• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 222件
辞書ファセット
/ 5ページ
通史編5(近・現代2) (一 小学校教育)

学級数 1 小学校 修斉 十面沢字赤坂三 藤田利一郎 一一 四二一 一〇 2 小学校 草薙 大森字田浦一二,成田武作 七 二一四 六 3 小学校 自得 鬼沢字菖蒲沢一二二 工藤一雄 一三 四七五 一二 4 小学校,一二 四一五 一〇 6 小学校 新和 種市字高瀬九五 工藤武衛 一一 四三三 一〇 7 小学校 高杉,二七一 六 9 小学校 船沢 折笠字宮川九五 五十嵐喜市 一八 七一四 一六 10 小学校 弥生分校,一三 三九一 一〇 17 小学校 豊田 小比内字橋元二二 木村秀徳 一三 四五九 一〇 18 小学校 / 一 小学校教育
通史編5(近・現代2) (進修小学校を和徳小学校に合併)

進修小学校を和徳小学校に合併 昭和十一年(一九三六)一月十五日、中津軽郡和徳村の堅田、高崎、俵元の三大字,この合併により、三大字を学区とする進修尋常小学校は弘前市進修尋常小学校と改称し、市に移管された。  ,もともと進修小学校は和徳小学校に合併することを希望していたが、和徳学区民に反対があって実現せず、その後和徳学区民,進修小学校は三月二十八日閉校式を挙行し、翌日から和徳小学校に校具を運んだ。,進修小学校の児童は十四年四月和徳小学校に編入学し、和徳小学校児童数は一三二二人の多数となり、これを二〇 / 進修小学校を和徳小学校に合併
通史編4(近・現代1) (小学校の改革)

小学校の改革 明治十九年(一八八六)八月、弘前各小学校は一斉に尋常小学校と改称した。,従来、小学校は初等、中等各二年半、計五年の修業年限となっていたが、今後は尋常科一本となり、その上に高等科,また、地方の実状によっては、小学校簡易科を設けて、尋常小学校を代用できることにした。,しかし、これにより小学校中等科五級以上の者は進学の道が閉ざされることになったため、行政当局は急遽大成小学校,その後すぐ、小学校令の公布があり、今度は「高等科」から「高等小学校」の設置へと制度が変わったため、中津軽郡町村連合会 / 小学校の改革
通史編4(近・現代1) (弘前の小学校)

弘前の小学校 弘前で最初に開設された近代的小学校は、明治六年二月開校の私立東奥義塾小学科である。,都市で、人口三万三八八四人(明治四年調査)と最も多く、士族や商人が居住して、文化的にも経済的にも公立小学校開設,それが六年十月一日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)と六年十二月一日創立の二番小学(現弘前市立和徳小学校,)である(なお、和徳小学校は学校創立日を、学年開始に合わせて七年一月八日としたが、『文部年報第一年報』 / 弘前の小学校
通史編5(近・現代2) (西小学校の創設)

西小学校の創設 昭和四十年、弘前市は三ヵ年計画で、市内樋の口地区に広さ四一・二ヘクタールの城西団地を,団地の戸数一四〇〇戸、その子弟はすべて城西小学校に入学した。,しかし、校舎が未完成のため、三学年以上は城西小学校校舎を借用し、一、二学年だけを新校舎に収容した。,同時に城西小学校を借用の三学年以上を新校舎に移し、ここで全学年が揃うことになった。,西小学校の創設によって、弘前市内小学校は附属小学校を含めて三二校となった。 / 西小学校の創設
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

