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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (知行安堵)

表1 北奥羽大名の領知高(万石以上) 史   料   名 南部氏 津軽氏 秋田氏 小野寺氏 戸沢氏,津軽氏への割り当ては、小野寺氏の割り当て量とほぼ一致していることがわかる。,小野寺氏の石高は、天正十九年(一五九一)一月に三万一六〇〇石と定められている。,先にみたように、津軽氏の石高は小野寺氏と同じようになっているので、およそ三万石程度であったことをうかがわせる,ここから、津軽氏の領知高は、約三万石であったと考えられる(小野寺氏より若干少ない程度)。
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

津軽為信を含む秋田氏・小野寺氏・仁賀保氏らの軍勢は若狭館の向かいの穴手(あなて)に陣を構え、信直らとともに
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

、秋田・仙北の大名・小名衆とともに伏見作事板運上の秀吉朱印状獲得を待ちわびていた南部信直は、秋田氏や小野寺氏
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

)・長束正家(なつかまさいえ)の三奉行連署で、秋田実季と小野寺義道に豊臣氏に味方を求める書状が届き、小野寺氏
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

しかし、政宗のほか上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏など北国・北関東の大名衆、そして秋田氏・小野寺氏・最上氏・由利衆
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●寛正六年(一四六五)八月、南部氏よりの「公方召之御馬」、南部・小野寺氏の確執により、通路が閉ざされ進上
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

である秋田杉板の作事板搬出割り当ての状況から検討すると、津軽氏と出羽仙北で三万一六〇〇石を領していた小野寺氏
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

…………… 臥雲日件録抜尤 263 ●寛正六年(一四六五)八月、南部氏よりの「公方召之御馬」、南部・小野寺氏
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