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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

安藤家季は、斯波家長が発給した合戦奉行への補任を示す「将軍家御教書」を掲げて、周辺の武士を多数募っていたという,このころの遠野南部家文書など曽我氏関係の文書には、「将軍家御教書に応じて」という文面がしばしばみえる(
通史編3(近世2) (信枚)

信枚 二代信枚は寛永元年(一六二四)、熊野山へ代参を送り、将軍家の息災延命、藩主家の子孫繁昌、藩国家
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

大名の社会でも、領地の石高、将軍家との親疎などの要素から家格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任,その理由づけで強調されている点は、第一に津軽領内での内高の多さ、第二に将軍家との関係の深さ、第三に「狄地
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

1860 3月3日 大老井伊直弼,水戸・薩摩浪士により暗殺(桜田門外の変) 11月1日 皇妹和宮を将軍家茂,就任 8月21日 島津久光の行列,神奈川で英国人を殺傷する(生麦事件) 文久3年 1863 3月4日 将軍家茂,長州藩高杉晋作ら馬関を攻撃,占拠 慶応2年 1866 6月7日 第二次長州征伐開始(9月撤兵) 7月20日 将軍家茂没
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

近世大名と大名課役 近世大名にとって軍役(ぐんやく)負担とは、領地の宛行(あてがい)や安堵という将軍家
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

同年三月十八日に一一代将軍家斉(いえなり)は太政大臣に任じられ、世子家慶(いえよし)も従一位に叙せられたが,加えて、信順は文政九年(一八二六)十一月に将軍家斉の弟田安斉匡(たやすなりただ)の娘欽子(やすこ)を三,〇万両ともいわれる巨費を投じて正室に迎えており、将軍家と関係が深まったとの意識があったのであろう。
通史編3(近世2) ((二)年中行事と生活)

将軍家の例に倣って諸侯・旗本の各家々で行われた。,徳川家は正月二十日を例としたが、三代将軍家光の忌日が二十日のため、承応元年(一六五二)正月からは十一日
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

図164.黒石陣屋図  文化七年正月、親足は江戸城において、将軍家斉から盃を賜り、時服を拝領。
通史編2(近世1) (高照神社「御告書付」の開始)

御用回数(%) 天皇家 天皇家即位、崩御、改元 天皇家拝領品、献上品、天機伺 11 4 15(5%) 将軍家,幕府拝領品、献上品 将軍家の吉凶禍福 29 8 37(13%) 巡見使 巡見使関係 0 0(0%
通史編2(近世1) (信義の襲封)

四月一日、信枚の嫡子信義(ちゃくしのぶよし)は三代将軍家光に初めて拝謁(はいえつ)し、十三歳で遺領を継,二代藩主信枚の正室満天姫(まてひめ)の姪にあたり、津軽弘前藩の二代・三代藩主の正室は連続して、間接的ではあるが将軍家
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

舟橋騒動 寛永十一年(一六三四)六月二十日、三代将軍家光は上洛のため江戸を出発した。,そうよしなり)と重臣柳川調興の対立によるお家騒動であるが、一歩間違えば宗家改易の危険性をはらんだ事件であり、将軍家光
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

老中の松平信明(まつだいらのぶあきら)・牧野忠精(まきのただきよ)を中心とする人々の死去・辞任が続き、将軍家斉,松前藩は、将軍家斉の実父一橋治済(ひとつばしはるさだ)や、水野忠成を頼って運動を展開し(北海道庁編纂・
資料編2(近世編1) (はじめに)

)紙背文書に見える津軽家の文書類等を初めて掲げて参考に供し、第二章では、全国的にも極めて珍しい、徳川将軍家
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

となった津軽信順(のぶゆき)は、田安斉匡(たやすなりまさ)の娘を室としていることもあってか、文政十年三月に将軍家斉
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

一万五〇〇〇両、天保三年(一八三二)には不作などで一万両を融資、さらにこの年の暮れには幕府が同藩へ寛永寺将軍家位牌所
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

、義持(よしもち)の「持」字を得た持宗(もちむね)を最初に、戦国期の当主輝宗(てるむね)まで代々足利将軍家
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

門番)、江戸城や幕府施設などの防火(火消・火之番)、寛永寺(かんえいじ)・増上寺(ぞうじょうじ)などで将軍家
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

意味があり、寛永十年(一六三三)に出された寛永軍役令(かんえいぐんやくれい)によって、翌年実施された将軍家光
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

土井利勝(としかつ)の四男で、幼少より四代将軍家綱に近侍し、寛文元年(一六六一)奏者番(そうじゃばん)
資料編3(近世編2) (【解説】)

なかでも特に目につくのは、藩政後期に入ると、藩主の津軽家が塗物を領内特産品として注目し、朝廷や将軍家をはじめとして
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●元和三年(一六一七)五月七日、津軽信枚、将軍家上洛の供奉備えの六番に編成される。,●寛永六年(一六二九)九月十一日、津軽平蔵信吉、将軍家へ目見えのため、江戸へ出発する。
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