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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (岩木川改修運動)

岩木川改修運動 「昭和六年大凶作」と「昭和九年大凶作」は、青森県だけでなく東北地方全体に激甚な被害を,岩木川河岸の地域住民は、岩木川と支流(平川、山田川など)の改修を痛感し、岩木川改修運動が弘前市をはじめ,写真6 岩木川改修工事  しかし弘前市民や青森県民が叫び続けた岩木川改修問題も、日中戦争以降、太平洋戦争,岩木川の本格的な改修は戦後に持ち越されることになった。,そのために岩木川は戦後も何度か氾濫を起こし、附近に大洪水をもたらした。 / 岩木川改修運動
通史編5(近・現代2) (岩木川の大氾濫)

岩木川の大氾濫 戦後弘前の最大の災害は岩木川の大氾濫であろう。,岩木川は戦前・戦後を通じ何度も氾濫を繰り返し、周辺地域に甚大な被害を及ぼした。,もともと岩木川は地理的にも水害をもたらしやすい構造をもっていた。,岩木川の洪水による被害は、記録にあるだけでも百数十回に及んでいる。  ,岩木川は急激に増水し、川原で砂利採取中のトラック運転手八人が流された。 / 岩木川の大氾濫
通史編2(近世1) (岩木川舟運)

岩木川舟運 岩木川は津軽地方の中心を南から北に流れる内陸輸送の大動脈の役割を果たし、さまざまな物資が,岩木川で使用された船は、ひらた船か高瀬船であったと推定される。,三世寺川とは三世寺付近を流れる岩木川のことで、川をさかのぼって御用木が運ばれたことを物語っている。 / 岩木川舟運
通史編5(近・現代2) (岩木川開発と目屋ダムの建設)

岩木川開発と目屋ダムの建設 弘前市民の念願でもあった岩木川の改修工事は、水害防止を意図していただけでなく,、農業および観光開発を兼ねた岩木川総合開発計画へとつながっていった。,戦前の東北振興問題で陳情が集中した岩木川改修問題も、戦後は弘前周辺地区の大開発問題と関連性をもつようになった,その意味で岩木川対策は、弘前市にとって戦前と戦後をつなぐ課題でもあった。  ,目屋ダムは岩木川上流の西目屋村に建設され、昭和三十四年(一九五九)十月に本体工事が完成して貯水を開始し / 岩木川開発と目屋ダムの建設
通史編3(近世2) (岩木川原の雑魚茶屋)

岩木川原の雑魚茶屋 「国日記」によれば、享保十六年(一七三一)に駒越町(こまごしまち)の左兵衛が、料理屋 / 岩木川原の雑魚茶屋
通史編1(自然・原始) (市街地の地形区分)

市街地の地形区分 図27は、弘前市街地および岩木川以北の水系と流路距離一キロメートル未満の小河川を省略,図27 弘前市街地および岩木川以北の水系と等高線図  おもな河川として、白神山地を源とする岩木川,弘前市街地は岩木川-平川間に展開する扇状地上に位置し、岩木川以北にあっては岩木川流域および丘陵周縁に沿,また、岩木川-後長根川間の幅約二キロメートルは等高線の間隔が粗く凹凸があり、おもに岩木川の氾濫による自然堤防,(前坂より西方を望む)  図28には弘前市街地から岩木川流域にかけての地形分類を示した。
通史編5(近・現代2) (度重なる大水害)

昭和三十五(一九六〇)年八月二日から三日未明にかけて、岩木川上流の県境付近に集中豪雨があり、岩木川下流,だがすでに岩木川、平川、大和沢川が氾濫し、各地で水害が生じていた。,岩木川はこれ以後も氾濫を続けた。,市民にとって、岩木川の氾濫による水害はもっとも恐ろしい災害であった。,岩木川の改修は大正期以降、弘前市や岩木川沿岸の町村にとっての悲願でもあった。
通史編1(自然・原始) (一 弘前市の位置および外形)

岩木川が平野中央部を悠々と流れ、西側には秀峰岩木山がそびえている。  ,岩木山東半麓から岩木川と支流である平川より西側にかけて南北に帯状に分布し、また岩木川中流域の大秋(たいあき,おおむね岩木川沿いの悪戸(あくど)から藤代(ふじしろ)付近を境として南北で地形の発達が異なり、岩木川以北,なお、岩木川と支流大秋川との合流点付近に位置する飛び地には高野(こうや)、国吉(くによし)、中畑(なかはた
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

