だったと思われる。
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

「一つは、京都で育まれた伝統的漆工技術が将軍や大名という後援者を得たことである。,江戸の将軍が京都から蒔絵の名工を招いて抱え蒔絵師としたことで、京都に住んでいた蒔絵師の一部が江戸に移り
通史編1(古代・中世) (三十八年戦争の時代)

 そしてこの多賀城と秋田の出羽柵とが結ばれたのが、天平九年(七三七)の陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍大野東人,その大事業が一段落した弘仁二年(八一一)に、時の征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の嵯峨天皇に対する,時の陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)で、例によって陸奥按察使と陸奥守,鎮守副将軍は河内守紀広純(きのひろずみ)である。,大したことがないので、征討はやめたいなどといっていたが、光仁天皇に譴責(けんせき)されて、十月、歴代将軍
通史編2(近世1) (殖産政策の前提)

幕府でいえば、五代将軍徳川綱吉の時代にとられた大老堀田正俊(ほったまさとし)の主導による「天和の治(てんなのち,)」の年貢増徴策や、元禄期の勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)による貨幣改鋳策、次の将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ
資料編1(古代・中世編) (第2章 北方関係非編年史料)

第2章 北方関係非編年史料 (一) 東方の境界観念(含む、流刑地)   (二) 日の本、日の本将軍
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

になっていないこと、そして大名の勤役・課役の選定基準ができるのは大名の家格が固定してからのことであるという視点から、将軍,将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の大名に対する立場は、将軍の権威とその厳しさを大名に対して示そうとしたものであり,この綱吉政権下での幕府財政は、将軍綱吉の奢侈(しゃし)と護国寺(ごこくじ)・護持院(ごじいん)等の造営
通史編1(古代・中世) (陸奥・出羽の在庁官人たち)

陸奥側では胆沢城(田村麻呂の時代に鎮守府が多賀城から移された)の鎮守府将軍が、出羽側では秋田城の出羽城介,そしてその鎮守府将軍・秋田城介には、次第に源氏・平氏といった軍事貴族が任命されるようになっていった。,歴代の鎮守府将軍を挙げれば、平国香(くにか)・良持(よしもち)・良孫・良文(よしふみ)・貞盛(さだもり
通史編1(古代・中世) (奥州合戦の勃発)

軍中将軍の令を聞くも、天子の詔(みことのり)を聞かず、と云々。,東海道大将軍千葉常胤(ちばつねたね)・八田知家(はったともいえ)の軍は福島の浜通りを、北陸道大将軍比企能員
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

江戸に参集した後、伊達政宗・上杉景勝らは独自編成、相馬利胤(そうまとしたね)・南部利直・秋田実季などが将軍徳川秀忠軍,この時期に津軽家へ課せられた役のうち、特徴的なものとして、将軍や大御所が上洛する際に兵を率いて供奉したことが,将軍の上洛や、徳川家康を祀る日光東照宮に将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され,これらの供奉には将軍を警護して進軍する意味があり、寛永十年(一六三三)に出された寛永軍役令(かんえいぐんやくれい,朝鮮通信使の来聘(らいへい)は、将軍襲職を祝う外交儀礼であり、休泊地での馳走や道中の行列、江戸市中での
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

後三年合戦後に、清原氏に代わって、すでに出羽城介の権限をも吸収していて巨大な軍政権を握る職となっていた鎮守府将軍,また先にも触れたように、上皇の近臣で以降の陸奥守や鎮守府将軍を一族で歴任する藤原基成と婚姻関係を結ぶなど,写真77『津軽一統志』毛越寺の造立  嘉応二年(一一七〇)、秀衡は従五位下に叙せられ鎮守府将軍に,することになって久しい職であったが、のちに木曽義仲と源頼朝の対立が表面化すると、後白河法皇の「鎮守府将軍秀衡
通史編1(古代・中世) (大河兼任の乱)

正月八日、鎌倉では東海道大将軍に千葉介常胤、東山道大将軍に比企能員を任命し、結城朝光以下の奥州に所領をもつ
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

近世に入ってからも、鷹献上の行為は、大名から将軍へ、また大名同士でも盛んに行われ、全幕藩領主を巻き込む,とともに武家社会における伝統的な慣習であったが、幕藩体制成立期における放鷹制度の体制的な確立に伴い、上は将軍
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

また、湊安藤氏は将軍直属の御家人の「京都御扶持衆」に位置づけられ、「屋形」号を許されて、守護大名並みの,一方、このころ幕府の側では、応永元年(一三九四)十二月に足利義満は将軍職を辞し、同じ月に太政大臣に任ぜられるが,義満の将軍職辞職以後の行動は兼ねてのスケジュールにしたがったものであり、出家によって公家・武家の差別観
通史編1(古代・中世) (文室綿麻呂の登場)

征夷将軍も副将軍も、すべて按察使・出羽守・鎮守将軍・陸奥介といった現地の官僚たちである。  
通史編1(古代・中世) (安部氏・清原氏の登場)

安部氏・清原氏の登場 このような鎮守府将軍の管郡的基盤となったのが奥六郡(岩手・志波・稗貫(ひえぬき
通史編1(古代・中世) (夷千島王の朝鮮遣使)

については、日本と対等の国として発言していること、朝鮮北部国境地方のようすを知っていることなどから、日の本将軍,日の本将軍の呼称と同じように、この夷千島王についても、地域の自立性が指摘されるのである。  
通史編1(古代・中世) (応永十八年の衝突)

