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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(岩木山東縁断層)
岩木山
東縁断層 津軽平野西縁部の
岩木山
東縁断層(仮称)は、炭酸ナトリウム型泉質組成の温泉および空中写真,断層の西側に大釈迦相当層が分布しないことから、大釈迦層の分布を規定する断層、あるいは
岩木山
の成因にかかわる /
岩木山
東縁断層
通史編4(近・現代1)
(女学生の岩木山登山)
女学生の
岩木山
登山 弘前女学校では、明治四十二年五月、宿泊を伴う最初の修学旅行を行った。,次いで、同年八月、当時女人禁制とされていた
岩木山
登山の計画が発表された。 ,私立弘前女学校においては夏季休暇利用の修学旅行として
岩木山
登山を計画したるが、その目的、準備などすこぶる,
岩木山
は永い間、女人禁制の霊山とされており、明治六年(一八七三)七月に兼平亀綾が初登頂を果たすものの、,由来当地にては
岩木山
を郷国の大鎮守神として尊敬すること寧ろ崇拝すること甚しく、古より女人禁制の霊山として / 女学生の
岩木山
登山
通史編5(近・現代2)
(岩木山の登拝行事)
岩木山
の登拝行事 国の「重要無形民俗文化財」として昭和五十九年一月に指定されている。 /
岩木山
の登拝行事
資料編3(近世編2)
(●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)
図24
岩木山
神社楼門立面図・平面図 (『重要文化財
岩木山
神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図25
岩木山
神社拝殿立面図・平面図 (『重要文化財
岩木山
神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図26
岩木山
神社本殿立面図・平面図 (『重要文化財
岩木山
神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載),図27
岩木山
神社奥門・瑞垣 立面図・平面図 (『重要文化財
岩木山
神社本殿外四棟修理工事報告書』より,図28
岩木山
神社社務所 / ●
岩木山
神社 岩木町大字百沢字寺沢
通史編1(自然・原始)
(岩木山麓緊急遺跡発掘調査開始~現代)
岩木山
麓緊急遺跡発掘調査開始~現代 昭和三十三年(一九五八)は、本県の考古学(埋蔵文化財)調査において,江坂輝彌が担当した平前ノ沢(100)(五月)・平虚空蔵(六月)遺跡、弘前市教育委員会が主体となって行われた
岩木山
麓 /
岩木山
麓緊急遺跡発掘調査開始~現代
通史編3(近世2)
(下居宮)
下居宮 下居宮(おりいのみや)(現
岩木山
神社、中津軽郡岩木町)は
岩木山
三所大権現を祀る。,
岩木山
を神体として祀ることは古くから行われてきており、安寿と厨子王、田光沼(たっぴぬま)の竜女、赤倉の,鬼神、坂上田村麻呂などの創建伝説を伝える(小舘衷三『
岩木山
信仰史』一九七五年 北方新社刊)。 ,天台系の密教(台密(だいみつ))の影響を受け、熊野三山を
岩木山
に充て、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により,図229.