 3日 風害 西海岸 破船・難船多数  7月 8日 水害 弘前城下など岩木川,・土淵川高水,浸水,橋の流失 享保元(1716)  2~ 3月 水害 岩木川流域,岩木川・平川出水,橋の流失,堤防決壊,溜池決壊  2月29日 風害 碇ヶ関,西海岸,青森 仮屋,岩木川出水,新田地帯に大きな被害 風害 西海岸 破船・難船多数  7月21日 水害 堤川,岩木川高水 享保10(1725)  3月11日 火災 十三 町奉行所を始め,約100軒焼失
通史編1(自然・原始) (地形の発達史)

その当時の津軽平野は、下刻(かこく)作用により深いV字状の河谷(古岩木川)であって、十三湖付近では日本海側,一〇未満)であり、最終氷期以降の海面上昇による沈水過程(10)での堆積物であって、平野下のV字状の古岩木川,九〇五〇±二五〇年前)の数値が得られているが、この泥炭層は十三湖層下部にあって、V字状の古岩木川,またこの海退期には、蛇行する岩木川の氾濫によって平野中央部が自然堤防と後背湿地とからなる氾濫原の環境へと,図6 津軽平野における古地理の変遷図 (海津,1994より転載) 写真4 岩木川河床にみられる
通史編1(自然・原始) (清野袋面)

清野袋面上には岩木川西岸にあっては南から浜の町、石渡、中崎、三世寺(さんぜじ)、大川、青女子(あおなご,)、種市、三和(みわ)が、岩木川-平川間では岩賀、清野袋(せいのふくろ)、向外瀬(むかいとのせ)、大久保,高度は藤崎以北では一五~二〇メートル、岩木川-平川間では二〇~二五メートル、そして浜の町付近では二五~,この砂礫層は岩木川の氾濫によって供給された堆積物で、流域に沿って微高地を形成している。  ,一方、岩木川東岸にあっては堆積物の特徴が異なっている。
通史編1(自然・原始) (平野内の水系と等高線の配置)

平野内の水系と等高線の配置 津軽平野および周辺の水系として、まず一級河川である岩木川があげられる(図,岩木川は総延長約一〇二キロメートルあって、白神山地の雁森(がんもり)岳に発源し、津軽平野を縦断し日本海,岩木川の河床勾配は弘前市まではきわめて緩やかで、蛇行しながら河口の十三湖へと北流している。,源を発する浪岡川や正平津(しょうへいつ)川などは平野南部で十(と)川に合流し、十川は五所川原市付近で岩木川
通史編1(古代・中世) (後方羊蹄の所在地)

写真36)であり、そのふもとの大船団碇泊のための格好の港である岩木川河口の十三湊こそ、シリペシであろう,岩木川河口の十三湖に浮かぶ中島遺跡からは、この比羅夫の時代の七世紀まで遡る可能性の高い土師器(はじき),なお「しりへし」をアイヌ語の大河と解して、そこから後方羊蹄を岩木川とか石狩川と結びつける説が古来多数あるが,河口付近にあることが多いのは、齶田(飽田)=雄物川、渟代=米代川などの事例から知られ、渡嶋蝦夷の拠点も岩木川河口
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

は、津軽氏が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その勢力を涵養(かんよう)した伝統的所領であり、しかも岩木川,に面して水運にも恵まれ、岩木川と後背の岩木山を防御線とする軍事的にも経済的にも重要な地域であった。,太閤蔵入地が岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川の分岐点を中心とする津軽平野中心部一帯に設定されたと推定,されるように、岩木川西岸で岩木川と岩木山に囲まれ農業生産がすでに発達していた水田地帯が周囲に広がるところに
通史編5(近・現代2) (上下水道の整備状況)

弘前市の水道用水は、岩木川等からの取水と市内四ヵ所の簡易水道により給水している一方、昭和六十三年十一月,しかし、市域の主たる水供給源である岩木川は、季節的に河川流量の変動があることから、降水量等の著しく少ない,今後は、岩木川流域下水道事業の促進と相まって市街地周辺部や岩木川左岸地区及び農村集落への普及拡大が望まれている
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