遊廓と小学校 明治三十年(一八九七)十月二日の和徳小学校日誌に「学校長出校、去月県令ヲ以テ遊廓地ヲ北横町及,アリタキ事ヲ申述べ十一時帰校ス」とあるが、これは弘前市はもちろん、県下に論議を呼んだ遊廓地指定のため、和徳小学校,指定された新遊廓地は北横町、北横町野田、田茂木町山王の一帯で、それが和徳小学校のすぐ隣に位置するところから,和徳小学校長今助次郎は肺疾のため永く病臥中だったが、新遊廓地指定に大いに驚き、病軀(く)をおして市長を,和徳小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時和徳村俵元 / 遊廓と小学校
通史編5(近・現代2) (時敏小学校焼失)

時敏小学校焼失 五年六月十五日午後三時、時敏尋常高等小学校から出火、同校を全焼して同三時半鎮火した。,火事の発見者は道路一つ隔てた玉成高等小学校の日直教員で、電話で知らせようとしたが通ぜず、走って報知したが,市は翌十六日校長たちを招集し、協議の結果、時敏尋常高等小学校生徒児童一六〇〇人を次のように分散収容し、,尋常科第一・二学年-和徳小学校、第三・四学年-朝陽小学校、第五・六学年-城西小学校。,写真52 時敏尋常高等小学校校舎(昭和6年7月落成) / 時敏小学校焼失
通史編4(近・現代1) (大成小学校創設)

大成小学校創設 十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、鍛冶町の三学区は,したがって土手町学区は学区内に蓬莱、知類、敬業の三小学校を有することになった。,一学区に一小学校が例で、三校では多すぎ、経費もかかるので、三校合併案が地域住民から持ち上がった。,設置、校舎は蓬莱小学校をそのまま移築した。,写真57 大成小学校(明治24年落成の校舎) / 大成小学校創設
通史編5(近・現代2) (東小学校の創立)

東小学校の創立 昭和五十七年(一九八二)四月一日、弘前市立東小学校が弘前市城東中央五丁目六の一に創立開校,同校は城東地区の市街化に伴い、これまでの学区を変更して和徳小学校、豊田小学校、第一大成小学校からの四三二人,同年八月二十日学校プール完成により全建築が終了、十月十七日創立落成記念式典を挙行し、十一月七日東小学校記念碑除幕式 / 東小学校の創立
通史編4(近・現代1) (小学校令と中津軽郡)

小学校令と中津軽郡 小学校令実施で中津軽郡の大半は簡易小学校となり、尋常小学校は数校にすぎなかった。,現高杉小学校) 富栄尋常小学校(二十年五月鼻和・富栄小学校が合併。,昭和三十五年時敏小学校に統合)   簡易小学校となったもの二〇校 十腰内簡易小学校(二十年四月、現修斉小学校,の前身) 大森簡易小学校(二十年五月、現草薙小学校の前身) 小友簡易小学校(二十年五月、現小友小学校,現三省小学校) 外崎簡易小学校(二十年五月、現豊田小学校) 知新簡易小学校(二十年五月、現福村小学校 / 小学校令と中津軽郡
通史編4(近・現代1) (小学校令の公布)

小学校令の公布 明治十八年(一八八五)十二月、政府はこれまでの太政官制を廃して内閣制度を定めた。,このような立場から公布されたのが十九年三月の「帝国大学令」であり、同年四月の「師範学校令」「小学校令」,写真100 初代文部大臣 森有禮と小学校令  それら学校令の中でも、森が最も重要視したのは「小学校令,小学校令は森文部大臣みずから起草したといわれるが、中でも注目されるのは小学校を尋常と高等の二等とし、修学期間,小学校令の実施に当たって、森は徳育の重視と小学教育の近代化を目指した。 / 小学校令の公布
通史編5(近・現代2) (文京小学校の創設)

文京小学校の創設 昭和三十九年(一九六四)四月一日、中野一丁目に弘前市立文京小学校が創設された。,、松原、千年の各小学校に自由に入学することができた。,自由学区の児童数は六〇四人に上り、松原小学校PTAは三十六年八月、自由学区解消を市教委に陳情していた。,その後市教委から文京小学校の校名が通知された。  ,なお、文京小学校の開設により松原小学校は廃された。 / 文京小学校の創設
通史編4(近・現代1) (私立小学校の乱立)

