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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

一つは兵学者・儒学者山鹿素行(やまがそこう)(一六二二~一六八五)の一族やその薫陶を受けた「素行派(そこうは,『山鹿素行先生日記』(素行会編・発行 一九三七年、以下『素行日記』と略記)によれば、万治三年(一六六〇,図89.山鹿素行画像  信英の死後、藩政を掌握することになったのは家老高倉盛成(たかくらもりなり,先にみた用人職設置で最初に任命された田村幸則は山鹿素行の甥に当たる。,三家老更迭と同日、北村統好の次男で山鹿素行二女鶴の夫でもある喜多村宗則(きたむらむねのり)(一六五八~
資料編2(近世編1) (『五蟲論』一巻)

思うに、蟄居謹慎の身の上にあった乳井が、常日頃「吾が夫子」と称して敬愛していた山鹿素行の境遇に自らのそれを
通史編3(近世2) (稽古館の文化事業)

また教科書以外の稽古館本として、津軽家と深くかかわりのある山鹿素行の「中朝事実」(文政元年六月)、「聖教要録
通史編3(近世2) (信政の教養)

は寛文元年(一六六一)正月、十五歳の時に叔父であり後見人であった津軽信英(のぶふさ)の勧めによって、山鹿素行,図159.山鹿素行画像  信政は素行を招聘せんとの意向を持っていた。
通史編3(近世2) (野本道玄)

山鹿素行の勧めで信政の茶道指南として一五〇石で仕えた。
通史編5(近・現代2) (山鹿学の影響)

山鹿学の影響 羯南が少年時代愛読したのは山鹿素行の『山鹿語類』で、特に巻第二十一の士道・巻第二十二から
資料編2(近世編1) (第二節 乳井貢の思想【解説】)

思想的には、朱子学を空理空論として徹底的に批判し、山鹿素行、荻生徂徠、太宰春台に見られる実学的な学風に
通史編3(近世2) (喜多村校尉政方)

喜多村校尉政方 津軽信政が山鹿素行に師事し、素行の弟子を多く召し抱えたことから、素行の学問・思想が藩内
通史編2(近世1) (文教政策の展開)

この時期以降の藩の兵学は、藩主信政自身の傾倒もあり、山鹿素行の唱える山鹿流が藩の兵法として重んじられ、
通史編3(近世2) (信政)

信政 四代信政は、寛文元年(一六六一)、十五歳の時に山鹿素行の門人となった。
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

孟子・荘子への関心については今はおき、山鹿素行(やまがそこう)(一六二二~八五)、荻生徂徠(おぎゅうそらい
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

政方は、信政の代に家老を勤めた津軽政広の子息で、山鹿素行の外孫に当たる。
通史編2(近世1) (乳井の思想―「天職」―)

このような武士の存在規定には、彼が日ごろ「吾が素行夫子」と敬慕した山鹿素行の考え方が反映されていよう。
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

藩の正規の軍制は四代信政(のぶまさ)が兵学者山鹿素行(やまがそこう)に傾倒(けいとう)して以来、山鹿流
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