本節二で触れる「十三小廻(とさこまわ)し」体制の成立がその一つであるが、これは、岩木川流域の津軽の穀倉地帯,はじめは、主に十三湊の町船・岩木川河岸の川舟がそれを担っていた。,、蔵物(くらもの)の上方廻漕によって積み荷が急増したため、おおよそ寛永から寛文期ころに藩船を利用する岩木川舟運機構,岩木川を航行した船は、高瀬船かこれに次ぐ大きさの艜船(ひらたふね)であったと推測され、一〇〇俵積程度のものが
通史編1(自然・原始) (湯口面)

湯口面 岩木川流域の相馬村五所・湯口、弘前市悪戸付近に断片的に分布する沖積段丘面で、境関面に相当する,面の高度は五〇~六〇メートルであり、開析度が小さく岩木川に向かって一〇〇〇分の一〇とやや傾斜しているが
通史編5(近・現代2) (上水道整備の方向)

上水道整備の方向 弘前市の上水道用水は、従来岩木川表流水等から取水しており、昭和五十八年度には、渇水期等,の季節的変動に左右されない取水の安定化を目指し、岩木川にゴム引布製の取水堰(ラバーダム)を築造したが、,写真224 現岩木川に築造されたゴム製の取水堰(ラバーダム)  一方、弘前市の水需要は、一日最大配水量
通史編5(近・現代2) (市の防災・水防対策)

市の防災・水防対策 弘前市民にとって岩木川は豊かな土壌を生み出し、豊富な作物を実らせ、四季を通じて岩木山,災害問題で市民がもっとも望んだことは、岩木川の氾濫を防止することだった。,市内の各農業協同組合や森林組合、岩木川漁業協同組合、市内各農業共済組合には、農林関係被害状況調査や応急対策,岩木川の漁協に協力を求めていることも、大河川たる岩木川の存在を象徴していよう。
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

堀越城への移転 「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,太閤蔵入地は、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川を分岐点とする津軽平野中心部一帯に設定され、為信はその,また、岩木川東岸地帯で平川沿いの太閤蔵入地の代官の地位は、為信が同地へ統治を及ぼすことを比較的容易にし,岩木川沿岸部への太閤蔵入地の設置は、同地域の近世的体制への転換を促し、為信の岩木川東岸への本格的進出を
通史編5(近・現代2) (上水道設備の向上)

昭和二十九年以降、浄水場は樋の口地区にあり、近くを流れる岩木川に取水堰がある。,そのため岩木川を中心に農業水利再編成の気運が高まった。,とくに茜橋から眺める取水堰は、右手背後に岩木山と津軽平野、前面に岩木川の広い河川敷を控え、景観としても,弘前市周辺地区では、なんといっても岩木川・浅瀬石川水系が水源となる以上、両河岸地域の協力が必要である。,昭和四十九年(一九七四)三月十四日、弘前市では、それまで岩木川本川だけに頼っていた水源を、いま一つ別に
資料編1(考古編) (31.砂子瀬層Ⅲ)(すなこせそう))

模式地は、西目屋村砂子瀬の岩木川流域。,大和沢川・栩内川上流・藍内川中流・作沢川中流舟打鉱山周辺・岩木川中流の村市・砂子瀬・川原平などにかけて
通史編1(自然・原始) (駒越面)

岩木川以西では清野袋面の背後に位置している。,一方、岩木川以東の板柳地区では上部に湿地性の堆積物としてのシルトと砂の互層が厚く堆積している。,ところで、板柳町の幡龍(ばんりゅう)橋および鶴田町の鶴寿(かくじゅ)橋下の岩木川の河床において約二〇〇〇
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

これに倣(なら)うと、農業生産がかなり発達していた、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川の分岐点を中心とする,津軽平野一帯を蔵入地としながら、岩木川西岸で、岩木川と岩木山に囲まれた水田地帯を主として蔵入地に指定したと,この地域は、①津軽氏の伝統的所領、②岩木川に面して水運に恵まれている経済的に重要な地域、③岩木川と後背,また、太閤鷹を確保・独占するという点からは、岩木川東側の平川沿いにも設定されたとみられる。,となったということは、豊臣政権の一翼を担う大名としての位置を確認することであり、在地のしがらみを克服し、岩木川東岸
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

津軽家の譜代家臣の出身地は、岩木川西岸、そして岩木山と岩木川とに囲まれた地域、すなわち鼻和郡の南側に色濃,これによって、十三湊(とさみなと)を含む岩木川下流域の地域を掌握することになり、日本海交易につながる経路
通史編1(古代・中世) (県下の諸郡)