私立小学校の乱立 公立の亀甲小学が開設された七年四月、第一五中学区内だけで二三校が私立小学校として設立,私立小学校と名乗ったものの、従来の寺子屋にすぎないものが多かったが、これは政府による私立小学校設置奨励方策,第二に、公立小学校の設置によって民衆の学問熱が誘発されたことによる。,第三に、公立小学校ができたものの、校舎の狭隘(きょうあい)、設備の不備などで、入学を希望するすべての生徒,しかし、これら私立小学校の多くは、公立小学校の校舎や設備が整備され、その数が増加すると、二、三年のうちに / 私立小学校の乱立
通史編4(近・現代1) (日露戦争と小学校)

日露戦争と小学校 明治三十七年(一九〇四)二月六日の和徳小学校日誌に「日露ノ風雲愈々急ヲ告ゲ昨夜後備兵,市内各小学校はもちろん、中津軽郡の小学校も同様である。  ,しかし、小学校は軍の言いなりになっていたわけでない。,そのほか、小学校児童が協力したのは戦闘祝捷会の参列である。,当時手取(てっと)り早く人数を動員できる組織は小学校だけだった。 / 日露戦争と小学校
通史編5(近・現代2) (松原小学校の創立)

松原小学校の創立 昭和五十四年(一九七九)四月一日、弘前市立松原小学校が開校された。,旧「松原小学校」は、前述のように、昭和三十九年に文京小学校の開設に伴って廃止されたものであるが、その文京小学校,増築ができなかったことにより分離独立となったもので、旧松原小の敷地跡である松原東二丁目一七番地に新規の小学校,創立時の松原小学校は一四学級編成、児童数四二六人、校舎は第一期工事によって普通教室一三、特別教室二、管理室五,松原小学校では校舎落成を待って、五十五年十月二十六日、学校創立校舎落成記念式典を盛大に挙行した。 / 松原小学校の創立
通史編5(近・現代2) (桔梗野小学校の創立)

桔梗野小学校の創立 戦後、朝陽小学校学区の新寺町以南は急速に住宅が建ち、著しい人口増加を来した。,朝陽小学校PTAは二十四年一月二十四日臨時総会を開催して、仮称第二朝陽小学校新設に関する対策協議を行ったが,、学区編成が問題となり、寺沢川を境界として以南を仮称第二朝陽小学校学区、以北を在来の朝陽小学校学区とすることに,すなわち、昭和二十四年九月一日、第二朝陽小学校は弘前市立桔梗野小学校と校名を改称、同時に第一朝陽小学校,は弘前市立朝陽小学校と改称された。 / 桔梗野小学校の創立
通史編4(近・現代1) (時敏小学校の創設)

時敏小学校の創設 大成小学校の聯合創設に刺激され、第四学区(亀甲学区)が、学区内にある亀甲、盈進の二小学校,合併はしたものの名目統合で、校舎は二校に分かれていて、これまでの亀甲小学校を時敏第一小学校とし、盈進小学校,を時敏第二小学校とした。 / 時敏小学校の創設
通史編4(近・現代1) (市制施行と小学校)

市制施行と小学校 二十二年(一八八九)四月、弘前は市制施行により弘前市となり、これまでの中津軽郡の管轄,したがって市内各尋常小学校は、校名の上に弘前市を付して、弘前市朝陽尋常小学校というように改称することになった,『和徳小学校沿革史』二十二年六月一日の項に「本日ヨリ市町村制実施ニ依リ弘前市制実施、弘前市役所開庁シ従来,これにより中津軽郡は一六ヵ村となり、各村の小学校も新たな村名に基づき名称を変えるとともに、簡易小学校から,尋常小学校へ転換するものも相次いだ(合併構成村については本章第一節第一項参照)。 / 市制施行と小学校
通史編4(近・現代1) (日清戦争と小学校)

