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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (高岡霊社)

明治元年(一八六八)の「高岡祭司下役并御宮附小人共迄人別増減書上帳」(高照神社蔵)によれば、祭司役の配下,に、祭司下役・掃除頭・宮付小人が置かれ、門前に一二軒と同居一軒、馬二八匹とみえる。
通史編3(近世2) (平清水三右衛門による作陶)

き、焼成の見通しが確かめられたうえで同五年六月、瀬戸助(せとすけ)と釜(窯)師久兵衛(きゅうべえ)、小人二人,川口九左衛門の上ヶ屋敷の場所は定かでないが、「弘前惣御絵図」(元禄十五年ころ 弘図郷)の小人町の一角に,図143.平清水三右衛門・瀬戸物焼役屋敷(←印)  三右衛門の本格的製陶は小人町に構えた焼物御細工所,なお、白土は窯の修理や窯道具用にも使用された(小人町の窯跡とされる場所からは、加熱のために白い磁器質の,小人町の焼物細工所について、細工所は三右衛門の屋敷内にあるが、その規模について「国日記」には次のような
通史編4(近・現代1) (学区の改変)

新設の亀甲小学学区は、亀甲町、田茂木町、田町、小人町、若党町、春日町、禰宜町、馬喰町、長坂町、笹森町、
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

北には水の防御はないが、足軽町・歩者(かち)町(若党町)・小人町があって防御を固めている。  ,足軽・小人といった下級武士も城下の南北端に配置され、南溜池のすぐ北に足軽町があった。,足軽町(現若党町と在府町)、小人町(現小人町、笹森町、長坂町)、歩者(かち)町(現若党町)、侍町(現四
通史編4(近・現代1) (大区小区制の成立)

元寺町小路 東長町 百石町 百石町小路 田町 田茂木町 禰宜町 笹森町 長坂町 蔵主町 大浦町 亀甲町 小人町,新寺町新割町、足軽町は富田町、普光寺跡門前は住吉町、和徳足軽町・薬王院・薬王院門前町は和徳町、座頭町は小人町
通史編4(近・現代1) (歌舞伎・新派劇)

歌舞伎では、四十年一月に市川三寿之丞一座の『菅原伝授手習鑑』、『安達原三段目』があり、これは大人五銭・小人三銭
通史編4(近・現代1) (時敏小学校の創設)

は十七年の学区改正以前には亀甲学区(笹森町、長坂町、蔵主町、大浦町、田町、田茂木町、禰宜町、若党町、小人町
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

岩庭近正  笹森町 長坂町 蔵主町 大浦町 田茂木町 禰宜町 田町      石川行正  若党町 小人町
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

で在方にも一一ヵ所設置された、飢民は秋田領のみならず、松前・越後、さらには江戸にも流れ、江戸藩邸では小人
通史編5(近・現代2) (前田光世の記録)

能く、小国の大国、小人の大人といふ事が言はるゝが、我等日本人は、誠に見上げた大国の大人たる実質を有する
通史編3(近世2) ((三)住居)

まやちょう))・鷹匠町(たかじょうまち)・五十石町(ごじっこくまち) 城北――御徒町(おかちまち)・小人町
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

上鞘師町、下鞘師町、元寺町小路、下白銀町、笹森町、長坂町、蔵主町、大浦町、田町、田茂木町、禰宜町、若党町、小人町
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

武士は、姓名のあるものが三七一軒、その他鷹匠・小人・小知行等が一八五軒がみえ、約五六〇軒の侍が住んでいた,で見る  次いで元禄八年(一六九五)の飢饉によって、弘前藩では「減少」と呼ばれる、藩士・足軽・小人
通史編3(近世2) (情事の発覚)

牢屋奉行の石出帯刀(いしでたてわき)、見廻与力(みまわりよりき)・検使与力・御徒目付・小人(こびと)目付
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

)によれば、城南では在府町後通りと同新割町、城西では馬屋町・新町・鷹匠町・五十石町、城北では若党町・小人町
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

袋宮寺山道・五十石町の上細小路・五十石町の北詰め行き止り・五十石町より袋宮寺へ通り・若党町の後ろ町・春日町・小人町,「秘苑」では、城下の荒廃した状況を、上級家臣の屋敷跡に足軽小人や小給の者たちがわずかな家作をして住居している
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

いたのは不束(ふつつか)であるとして信順は逼塞(ひっそく)を命ぜられ、これをとがめなかった大目付・目付・小人目付
通史編3(近世2) (辻番・自身番・木戸番)

正徳期(一七一一~一六)には四九ヵ所設置されており、立詰めの番人がいるのは二一ヵ所、ほかに小人や雇入れの
通史編3(近世2) (「ねぷた」の運行)

たもぎまち)・田町(たまち)・大浦町(おおうらまち)・笹森町(ささもりちょう)・若党町(わかどうちょう)・小人町
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

この出兵規模案は、鉄炮隊中心の、指揮者を足軽頭・物頭一人ずつという小人数であった。  ,」に対して出兵の心がけをするよう申し渡した(「雑書」寛文九年七月二十二日条)にもかかわらず、実際には小人数
通史編3(近世2) (下川原における製陶)

五郎七は製陶の傍ら、弟子入りした掃除小人の高屋村(現中津軽郡岩木町)甚吉に作陶の指導もしていた。  
通史編2(近世1) (町方支配)

木戸は、慶安期には六一ヵ所、正徳期には四九ヵ所に設置され、番人が常駐するのが二一ヵ所、そのほか小人や雇入
通史編2(近世1) (土着策と蝦夷地警備)

弘図古)によれば、総人数三三九人のうち各藩士の従者と器械持に当たる人夫が一六一人で、そのうち四一人が掃除小人
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

薬王院 同元門前 笹森丁 長坂丁 蔵主丁 大浦町 同細小路 亀甲町 若党丁 春日丁 馬喰丁 座頭町 小人町
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

家老を勤める津軽政朝、山鹿派の代表的存在である津軽政実は「トモニ悪人也」とされ、特に政朝が「奸曲邪智ノ小人
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

慶応三年(一八六七)二月、警備兵に同行を命じられた鍛冶町の惣十郎(そうじゅうろう)、亀甲町の多助ら雇小人
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

ただ、この時暇を出された者の多くが藩から扶持米等を支給されていた職人、町扶持人、足軽、小人(こびと)、
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

駅場役 5 町年寄物書 3 町年寄小使 3 医学館御製薬持廻小使 1 御雇鳶 8 御雇小人
通史編1(古代・中世) ([付図])

平安 255 加茂神社境内遺跡 小友字宇田野458の1ほか 境内・山林 〃 〃 256 平清水窯跡 小人町
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