津軽平賀郡は岩木川上流地域、津軽田舎郡は黒石市・南津軽郡尾上町・田舎館村付近、津軽山辺郡は黒石市・南津軽郡浪岡町付近,、津軽鼻和郡は津軽半島南部からその南方の岩木川左岸にかけての地域、西浜は津軽半島北部の日本海側外浜は津軽半島北部
通史編1(自然・原始) (三 津軽平野南部の地形発達)

この時期に形成されたのが中位段丘であって、市街地の桔梗野面は沿岸扇状地として、岩木川以北では海成段丘として,土淵川流域では逆流した火砕流堆積物により台地が、また岩木川以北では砂沢溜池まで火砕流が流下して高杉面が,岩木川流域では縄文海進期に沖積段丘としての湯口面が形成された。  ,田舎館面および清野袋面は岩木川、浅瀬石川および平川の主要河川の流域に自然堤防として形成されたものである,そして、谷底平野としての城西面が岩木川流域などに形成されていった。
資料編1(考古編) (27.五所川原砂礫層Ⅶ)(ごしょがわらされきそう))

津軽低地帯下においては低位海水準時の古岩木川の谷底を埋積した地層とされている。
通史編1(古代・中世) (一 十三湊と津軽)

津軽平野部を流れる岩木川(いわきがわ)をはじめ平川(ひらかわ)・浅瀬石川(あせいしがわ)・十川(とがわ
通史編1(自然・原始) (桔梗野面)

桔梗野面には常盤坂・茂森新町・樹木・桔梗野・若葉・大開(おおびらき)・大原・緑ヶ丘・小沢などが、岩木川以北,また、岩木川以北では津軽平野にほぼ並行する段丘として展開し、一部は火砕流台地に孤立する小丘としても点在,写真39 常盤坂から西茂森にかけての小丘地(樹木から望む)  一方、岩木川以北の中別所・鬼沢・貝沢付近,一方、岩木川西方の、廻堰大溜池付近では、中位段丘に載る「サメアカローム」の下位に青灰色粘土とローム起源
通史編5(近・現代2) (忠霊塔建設)

各国民学校児童は割当て日程に従って、岩木川原から礎石にする玉石(たまいし)を運んだ。,児童たちは玉石を両手に持って、岩木川と長勝寺を何回も往復するので、中には疲労のため倒れる子があったり、
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

第三は駒越川(現岩木川)沿い(現浜の町)に、町屋が一四軒できたこと。,で見る  この後、延宝年間から元禄年間にかけて大きな変化として挙げられるものに、掘替工事による岩木川,岩木川は鳥井野(とりいの)(現岩木町鳥井野)付近で二筋に分かれ、一筋は駒越川、もう一筋は岩木川もしくは,その後、天和二年(一六八二)に再び掘替工事が行われ(「国日記」天和二年八月十二日条)、岩木川は駒越川一筋
通史編1(自然・原始) (水系と等高線の配置)

これらの河川は中村(なかむら)川、鳴沢(なるさわ)川、新山田(しんやまだ)川および岩木川の四つの水系に,東麓の赤倉沢から南麓を流れる毒蛇沢までの放射谷は岩木川に合流し、南麓の平沢川から湯ノ沢までは大秋(たいあき,)川に注ぎ、下流の相馬村で岩木川に合流している。
通史編5(近・現代2) (下水道の整備の方向)

昭和37年)  また、昭和五十四年度には弘前市をはじめとする二市三町一村が一体となって整備する岩木川流域下水道事業,が着手され、昭和六十二年度に下水道の中心施設である岩木川浄化センターの第一期工事が完成したことにより、
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

立地を概観すると、城の西には駒越川(こまごしがわ)(岩木川)が流れ、本丸の西下を岩木川(西堀)が流れ、,その内側、城に近い所を和徳堰につながる堀川が流れ、さらにその内側本丸の真西にかつての岩木川の河跡湖である,城外に目を転じると、城の西側を流れる岩木川の西側に五三軒の侍屋敷と家数三四軒からなる鷹匠町があり、東側,城の西は侍町の西側、岩木川沿いに配置されていた。
通史編1(自然・原始) (城西面)