岩木山
神社
通史編1(自然・原始)
(完新世の噴火)
松山・
岩木山
団研(一九八〇)によると、上位から
岩木山
A浮石層、同B浮石層、同C浮石層の少なくとも三層が,この三層の浮石層はおおむねスカイライン六〇番カーブ(標高一一〇〇メートル)より高い所にあって、特に
岩木山
,図14
岩木山
八合目スカイライン駐車場付近での腐植土中の降下軽石層 鳥海山溶岩が、上述のように,約一万年前の噴火と推定すると、標高一五五〇メートルの御倉石および
岩木山
(狭義)は縄文時代の噴火活動で形成,岩木火山の歴史時代における火山活動の記録については、『津軽の
岩木山
』(宮城、一九七一)に記述されていて
通史編1(自然・原始)
(一 従来の研究)
また、鈴木(一九七二)、松山・
岩木山
団研(一九八〇)、塩原・
岩木山
団研(一九八〇)、黒木(一九九五)などは,佐々木ほか(一九九六)は岩石学的研究とK-Ar法による年代測定(1)を実施し、山口(一九九八)も松山・
岩木山
団研,(一九八〇)および塩原・
岩木山
団研(一九八〇)の研究成果を踏まえて、指標火山灰の特定とK-Ar法による
通史編1(自然・原始)
(三 地形分類)
表1に層序を示したが、地形分類にあたっては松山・
岩木山
団研(一九八〇)および塩原・
岩木山
団研(一九八〇,図9 岩木火山および周辺の地形分類 表1 岩木火山周辺の層序表(松山・
岩木山
団研,1980に,形成された後に、その境界部からの水蒸気爆発によって発生した爆裂火口跡が存在するからと考えられる(塩原・
岩木山
団研
資料編1(考古編)
(4.黄金山遺跡)
02006)(図4) (1)所在地 弘前市大字鬼沢字猿沢236、238、5-90 (2)遺跡の立地
岩木山
麓,(3)調査の経緯
岩木山
麓原野の開発に伴う緊急調査を尾上山遺跡で実施中に参加していた作業員より知らせを,※参考文献 渡辺兼庸「黄金山遺跡」(
岩木山
-
岩木山
麓古代遺跡発掘調査報告書)弘前市教育委員会 1966
通史編3(近世2)
(お山参詣)
お山参詣
岩木山
が津軽領内すべての人々にとって、古くから信仰の対象であったことはいうまでもない。,右の祈願のほかに、領内の安穏と藩主の延命長寿への願いが込められていた(小館衷三『
岩木山
信仰史』一九七五年,同時にこの期間、
岩木山
の南西麓にある嶽(だけ)・湯段(ゆだん)温泉への入湯が禁止されており(「国日記」,元禄九年八月五日条・明和七年八月十日条)、地理的位置からいって、この両温泉は
岩木山
信仰と深い関係があったといってよい,さらに「国日記」嘉永六年十二月十七日条に、「一、
岩木山
登山之節、目立候花(華)美之衣類廻并幟(のぼり)
通史編1(自然・原始)
(特殊な地震(群発地震))
昭和四十七年(一九七二)十二月に
岩木山
周辺を震源とした地震が群発した。,気象庁ではこれらの地震を「
岩木山
地震」と呼称した。 ,最近の
岩木山
火山活動と群発地震では、昭和四十三年(一九六八)、四十五年(一九七〇)、五十一~五十三年(
資料編1(考古編)
(5.大森勝山遺跡)
02007)(図5~8) (1)所在地 弘前市大字大森字勝山495~507 (2)遺跡の立地
岩木山
,の北東麓、手白森山(144.9m)の南に広がる標高140m~145mの舌状台地上に所在し、当台地は
岩木山
麓,(3)調査の経緯 当遺跡も
岩木山
麓原野の開発事前調査として、昭和34年(1959)8月17日~9月,6 円盤状土製品 7 円盤状土製品 図8 大森勝山遺跡大堅穴住居跡内出土遺物(『
岩木山
,)1959年12月 2)村越・渡辺・田村・磯崎「大森勝山遺跡」(
岩木山
-
岩木山
麓古代遺跡発掘調査報告書
通史編1(自然・原始)
(南東麓)
たとえば、
岩木山
神社および高照神社は弥生面に、百沢小学校は百沢面に位置し、
岩木山
神社から弥生にかけては,なお、昭和五十年(一九七五)八月の百沢土石流は
岩木山
神社東縁の蔵助沢で発生し、青森県災害史上最大の被害
通史編4(近・現代1)
(巡幸の日誌と弘前)
層楼ヲ新築シ、四望濶遠、