日清戦争と小学校 明治二十七年(一八九四)八月一日、日本は清国(中国)に対し宣戦布告し、開戦詔勅が公布,弘前市内各小学校はこの日から夏休みに入っていたが、各校とも児童に出校を命じて詔勅の奉読式を行った。,夏休みの明けた八月末から九月にかけて、市内各小学校は戦争従軍者を慰問するため、職員児童一同が陸海軍恤兵,小学校に軍人崇拝や軍国主義的色彩が入り込むのは、戦時中より勝利を得た戦争後のことである。,その一例として日清戦争後、小学校に流行した軍歌を挙げよう。 / 日清戦争と小学校
通史編5(近・現代2) (高杉小学校の創設)

高杉小学校の創設 昭和三十八年(一九六三)四月一日、高杉小学校と独狐小学校が合併し、新たに弘前市立高杉小学校,学校統合整備、危険校舎解消などを五ヵ年の間に積極的に押し進めようというもので、その第一着手が高杉・独狐両小学校,新発足の高杉小学校は一八学級編成、初代校長に大瀬秀四郎が就任した。 / 高杉小学校の創設
通史編4(近・現代1) (旧藩主逝去と小学校)

それに先立って七月十五日、弘前市内各小学校児童職員一同は、中川寛蔵時敏小学校長を代表に選んで、お見舞いの,また、市内小学校代表として、校長会は山中嵯峨之助弘前高等小学校長を選んで藩公葬儀参列に上京させた。,旧藩主と市内小学校の結びつきは極めて強固であった。,旧藩主も弘前へ来るたびに小学校長たちを集めて、教育の様子を尋ね、また、全市小学校児童に菓子を与えるのを,旧藩主と小学校の結びつきが、明治以来の本市小学校教育に、独自の気風をもたらしたことは否定できない。 / 旧藩主逝去と小学校
通史編5(近・現代2) (北小学校創立開校)

北小学校創立開校 平成三年(一九九一)四月一日、弘前市立北小学校が創立開校された。,同校は時敏小学校の児童増加により一校新設をみたもので、創立時の規模は一七学級編成、児童数五八八人で発足,同校用地は、昭和六十三年十二月青森県住宅供給公社から取得、翌平成元年六月には北小学校校舎建設期成同盟が,北地区町会全体で二五〇〇戸を超える市内有数の住宅団地になっていて、急激に人口増となり、平成三年四月、時敏小学校,それを機会に、北小学校では平成三年十月六日、創立・校舎落成記念式典を盛大に挙行した。 / 北小学校創立開校
通史編4(近・現代1) (簡易小学校について)

簡易小学校について 小学校令が公布された明治十九年当時、日本全国の学齢児童の三分の二は、授業料を払うことのできない,簡易小学校は授業料を徴収せず、教科書は学校で貸与した。,ところが事実は逆で、簡易小学校の設置はかえって未就学児童の増加を促した。,事実、簡易小学校は、児童ばかりでなく担任する教員までが、簡易科教員の名称で、小学校訓導や尋常科教員より,のもと、簡易小学校はわずか数年で小学校現場から消滅した。 / 簡易小学校について
通史編5(近・現代2) (大和沢小学校の復校)

大和沢小学校の復校 大和沢小学校は、明治九年九月、当時の中津軽郡大和沢村に大和沢小学として創立されたが,、大正十二年に至り、合併して千年村となっていた村内の清水森、磨光の各尋常小学校とともに、千年尋常小学校,ただし、新小学校が旧大和沢村から遠かったため、大和沢、一野渡両部落の一、二年児童を編成して分教場が設置,独立校化について地元住民の意向を確かめた際、設置場所が狼森地区へ移転することから千年第二小学校という呼称,昭和四十七年、大和沢小学校は復校十五周年(創立九七年)を記念して、これまではなかった校旗を制定した。 / 大和沢小学校の復校
通史編4(近・現代1) (玉成高等小学校の創立)