応永三十年(一四二三)に安藤陸奥守(盛季ヵ)が五代将軍足利義量(よしかず)に馬・鳥・鵞眼(ががん)(銭,奥州探題体制であったという意識があったからとも、この地域の動向が即外交・国境問題に直結するという点から、将軍
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

近世大名と大名課役 近世大名にとって軍役(ぐんやく)負担とは、領地の宛行(あてがい)や安堵という将軍家,これらの役には、幕府役職への就任や、上洛・日光社参時の将軍への供奉(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

安藤家季は、斯波家長が発給した合戦奉行への補任を示す「将軍家御教書」を掲げて、周辺の武士を多数募っていたという,このころの遠野南部家文書など曽我氏関係の文書には、「将軍家御教書に応じて」という文面がしばしばみえる(
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

北畠氏は、鎮守府将軍兼陸奥守北畠顕家の子顕成(あきなり)を祖として、文中三年(一三七四)ころに閉伊郡船越,浪岡御所北畠氏は夷島の蠣崎氏もその影響下に置き、日の本将軍安藤氏と密接な関係にある存在であった。
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

だが、前九年合戦など同時代の例から考えれば、①陸奥守頼俊の率いる国司直属軍を中心とした国府軍、②鎮守府将軍清原武則,そして、年が明けた延久二年の六~七月ころ、「大将軍」頼俊が後三条天皇の宣旨を掲げて出陣したものと思われる,としての頼俊軍の目的不達成といった一方で、真衡のみが征討に功ありとして、合戦後、祖父武則の跡を継いで鎮守府将軍,合戦後、清原真衡が戦功ありと認められ、恩賞として鎮守府将軍に任命された一方で、「追討使」であり「大将軍,大将軍頼俊自身も早々に閉伊方面の戦場から多賀国府へ帰還することを余儀なくされた。  
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

1860 3月3日 大老井伊直弼,水戸・薩摩浪士により暗殺(桜田門外の変) 11月1日 皇妹和宮を将軍家茂,坂下門外の変) 4月23日 薩摩の過激浪士,京都寺田屋で弾圧される(寺田屋騒動) 7月6日 徳川慶喜,将軍後見職,就任 8月21日 島津久光の行列,神奈川で英国人を殺傷する(生麦事件) 文久3年 1863 3月4日 将軍家茂,長州藩高杉晋作ら馬関を攻撃,占拠 慶応2年 1866 6月7日 第二次長州征伐開始(9月撤兵) 7月20日 将軍家茂没,将軍徳川慶喜,大政奉還を請う(翌日許可) 12月9日 朝廷,王政復古の大号令。
通史編3(近世2) (能楽)

ほうしょう))・坂戸(さかど)(金剛(こんごう))の四座が大和猿楽であり、その中から出た観阿弥・世阿弥父子が将軍足利義満,慶長八年(一六〇三)、徳川家康へ将軍宣下があり、祝賀の能を観世座が筆頭になって四座で勤めた。,これが歴代の例となり、二代将軍秀忠が北(喜多(きた))七太夫長能を後援して四座太夫並みにしたので、これより,(うたいぞめ)を正月三日に行うことを決め(「秘苑」)、貞享元年(一六八四)十二月には朱印改めにより、将軍
通史編1(古代・中世) (頼朝の全国制覇)

頼朝はここまで軍を進めることによって、配下の者たちに偉大な将軍頼義のイメージを自分に重ね合わせさせ、その
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

 文明十四年(一四八二)、「夷千島王遐叉(えぞがちしまのおうかさ)」の使者「宮内卿」と称する者が、将軍足利義政,が派遣した日本国王使とともに朝鮮に赴き、当時の将軍・大名が垂涎(すいぜん)の的としていた大蔵経(だいぞうきょう,使者の首尾からみて偽使であるにしても、「日之本将軍」安東氏についての知識がこのような使節派遣構想につながったものであろう
資料編1(古代・中世編) ([十二世紀])

●長治元年(一一〇四)五月二日、藤原基頼、鎮守府将軍兼任。,このころ、鎮守府将軍藤原基頼、北国の凶賊を討つという。,●嘉応二年(一一七〇)五月二十五日、藤原秀衡、鎮守府将軍。
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

大広間詰・城持ち以上の大名はこれを用いてもよいとされており、信順にも使用する資格はあったが、津軽家の場合は将軍宣下,(せんげ)(将軍の就任)の時に限ると制限されていた。,同年三月十八日に一一代将軍家斉(いえなり)は太政大臣に任じられ、世子家慶(いえよし)も従一位に叙せられたが,加えて、信順は文政九年(一八二六)十一月に将軍家斉の弟田安斉匡(たやすなりただ)の娘欽子(やすこ)を三,〇万両ともいわれる巨費を投じて正室に迎えており、将軍家と関係が深まったとの意識があったのであろう。
通史編3(近世2) (信枚)

信枚 二代信枚は寛永元年(一六二四)、熊野山へ代参を送り、将軍家の息災延命、藩主家の子孫繁昌、藩国家
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

一方で現地の政治勢力のあいだでは、相互の合従連衡、あるいは南の「日本国」の勢力である陸奥国司や鎮守府将軍清原氏,延久蝦夷合戦から一三年後の永保三年(一〇八三)、その合戦の戦功で鎮守府将軍に任命された清原真衡と、清原清衡
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