岩木山
駅西三里ヲ隔テ、絶頂碧霄ヲ摩シ、根脚八村ニ跨ル。津軽冨士ノ称アリ。,西巨川を隔て
岩木山
と対す。 ……城市殷富。東奥推して一都会となす也。,
岩木山
を回顧すれば温藉玉の如し。白雲其の嶺にまつわる。洵に美しき哉。,筆者の児玉源之丞は、地元民が
岩木山
をあまりに自慢するのを見て、これをたしなめている。,「………
岩木山
……根脚八村ニ跨ル。津軽富士ノ称アリ。岩手山ト伯仲スベシ。
資料編1(考古編)
(3.尾上山遺跡)
章図18) (1)所在地 弘前市大字高杉字尾上山、俗称寺屋敷または高杉山 (2)遺跡の立地
岩木山
,(3)調査の経緯 昭和32年(1957)に計画決定を見た、
岩木山
麓原野の大規模開発に対する事前調査,※参考文献 渡辺兼庸「尾上山遺跡」(
岩木山
-
岩木山
麓古代遺跡発掘調査報告書)弘前市教育委員会 1966
通史編1(自然・原始)
(一 弘前市の位置および外形)
岩木川が平野中央部を悠々と流れ、西側には秀峰
岩木山
がそびえている。 ,
岩木山
東半麓から岩木川と支流である平川より西側にかけて南北に帯状に分布し、また岩木川中流域の大秋(たいあき,岩木川沿いの悪戸(あくど)から藤代(ふじしろ)付近を境として南北で地形の発達が異なり、岩木川以北では
岩木山
麓,図1 弘前市の位置と外形 弘前市の東西南北の端をみると、まず最北端は
岩木山
北麓に位置する十腰内,最西端は同じ
岩木山
北麓を流れる鳴沢(なるさわ)川(源流部は大鳴沢)流域の北緯四〇度四三分、東経一四〇度一七
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
大浦城の構造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の
岩木山
麓に位置することから,城跡の北を
岩木山
に源を発する後長根(うしろながね)川が流れて外堀の機能を果たし、南は弘前から
岩木山
麓を,、その勢力を涵養(かんよう)した伝統的所領であり、しかも岩木川に面して水運にも恵まれ、岩木川と後背の
岩木山
,三つの河川の分岐点を中心とする津軽平野中心部一帯に設定されたと推定されるように、岩木川西岸で岩木川と
岩木山
通史編3(近世2)
(為信)
為信 初代為信の出生に当たり、実父武田守信が男子を望み
岩木山
に祈願したところ、夢に
岩木山
の神が白髪の,
岩木山
は古くから領民の信仰を集めてきたので、夢の話として自分との関係を説明し、下居宮の再興に尽くした。,
岩木山
信仰を領民に示すことは、統一を志す者にとって欠かすことのできないことであった。,このように為信の信仰は、津軽惣鎮守の
岩木山
三所大権現であり、格翁に導かれた曹洞宗であった。
通史編3(近世2)
(百沢寺)
百沢寺 百沢寺(ひゃくたくじ)は、
岩木山
三所大権現の下居宮(おりいのみや)(現
岩木山
(いわきやま)神社
通史編5(近・現代2)
(弘前市の合併と農業)
182 秋の田園風景 また、弘前市は昭和三十一年(一九五六)八月、周辺関係町村と一体となって「
岩木山
,
岩木山
ろく地帯は広大な原野を有しているが、粗放略奪的利用のままに放置されていた。,国営
岩木山
ろく開拓パイロット事業は、弘前市、岩木町、鰺ヶ沢町、鶴田町、森田村の一市四ヵ町村に及ぶ、可耕地二五,図10
岩木山
ろく地区開拓パイロット事業一般図 さらに、昭和三十三年(一九五八)十二月、岩木川
通史編1(自然・原始)
(大森勝山遺跡)
大森勝山遺跡 昭和三十八年(一九五八)より弘前市教育委員会が実施した、
岩木山
麓の開拓事業に伴う事前の,埋蔵文化財緊急発掘調査の一環として、翌年には
岩木山
東麓の大森勝山遺跡が調査され、大型の竪穴住居跡・環状列石
通史編3(近世2)
(江戸時代前期の建築)
岩木山
神社の楼門(ろうもん)が同じく寛永五年の完成であり、同年には長勝寺の三門も起工され、翌年の寛永六年,
岩木山
神社の楼門は、もともと百沢寺の山門として建てられたものであり、五間三戸の大規模な建築であり、量感豊,図235.