玉成高等小学校の創立 明治十九年の小学校令で尋常ならびに高等小学校が設置されたが、弘前及び中津軽郡各村,は、郡の中心地たる弘前に高等小学校一校を設置して、郡内の高等小学校入学希望者を一括して弘前高等小学校が,弘前高等小学校は校舎の狭隘を告げ、中津軽郡児童の入学を拒絶するのやむなきに至った。,ここにおいて中津軽郡各村では新たに高等小学校設置の必要に迫られ、三十二年四月に誕生したのが玉成高等小学校,しかし、玉成高等小学校の最大の功績は、中津軽郡各村の連帯意識を昂揚したことであった。 / 玉成高等小学校の創立
通史編5(近・現代2) (弥生小学校の創設)

弥生小学校の創設 弥生地区は旧船沢村に属し、昭和十一年に開拓の鍬が下ろされたが、その当時の同地区児童,は四、五キロメートルの山道を歩いて、富栄尋常高等小学校(のち船沢国民学校)に通学した。,からは教師さえ確保できれば季節分校を認可するというので、同地区の人々は折から疎開帰郷中の前田昌宏(元小学校教員,その後、昭和三十五年に至って児童数は一三〇人を超え、学級も五学級となったため、船沢小学校分校から独立校,に昇格することになり、昭和三十六年(一九六一)四月一日、弘前市立弥生小学校として発足した。 / 弥生小学校の創設
通史編5(近・現代2) (第三大成小学校の創設)

第三大成小学校の創設 昭和三十年(一九五五)四月一日、弘前市富田町四七番地に第三大成小学校が創立開校,戦後に生まれた児童が小学校に入学した昭和二十七、八年当時、第一大成・第二大成小学校の両校は急激な児童増加,それでも児童数は増加する一方で、昭和二十九年四月には第一大成小学校は一八九八人、第二大成小学校は一八四六人,とピークに達し、第一大成小学校では二部授業を余儀なくされた。  ,市教委は、三十年一月一日、朝陽小学校長阿保恂二を第三大成小学校長に任命、開校準備に当たらせ、同年三月十九日校舎地鎮祭 / 第三大成小学校の創設
通史編4(近・現代1) (第二大成小学校の焼失)

第二大成小学校の焼失 大正六年五月十八日、清水村富田(現弘前市富田一丁目)の民家から出火、大火となり,、第二大成小学校が焼失した。,出火は午後零時十五分、折からの強風に品川町に延焼し、第二大成小学校は午後一時半焼失した。,焼失後、第二大成小学校は第一大成校と和徳校を借りて二部授業を行った。,第二大成小学校の新校舎は同年の十月に着手、翌七年一月には新校舎で授業を開始した。 / 第二大成小学校の焼失
通史編4(近・現代1) (大正二年大凶作と小学校)

大正二年大凶作と小学校 大正二年の大凶作は天明の飢饉に次ぐものといわれ、青森県下産米の実収は平年作の,この凶作の影響は弘前にも及んで、『朝陽小学校沿革誌』大正三年一月に「昨年気候不順にて凶作不況、窮乏児童,中津軽郡和徳村(現和徳小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態,「小学校デハ腹が空ルカラトイフテ生徒ノ体操ヲヤスンダ。二尺位ノ藁デ馬鹿ニ高イ値ヲイフタ。,この大凶作で、本県内では児童の退学や不就学が続出し、せっかく隆盛の一途をたどりつつあった本県小学校教育 / 大正二年大凶作と小学校
通史編5(近・現代2) (満州事変勃発と小学校)