城西面 谷底平野として、おもに岩木川および平川の流域に帯状に分布する。
資料編1(考古編) (30.十三湖層Ⅶ)(じゅうさんこそう))

津軽低地帯の古岩木川谷底を埋積して沖積平野を形成する「いわゆる沖積層*45」のうち、五所川原砂礫層よりも
通史編5(近・現代2) (藤森市政の財政)

(一)津軽広域圏のインフラ整備  津軽広域圏のインフラ整備事業は、岩木山ろく開発、弘西林道開削、岩木川,図3 弘西林道路線   ③岩木川改良工事  津軽地域における農業の母体である岩木川は、三十三年,四十年度には大石川・大蜂(だいばち)川を含む岩木川中流左岸改良工事の端緒となる放水路の建設工事が着工され,、岩木川は一級河川に指定された。   ,四十九年度には石渡バイパス構想が大根子(おおねこ)・石渡線(現弘前環状線)として県道に認定され、岩木川
通史編1(自然・原始) (地下水系)

平川・岩木川水系にオーバーラップする地下水系は認められない。
通史編1(古代・中世) (斉明天皇六年の「北征」)

乗せて(史料二七では「陸奥蝦夷」とあるが、それはこれら三郡を含む広域地名であろう)、渡嶋蝦夷の拠点、岩木川河口,再度、何艘かの船を出して粛慎を呼び寄せたが、彼らは応じず、宿営地にしていた弊賂辨嶋(へろべのしま)(岩木川河口
通史編3(近世2) (瓦の移入)

十三に陸揚げした瓦はひとまず囲っておき、必要に応じて岩木川をさかのぼり、板屋野木(いたやのき)(現北津軽郡板柳
通史編5(近・現代2) (昭和恐慌と相次ぐ災害)

その後も、七年八月の豪雨では岩木川堤防の決壊による水害、九年は再び凶作となり、十年八月の豪雨では県下一帯
通史編2(近世1) (近世の十三湊)

十三湊は、「川湊(かわみなと)」(正保・承応年間にはすでに「川湊」と称される湊へと変貌していた)として岩木川舟運
通史編3(近世2) (凶作の状況)

九月七日から稲刈りを始めたが、岩木川中・下流域および外ヶ浜方面の村々の田圃は不作で、稲の穂が立って実っていないものまでも
資料編1(古代・中世編) (〈凡例〉)

(2) 弘前市内は、平川流域から旧弘前市内、岩木川上流域、岩木山東麓部から岩木川・平川合流点、岩木山東北麓
通史編5(近・現代2) (大火と上水道設備の向上)

水源地は中津軽郡駒越村駒越宮本(現岩木町駒越付近)の岩木川沿岸、水田地帯に湧き出す清浄水を集水引用することとした,現在、市の浄水場は市内の樋の口にあり、岩木川から引水しているので、非常に隣接していたことがわかる。
通史編3(近世2) (公娼と私娼)

「十三小廻(とさこまわ)し」体制(十三湊(とさみなと)〈現北津軽郡市浦村(しうらむら)〉を経由して、岩木川筋,しかし、寛文十二年に「十三小廻し」体制が確立してからは、岩木川水運と鰺ヶ沢の中継地にすぎなくなった。
通史編5(近・現代2) (最初の水泳プール)

岩木川上流にダムが建設され、水流が少なくなって遊泳場所に困難を来していた市民、ことに子どもたちは大喜びで
通史編5(近・現代2) (国土総合開発計画の進展と青森県の位置)

なお、県内の地区として、東青、北奥羽、岩木川、下北の四地域に区分している。,1 岩木川水系治水問題  2 県内道路の整備  3 青森港の整備  4 下北の開発  5 電源,に基づく特定地域には指定されず、昭和三十二年(一九五七)に至り、目屋ダム建設などを課題とする十和田・岩木川地域及
通史編1(自然・原始) (大規模な海底地滑りの痕跡)

弘前市悪戸(あくど)付近を流れる岩木川の右岸(河川敷に野球場のある上流側)でも、変形したこの東目屋層をみることができる,夏になって岩木川の水量が少なくなると、草が生え玉石や砂利の散らばった川原と岩木川の流れに挟まれて東目屋層,図47 悪戸付近の岩木川の川岸に露出する東目屋層の露頭スケッチ。  ,写真50 岩木川の右岸に露出する東目屋層(写真左)と,そこに含まれている二枚貝化石の断面(写真右の白矢印
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