岩木山
神社楼門 長勝寺の三門は、先に挙げた百沢寺の山門ができたすぐ後の寛永六年(一六二九,
岩木山
神社の拝殿は、先にも述べたように、百沢寺大堂(本堂)として慶長八年(一六〇二)に為信が建てたものを,この時の棟札には「――精舎一宇(しょうしゃいちう)
岩木山
大堂――寛永十七庚辰(かのえたつ)年」と記されており
通史編1(自然・原始)
(秋)
同じころ、強い寒気が入ると八甲田山・
岩木山
などの高い山では降雪が始まる。,八甲田山の初冠雪は平年十月十四日、
岩木山
は八甲田山より二日遅れになっている。
資料編1(考古編)
(6.十腰内遺跡)
遺跡番号 02011)(図9~15) (1)所在地 弘前市大字十腰内字猿沢 (2)遺跡の立地
岩木山
北北東麓,(3)調査の経緯 遺跡は、
岩木山
麓開発の事前調査として、昭和35年(1965)7月25日~9月10,※参考文献 今井冨士雄・磯崎正彦「十腰内遺跡」(
岩木山
-
岩木山
麓古代遺跡発掘調査報告書)弘前市教育委員会
資料編1(古代・中世編)
(一 大浦城の立地と現状)
城跡の南を、弘前から
岩木山
麓を経て鰺ヶ沢へ向かう旧百沢街道(主要地方道弘前・岳・鰺ヶ沢線)が通過しており,中世の当地域は、津軽鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の
岩木山
麓に位置することから「西根」とも称された。,北を、
岩木山
に源を発する後長根(うしろながね)川が流れて外堀の機能を果たし、南は岩木川の作った沖積低地
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
愛宕山橋雲寺お札 岩木三所大権現(現中津軽郡岩木町)は、百沢寺(ひゃくたくじ)が別当を免じられ、
岩木山
山頂御室,また、下居宮神社安倍貞世が
岩木山
神社神主に任命され、広大な境内の林は
岩木山
神社・百沢寺・救聞持堂(ぐもんじどう,後に
岩木山
神社は国幣小社(こくへいしょうしゃ)に指定され、津軽惣鎮守として多くの信奉者を集めたが、この
通史編1(自然・原始)
([口絵])
[口絵]
岩木山
と弘前市街 岩木火山北麓の大鳴沢流域に展開する扇状地。,個人蔵,砂沢遺跡,弥生時代前期) 爪形文土器破片 (独孤遺跡,縄文時代草創期)
岩木山
麓緊急発掘調査,で発掘された土製装飾品 (岩木町薬師Ⅱ号遺跡,縄文時代晩期) 正面 背面
岩木山
麓緊急発掘調査
通史編1(自然・原始)
(南麓)
南麓 写真12は、岳~百沢間の地蔵茶屋付近、写真13は
岩木山
百沢スキー場での露頭写真である。,写真13
岩木山
百沢スキー場での土石流堆積物。ローム中に3枚の砂礫層が認められる。
資料編1(考古編)
([口絵])
[口絵] 自然 〔秀峰
岩木山
〕 麓に広々とした扇状地を抱き、これを取りまくように環状の丘陵地,この丘陵地は
岩木山
の形成に深く関与している。,〔
岩木山
北東麓に位置する十面沢円頂丘群〕 泥流堆積物からなる流れ山とも言われているこの円頂丘群は,輝石安山岩質溶岩及び同質火砕岩からなり、
岩木山
より古い噴出物と考えられている。,後方には
岩木山
を望むことができる。
資料編1(考古編)
(-鉄生産遺構と製鉄炉の性格-)
従来、大館森山遺跡や大平野遺跡など、
岩木山