満州事変勃発と小学校 昭和六年(一九三一)九月十八日満州事変が勃発した。,六年十月二十一日の和徳小学校日誌に「戦死者遺骨出迎ノタメ六学年以上百三十名、二訓導ニ引率サレ弘前駅ニ赴,市内各小学校がそれぞれ灯火管制事務所となり、在郷軍人、青年訓練所生徒、消防団などが防空団を編成し演習に,第八師団の渡満後、この郷土部隊への慰問が小学校児童の大きな仕事となった。,試みに和徳小学校昭和七年度(八年三月卒業式)卒業生の慰問行事を挙げてみると、六年十月から八年三月までの / 満州事変勃発と小学校
通史編4(近・現代1) (小学校のスキー備え付け)

小学校のスキー備え付け 大正二年(一九一三)一月八日、和徳小学校に初めてスキーが備え付けられた。,この和徳小学校備え付けの一組のスキーから、本市の小学校体育に漸次スキーが採り入れられていったのである。 / 小学校のスキー備え付け
通史編5(近・現代2) (草薙小学校大石寮の設置)

草薙小学校大石寮の設置 草薙小学校学区の大石開拓部落(のち大石農場と呼称)は、昭和三十八年(一九六三,三十九年当時、大石開拓部落から草薙小学校に通学する児童は八人、通学距離は六キロメートルもあった。,三十九年七月、一父兄が当時の笹森教育長に季節分校設置を直訴したことから、草薙小学校の児童寄宿舎設置が計画,幸い四十年度に至って文部省は、小学校の寄宿舎設置を認めることに規則を改正、その年全国七ヵ所に寄宿舎設置補助金,を交付することにしたため、草薙小学校寄宿舎設置計画はにわかに具体化した。   / 草薙小学校大石寮の設置
通史編5(近・現代2) (第一回小学校連合体育大会)

第一回小学校連合体育大会 昭和二十八年九月四日、弘前公園三の丸市営野球場において、第一回弘前市小学校連合体育大会,開催に先立って同年七月、市内小学校五・六年生担任教員の代表を時敏小学校に招集して、連合体育大会開催の是非,それについて熊谷教諭から、連合体育大会の開催は本市小学校体育教育の発展向上と、市内小学校の児童・教員の,当時はまだ小学校の体育研究サークルは組織されていなかった。,写真129 第1回弘前市小学校連合体育大会(公演三の丸市営野球場・昭和28年)  第一回小学校連合体育大会 / 第一回小学校連合体育大会
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校校舎新築落成)

朝陽小学校校舎新築落成 昭和二十四年十一月十一日、朝陽小学校PTAは、公会堂大広間において朝陽小学校復興協議会,戦後の学都弘前建設のため、青森医学専門学校に校舎を提供、あるいは児童ぐるみ弘前大学附属小学校としての貸与,などの犠牲を強いられ、校地校舎に不自由した朝陽小学校も、ようやく完備した校舎を所有できた。 / 朝陽小学校校舎新築落成
通史編5(近・現代2) (白取朝陽小学校長の奇禍)

白取朝陽小学校長の奇禍 これまで弘前市少年野球大会で最下位を低迷していた朝陽小学校野球部は、大正十五年初,これを契機に、以後、朝陽小学校野球部は昭和二年、三年、五年と実に四回にわたって全国大会に出場、東北はもちろん,このように朝陽小学校野球部が黄金時代を迎えるようになったのは、当時の白取清一校長の尽力によるものであった,三年八月、朝陽小学校チームは連続三回全国大会に出場、白取校長と乳井訓導は野球部児童を率いて京都に出かけた,八月八日大阪代表の姫島小学校と対戦、空しく敗れて翌九日帰途についた。 / 白取朝陽小学校長の奇禍
通史編4(近・現代1) (第二大成尋常小学校の創設)