麓で検出されていた製鉄炉(半地下式竪形炉)は前者(直接製鋼法,図25 製鉄炉群を含む工人集団の集落跡 東北地方北部の古代の製鉄遺跡は、米代川流域と
岩木山
麓に,中でも、
岩木山
麓では前述したように、大平野Ⅲ号遺跡・大館森山遺跡・杢沢遺跡(旧若山遺跡)などがある。,
岩木山
麓で検出された各遺跡の半地下式竪形炉の一般的な構造は、長軸60cm~120cm・短軸20cm~40cm,図26 杢沢遺跡製鉄炉(1) 図27 杢沢遺跡製鉄炉(2)
岩木山
麓や、米代川流域での
通史編3(近世2)
(民衆の精神世界)
弘前藩の正式宗教は仏教を別とすれば、
岩木山
を神体とする岩木三所大権現(現
岩木山
神社)信仰であり、それ以外,
岩木山
には往古より霊力を持った鬼が住んでおり、藩祖津軽為信(ためのぶ)の津軽統一事業の際、その霊力で為信,以後、
岩木山
には宮が営まれ、
岩木山
に祀られた神は藩領と藩主家を護持する存在とされたが、それ以外の民間信仰
資料編1(古代・中世編)
(〈凡例〉)
内陸部については、弘前市内の板碑を第一に挙げ、次いで平川中流域の町村、
岩木山
東麓岩木町、平川・浅瀬石川合流点,(2) 弘前市内は、平川流域から旧弘前市内、岩木川上流域、
岩木山
東麓部から岩木川・平川合流点、
岩木山
東北麓
通史編1(自然・原始)
(火山の発達史)
火山の発達史 さて、山口(一九九八)は、塩原・
岩木山
団研(一九八〇)の見解をもとに、噴出物の年代測定,によるブロックダイヤグラムで岩木火山の発達史を想定したものであるが(成田、一九八六)、基本的には塩原・
岩木山
団研
通史編5(近・現代2)
(今官一の文学の魅力)
に甘んずる氏の小説は、恐らく八十篇を超えないであろうから、ここに収めた作品でもって、曙光に輝く新雪の
岩木山
,「
岩木山
を仰ぐような、峻厳孤高の」官一の文学はまた、ハイカラともダンディズムともロマンチックとも称される
通史編5(近・現代2)
(誘致反対論)
津軽保健生活協同組合は、まず反対意見として、
岩木山
麓開発事業が始められるときに自衛隊が誘致されれば、笹森山,ゆえに「自衛隊を誘致して弘前市に金をおとさせ、商売を繁盛させるということは間違いであ」つて、それよりも「
岩木山
麓
通史編1(自然・原始)
(第一期)
従来寄生火山として取り扱ってきた西麓の黒森が古岩木火山噴出物および岩屑なだれ堆積物で覆われることから(塩原・
岩木山
団研,傾斜する黄金山層と下部の角礫凝灰岩(右側) 松山・
岩木山
団研(一九八〇)および塩原・
岩木山
団研,松山・
岩木山
団研(一九八〇)はこれを新法師(しんぼし)層と命名し、「ゲロパーミス(12)」と呼称している
通史編1(自然・原始)
(二 祭祀に特色を示す十腰内土器文化)
十腰内Ⅴ・Ⅵ群(式)土器 (21~27 Ⅴ群,28~32 Ⅵ群) 十腰内Ⅰ群(式)土器(『
岩木山
,14~21 十腰内Ⅰ群(式)土器,22 十腰内Ⅲ群(式)土器,23・24 十腰内Ⅴ群(式)土器 (『
岩木山
,』1966年 P334・P339より) 十腰内Ⅵ群(式)土器(『
岩木山
』1966年 P339
資料編1(考古編)
(あとがき)
振り返って見ると30年前は、市の教育委員会が中心になって実施していた、
岩木山
麓に分布する遺跡の緊急発掘調査,考古編はかつての
岩木山
麓や、近年の開発に伴う調査で発見された遺構・遺物を、現状で可能な限り掲載することに
通史編1(自然・原始)
(第一節~第三節 引用・参考文献)
引用・参考文献 八谷彪一(一九〇五) 岩木火山地質調査報文震予報 四八号 酒井軍治郎(一九五八)
岩木山
麓地域地質調査報告書,岩木火山の岩石学的研究、岩石鉱物鉱床学会誌 第四六巻第四号、一〇一~一一〇頁 岩見宏次(一九六一)
岩木山
周辺小丘群,土地分類図(地形分類図) 「青森県」 (二〇万分の一)、 経済企画庁 宮城一男(一九七一) 津軽の
岩木山
,火山活動、十和田科学博物館 第四号、六四頁 成田盛(一九八九) 中学校理科第二分野「大地の変化」の指導-
岩木山
,の埋没林の年輪年代学の適用、第四紀研究 第三三巻第三〇号、一五三~一六四頁 黒木貴一(一九九五)
岩木山
北麓
通史編3(近世2)
(宝泉院)
岩木山
中腹の赤倉には鬼が住み、村民のために農業用水を引いたという。
資料編1(古代・中世編)
(第一節 金属資料)
なお、隣接町村には、
岩木山
神社(岩木町)所蔵の「永正十四年(一五一七)作」の釣燈籠、広船神社(平賀町)
通史編1(自然・原始)
(まえがき)
中世専門部会長 村越潔 昭和三十三年から、弘前市教育委員会が実施した
岩木山
麓,
岩木山
麓をはじめ、弘前市や津軽地方における考古学調査の成果を、「津軽の原始時代」と題し、遠い祖先の活動
通史編4(近・現代1)
(弘前女学校)
白雪をいただいた
岩木山
を青地に配した校旗であった。,この当時、学校のあった坂本町の校舎から仰ぐ
岩木山
をシンボルマークにしたのである。
通史編1(自然・原始)
(石棺墓)
後期中葉の十腰内Ⅰ群(式)土器に多く、なかでも津軽地方の浅瀬石川と平川流域や、青森市東郊の丘陵地帯、
岩木山
通史編3(近世2)
(長利仲聴)
長利仲聴 長利仲聴(おさりなかあきら)は幼年より
岩木山
神社神主阿部常陸(名は仲昌)と学問所和学士斎藤熊蔵
通史編3(近世2)
(江戸時代初期の建築)
江戸時代初期の建築 慶長八年(一六〇二)の棟札(むなふだ)(長勝寺蔵)をもつ
岩木山
神社拝殿(はいでん,『重要文化財
岩木山
神社本殿外(ほんでんほか)四棟修理工事報告書』(一九七八年)によると、社蔵(しゃぞう,)の寛永十七年(一六四〇)の棟札は新規建立に当たるのではなく、修理に相当するもので、『
岩木山
百沢寺光明縁起,この大堂は、天正十七年(一五九〇)正月の
岩木山
噴火による火災で百沢寺全山が焼失した後に、為信が建立した
通史編1(自然・原始)
(岩木火山)
外輪壁とする直径一・一~一・四キロメートルの外輪山があり、その中にドーム状の中央火口丘(5)である狭義の
岩木山
資料編1(考古編)
((2)鉄生産と鉄製品)
特に、
岩木山
麓を中心とした地域においては、東日本の中でも卓越した形で鉄生産遺構群が発見されている。
通史編3(近世2)
(江戸時代末期の建築)
岩木山
神社の社務所(しゃむしょ)は、百沢寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に,図241.
岩木山
神社社務所 以上にみてきたように、慶長から寛永期にかけては、越前(福井県)・丹波
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