第二大成尋常小学校の創設 明治三十四年(一九〇一)四月、弘前市会は「大成尋常小学校の分校を設置すること,大成小学校は他校に比して児童数が多く、校舎は狭隘(あい)を極めて、増築することは学区民の話題になっていたが,表53 弘前市内小学校児童数 (明治三十三年度末現在) 校名 男 女 計 朝 陽 三〇二 二六七 五六九, そこで第二学区会は、市会の決議に従って品川町七一番地に一校を新設したが、同一の学区に建てられた小学校,、同校は市によって建てられた最初の小学校といえる。 / 第二大成尋常小学校の創設
通史編5(近・現代2) (富田小学校の弘前移管と焼失)

富田小学校の弘前移管と焼失 富田小学校は当時中津軽郡清水村の所管になる小学校で、現在の紙漉町文化幼稚園,したがって富田小学校も市に移管された。  ,ところが、合併した三年の十一月十八日午前二時十分、富田小学校から出火、同校を焼失した。,富田小学校は、焼け残った体操場を仕切って教室として二部授業を続け、四年一月四学級を第一大成小学校に収容,児童は第一大成小学校、第二大成小学校、朝陽小学校の三校に分散、編入学させた。 / 富田小学校の弘前移管と焼失
通史編5(近・現代2) (第一、第二大成小学校の統合)

第一、第二大成小学校の統合 都市のドーナツ化現象と少子化の影響により、弘前市内各小学校は就学児童数の,減少を来したが、その中でも特に減少が著しいのは第一大成小学校と第二大成小学校であった。,弘前市立大成小学校は平成十四年(二〇〇二)四月一日をもって発足した。,大成小学校校舎は、弘前市御幸町一三番地一、旧第二大成小学校跡地に新築することにしたが、新校舎落成まで土手町一五四,の一旧第一大成小学校校舎に児童を収容、校舎落成の平成十七年三月末に移転した。 / 第一、第二大成小学校の統合
通史編5(近・現代2) (朝陽小学校の移転と新築)

朝陽小学校の移転と新築 朝陽小学校は、昭和に入ってから急激に児童数の増加を来し、昭和六年には全校児童一一二一人,朝陽小学校移転地は本町一丁目突き当たり、在府町五番地から九番地に決定、昭和九年(一九三四)二月の市会において,同校では十月二十四日新築落成記念運動会を新運動場において開催、市内各小学校選手を招待した。 / 朝陽小学校の移転と新築
通史編5(近・現代2) (和徳地区小学校統合問題)

和徳地区小学校統合問題 弘前市に合併前の旧中津軽郡和徳村には、明誠(撫牛子)、静修(大久保)、養正(,この紛糾は全面解決まで実に一三年を要し、昭和四十二年二月二十三日、明誠と静修の統合(養正小学校は昭和三十五年時敏小学校,写真190 新築なった城東小学校  城東小学校統合問題は、紛糾の根の深さにおいて、社会問題として,紛糾の問題点はただ一点、統合校舎とする城東小学校敷地の位置にあった。 / 和徳地区小学校統合問題
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

城西小学校創立 下町学聯区が袋町に設置した自彊小学は十四年四月十日焼失した。,するところから、また、「山水」は地域を流れる岩木川と、眺められる岩木山を組み合わせたと思われるが、結局校名は城西小学校 / 城西小学校創立
通史編5(近・現代2) (城西小学校情緒障害学級)

城西小学校情緒障害学級 昭和四十八年(一九七三)四月、城西小学校に弘前市最初の情緒障害学級が開設された,城西小学校の情緒障害学級は四十七年四月に設置が内定、担任として熊谷公秀教諭が当たり、同教諭は四十七年六月 / 城西小学校情緒障害学級
通史編5(近・現代2) (富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)

この大火によって第一大成小学校、第二大成小学校の二校が同時に焼失した。,そのため、第一大成小学校は四月二十三日から和徳小学校に移って、二部授業を行うことになり、午前は和徳校児童,第二大成小学校は三年生以上を朝陽小学校へ、二年生以下を富田小学校(昭和三年四月から弘前市移管)へ収容、,ここでも二部授業の解消に努めた結果、朝陽小学校に収容の児童を旧三一連隊兵舎に移し、富田小学校に収容の一,写真50 県下初の鉄筋コンクリート造であった第二大成小学校(昭和5年) / 富田大火と第一・第二大成小学校の焼失
通史編5(近・現代2) (第一大成小学校病弱児学級)

第一大成小学校病弱児学級 昭和四十九年四月十八日、第一大成小学校に病弱児を対象とする特殊学級が開設された / 第一大成小学校病弱児学級
通史編5(近・現代2) (進駐軍の小学校視察)

進駐軍の小学校視察 昭和二十三年六月、中津軽地方事務所から「職員に周知せしめ、学校経営、学級経営に遺憾 / 進駐軍の小学校視察
通史編4(近・現代1) (鬼沢小学開校と「村落小学」)

同 同 三 八二 二 同 後に隆親小学校 現堀越小学校 清水森小学 同 清水森村 同九月八日 同,同 現千年小学校の前身 大和沢小学 同 大和沢村 同九月四日 同 同 一 三二 同 現大和沢小学校,同 一 三〇 同 現新和小学校 小友小学 同 小友村 同 同 同 一 三五 同 現小友小学校,同 二 七〇 同 現船沢小学校 独狐小学 同 独狐村 同 新築 公有 一 七〇 同 現高杉小学校,同 一 二〇 同 現草薙小学校 ならびに小友小学校 (注)備考は読者の便宜上、筆者が書き加えたものである
通史編4(近・現代1) (就学生千人を超える)

写真104 弘前高等小学校  当時高等小学校に入学することは、今日の大学入学より希少価値があって,、高等小学校卒業というと世間の信用が違っていた。,は県下で弘前高等小学校が最初である。,のことで、高とあるのは高等科のみの小学校である。,中津軽郡に高等小学校が設置されていないのは、弘前高等小学校に入学するためである。
通史編4(近・現代1) (特別大演習と天皇の弘前行幸)

天皇の行幸と大演習及び観兵式参観について、市小学校長会は一ヵ月前から協議を重ね、その対策を練った。,天皇鹵簿(ろぼ)を、弘前および中郡、南郡の各小学校児童は御順路沿道で奉迎したが、和徳小学校は「午後五時二十分天皇御着三年以上,ノ男女一同代官町角ヨリ北方ニ於テ」、朝陽小学校は「三年以上停車通リ」致遠小学校は「三学年以上四時半富田,また、鹵簿御順路に当たる第一大成小学校は自校正門前で、第二大成小学校は松森町で奉迎した。  ,和徳、第一大成、第二大成小学校は兵士宿舎用に使用され、軍隊に使用されなかった小学校は、大演習見学にやって
通史編5(近・現代2) (米国より人形贈らる)

、児童国際親善のしるしとしてアメリカの児童から日本に多数の人形が贈られ、五月二十日には弘前市内各尋常小学校,人形を贈られた日本の小学校は好意を素直に受け、早速答礼の品を送ることにした。,の費用として、各校が一〇円を醵出し、十月二十一日市内各小学校の児童は時敏小学校に集合して、出来上がった,なお、アメリカから贈られた人形は、現在、弘前市では青柳小学校と船沢小学校に保存されている。,写真49 富栄尋常小学校(現船沢小)アメリカ親善人形を贈られる(昭和3年)
通史編5(近・現代2) (六・三制の実施と校名の改称)

六・三制の実施と校名の改称 六・三制というのは、学校制度を小学校六年、中学校三年とする義務教育制度の,六・三制教育の実施は昭和二十二年(一九四七)四月一日からであるが、このとき、これまでの国民学校を小学校,昭和二十二年四月一日、これまでの国民学校は全国一斉に小学校と改称された。,これは同日から施行された学校教育法に基づき改称されたもので、弘前市の小学校はすべて「弘前市立○○小学校,」と改称されることになり、町村立の小学校も設立町村名を冠することになった。
/ 5ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました